三成の関ヶ原 その106 「総集編1・主君と家臣」

「総集編1・主君と家臣」

知己の人とか、知己の友とかいう言葉があります。

自分のことを良く理解してくれる他人。自分のことを良くわかってくれる友だち、という意味ですよね。

しかし、こういう相手は、なかなかいないものです。

自分を理解してくれる人が一人もいない人生くらい淋しく、味気ないものはないだろうし、生き甲斐さえもない

と言えるのでしょう。

ですが、たとえ、自分のことをわかってくれる人がいたとしても、ある程度では、物足りないし、満足できない。

それが、社会生活を営んでいるわたしたち常です。

三献の茶(JR長浜駅前)
三献の茶

かりに、自分のことを全面的に理解し、支持してくれる人が一人でもいるとしたならば、それが他人であって

も、非常にうれしいし、親、兄弟、子供だったら、なおさら満足に浸れます。

それが自分を社会的に引き立ててくれる職場の上司であるとすれば、この人のためなら、たとえ命を捨てても

惜しくないといった法悦境にまで到達しかねないものです。

武家を中心とする封建時代に、おのれを知る人のために、実際に一命を棄てて、これに報いた例は、それほど

多くはないと思います。

よく、主君の馬前に死すれば本望だとか、武士道とは死ぬことを見つけたりなどというが、おのれを知る主君

のために、心おきなく討ち死を遂げたと主張できる武士が、はたしてどのくらい存在したのでしょうか。

多くは主君のためという武家社会のしきたりや、外見的な見えのために、しかたなくいやいや戦死したり、切

腹したりする場合が多かったのでしょう。

ということは、それだけおのれを知ってくれる主君が少なかった裏書です。

大義名分だとか、忠節だとかいう理屈をまったく抜きにして考えてみれば、主君のために本当に満足して死ん

でゆけるのは、その主君が家臣である武士を人間的に理解し、愛情をもっておし包み、その長所を認めて、こ

れを抜擢、登用し、その失敗や欠点をも寛大に容赦してくれる場合に限るのでしょう。

pig 20130530 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:高台院
三成の三女・辰姫は、秀吉の正室・高台院(ねね)養女に迎えられています。
その後、弘前藩2代藩主津軽信枚の正室となり、子は3代藩主・津軽信義です。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
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三成の関ヶ原 その105 「三成の菩提寺・三玄院」

「三成の菩提寺・三玄院」

三成は、秀吉に抜擢登用されて立身出世するとともに、学問、信仰、教養に励んだが、紫野大徳寺の春屋

宗園和尚に帰依して禅を学び、1586年に大徳寺のなかに三玄院を建て、春屋禅師を推して開山しています。

それゆえ、1600年9月17日に佐和山城が落城し、10月1日に三成が刑されると、禅師は三玄院内に

三成の遺骸を納め墓碑を建て、また石田正澄、主水正、右近など石田一族のため影塔を建立し、香華を手向

けて遺霊を弔った。

そのとき、禅師が三成のために選んだ戒名が「江東院正岫因公大禅定門」です。

石田三成(1560-1600年)
is.石田三成 003

三玄院 (三玄院参拝は「こちら」です。)
三玄院 002


現在の三玄院は、明治年中の改築のものだそうです。

三成の画像は、彦根市の龍潭寺に所蔵しています。

また、三成の末裔と伝えられる杉山氏が所蔵する三成の肖像は、鼻骨が高く、口もとが締まり、口髭とあご髭

を生やしているところは、龍潭寺の画像と容貌が一致します。

意思が強固で勝気な三成の性格が偲ばれます。


長い間、三成にお付き合い戴き、ありがとうございました。

長きに渡りましたので、総集編として2回にまとめ、三成の関ヶ原を終わりにしたいと思います。


ume 20130529 001


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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:佐吉
石田三成は、1560年に石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれ、幼名は佐吉でした。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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三成の関ヶ原 その104 「石田三成の最後」

