『キリシタン王国を夢見た 大友宗麟』 その24
『キリスト教国の建設』
日向の伊藤氏は数代前から薩摩の島津氏と攻戦を繰返していた。
最初のうちは伊藤氏の方が形勢が良かったが、次第に島津氏の勢いが良くなり、ついにその全領域を奪わ
れて豊後に来て、宗麟にすがった。
宗麟がキリスト教に入信した前年の12月であった。
宗麟は伊藤氏と姻戚の関係にある。また、当時日向の半分は大友氏の属領であった。
宗麟としては、直接、島津氏と境を接することが不安でもあったでしょうし、後の半分も自分のものにしたかっ
たのでしょう。
「よろしい」
と、承知して、1579年3月、日向に兵を出して島津氏に心を通わしている北日向の土持親成を撃って伊藤
氏の旧領を回復した。
宗麟はこの地方の務志賀(今の延岡市無鹿町)という土地に新都市の建設にかかり、出来上がると、家督
を嫡子・義統に譲って、ここに移った。

宗麟が洗礼を受けて間もなくの時期です。この時、義統も父の勧めによって洗礼を受けています。
西教史では、この新都市のことをこう言っています。
「この都市は国王が余生を平穏に送るためのものであり、住民はキリスト教信者だけにし、ひとつのキリスト
教寺院とひとつの聖教12会友のための家を建て、ここでは日本の法律によらずして、他の法律を以って収
める計画であった。」
つまり、別天地であるキリスト教国を建設する予定であったというのです。

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:総合病院
宗麟は領内に、宣教師が伝えた西洋医学の病院を作り、領民は無料で診察を受けることが出来たそうです。これは日本最初の総合病院と言われています。
大分県庁舎本館前には「日本における西洋外科手術発祥の地」の記念碑が立っています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
いつもありがとうございます。
コメントを頂ける場合は、半角文字はご使用にならないようお願いします。
特に絵文字など・・・。
日向の伊藤氏は数代前から薩摩の島津氏と攻戦を繰返していた。
最初のうちは伊藤氏の方が形勢が良かったが、次第に島津氏の勢いが良くなり、ついにその全領域を奪わ
れて豊後に来て、宗麟にすがった。
宗麟がキリスト教に入信した前年の12月であった。
宗麟は伊藤氏と姻戚の関係にある。また、当時日向の半分は大友氏の属領であった。
宗麟としては、直接、島津氏と境を接することが不安でもあったでしょうし、後の半分も自分のものにしたかっ
たのでしょう。
「よろしい」
と、承知して、1579年3月、日向に兵を出して島津氏に心を通わしている北日向の土持親成を撃って伊藤
氏の旧領を回復した。
宗麟はこの地方の務志賀(今の延岡市無鹿町)という土地に新都市の建設にかかり、出来上がると、家督
を嫡子・義統に譲って、ここに移った。

宗麟が洗礼を受けて間もなくの時期です。この時、義統も父の勧めによって洗礼を受けています。
西教史では、この新都市のことをこう言っています。
「この都市は国王が余生を平穏に送るためのものであり、住民はキリスト教信者だけにし、ひとつのキリスト
教寺院とひとつの聖教12会友のための家を建て、ここでは日本の法律によらずして、他の法律を以って収
める計画であった。」
つまり、別天地であるキリスト教国を建設する予定であったというのです。

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正解:総合病院
宗麟は領内に、宣教師が伝えた西洋医学の病院を作り、領民は無料で診察を受けることが出来たそうです。これは日本最初の総合病院と言われています。
大分県庁舎本館前には「日本における西洋外科手術発祥の地」の記念碑が立っています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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特に絵文字など・・・。
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『キリシタン王国を夢見た 大友宗麟』 その23
『宗麟のキリスト教入信』
宗麟は再婚した後、暫くして新婦人と次男・親家の夫人(新婦人の娘)とに命じて、キリスト教の講義を受け
させた後、洗礼を受けさせた。
宗麟はその後数ヶ月間、自分も講義を聞き、断食・勤行・誓言等の行を忠実に続けてから、師父カブラルに
よって洗礼を受けた。
大友宗麟(1530-1587年)

