『キリシタン王国を夢見た 大友宗麟』 その9

『ザビエルの華美な府内のり込み』

ザビエルの山口滞在は極めて快適であったという。

彼自身

「自分の生涯中にこんな愉快な時期はなかったと」

と言ったと、西教史にあるくらいです。

ザビエル山口記念聖堂
za.ザビエル山口記念聖堂

間もなく、インドから至急帰って来るようにとの手紙が届いている。

この手紙は豊後の日出港に停泊しているポルトガル船の船長が届けたものであったが、この手紙にもう一通

の日本人からの手紙があった。

それは、大友義鎮(宗麟)の手紙でした。

「お目にかかりたいから、ぜひ拙者の居城・府内に来ていただきたい」

という文面であった。

義鎮は、あの「二階崩れ」から1年半位しか経っていない時期です。

ザビエルが山口を発ったのは9月中旬で、この時から30余日に大内義隆は家臣・陶晴賢に反逆されて殺さ

れています。(後述します。)

船長らはザビエルの勧めで、黒羅紗の法衣、緑ビロードの襟巻、黄金の房の付いた袈裟を着させ、これに供

するポルトガル人30人は皆、それぞれ美服を着、帯形の黄金の鎖を肩にかけ、頭には羽根飾りをつけた帽子

をかぶり、その従僕らもまた清潔な着物を着て従った。

一行は別府湾から府内に上陸したが、その時乗った小船には中国製の美しい敷物をしき、様々な色と形をし

た旗を立て並べていたという。

義鎮は、この美々しい乗り込みを見て、そぞろ敬愛の念をかき立てらのでしょうか。

sakura 20130629 001


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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:眼鏡
みなさん、よくご存知ですね。
ザビエルは、大友宗麟の保護を受けて宣教を行い、豊後に眼鏡を伝来させています。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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『キリシタン王国を夢見た 大友宗麟』 その8

『ザビエル山口入り』

ザビエルが山口に向かおうとした時、インドのゴアから同道して日本に来た宣教師が、ザビエルに言った。

「日本人は人物の判定をするのに、精神より外貌に重きを置く風があるようです。御思案あるべきでありま

しょう。」

と、かねて仕立てておいた美衣を差し出した。

「どうぞ、これをお召してください」

ザビエルの生家・ザビエル城
za.ザビエル城

日本人の尊敬を得るには貧乏くさい姿ではいけないということは、ザビエルにも1年7、8ヵ月の経験で気

づいていることであった。

「虚飾は真の信仰者がすべきことではないが、主の道を広めるためだ、いただく」

と言って、その美衣をつけ、平戸を出発した。

美服を着、多数の従者に護られ、堂々たる威儀を正しての山口乗り込みは、素晴らしい効果を上げた。

領主・大内義隆の尊敬を得ることが出来たばかりか、6ヵ月の滞在の間に3千余人に洗礼を授けるほどの

大成功であった。

sakura 20130627 001


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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:男色
ザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教において重い罪とされていた男色(同性愛)が日本において公然と行われていたことであった。

≪本日の問題≫


                                <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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『キリシタン王国を夢見た 大友宗麟』 その7