「石田三成の最後」

小西行長と安国寺恵瓊とともに、伝馬から下されて刑場に引き出された石田三成の面前に、やがて黒衣の

僧侶が一人近づいてきた。

七条道場の上人です。

上人は、最後の経文で三成らに往生の悟りを得させようとしたのです。


石田三成(小栗さん)
is.石田三成 小栗006


しかし、三成は静かに首を横にふってみせた。

彼には経は、もはや無用のしぐさと思えたのです。

三成は、やがて従容として死につき、41年の生涯を終えた。

その首級は、小西行長、安国寺恵瓊、および水口城で自害した長束正家の首とともに、三条の一角にさら

された。


このシーンは、三成ファンにとって切なくなってきますよね。

「短く太く生きる」という言葉がありますが、三成くんは、秀吉の参謀として太く、また短く生きたのかも知れ

ません。


pig 20130528 001

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≪前回の解答≫
正解:大谷吉継
これは皆さん良くご存知ですね!
吉継は三成と「刎頚の友」と呼ばれるほど仲が良かったという。
また秀吉は三成・吉継を九州征伐や小田原征伐では兵站奉行を、文禄の役でも「船奉行」を務めている。
また太閤検地でも三成と吉継は検地奉行を担当し、1585年9月14日に秀吉が有馬温泉に湯治に出かけた際にも同行をするなど、2人一緒に行動を共にしたため友情を培ったのではないかといわれます。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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三成の関ヶ原 その103 「干柿は痰の毒」

「干柿は痰の毒」

今日は、みなさんも良くご存知の「干し柿は痰の毒」です。


石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人が伝馬に乗せられ、京都の一条の辻から室町を通って、寺町に出

て、六条河原に引き出されたのは、1600年10月1日のことであった。

三成は、その時に至っても顔色が平素と少しも変わらず、傍の武士に向かって

「この三成が大軍を率い、分け目の大合戦を行ったということは、天地が破れない限りは、明々白々、かくれ

ない事実である。少しも心に恥じることとてない」

と語ったという。(武功雑記)

佐和山城(CG画像)
佐和山城 003

洛中を引き廻される途中で、三成は、いかにも喉が渇いたので

「湯がほしい」

といった。

「贅沢をいわれるな」

と、警固の武士が、その辺をさがしたが、急に手にいりそうもないので

「湯はないが、ここに干柿がある。これを食われよ」

と、勧めた。

すると、三成は

「いや干柿は痰の毒と聞いている。食うまい」

と答えた。

警固の武士は、あざ笑い

「ただいま首を刎ねられる御仁が、毒断ちとは、気が知れぬ」

といった。

そこで、三成は

「汝らのような者には、そのように考えられるのが当然であろう、しかし、大義を想う者は首を刎ねられる間際

まで一命を惜しむ。なんとかして本望を達せんと思うからだ」

と述べた。

さすがの武士も、その言葉を聞いて胸をうたれたという。

また、薄気味悪くもあったでしょう。

三成が最後の際まで一時一刻も、その命を惜しんだのは、始終、豊臣家のためを想い、そのために全力を

傾注してきたことは間違いない。

目的を貫くためには、生も死も問題でなかった。ただ、不養生のために無駄死するのを嫌ったのです。

死ぬとしても、善死できぬことを恐れたのです。

sakura 20150527 001

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≪前回の解答≫(5月24日)
正解:名護屋城
名護屋城建設では、後方支援の三成と建設指揮の加藤清正が協力して短期間に10数万の兵をを収容できる基地を建設しています。
2人の仲が破綻したのは、文禄の役の講和問題が持ち上がった時期といわれます。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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まだあった函館

『函館の坂』

函館市西部地区は函館山の山麓に位置するため、坂道が多い地形になっています。

いずれの坂も、函館山方面から函館港方面へ下るほぼ直線の坂となっています。しかも、それぞれの坂に

名前が付いていて、命名の由来や歴史もある坂が並んでいます。


「基坂」

基坂近辺は歴史ある地区で、教会や寺院が多くあります。

室町時代の1454年に道南12館の一つ「箱館」が築かれたのですが、その場所が基坂の上でした。これが

函館の命名の元になっているそうです。

教会群のライトアップを撮りに行った帰りの写真ですが、冬季はイルミネーションで美しい坂を演出するそう

です。

ha.函館基坂 001


「八幡坂」

前日、基坂を撮ったのですが一番人気の坂を撮り忘れていたので、翌朝に行きました。

テレビCMなどでもよく使われる函館の有名な坂です。

坂を登りきった場所からは、真正面に真っ直ぐ続く坂と函館湾の広がりが望めます。

ha.函館八幡坂 001


「函館空港」

帰りの飛行機は遅い便でしたので、レンタカーを返す前に、飛行機の離着陸がバッチリ撮れる公園に行って

みました。

フライトの時刻表を持参していませんでしたので、ジッ~ト我慢強く待つこと20分。

ha.函館空港 001 ha.函館空港 002

ha.函館空港 003

これで、4月19日に釧路に入り、22日の函館から帰る日本百名城巡り(3城)の3泊4日の旅は終

わりでした。

大好きな道東へ、5回目の旅ができるように働かなくちゃ!!