洗礼に先立って、彼は
「わしの教名はフランシスコと付けて貰いたい。フランシスコ・ザビエル師は日本に初めて聖教を伝えた人
であり、わしが上帝の恵みを受けることが出来るようになったのは、この人のお陰である故、わしはこの人
に感謝せねばならん。それで、この人の名をいただきたい」
1578年7月28日、彼の名はドン・フランシスコと付けられた。
宗麟は49歳。彼がザビエルと最初に会ってから27年目のことであった。


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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:味方の到着が遅れた
後藤又兵衛は、大坂夏の陣の道明寺の戦いで、迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いて出陣。
しかし、後続の明石全登、真田幸村(信繁)らの軍が霧の発生により到着が遅れたが、伊達政宗の鉄砲隊など10倍以上に突撃を敢行し、乱戦の中に討死した伝わります。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
宗麟は再婚した後、暫くして新婦人と次男・親家の夫人(新婦人の娘)とに命じて、キリスト教の講義を受け
させた後、洗礼を受けさせた。
宗麟はその後数ヶ月間、自分も講義を聞き、断食・勤行・誓言等の行を忠実に続けてから、師父カブラルに
よって洗礼を受けた。
大友宗麟(1530-1587年)

洗礼に先立って、彼は
「わしの教名はフランシスコと付けて貰いたい。フランシスコ・ザビエル師は日本に初めて聖教を伝えた人
であり、わしが上帝の恵みを受けることが出来るようになったのは、この人のお陰である故、わしはこの人
に感謝せねばならん。それで、この人の名をいただきたい」
1578年7月28日、彼の名はドン・フランシスコと付けられた。
宗麟は49歳。彼がザビエルと最初に会ってから27年目のことであった。



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正解:味方の到着が遅れた
後藤又兵衛は、大坂夏の陣の道明寺の戦いで、迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いて出陣。
しかし、後続の明石全登、真田幸村(信繁)らの軍が霧の発生により到着が遅れたが、伊達政宗の鉄砲隊など10倍以上に突撃を敢行し、乱戦の中に討死した伝わります。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
『阿蘇ミルクロード』
『阿蘇ミルクロード』
後藤又兵衛さんのお墓を訪問後は、日田から大分道に乗り久留米城と柳川城に行く予定でしたが、温泉と
ランチしていたら、久しぶりに阿蘇のミルクロードを走りたくなって進路を逆方向の阿蘇へ!
一人旅ならではの気ままな旅です。
なぜ、ミルクロードを走りたくなったかと言うと・・・。
・今年の4月に中標津のミルクロードを走ったから、阿蘇のミルクロードも走りたくなったこと。
地平線まで直線の「中標津ミルクロード」 (中標津ミルクロードは「こちら」です。)

・熊本での学生時代に、熊本の市内は暑いので毎週のように阿蘇で週末を過ごしたこと。
もう7月ですから阿蘇でしょうと!!
阿蘇のミルクロードは、ワインディングロードで楽しく走ることができます。

阿蘇の「ミルクロード」とは、熊本県道339号北外輪山大津線のことで、熊本県阿蘇市から菊池郡大津町に
至る県道のことです。
やまなみハイウェイから西の菊池阿蘇スカイラインへ抜ける道。 草原の間をぬける一本の道路で、牧歌的
な風景が広がります。

ミルクロードの名前は、標津のミルクロードと同じように、阿蘇から熊本にミルクを運んだことから、その
名がついたそうです。
◆ミルクロード最大の展望地は一番有名な大観峰。駐車スペースも広大ですが、夏の観光シーズンは観光客
で一杯になります。
快晴の日には、カルデラ部分にあたる阿蘇平野の広大な水田地帯と阿蘇山が眼前に広がります。
雨が上がったばかりで、雲が低く眺望は望めませんでした。

