三成の関ヶ原 その59 「岐阜城の落城」

「岐阜城の落城」

美濃進撃を決定した東軍の先鋒部隊は、8月21日、犬山城に備えて一部隊を羽黒付近に出して、残りは木

曽川の上流と下流の両方面から川を渡り、織田秀信の居城・岐阜城を攻撃した。

東軍の先鋒部隊は3万5千人といわれる。

これに対する岐阜城主・織田秀信は、3千5百の軍勢を木曽川の沿岸に配置し、その一部に川を渡らせ待ち

構えたという。

8月22日の夜、池田輝政らの1万8千は河田の渡し場で渡河し、射撃する織田軍の側面をつき、これを敗退

させている。

岐阜城
gi.岐阜城 001

また、福島正則らの1万6千は前夜のうちに尾越の渡し場の下流の加々井村から船で渡河したため、対岸

で向え撃とうとしていた織田軍は退路を絶たれるのを恐れて引きかえした。

尾越は、河田より20kmほど下流にあり、竹ヶ鼻城に近いためこれを落城させている。

竹ヶ鼻を落とした福島正則・細川忠興・加藤嘉明らは、その夜、強行軍を続けて岐阜城に向かい、翌23日

早朝から大手門と七曲口に猛攻を加えた。

浅野幸長は間道を伝わって、瑞竜山の砦を落とし、井伊直政は稲葉山の砦を占拠した。

また、搦め手へ廻った池田輝政は、水の口から本丸へ迫り火を放つ。

岐阜城主の織田秀信は、自害しようとしたが家臣がこれを諌め、東軍に降参し寺に入って剃髪。

東軍の諸将のなかには、秀信の助命に反対する者もいたが、福島正則は

「岐阜中納言どの(織田秀信)は、今こそ我らの仇敵となったが、織田信長公の嫡孫にあたられる。諸将士

のなかには信長公の恩沢に欲した者も多いはずだ。内府どの(家康)も、信長公と昵懇の間柄だった。もし、

中納言どの降服を入れたために、内府どのの怒りにあうというのなら、今日の戦功を放棄しても苦しくない」

と述べ立てたという。

これで秀信の降服を許すことを全員一致で可決したという。

ちなみに、秀信は尾張の知多に送られ、さらに高野山に移ったが、翌年に病のため没している。

sakura 20130227 001

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≪前回の解答≫
正解:7回
岐阜城は難攻不落の名城として知られますが、実際には歴史上7回(wikより)落城しているそうです。
山頂部の平坦面は少なく、井戸も雨水を蓄えるもので、戦国時代末期の大人数による長期籠城戦には本質的に不向きであったといいます。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
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三成の関ヶ原 その58 「美濃は西軍に属していた」

「美濃は西軍に属していた」

これから福島正則らが進撃しようとする美濃の国は、東海・中山両道を抱する要衝であり、多数の城塞があ

った。

岐阜城 (岐阜城登城記は「こちら」です。)
gi.岐阜城 002

そのうち西軍に属するものは、織田秀信の岐阜城をはじめ加藤貞泰の墨野城、杉浦重政の竹ヶ鼻城、高木

盛兼の高須城、原勝胤の太田城、関一政の多良城、武光忠棟の長松城、竹中重門の岩手城、丸茂兼利の

福束城、伊藤盛正の大垣城、木村勝正の北方城、稲葉通重の清水城、佐藤方秀の上有知城、稲葉貞通の

八幡城、遠藤胤直の犬地城、川尻直次の苗木城、田丸忠昌の岩村城であった。

一方、東軍に所属するのは、徳永寿昌の松之木城、市橋長勝の今尾城、西尾光教の曽根城、遠藤慶隆の

小原城、妻木貞徳の妻木城などであった。

つまり、美濃方面は概ね西軍方の大名の居城であったのです。

岐阜城主・織田秀信は、信長の嫡孫ということで世に知られ、秀信も家康から会津遠征に従軍することを命

じられ、7月1日を出発の日と決めていたが、行軍装備に華美をこらそうとして、その用意に日時を費やし、

期日に遅れているのであった。

これは秀信が平素から武備を怠り、遊情に浸っていたといわれ、信長の嫡孫として見合わない武将であった。

これに目を着けた三成は使者を岐阜に遣わし、秀頼の名によって、美濃・尾張の領国を加増するからと称し

て、これを誘ったという。

そのため、織田秀信は8月中旬ごろ6千5百人の部下とともに、西軍に属していたのです。

sakura 20130226 001

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≪前回の解答≫
正解:松山城
加藤嘉明きは関ヶ原の戦いの功により、伊予松山20万石に加増移封され、松山城の建築を開始しています。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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三成の関ヶ原 その57 「扱い易い福島正則」

