日本百名城02 五稜郭
『幕末に築造された星型をした西洋式土塁』
「城に立て籠もる旧幕府軍と新政府軍が激戦を繰り広げた」
ここは函館の名所ですから、皆さん一度は訪れられたことがあるのではないでしょうか。
五稜郭は、江戸幕府が箱館奉行所の防衛を固める目的で、1857年に築造を始め、1864年に完成させ
た星型(稜堡式)をした西洋式の土塁(城郭)です。

星形の城は15世紀にヨーロッパで考案され、防御に死角がないのが特徴です。
しかし、日本で最大の西洋式土塁の五稜郭は、外国勢との戦いの舞台になることはありませんでしたが、
旧幕府脱走軍と新政府との間で、1868年から翌年にかけて繰り広げられた「箱館戦争」と呼ばれる舞
台になっています。

写真にあるように、天辺の楼閣が、官軍の軍艦の艦砲射撃の格好の標的となった。
それを知った旧幕府軍は慌てて楼閣部分を撤去したが、射撃角度をかなりの精度で知られてしまい、要塞内
に次々と着弾し、要塞としての機能は麻痺したそうです。
大手門口の高石垣
石垣の最上部には敵の侵入を防ぐため、庇(ひさし)のようなはね出しが造られています。
熊本の人吉城にも、同様の石垣を見ることができました。(人吉城登城記は「こちら」です。)

五稜郭タワーからの展望
五稜郭タワーから眺めると、五角形の縄張や三角形をした半月堡など、他では見られない不思議な城の景
観を見ることができます。

タワーが近すぎますので、17mm以上の広角レンズがないと一枚の写真に収めるのは無理ですね。

ゆるキャラくんが、かわいく出迎えてくれました♪

登城日:平成25年4月21日(94城目)

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「城に立て籠もる旧幕府軍と新政府軍が激戦を繰り広げた」
ここは函館の名所ですから、皆さん一度は訪れられたことがあるのではないでしょうか。
五稜郭は、江戸幕府が箱館奉行所の防衛を固める目的で、1857年に築造を始め、1864年に完成させ
た星型(稜堡式)をした西洋式の土塁(城郭)です。

星形の城は15世紀にヨーロッパで考案され、防御に死角がないのが特徴です。
しかし、日本で最大の西洋式土塁の五稜郭は、外国勢との戦いの舞台になることはありませんでしたが、
旧幕府脱走軍と新政府との間で、1868年から翌年にかけて繰り広げられた「箱館戦争」と呼ばれる舞
台になっています。


写真にあるように、天辺の楼閣が、官軍の軍艦の艦砲射撃の格好の標的となった。
それを知った旧幕府軍は慌てて楼閣部分を撤去したが、射撃角度をかなりの精度で知られてしまい、要塞内
に次々と着弾し、要塞としての機能は麻痺したそうです。
大手門口の高石垣
石垣の最上部には敵の侵入を防ぐため、庇(ひさし)のようなはね出しが造られています。
熊本の人吉城にも、同様の石垣を見ることができました。(人吉城登城記は「こちら」です。)

五稜郭タワーからの展望
五稜郭タワーから眺めると、五角形の縄張や三角形をした半月堡など、他では見られない不思議な城の景
観を見ることができます。


タワーが近すぎますので、17mm以上の広角レンズがないと一枚の写真に収めるのは無理ですね。

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【戦国英雄の性格解剖】 その9
「謙信・信玄・信長・秀吉・家康の解剖」 その9
*前回の記事は「こちら」です。
当時の宣教師が、その本国に送った報告書に
「彼(信長)は、地球儀を持って来させて、さらに種々のことに質問し、ついに言った。世はバテレン等の答弁
に満足した。バテレン等の博識は、到底、坊主どものおよぶところではない」
と、記しているという。
織田信長(1534-1582年)