◆運転しながら常に阿蘇山を眺望し、しかも緑豊かな牧草地の中を走る道路は快適で、北海道の原野を走って
いるような感もあります。

走ったのは7月5日でしたが、夏休みのこの時期、涼を求めてたくさんの人は訪れているのでしょうね。
「日本の道路」と言ったら、みなさんは何処が好みなのでしょうか。
私の場合は、この2つのミルクロードに加え、北海道の「オロロンライン」が大好きですけど、いずれも
「日本の道100選」には選ばれていないようです。 残念・・・・。
オロロンラインは、稚内からと留萌からと2度走りにいきましたが、左に利尻富士を望みながら稚内に
向かって走る方が良かったです。(この写真は一人旅ですから貴重な写真になっています)

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後藤又兵衛さんのお墓を訪問後は、日田から大分道に乗り久留米城と柳川城に行く予定でしたが、温泉と
ランチしていたら、久しぶりに阿蘇のミルクロードを走りたくなって進路を逆方向の阿蘇へ!
一人旅ならではの気ままな旅です。
なぜ、ミルクロードを走りたくなったかと言うと・・・。
・今年の4月に中標津のミルクロードを走ったから、阿蘇のミルクロードも走りたくなったこと。
地平線まで直線の「中標津ミルクロード」 (中標津ミルクロードは「こちら」です。)

・熊本での学生時代に、熊本の市内は暑いので毎週のように阿蘇で週末を過ごしたこと。
もう7月ですから阿蘇でしょうと!!
阿蘇のミルクロードは、ワインディングロードで楽しく走ることができます。

阿蘇の「ミルクロード」とは、熊本県道339号北外輪山大津線のことで、熊本県阿蘇市から菊池郡大津町に
至る県道のことです。
やまなみハイウェイから西の菊池阿蘇スカイラインへ抜ける道。 草原の間をぬける一本の道路で、牧歌的
な風景が広がります。

ミルクロードの名前は、標津のミルクロードと同じように、阿蘇から熊本にミルクを運んだことから、その
名がついたそうです。
◆ミルクロード最大の展望地は一番有名な大観峰。駐車スペースも広大ですが、夏の観光シーズンは観光客
で一杯になります。
快晴の日には、カルデラ部分にあたる阿蘇平野の広大な水田地帯と阿蘇山が眼前に広がります。
雨が上がったばかりで、雲が低く眺望は望めませんでした。


◆運転しながら常に阿蘇山を眺望し、しかも緑豊かな牧草地の中を走る道路は快適で、北海道の原野を走って
いるような感もあります。


走ったのは7月5日でしたが、夏休みのこの時期、涼を求めてたくさんの人は訪れているのでしょうね。
「日本の道路」と言ったら、みなさんは何処が好みなのでしょうか。
私の場合は、この2つのミルクロードに加え、北海道の「オロロンライン」が大好きですけど、いずれも
「日本の道100選」には選ばれていないようです。 残念・・・・。
オロロンラインは、稚内からと留萌からと2度走りにいきましたが、左に利尻富士を望みながら稚内に
向かって走る方が良かったです。(この写真は一人旅ですから貴重な写真になっています)

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後藤又兵衛のロマンを求めて、伊福の里へ
『大坂城五人衆・後藤又兵衛』
戦国武将・後藤又兵衛は1560年播州で生まれ、父・基国は三木城主別所氏の家臣でしたが、又兵衛が
まだ少年の頃に自刃しています。父の遺言により同輩の「小寺官兵衛」(後の黒田官兵衛)に仕え、天下
に聞こえた勇将となっています。
後藤基次(又兵衛)1560-1615年