『日本一の大都会は山口』

大友宗麟に大きな影響を与えたザビエルの日本での行動を追ってみたいと思います。

10月下旬、ザビエルは平戸に出て京に向かったが、途中、山口に立ち寄っています。

山口は領主・大内氏の富強とその文化政策によって、当時は日本一の大都会となっていたのです。

ザビエルは、ここに1ヵ月以上も留まり、領主の大内義隆に謁して教えを説き、また一般市民に対しても布教

するが、大した効果は上がっていない。

ザビエルがとった航路
za.ザビエルの航路

1551年2月にザビエルは京都に入った。

当時の京都は度々の戦災のため荒れ果てて、一面の廃墟になっているのを見て、ザビエルは驚き、また失

望したという。

彼が京都を志した第一の目的は、天皇か将軍に拝謁して全国布教の許可を得、京都を中心に大々的に宣教

するにあったのです。

それでも天皇と将軍に拝謁して布教の許可だけは得ようと考えて、度々禁裡や将軍の御所に伺候したが、

服装が粗末であったので追い払って取り次いでくれない。

なんとか話をつけると、謁見料として多大な金を要求される始末であった。

当時は足利将軍も貧乏していたが、朝廷の窮迫は言語に絶していたのです。

貧乏を誇りにしている耶蘇会です。そんな金がある筈がない。

間もなくザビエルは、当時の天皇が何の実力もない君主に過ぎないこと。また、将軍にしてもその命令が

行われるのはせいぜい畿内5ヵ国程度に過ぎないことを知り、拝謁して布教許可を貰っても、それは何の

効果もないことを悟った。

ザビエルは未練なく京都を引き上げ2月末に、平戸に帰着した。

間もなく、ザビエルは山口に向かうこととした。京都の荒廃に絶望した彼は山口こそ、日本一の大都会で

あり、ここで努力して布教すべき土地であろうと考えたからです。

sakura 20130626 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:スペイン
1506年頃4月7日生まれのザビエルは、現在のスペインのナバラ州、パンプローナに近いザビエル城で地方貴族の家に育っています。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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『キリシタン王国を夢見た 大友宗麟』 その6

『ザビエルの日本上陸』

大友宗麟といえば、先ず思い出されるのがキリスト教との関係ですが、彼は「大友家の二階崩れ」の翌年9

月にフランシスコ・ザビエルに初めて会っている。

ザビエルが日本に渡って来たのは、1549年8月15日に薩摩に上陸し、当時の薩摩国主・島津貴久に会っ

て布教を許可してくれるように願っています。

フランシスコ・ザビエル
za.フランシスコ・ザビエル

貴久はキリスト教には興味がなかったが、貿易船を誘致する手段として許可したが、ザビエルは1年余り薩摩

に留まって布教したが、大した効果は出ていません。

得た信者は150人程度で、やがて仏教徒との軋轢も生じてきて、貴久としては領内の治安上、これは困る

ことであった。

しかも、貴久が最も欲している貿易船は、鹿児島には姿を見せず、肥前の平戸には2度も入港していた。

貴久は怒って、布教を禁断した。

その後、ザビエルは京都を目指したが、途中、平戸に立ち寄って、平戸の領主・松浦隆信に布教の許可を得

ている。

これも領主・松浦氏は、貿易の利が欲しかったからです。

ザビエルは20日間平戸に滞在したが、その間に帰信した人数は薩摩滞在1年間の数より多かったと、西教

史は伝えます。

sakura 20130625 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:薩摩
ザビエルが日本に渡って来たのは、1549年8月15日で薩摩に上陸しています。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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『キリシタン王国を夢見た 大友宗麟』 その5