この信長の新時代人的性格は、どこから来たのでしょう。
生来的なものであったという推測もできます。
信長は少年時代異風好みで、手のつけられないイタズラ者であったというが、この異風好みの中に新時代
の萌芽があったとも思えます。
異風好みとは、平凡を忌み、古臭さをきらい、旧習をきらう心です。すなわち保守をきらい、新奇を求め、進歩
に引かれる心に通う。
新時代には新時代の精神を持つ者だけが栄える。
旧時代の精神の者は、どんなに他に優れていても亡びざるを得ない。適者生存の理法です。信長が天下人
になり得たのは、当然のことであったのでしょう。
うさーずたちの大好物「ビワの葉」を沢山いただきました。

<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:天下布武
信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃から「天下布武」という印章を用いています。
訓読で「天下に武を布(し)く」であるとされ、「武力を以て天下を取る」「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に解釈される場合が多い。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
*前回の記事は「こちら」です。
当時の宣教師が、その本国に送った報告書に
「彼(信長)は、地球儀を持って来させて、さらに種々のことに質問し、ついに言った。世はバテレン等の答弁
に満足した。バテレン等の博識は、到底、坊主どものおよぶところではない」
と、記しているという。
織田信長(1534-1582年)

この信長の新時代人的性格は、どこから来たのでしょう。
生来的なものであったという推測もできます。
信長は少年時代異風好みで、手のつけられないイタズラ者であったというが、この異風好みの中に新時代
の萌芽があったとも思えます。
異風好みとは、平凡を忌み、古臭さをきらい、旧習をきらう心です。すなわち保守をきらい、新奇を求め、進歩
に引かれる心に通う。
新時代には新時代の精神を持つ者だけが栄える。
旧時代の精神の者は、どんなに他に優れていても亡びざるを得ない。適者生存の理法です。信長が天下人
になり得たのは、当然のことであったのでしょう。
うさーずたちの大好物「ビワの葉」を沢山いただきました。

<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:天下布武
信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃から「天下布武」という印章を用いています。
訓読で「天下に武を布(し)く」であるとされ、「武力を以て天下を取る」「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に解釈される場合が多い。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
日本百名城01 根室半島チャシ跡群
『戦闘にも祭事にも使われたチャシ』
「海岸台地上に豪を巡らせたアイヌの城」
チャシ跡は16世紀~18世紀にアイヌ民族が構築したもので、戦闘時の砦のほか、談判や祭祀を行う場と
して多目的に使われたとされます。

根室市内には32ヶ所のチャシ跡が現存し、そのうち24ヶ所が国指定史跡となっています。
多くが「コ」の字形や半円形の壕を、オホーツク海を臨む崖際に巡らせている。
雪降るなか、釧路空港からR44を走ること2時間、根室駅に到着です。
この駅前の観光案内所で百名城スタンプをゲットし、さらに納沙布岬近くの温根元をめざし30分。

温根元小学校を過ぎたところを左折して、オンネモトチャシ跡に到着です。

根室半島のチャシ跡は規模が大きく、「オンネモトチャシ跡」が歩道や階段が整備されており、見学に適し
ています。

幾条もの壕(空堀)が良く確認できます。
また、温根元漁港(正面)からの遠望も美しいそうです。

百名城の攻略も残すところ、あと7城になりましたが、「初めて遠くまで来たなぁ~」とため息がでま
した。
この後は、大好きな道東の農道を駆け巡ります。
今回はバイクではなく車ですけど・・・。
登城日:平成25年4月19日

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:筑前名島城
秀吉の死去で、豊臣政権が五大老による合議で運営されると、秀吉遺命として1599年2月5日に徳川家康ら五大老により、秀秋の北ノ庄転封は取り消され、旧領の筑前名島30万7千石へ復帰しています。
旧領に復帰した秀秋は農民保護対策を打ち出し、朝鮮征伐で疲弊した農村の復興に努めるがほどなく関ヶ原を迎えています。
≪本日の問題≫
「海岸台地上に豪を巡らせたアイヌの城」
チャシ跡は16世紀~18世紀にアイヌ民族が構築したもので、戦闘時の砦のほか、談判や祭祀を行う場と
して多目的に使われたとされます。