黒田氏が中津に入封すると、領内の土豪や剛将・宇都宮鎭房を降伏させるなど功労が大であったという。
また、黒田如水、長政父子が筑前博多へ入封すると、黒田24勇士の猛将として1万6千石を与えられて、
大隈城(益富城)主となっていますが、官兵衛が亡くなった2年後の1606年に黒田家を出奔し、京都で
浪人となる。
大阪の陣が起こると、秀頼の招きに応じ大坂城に入城。夏の陣では大和方面に出馬し、道明寺河原で討
ち死にしたと有名な話が伝わります。
平成25年7月5日 中津城を攻城した後、又兵衛さんのお墓へ目指し裏耶馬溪へ

裏耶馬溪温泉から見る「裏耶馬溪」

しかし、道明寺河原で討ち死にしたのは影武者で、大坂方の敗戦の後は、放浪の旅で西下し中津時代の
知人である女性・お豊のいる「伊福の里」へたどり着き、その後は、お豊さんや里の人々と平穏な日々を過
ごしていたというのです。

豊臣家再興を期していたが、風の便りに豊臣家廃嫡の不運を知り、遂に自刃したと伝えわるそうです。
時が過ぎて村人は、この自刃した武士が後藤又兵衛であったことを知り、墓を立てましたが、後に、伊福
茂助が昔の墓の荒廃を見かねて建て替えたのが1763年でした。

墓には「義刃智光居士」と書いてあります。
また、碑文にも後藤又兵衛とは、はっきり書いてありません。
又兵衛さんは、1560年生まれとされますので、94歳の長寿で自刃したことになりますが、大分の山深
い里で、知人の女性と余生を過ごしたかと思うとロマンがありますね。
「平家の里」を彷彿させるような山深い里に墓はあります。(お墓の前から写す)

又兵衛さんの墓所は、この他に奈良県大宇陀町の薬師寺、大阪府柏原市の玉手山公園、愛媛県伊予市
の長泉寺、鳥取県鳥取市の景福寺などにたくさんあります。

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:府蘭
宗麟は、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった後、家臣へ宛てた書状の中などでは自身の署名として「府蘭」を用いています。
≪本日の問題≫
戦国武将・後藤又兵衛は1560年播州で生まれ、父・基国は三木城主別所氏の家臣でしたが、又兵衛が
まだ少年の頃に自刃しています。父の遺言により同輩の「小寺官兵衛」(後の黒田官兵衛)に仕え、天下
に聞こえた勇将となっています。
後藤基次(又兵衛)1560-1615年

黒田氏が中津に入封すると、領内の土豪や剛将・宇都宮鎭房を降伏させるなど功労が大であったという。
また、黒田如水、長政父子が筑前博多へ入封すると、黒田24勇士の猛将として1万6千石を与えられて、
大隈城(益富城)主となっていますが、官兵衛が亡くなった2年後の1606年に黒田家を出奔し、京都で
浪人となる。
大阪の陣が起こると、秀頼の招きに応じ大坂城に入城。夏の陣では大和方面に出馬し、道明寺河原で討
ち死にしたと有名な話が伝わります。
平成25年7月5日 中津城を攻城した後、又兵衛さんのお墓へ目指し裏耶馬溪へ


裏耶馬溪温泉から見る「裏耶馬溪」

しかし、道明寺河原で討ち死にしたのは影武者で、大坂方の敗戦の後は、放浪の旅で西下し中津時代の
知人である女性・お豊のいる「伊福の里」へたどり着き、その後は、お豊さんや里の人々と平穏な日々を過
ごしていたというのです。

豊臣家再興を期していたが、風の便りに豊臣家廃嫡の不運を知り、遂に自刃したと伝えわるそうです。
時が過ぎて村人は、この自刃した武士が後藤又兵衛であったことを知り、墓を立てましたが、後に、伊福
茂助が昔の墓の荒廃を見かねて建て替えたのが1763年でした。


墓には「義刃智光居士」と書いてあります。
また、碑文にも後藤又兵衛とは、はっきり書いてありません。
又兵衛さんは、1560年生まれとされますので、94歳の長寿で自刃したことになりますが、大分の山深
い里で、知人の女性と余生を過ごしたかと思うとロマンがありますね。
「平家の里」を彷彿させるような山深い里に墓はあります。(お墓の前から写す)