『大友家の二階崩れ』

4人が退出した後、義鑑は心配になった。

このままでは、ことは義鎮(宗麟)に伝わるに違いない。知れると戦国の酷烈の世で、父子兄弟のなかでも

安心はできない。

「殺して口を封じるよりほかはない」

と思い立ち、その日の夕方、4人のもとに使いが送られた。

「先刻のことについて、色々と相談がある故、急ぎ登城するよう」

斉藤と小佐井は早速やって来たところ、大手の門内に上意討の命を受けた勇士が2人待ちかまえていて、

討ち取ってしまった。

津久見と田口は、不安な気がし、ともに病気であると申し立てて登城しなかったが、間もなく斎藤と小佐井が

討取られたという知らせを受け取った。

大分府内城の宗麟公(なぜ、ここに宗麟公が・・・)
fu.府内城宗麟公 001

西国盛衰記では、斎藤と小金井の首実検をすました後、義鑑が奥へ入ると、夫人が

「津久見と田口の首もまいりましたか」

と聞いた。

わが子に対する愛情は熱烈でも、性質は残酷な夫人であったことが読み取れます。

「卒爾なことを申すものではない」

と義鑑は戒めたが遅かった。

夫人の侍女に津久見と田口に所縁のある者がいて、直ちにこのことを2人に通報した。

「殿の思い立ちがこうある以上、所詮われらは助からぬぞ」

と、2人は相談して、城の裏門から入り2階に来て

「久しく到明御曹司を拝みませぬ、大きゅうおなりでござろうな。お目通りつかまつりたい」

と、取次ぎの者に言うや奥の間に踏み込み、一刀に到明を斬り、返す刀で夫人を斬った。

女ばかりの御殿です。阿鼻叫喚の騒ぎとなった。

2人は残らず女どもを斬り、さらに義鑑の居間に向かった。

義鑑はすでに寝ていたが、騒ぎを聞きつけ枕刀を取って立ち上がったところを、田口が踊りこんで来て一太刀

に斬り伏せた。

城中に居合わせた宿直の武士と、2人が連れて来た郎党と城内のいたるところに騒ぎが及んだが、2人を討

取り、その郎党らも討ち取り、やっと静まった。

2階の部屋にはいたるところに死傷者が横たわり、斬り離された手足が散らばり、鮮血にいろどられ足の踏み

場もなかったという。

当時これを「大友家の二階崩れ」といい、有名な話になったという。

急報が別府に湯治中の義鎮(宗麟)に届き、義鎮は

「この騒ぎの基は入田親誠である。やつがおれのことを悪しざまに父君に申し上げ、おれに好意を持つ4人

のことを讒言したため、4人が憤って、この騒ぎになったのである」

と宣言して、入田征伐の軍勢をさし向けた。

血を血で洗うこの惨劇によって、義鎮は21歳で大友家の当主となった。

ume 20130624 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:二階崩れの変
父の義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸(到明)に家督を譲ろうと画策、義鎮派の粛清を計画したものの逆にそれを察知した義鎮派重臣が謀反を起こし、塩市丸とその母、義鑑も死去するという政変を「二階崩れの変」といいます。

≪本日の問題≫


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『キリシタン王国を夢見た 大友宗麟』 その4

『老臣らの反対』

到明の母が内側から、入田が外側から到明を褒めるので、もともと夫人を愛し、さらに到明を愛している

義鑑の心は次第に動いたという。

義鑑は、ある時、家臣を遠ざけて入田を呼び言った。

「家の跡目には、到明を立てたいと思うが、どうであろう」

入田は答えた。

「御定でございますれば、申し上げます。御曹司方、いずれも御器用であられますが、到明様はひとしお

すぐれた御器量でおわすと、世間でも申し上げております」

「この思案、そちは反対ではないのだな」

「何事も思し召しのままでございます」

oo.大友宗麟 003

間もなく義鎮(宗麟)は腫物をわずらい、なかなか治らないので別府に入湯に行きたいと願った。

「行くがよい」

義鑑は許した。

義鑑にしてみれば、かねてからの計画を実行に移す良い機会であろうと思ったのでしょう。

夫人や入田の説得もあったのかも知れません。斎藤播磨・小佐井大和・津久見美作・田口蔵人の老臣ら

を呼んで

「義鎮の敵子たるを廃し、到明を跡目に立てることにした故、さよう心得るよう」

と申し渡した。

4人は寝耳に水です。驚きながらも言った。

「これはもっての外の一大事を仰せられます。御家督は義鎮様とかねてより定まっていますものを、にわか

にこれを廃して、御末子たる到明様をお立てになるとは、誠に心得がたく存じます。いかなる次第にてさよ

うなお心になられましたか。お伺い申し上げます」

きびしい反問であった。

義鑑は

「とかくの儀も仰せられず」

とあります。

理由を説明することが出来なかったのです。

sakura 20130623 001のコピー

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≪前回の解答≫
正解:蹴鞠
宗麟は、15歳のときに蹴鞠を本格的に始めています。
宗麟の蹴鞠の腕前はかなりのものであったようで、30歳のときには室町将軍・足利義輝から、技量の勝った者に与えられる「香之上」という装束の着用が許されています。

≪本日の問題≫


                                <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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『キリシタン王国を夢見た 大友宗麟』 その3

『継子いじめ』

大友記は「到明殿とて御末子の御曹司に御代を譲らんと思しめし、義鎮公には常の御対面もなく、到明殿

に御本意浅からず。高きも賤しきも、継子継母のなかほどどうたてきことのなき」と記述している。

大友館イメージ図(大分市役所HPよりお借りしています)
oo.大友館イメージ図

義鑑の最初の妻は、伏見宮貞常親王の王女で、これが義鎮(宗麟)を生んでいます。

この王女は早く亡くなったので、後妻を周防の大内氏から娶った。

しかし、この妻も男子(義長)をひとり生んで、まもなく亡くなったので、さらに娶った妻が到明の母です。

義鎮が20歳の時、義鑑は49歳になっているが、到明はまだ10歳以内のようですから、夫人はまだ若く、

せいぜい25、6歳であったのでしょう。

義鑑が若い夫人へ愛に迷うのも頷ける話です。

現代においては、継子いじめなどありませんが、この時代は各時代を通じて一番多かったのかも知れません。

一家のあらゆる権力と利福がただ一人に相続されて、他の兄弟は臣従的な境遇に落ちいらなければならない

制度であったからでしょう。

到明の母は、家老の入田親誠に到明擁立のことを頼み込み、入田はこれを引受けた。

お家騒動というのは、このように正当な継承権を持たない若君側に有力な家臣が加担するところから起きる

ものですが、その典型的な道筋を大友家は辿ったのです。

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:フランシスコ・デ・ザビエル
キリシタン大名としても知られる宗麟ですか、1551年に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルを引見したことがキリスト教との出会いでした。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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