根室市内には32ヶ所のチャシ跡が現存し、そのうち24ヶ所が国指定史跡となっています。
多くが「コ」の字形や半円形の壕を、オホーツク海を臨む崖際に巡らせている。
雪降るなか、釧路空港からR44を走ること2時間、根室駅に到着です。
この駅前の観光案内所で百名城スタンプをゲットし、さらに納沙布岬近くの温根元をめざし30分。


温根元小学校を過ぎたところを左折して、オンネモトチャシ跡に到着です。

根室半島のチャシ跡は規模が大きく、「オンネモトチャシ跡」が歩道や階段が整備されており、見学に適し
ています。


幾条もの壕(空堀)が良く確認できます。
また、温根元漁港(正面)からの遠望も美しいそうです。


百名城の攻略も残すところ、あと7城になりましたが、「初めて遠くまで来たなぁ~」とため息がでま
した。
この後は、大好きな道東の農道を駆け巡ります。
今回はバイクではなく車ですけど・・・。
登城日:平成25年4月19日

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≪前回の解答≫
正解:筑前名島城
秀吉の死去で、豊臣政権が五大老による合議で運営されると、秀吉遺命として1599年2月5日に徳川家康ら五大老により、秀秋の北ノ庄転封は取り消され、旧領の筑前名島30万7千石へ復帰しています。
旧領に復帰した秀秋は農民保護対策を打ち出し、朝鮮征伐で疲弊した農村の復興に努めるがほどなく関ヶ原を迎えています。
≪本日の問題≫
三成の関ヶ原 その90 「両軍勝敗の原因(5)」
「両軍勝敗の原因(5)」
西軍の主力部隊が大垣城を出て、関ヶ原へ移動を始めるのを知ったとき、家康が急速に前進を開始した
ことは、機動力の柔軟性を示すものです。
また、桃配山に東軍の本陣をすえたことも、桃配山は小早川秀秋が陣する松尾山と吉川広家が陣する南
宮山の中間に位置し、小早川や吉川との連絡に便利であった。
桃配山家康陣所

ともに大部隊を持つ西軍の大将です。これが東軍に挑戦するか、否かは、この決戦の勝敗の分かれ目で
あった。
だから、その中間的位置の桃配山に家康が陣取ったのは、秀秋と広家を東軍に内応させることにおいて
重要な場所であったのです。
秀秋も広家も、家康に、こんな接近して去就を迫られたのでは、約束どおりに、裏切り行動を決意せざるを
得なかったのかも知れません。
東軍の将・松平忠吉と井伊直政が緒戦に陣頭指揮した行動は、適宜に適し、有効であった。この忠吉は
家康の4男であり、井伊直政は家康の直臣だから、軍艦であると同時に監戦係ともいえたのです。
西軍の作戦が次々に行き詰まったにも関わらず、いざ決戦となると、実戦的キャリアに乏しい筈の石田三
成が、最も勇敢に戦い、おおいに東軍を悩ましたのは、やはり三成の敵気心の旺盛さによるものであった
のでしょう。
宇喜多秀家も、三成に劣らず善戦したが、あとの諸将の杭戦力の乏しさが、小西行長にしても、安国寺恵
瓊にしても以外であった。
三成、秀家や大谷吉継ぐらい、懸命に奮戦すれば、西軍もあれほどまでも惨敗しなかったであろうと思われ
ます。

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≪前回の解答≫
正解:豪姫
豪姫の父・前田利家が羽柴秀吉との仲を深めるため、子のなかった秀吉夫婦の養女として出しています。
豪姫は秀吉の養女として可愛がられ、1588年に15歳で秀吉の猶子であった岡山城主宇喜多秀家の妻として嫁ぎ、2男2女を産んでいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
西軍の主力部隊が大垣城を出て、関ヶ原へ移動を始めるのを知ったとき、家康が急速に前進を開始した
ことは、機動力の柔軟性を示すものです。
また、桃配山に東軍の本陣をすえたことも、桃配山は小早川秀秋が陣する松尾山と吉川広家が陣する南
宮山の中間に位置し、小早川や吉川との連絡に便利であった。
桃配山家康陣所