又兵衛さんの墓所は、この他に奈良県大宇陀町の薬師寺、大阪府柏原市の玉手山公園、愛媛県伊予市
の長泉寺、鳥取県鳥取市の景福寺などにたくさんあります。

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≪前回の解答≫
正解:府蘭
宗麟は、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった後、家臣へ宛てた書状の中などでは自身の署名として「府蘭」を用いています。
≪本日の問題≫
『キリシタン王国を夢見た 大友宗麟』 その22
『宗麟、キリスト教を擁護』
宗麟はカブラルの手紙を読み、また次男の話を聞いて、多数の家臣らの前で
「わしは師父らの立派な人柄であることを良く知っている。その教えの正しいことも良く知っている。今度の
騒ぎの張本人が誰であるかも分かっている。わしは師父らと、教会とその教えを保護することを約束した。
臼杵城の宗麟公レリーフ

これを完全ならしむるのは、わしの義務だ。紹忍はわしの大事な家老だが、もし乱暴なことをしたら、わしは
決して許さん」
このことが夫人と紹忍に聞こえると、夫人はヒステリーを起こして狂乱状態になり、紹忍はすっかり恐れ入
って、親虎の禁固を解き、手のひらを返すように可愛がり始めた。
西教史は、宗麟がそれほどキリスト教に理解と愛情を示し、また自分の子の入信を喜んでいるくせに、自分
が入信しないのは、一つには夫人がキリスト教嫌いのためであり、二つめは政治上の配慮だといっている。
宗麟が田原夫人を離縁して新しい夫人を娶ったのも、隠居して嫡子・義統に家督を譲ったのも、すべてキリ
スト教に入信せんがためと言っている。
しかし、宣教師らのこの解釈はあたっているのでしょうか。
旧夫人を離縁し、新婦人と結婚するためにキリスト教を利用したとも思われます。
憎いと思い、欲しいと思い立つと、矢も楯もたまらなくなるのが宗麟の性質なのです。

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:靖国神社
廃藩置県の際、国に献上した実物は、なんと現在は靖国神社に保存してあるそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
宗麟はカブラルの手紙を読み、また次男の話を聞いて、多数の家臣らの前で
「わしは師父らの立派な人柄であることを良く知っている。その教えの正しいことも良く知っている。今度の
騒ぎの張本人が誰であるかも分かっている。わしは師父らと、教会とその教えを保護することを約束した。
臼杵城の宗麟公レリーフ

これを完全ならしむるのは、わしの義務だ。紹忍はわしの大事な家老だが、もし乱暴なことをしたら、わしは
決して許さん」
このことが夫人と紹忍に聞こえると、夫人はヒステリーを起こして狂乱状態になり、紹忍はすっかり恐れ入
って、親虎の禁固を解き、手のひらを返すように可愛がり始めた。
西教史は、宗麟がそれほどキリスト教に理解と愛情を示し、また自分の子の入信を喜んでいるくせに、自分
が入信しないのは、一つには夫人がキリスト教嫌いのためであり、二つめは政治上の配慮だといっている。
宗麟が田原夫人を離縁して新しい夫人を娶ったのも、隠居して嫡子・義統に家督を譲ったのも、すべてキリ
スト教に入信せんがためと言っている。
しかし、宣教師らのこの解釈はあたっているのでしょうか。
旧夫人を離縁し、新婦人と結婚するためにキリスト教を利用したとも思われます。
憎いと思い、欲しいと思い立つと、矢も楯もたまらなくなるのが宗麟の性質なのです。

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正解:靖国神社
廃藩置県の際、国に献上した実物は、なんと現在は靖国神社に保存してあるそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
『キリシタン王国を夢見た 大友宗麟』 その21
『田原夫人の計略』
親虎は行動の自由を奪われていたので、密書で師父に通じた。
教会では決戦し、殉教することを決意して信者全部が集まった。親家は国主の次男でありながら、馳せ加
わった。
臼杵の町は、今にも戦いが始まるかと大混乱に陥った。
ちょうどその頃、国主・宗麟は狩猟に出て1ヵ月以上も不在であった。