「扱い易い福島正則」

下野の小山会談で、家康に先んじて西上することを誓った福島正則と池田輝政らの諸将らは、7月26日に行

動を開始した。

伊勢方面などで、その居城が西軍の攻撃を受けている地域の将士は、その地に帰ったが、そのほかの武将

は全て8月14日には、福島正則の居城である尾張の清洲に集結を終えている。

清洲城 (清洲城登城記は「こちら」です。)
ki.清洲城 002

清洲は尾張の要衝で、犬山城には24km、美濃の岐阜城へは28km、竹ヶ鼻城へは20kmの距離で

あった。

東軍先鋒部隊の一部は美濃方面への攻撃に着手するも、東軍総大将の徳川家康は江戸城に腰を落ち着け

たまま、容易に前進しないばかりか、戦闘開始の命令さえ発しなかった。

清洲に集結した先鋒部隊がいらだっているところへ、8月19日になって家康の使者が到着した。

清洲にいる諸将が西軍に対して戦端を開き、家康への向背を明らかに示すまでは、家康は出馬しないという

意向であった。

この時、諸将たちの間からは、それほど疑われているのなら、家康への加勢は取りやめようという意見は全く

でないのです。

それとは反対に、福島正則、加藤嘉明らが先に立って、さっそく家康の意向を認め美濃への進撃を始めること

になった。

福島正則さんは扱い易かったでしょうね。

家康の作戦が、いかに用意周到であったか伺うことができます。石橋を叩いて渡るとはこのことでしょう。

福島らが先にたって美濃に進撃しない場合は、福島らを疑った家康は江戸城から一歩も西上しなかったので

しょうか。

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≪前回の解答≫
正解:栃木県
すみません。2日ほど休んでしまいました。
家康は、会津征伐のため7月24日に下野小山(栃木県小山市)に到着。ここで三成が挙兵し伏見城攻撃を開始したことを鳥居元忠の使者によって知らされ、この地で小山評定を行っています。
小山市役所の駐車場に碑が建っています。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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春を迎えに・・・

「春を迎えに・・・」

近くの梅園の開花が3分咲きとの情報でしたので、日曜日に行ってきました。

確かに目で楽しむことは出来たのですが、強風のため写真に収めることは出来ませんでした。

みなさまの地域は如何だったのでしょうか?


折角、カメラを持ち出したのにということで、帰りにグリーンセンタに立ち寄りました。

撮った花の名前は判りません・・・。進歩のない人です。

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これには、すっかり騙されてしまいました。
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すべて温室の花たちです。

早く春がきて欲しいものです。

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pigletのお遣い&散歩

「pigletのお遣い&散歩」

pigletの5歳の誕生日にお祝いがなかったので、昨日、自ら“おやつ”を買いに行きました♪
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目移る程の好物の食べ物が沢山ありますが、フルーツ系のおやつを家族の分までカートに積み
込み、次はうさぎのいる場所に移動です。
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移動中に、カートを覗き込み「かわいいね~」と、年長さんくらいの女の子がオモチャを
譲ってくれました☆
おねーちゃんも可愛かったです!!
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ライオンくんがいるのですが、お昼ねタイムで相手してくれません!
昼寝中は起きないとか、本当のライオンみたいですね~
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ならばと、上にドアーフくんを覗き込むも、届かず!
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買い物の帰りは、散歩コースの水公園へ
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ここは高いから、危なくない?
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そうか~と、釣りのオッチャンたちがいる いつもの場所に移動です。
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土ですから、手が汚れて・・・
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草が萌えないとダメですね~。と早々に帰りました。
pigletだけでなく、春が待ち遠しいですね。
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三成の関ヶ原 その56 「利用され易い福島正則」