ともに大部隊を持つ西軍の大将です。これが東軍に挑戦するか、否かは、この決戦の勝敗の分かれ目で
あった。
だから、その中間的位置の桃配山に家康が陣取ったのは、秀秋と広家を東軍に内応させることにおいて
重要な場所であったのです。
秀秋も広家も、家康に、こんな接近して去就を迫られたのでは、約束どおりに、裏切り行動を決意せざるを
得なかったのかも知れません。
東軍の将・松平忠吉と井伊直政が緒戦に陣頭指揮した行動は、適宜に適し、有効であった。この忠吉は
家康の4男であり、井伊直政は家康の直臣だから、軍艦であると同時に監戦係ともいえたのです。
西軍の作戦が次々に行き詰まったにも関わらず、いざ決戦となると、実戦的キャリアに乏しい筈の石田三
成が、最も勇敢に戦い、おおいに東軍を悩ましたのは、やはり三成の敵気心の旺盛さによるものであった
のでしょう。
宇喜多秀家も、三成に劣らず善戦したが、あとの諸将の杭戦力の乏しさが、小西行長にしても、安国寺恵
瓊にしても以外であった。
三成、秀家や大谷吉継ぐらい、懸命に奮戦すれば、西軍もあれほどまでも惨敗しなかったであろうと思われ
ます。

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正解:豪姫
豪姫の父・前田利家が羽柴秀吉との仲を深めるため、子のなかった秀吉夫婦の養女として出しています。
豪姫は秀吉の養女として可愛がられ、1588年に15歳で秀吉の猶子であった岡山城主宇喜多秀家の妻として嫁ぎ、2男2女を産んでいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
三成の関ヶ原 その89 「両軍勝敗の原因(4)」
「両軍勝敗の原因(4)」
家康は、西軍の主力部隊が籠もる美濃の大垣城を素通りにして西上し、三成の居城・佐和山城を攻める
と見せかけて、西軍を関ヶ原に誘い出し、これを撃破したのです。
関ヶ原の場合は、三方ヶ原と違って、相手方に裏切りが多かったため、その作戦の効果はさらに大きかっ
た。
大垣城(大垣城登城記は「こちら」です。)

関ヶ原決戦の場合、かりに西軍の主力部隊が関ヶ原に移動せず、宇喜多秀家や島左近の意見のように、
大垣方面から攻勢に転じ、大垣の押さえとしていた曽根の砦に残った東軍の水野勝成隊を破ったならば、
家康も近江の佐和山まで行く余裕もなかったでしょうから、西軍の勝利とまではいかないにしても、あれ
ほど惨敗はなかったであろうと思われます。
結論は主将の三成が、実戦のキャリアが少ないくせに、偏狭にもキャリアが豊富な秀家や左近の意見を
入れなかったということが、負因に繫がらなくもない。
三成は、自らをたのむところが強すぎた。体験が乏しいくせに、才知に溺れていたのです。

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≪前回の解答≫
正解:方向寺鐘銘事件
大坂の陣にきっかけとなったのは、方広寺の梵鐘の銘文中に不適切な語があると供養を差し止めています。
問題とされたのは「国家安康」で、大御所家康の諱を避けなかったことが不敬であるとするものという言いがかりの事件です。
≪本日の問題≫
<参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
家康は、西軍の主力部隊が籠もる美濃の大垣城を素通りにして西上し、三成の居城・佐和山城を攻める
と見せかけて、西軍を関ヶ原に誘い出し、これを撃破したのです。
関ヶ原の場合は、三方ヶ原と違って、相手方に裏切りが多かったため、その作戦の効果はさらに大きかっ
た。
大垣城(大垣城登城記は「こちら」です。)