夫人は宗麟に急使を出した。
「キリスト教徒らは親家と親虎を首領と仰いで、謀反を企てている。今日、教徒はそれほど多いとは言えな
いが、このまま放置して教徒の数が増えた暁には、取り返しのつかないことになろう。速やかにこの邪教
を禁断して災いの根を絶つべきである」
国主は、この頃まだ信者になってはいなかったが、キリスト教に対する理解は十分ある人です。
夫人の訴えを受けてもこれを信ぜず、これは自分とキリスト教信者と不和ならしめようとする夫人の計略で
あろうと判断した。
しかし、いちおう書を以って師父・カブラルに問うた。
「キリスト教では、臣民が君主に背くを良しとするか、どうか」
カブラルは直ぐ返事を書いた。
「この前はしかじかの訳で、われわれは教会に集まった。しかし、これは反逆のためではなかった。教会の
焼滅を防ぎ、防ぐことが出来なかったら、神の前に膝まずいて死ぬつもりであった。わがキリスト教では、
臣民たるものはその君主に従順忠誠を持って仕え、兵乱にあたっては鮮血を注いで君主のために忠死する
を美徳とし、反逆徒党を持って国の安寧を害することを大罪とする」
カブラルは、この返書を親家に託した。
親家は狩場に行って父に会って返書を渡し、なお詳しく説明した。
悪そうな奴ですね~

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:国崩し
1576年にポルトガルから贈られたもので、肥後国高瀬津(熊本県玉名郡)から台車に乗せ豊後国丹生島城(臼杵城)に運ばれた。
宗麟は大変喜びこの大砲を「 国崩し 」と命名した。この名の由来は、発砲した際に出る天地を揺るがす大音響に起因するという。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
親虎は行動の自由を奪われていたので、密書で師父に通じた。
教会では決戦し、殉教することを決意して信者全部が集まった。親家は国主の次男でありながら、馳せ加
わった。
臼杵の町は、今にも戦いが始まるかと大混乱に陥った。
ちょうどその頃、国主・宗麟は狩猟に出て1ヵ月以上も不在であった。

夫人は宗麟に急使を出した。
「キリスト教徒らは親家と親虎を首領と仰いで、謀反を企てている。今日、教徒はそれほど多いとは言えな
いが、このまま放置して教徒の数が増えた暁には、取り返しのつかないことになろう。速やかにこの邪教
を禁断して災いの根を絶つべきである」
国主は、この頃まだ信者になってはいなかったが、キリスト教に対する理解は十分ある人です。
夫人の訴えを受けてもこれを信ぜず、これは自分とキリスト教信者と不和ならしめようとする夫人の計略で
あろうと判断した。
しかし、いちおう書を以って師父・カブラルに問うた。
「キリスト教では、臣民が君主に背くを良しとするか、どうか」
カブラルは直ぐ返事を書いた。
「この前はしかじかの訳で、われわれは教会に集まった。しかし、これは反逆のためではなかった。教会の
焼滅を防ぎ、防ぐことが出来なかったら、神の前に膝まずいて死ぬつもりであった。わがキリスト教では、
臣民たるものはその君主に従順忠誠を持って仕え、兵乱にあたっては鮮血を注いで君主のために忠死する
を美徳とし、反逆徒党を持って国の安寧を害することを大罪とする」
カブラルは、この返書を親家に託した。
親家は狩場に行って父に会って返書を渡し、なお詳しく説明した。
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1576年にポルトガルから贈られたもので、肥後国高瀬津(熊本県玉名郡)から台車に乗せ豊後国丹生島城(臼杵城)に運ばれた。
宗麟は大変喜びこの大砲を「 国崩し 」と命名した。この名の由来は、発砲した際に出る天地を揺るがす大音響に起因するという。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
『キリシタン王国を夢見た 大友宗麟』 その20
『宗麟、臼杵城を築城』
義鎮改め宗麟と号し、臼杵の丹生島に城を築いてこれに移った。
丹生島は、現在は地盤の隆起や埋め立てで陸続きになっていますが、当時は海中の孤島であった。
陸地からこの島へは橋を架して連絡したという。
町家や家臣らの屋敷は陸地にあり、これまで府内の港に入っていた南蛮船などは、ここの港である臼杵湾
に入るようになった。
臼杵城 (臼杵城登城記は「こちら」です。)