戦国クイズはお休みさせて戴きます。

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三成の関ヶ原 その102 「大坂城への入城を果たせなかった三成」

「大坂城への入城を果たせなかった三成」

「武功雑記」(1696年)によると、三成が捕らえられたとき、伝左衛門という田中政吉の家来に向かって

「石田木工は、いかにしたか」

と、尋ねた。(石田木工頭は、正澄といって三成の兄です)

潭龍寺の三成像
is.石田三成 潭龍寺

伝左衛門が

「木工どのは、妻子を刺したのち、腹を切られた」

と語ると、

三成は

「それで、すべてが終わりだ」

と、言い

「われらも、このようにして身を逃れる理由とてないわけだが、なんとかして大坂城に入り、いま一度、兵を

挙げたいと思うからだ」

と述懐したという。

これが、おそらく三成の本音だったのでしょう。

三成は、関ヶ原で惨敗したが、切腹もせず、その場を脱出し伊吹山中に分け入ってまで、生きながらえようと

したのは、死ぬのが恐かったのではなく、なんとかして大坂城に入城したかったのです。

当時、大坂城には豊臣秀頼のほかに、西軍の総大将・毛利輝元もいたのです。

三成が大坂城に入り、秀頼を奉じて、あくまでも抗戦すれば、東西の戦況も逆転するかもわからなかったの

です。

しかし、彼は東軍の手で捕らえられて、その目的を果たすことはできなかったのです。

三成には始終、敗戦の将に見られるような、みじめさが少しも感ぜられなかった。

己を知るもののために全力を傾注し、力尽きてやんだ者の心のやすらぎがあったからなのでしょう。


sa-ko 20130523 001

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≪前回の解答≫
正解:熊本県
宇土城は小西行長によって、熊本県宇土古城の東に位置する丘に築かれた平山城です。
3重の天守などが建てられたが、小西行長が関ヶ原の戦いに敗れ、加藤清正が宇土城攻略の功績によって小西領を併合して肥後一国の大守になっています。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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三成の関ヶ原 その101 「大将の武運の盛衰」

「大将の武運の盛衰」

家康は三成をはじめ、小西行長、安国寺恵瓊などが生け捕られ、その肌に木綿の破れ着物をつけている

のを眺め、「石田は天下の政務を執行したものだし、小西も宇土の城主である。安国寺も卑しむ者では決

してない。いくさに敗れて、身の置き所なき姿となったが、大将の武運の盛衰は古今に珍しくない。一命を

みだりに捨てないのが、将たるものの心がけであって、そのためしは和漢に数が多い。さらに恥辱ともおぼ

えぬ。そのままの姿で京中を引き回したならば、将たるものに恥を与えることのなり、これは、この家康の

恥辱にもなるだろう」

といって、3人に小袖を与えたという。

岡崎城の家康(1543-1616年)
to.家康 岡崎城

その小袖を三成に見せると、三成は

「これは誰がくれたものか」

と聞いた。

「江戸の上様からだ」

と答えると

「それは誰のことか」

と、三成が問うので

「徳川どののことだ」

と答えた。

これを聞いた三成は

「どうして徳川どののことを上様などといって、尊ぶのか」

といい、一言の礼も述べず、あざ笑ったという。

これに比べれば、小西行長は

「仇のわれまでに、このようないたわりは心に恥じいる」

といって、涙を落とした。

安国寺恵瓊は、ただ黙って赤面し、うつむいたという。


sakura 20130522 001


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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:長浜城
黒田長政は幼名・松寿丸、1577年から織田信長への人質として、羽柴秀吉に預けられ、その居城・近江国長浜城にて過ごしています。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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