関ヶ原決戦の場合、かりに西軍の主力部隊が関ヶ原に移動せず、宇喜多秀家や島左近の意見のように、
大垣方面から攻勢に転じ、大垣の押さえとしていた曽根の砦に残った東軍の水野勝成隊を破ったならば、
家康も近江の佐和山まで行く余裕もなかったでしょうから、西軍の勝利とまではいかないにしても、あれ
ほど惨敗はなかったであろうと思われます。
結論は主将の三成が、実戦のキャリアが少ないくせに、偏狭にもキャリアが豊富な秀家や左近の意見を
入れなかったということが、負因に繫がらなくもない。
三成は、自らをたのむところが強すぎた。体験が乏しいくせに、才知に溺れていたのです。

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正解:方向寺鐘銘事件
大坂の陣にきっかけとなったのは、方広寺の梵鐘の銘文中に不適切な語があると供養を差し止めています。
問題とされたのは「国家安康」で、大御所家康の諱を避けなかったことが不敬であるとするものという言いがかりの事件です。
≪本日の問題≫
<参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
三成の関ヶ原 その88 「両軍勝敗の原因(3)」
「両軍勝敗の原因(3)」
東軍の方は、福島・池田ら秀吉恩顧の武将たちを、先鋒部隊として尾張の清洲に急行させ、その美濃侵
入、岐阜城陥落の功績を確かめた後、彼らを赤坂に待機させてうえで、はじめて江戸城を出発して西上し
た総大将・徳川家康の作戦の巧妙さは、さすがに凄いというべきでしょう。
徳川家康(1543-1616年)

また、赤坂に到着した家康が、西軍の諸将のうちで東軍に内通するものが意外に多いことを確かめると、
中山道を西上する徳川秀忠部隊の到着など待たずに、西軍の主力部隊が立て篭もる大垣城を無視し、さ
らに西進して三成の居城・近江の佐和山をぬこうとする気勢を見せたのは、作戦として、巧妙無類という
べきなのでしょう。
過去の苦い経験を活用することが上手なのは、信長・秀吉もそうであったが、家康は上手を通り越した
名人であった。
家康は、武田信玄に敗れた遠江三方ヶ原の経験を、この石田三成との関ヶ原決戦において、逆に活用し
て勝利を収めた、と思えます。
つまり、三方ヶ原で家康を破った信玄と同じことを、関ヶ原で三成にしてみせて勝利を得たのです。
1572年に、2万7千人の大軍を率いて遠江に侵入した武田信玄は、西上の野望に燃え、家康の居城
浜松を素通りして、三河に進出するように見せかけ、それに誘われて浜松城から出動した徳川軍1万人を
三方ヶ原に迎え、これを討ち破ったのです。

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:忍城
豊臣秀吉の関東平定の際、豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、忍城を一望する近くの丸墓山古墳に本陣を置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うため、総延長28Kmに及ぶ石田堤を建設していますが、堤防は決壊し忍城は落城していません。
≪本日の問題≫
<参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
東軍の方は、福島・池田ら秀吉恩顧の武将たちを、先鋒部隊として尾張の清洲に急行させ、その美濃侵
入、岐阜城陥落の功績を確かめた後、彼らを赤坂に待機させてうえで、はじめて江戸城を出発して西上し
た総大将・徳川家康の作戦の巧妙さは、さすがに凄いというべきでしょう。
徳川家康(1543-1616年)

また、赤坂に到着した家康が、西軍の諸将のうちで東軍に内通するものが意外に多いことを確かめると、
中山道を西上する徳川秀忠部隊の到着など待たずに、西軍の主力部隊が立て篭もる大垣城を無視し、さ
らに西進して三成の居城・近江の佐和山をぬこうとする気勢を見せたのは、作戦として、巧妙無類という
べきなのでしょう。
過去の苦い経験を活用することが上手なのは、信長・秀吉もそうであったが、家康は上手を通り越した
名人であった。
家康は、武田信玄に敗れた遠江三方ヶ原の経験を、この石田三成との関ヶ原決戦において、逆に活用し
て勝利を収めた、と思えます。
つまり、三方ヶ原で家康を破った信玄と同じことを、関ヶ原で三成にしてみせて勝利を得たのです。
1572年に、2万7千人の大軍を率いて遠江に侵入した武田信玄は、西上の野望に燃え、家康の居城
浜松を素通りして、三河に進出するように見せかけ、それに誘われて浜松城から出動した徳川軍1万人を
三方ヶ原に迎え、これを討ち破ったのです。