城の工事を始めたのは1564年、完成したのは2年後の春であった。
この頃、宗麟は家督を嫡子・義統に譲ったが、なお実権は離していない。
数年経って、宗麟は夫人・田原氏を離縁して新しく夫人を迎えている。新夫人は彼の次男・親家の妻の母
であった。
西教史は、宗麟のこの離婚と結婚について、こんな話を記述しています。
旧夫人・田原氏は、狂信的な仏教信者であったためにキリスト教をひどく嫌い。その兄・田原紹忍と供に
キリスト教徒を迫害するに努めた。
紹忍は宗麟の信任厚く、最も権勢ある重臣であった。
ところが、田原夫人にとっては思いがけなく、夫人の次子・親家が熱烈なキリスト教徒になっている。
さらに、夫人の兄・紹忍の子・親虎もキリスト教に帰信した。
夫人は驚き、改宗するよう説得するも2人の信仰は堅く、微動にしない。
夫人は兄と相談し、親虎に言った。
「もし、そなたが改宗しないなら、教会を焼き払い、師父らを殺し、信者を皆殺しにする」
親虎は、やむなく棄信と言ったが、本心の信仰は益々堅かったという。
シンデレラ城の七変化 (ん、4つじゃん!)

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:書画や茶器
宗麟は多趣味の傾向からか収集癖も持ち合わせていたようで、隠居後も書画や茶器を大量に購入、収集しています。
この収集癖が財政を圧迫するので自重するようにとの嫡男・義統の書状も残っています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
義鎮改め宗麟と号し、臼杵の丹生島に城を築いてこれに移った。
丹生島は、現在は地盤の隆起や埋め立てで陸続きになっていますが、当時は海中の孤島であった。
陸地からこの島へは橋を架して連絡したという。
町家や家臣らの屋敷は陸地にあり、これまで府内の港に入っていた南蛮船などは、ここの港である臼杵湾
に入るようになった。
臼杵城 (臼杵城登城記は「こちら」です。)

城の工事を始めたのは1564年、完成したのは2年後の春であった。
この頃、宗麟は家督を嫡子・義統に譲ったが、なお実権は離していない。
数年経って、宗麟は夫人・田原氏を離縁して新しく夫人を迎えている。新夫人は彼の次男・親家の妻の母
であった。
西教史は、宗麟のこの離婚と結婚について、こんな話を記述しています。
旧夫人・田原氏は、狂信的な仏教信者であったためにキリスト教をひどく嫌い。その兄・田原紹忍と供に
キリスト教徒を迫害するに努めた。
紹忍は宗麟の信任厚く、最も権勢ある重臣であった。
ところが、田原夫人にとっては思いがけなく、夫人の次子・親家が熱烈なキリスト教徒になっている。
さらに、夫人の兄・紹忍の子・親虎もキリスト教に帰信した。
夫人は驚き、改宗するよう説得するも2人の信仰は堅く、微動にしない。
夫人は兄と相談し、親虎に言った。
「もし、そなたが改宗しないなら、教会を焼き払い、師父らを殺し、信者を皆殺しにする」
親虎は、やむなく棄信と言ったが、本心の信仰は益々堅かったという。
シンデレラ城の七変化 (ん、4つじゃん!)


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正解:書画や茶器
宗麟は多趣味の傾向からか収集癖も持ち合わせていたようで、隠居後も書画や茶器を大量に購入、収集しています。
この収集癖が財政を圧迫するので自重するようにとの嫡男・義統の書状も残っています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>