「利用され易い福島正則」

また、一説によると。家康は諸将を小山に招集すると、先ず腹心の黒田長政に命じて、福島正則を説得させ、

家康もまた予め誓書を正則に与えたという。

家康の芸の細やかさです。

小山評定跡
oy.小山評定跡

多勢を同時に説得して味方に加えることは容易ではない。

小山会談のように腹背に強敵をひきうけ、その去就を問うのです。

「よろしく、この家康にお味方願いたい」

と、武将らに懇願するのも率直であり、一つの方法でしょうが説得性に乏しい。

「今さら、進退きわまって、救いを求めるのは、何事か」

と、家康が軽蔑される可能性が十分にある。

だから、この際

「いやなら、無理に味方してくれなくてもよい。こちらは少しも困らないから」

といった強いところを見せ、去就を彼らに選ばせる。

彼らに自覚を持たせるには最もよい方法であるが、危険性も十分にある。

一人がひとまず帰国すると言い出せば、皆それにならい四散する恐れがある。

そこで、前もって福島を説得しておいて、会談の席上で、人質を捨て、家康に協力し、石田を討つべしと発言

させる。といった巧妙な手段をとったらしい。

この逸話は、お人よしで、おっちょこちょいの、先走り者である正則の人物を、家康がよく見抜いていたから

なのでしょう。

これほど、人に利用され易い男はいなかったに相違のでしょう。


小山会談においての諸将の決意に対して、家康は深い感謝の意をのべ、

「貴殿らは、一足先に出発し西上して欲しい。この家康は上杉や佐竹に対する守備を固め、引き続き西上い

たそう」

といい、福島正則と池田輝政に先発を命じたという。


昨日はpigletの5歳の誕生日でした。
プレゼントがなかったので、今日、一緒にプレゼントを選びに行きたいと思います♪
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≪前回の解答≫
正解:彦根城
超有名な城ですよね。井伊氏は関ヶ原の戦いの功で、彦根藩35万石として彦根城を築城しています。
この彦根藩は井伊氏によって明治時代を迎えています。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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三成の関ヶ原 その55 「小山会談(小山評定)」

「小山会談(小山評定)」

家康は熟慮した末に、井伊直政の積極策を採用するとともに、本多正信の慎重策をも併用しようと決意した。

さっそく秀吉恩顧の客将たちを集め、先ず近臣に命じて、次のようなことを言わせた。

「石田や大谷らは、会津の上杉と共謀し、宇喜多・毛利らをさそい反乱を起こし、貴殿らの妻子を捕らえて大

坂城に人質としようとしているとのこと。もし、貴殿らのうちに妻子の命を救い、石田らの反乱を助けようと思う

ものがあるならば、直ちにこの場から立ち去れよ。この家康としては、少しも恨みとは思わぬ」

といわせた。

井伊直政(1561-1602年)
ii.井伊直政

すると客将の福島正則・黒田長政・細川忠興・加藤嘉明らは、人質を捨てるべきか否かを相談したが、この

とき上杉入庵(義春)が、

「妻子を大坂に置いたのは、故太閤殿下の幼君・秀頼公に異心のない証拠を見せるためのものであって、

石田らのために置いたのではない。それを今、石田らが横合いからこれを奪おうとするのは、彼らのよこし

まな企てによるものだ。だから、妻子を捨てて内府どの(家康)に味方する方が正当である」

と主張した。

これを聞いて、諸将もその意見に同意したが、さらに福島正則が進み出て

「もし、内府どのが豊臣家の幼君・秀頼公に対して異心をいだかないというならば、我らは内府どののため

に先駆けして、石田を討伐したい。妻子など今さら顧みるところではない」

と、その決意を披露した。

そこで、黒田長政以下10余人の武将たちが、みな正則の意見に賛同して、連署の誓書を家康に提出した

という。

ume 20130320 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:三河一向一揆
本多正信は、はじめ鷹匠として徳川家康に仕えていましたが、1563年に三河一向一揆が起こると、一揆方の武将として弟と共に家康に敵対し、徳川氏を出奔して大和国の松永久秀に仕えています。
その後、諸国を流浪し、帰参時期は定かではありませんが、最も遅くとも本能寺の変の少し前には帰参していたようです。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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