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正解:忍城
豊臣秀吉の関東平定の際、豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、忍城を一望する近くの丸墓山古墳に本陣を置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うため、総延長28Kmに及ぶ石田堤を建設していますが、堤防は決壊し忍城は落城していません。
≪本日の問題≫
<参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
三成の関ヶ原 その87 「両軍勝敗の原因(2)」
「両軍勝敗の原因(2)」
作戦参謀の石田三成は東軍の機先を制して、少なくとも尾張・三河の中間地点まで西軍の先鋒部隊を進出
させる計画であったが、東軍の先鋒部隊の福島・池田らの迅速果敢な尾張清洲進出作戦のため、逆に機先
を制されてしまったのです。
岐阜城

さらに、福島らの諸部隊が美濃に進出して、岐阜城を落としいれ赤坂に集結し、家康の本隊の到着を待って
いたとき、夜襲によってこれを撃退しようと主張する総師・宇喜多秀家の意見を三成が用いず、敵に充分時間
を稼がせたことは、むしろ西軍敗北の起因といえるのでしょう。
三成は理論的にも計画的にも勇猛果敢であったが、実戦にあたると決断力に欠け、消極的で戦機を逸する
ことが多い。これは臆病でもなく、卑怯でもないが、実戦キャリア不足からくる自信のなさからくるものであっ
たのでしょう。
なお、機を見て、総大将・毛利輝元に、豊臣秀頼に擁立をさせたうえで、近江の佐和山城まででも出陣する
ように手配すべきであったのでしょうが、最後まで錦の御旗を担ぎ出さなかったのは、この決戦の名目を立
てる上において、確実に失敗であったのでしょう。
石田三成の私戦でなかったのであれば・・・。

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≪前回の解答≫
正解:彦根藩
井伊直政は関ヶ原の戦い後、戦功として彦根藩(35万石)に入封しています。これに伴って佐和山藩(18万石)は廃藩となっています。
しかし、直政は彦根城の完成を見ることなく、1602年に没しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
作戦参謀の石田三成は東軍の機先を制して、少なくとも尾張・三河の中間地点まで西軍の先鋒部隊を進出
させる計画であったが、東軍の先鋒部隊の福島・池田らの迅速果敢な尾張清洲進出作戦のため、逆に機先
を制されてしまったのです。
岐阜城

さらに、福島らの諸部隊が美濃に進出して、岐阜城を落としいれ赤坂に集結し、家康の本隊の到着を待って
いたとき、夜襲によってこれを撃退しようと主張する総師・宇喜多秀家の意見を三成が用いず、敵に充分時間
を稼がせたことは、むしろ西軍敗北の起因といえるのでしょう。
三成は理論的にも計画的にも勇猛果敢であったが、実戦にあたると決断力に欠け、消極的で戦機を逸する
ことが多い。これは臆病でもなく、卑怯でもないが、実戦キャリア不足からくる自信のなさからくるものであっ
たのでしょう。
なお、機を見て、総大将・毛利輝元に、豊臣秀頼に擁立をさせたうえで、近江の佐和山城まででも出陣する
ように手配すべきであったのでしょうが、最後まで錦の御旗を担ぎ出さなかったのは、この決戦の名目を立
てる上において、確実に失敗であったのでしょう。
石田三成の私戦でなかったのであれば・・・。

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正解:彦根藩
井伊直政は関ヶ原の戦い後、戦功として彦根藩(35万石)に入封しています。これに伴って佐和山藩(18万石)は廃藩となっています。
しかし、直政は彦根城の完成を見ることなく、1602年に没しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>