ありがとうございました!
『みなさま ありがとうございました』
11月26日、「うめ」が月に帰った祭に皆様から、温かい言葉をたくさん戴きまして
ありがとうございました。
皆様に可愛がっていただきましたので、うめの生涯を紹介してお別れさせて頂きたいと
思います。
2008年10月28日 1号(はな)と2号(うめ)の姉妹が自宅で誕生しました。

妊娠した時の両親です(piglet生後7ヶ月、sa-ko嬢生後14ヶ月)



初めての正月の記念写真(手前がうめ)

初めての公園レビュー(3ヶ月)

家族で行った花見

オモチャが大好き

楽しかったハロウィン(どうだろう?)

楽しかったX’マス(どうでしょう?)

2011年8月6日 姉妹の1号(はな)との別れ

さくらを迎える

冬は寒いからと、毛布をかぶる

おかあさんと、いい顔でツーショット(11月6日)

11月26日 月に旅立ちました。
お父さんが代表して、うめとお別れです。

今頃、姉妹の「はな」や沢山のお友達と星空を跳ね回っていることと思います。
うめを可愛がっていただき、また、温かいお言葉をたくさん戴き、ありがとうございました。
ランキングに参加しています

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11月26日、「うめ」が月に帰った祭に皆様から、温かい言葉をたくさん戴きまして
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2008年10月28日 1号(はな)と2号(うめ)の姉妹が自宅で誕生しました。

妊娠した時の両親です(piglet生後7ヶ月、sa-ko嬢生後14ヶ月)





初めての正月の記念写真(手前がうめ)

初めての公園レビュー(3ヶ月)

家族で行った花見


オモチャが大好き

楽しかったハロウィン(どうだろう?)


楽しかったX’マス(どうでしょう?)

2011年8月6日 姉妹の1号(はな)との別れ

さくらを迎える

冬は寒いからと、毛布をかぶる

おかあさんと、いい顔でツーショット(11月6日)

11月26日 月に旅立ちました。
お父さんが代表して、うめとお別れです。

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うめを可愛がっていただき、また、温かいお言葉をたくさん戴き、ありがとうございました。
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『逆臣の武将・明智光秀』 その32
<本日まで更新をお休みさせていただきます。>
明智光秀はなぜ謀反したのか。
その真相は闇の中で怨恨説、久しい計画説、危惧説など多くの説があります。この闇の中を一緒に覗いて
みませんか。
『怨恨説 Ⅳ』
その他の怨恨説
(1)ある酒宴の時、生来の下戸である光秀に、信長は刀をつきつけて大杯で酒を飲ませ
「さてさて、命はよほどにおしいものと見えるわ」
と冷笑したという。
明智光秀(1528-1582年)

(2)甲斐・信越平定の時、信州諏訪郡のある寺に信長が本陣をすえた時、光秀が
「さもめでたいことでござる。われらも数年骨を折りましたが、かかる御勝利」
と言ったところ、信長はにわかに腹を立て
「おれは骨を折ったが、汝がいつどこで骨を折り、武辺をしたぞ。推参なる自賛!」
と、崖に面した欄干に光秀の頭を押し付けて打ち叩いた。人々が見る前でこの恥辱を受け、光秀の顔
には無念千万と思う気色が現れたという。(川角太閤記、祖父物語)
(3)信長が森蘭丸に命じて、満座のなか扇子で光秀の頭を殴らせたので、うらみに思った。
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いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:名人
信長も当時の多くの戦国大名と同じく囲碁を愛好し、「そちはまことの名人なり」と称したと言われています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
明智光秀はなぜ謀反したのか。
その真相は闇の中で怨恨説、久しい計画説、危惧説など多くの説があります。この闇の中を一緒に覗いて
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『怨恨説 Ⅳ』
その他の怨恨説
(1)ある酒宴の時、生来の下戸である光秀に、信長は刀をつきつけて大杯で酒を飲ませ
「さてさて、命はよほどにおしいものと見えるわ」
と冷笑したという。
明智光秀(1528-1582年)

(2)甲斐・信越平定の時、信州諏訪郡のある寺に信長が本陣をすえた時、光秀が
「さもめでたいことでござる。われらも数年骨を折りましたが、かかる御勝利」
と言ったところ、信長はにわかに腹を立て
「おれは骨を折ったが、汝がいつどこで骨を折り、武辺をしたぞ。推参なる自賛!」
と、崖に面した欄干に光秀の頭を押し付けて打ち叩いた。人々が見る前でこの恥辱を受け、光秀の顔
には無念千万と思う気色が現れたという。(川角太閤記、祖父物語)
(3)信長が森蘭丸に命じて、満座のなか扇子で光秀の頭を殴らせたので、うらみに思った。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:名人
信長も当時の多くの戦国大名と同じく囲碁を愛好し、「そちはまことの名人なり」と称したと言われています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
『逆臣の武将・明智光秀』 その31
明智光秀はなぜ謀反したのか。
その真相は闇の中で怨恨説、久しい計画説、危惧説など多くの説があります。この闇の中を一緒に覗いて
みませんか。
『怨恨説 Ⅲ』
その3
ある夜、信長が酒宴を開いた時、光秀が小用に立ち庭の片隅で用を足していると、信長はいきなり槍を取出
し鞘をはずして、光秀の首に穂先をあて
「いかにキンカ頭、なにとて座敷を立って興を破るぞ。にくい奴ゆえ、この細首突き通してくれる」
と、どなった。
岐阜駅前の信長公

光秀はあわてて
「お座敷を立ち去るのではござりませぬ。用を足していたのでござりまする。すぐ参ります」
と言い訳したが、信長はきかない。
「ゆるさん、ゆるさん」
と、研ぎみがいた穂先を首に突き当てた。
光秀は一層狼狽して
「あ、殿様、お槍先があたります。真っ平ごめんくださりますよう」
と汗になって詫びた。
「よし、その儀ならば許す。早くまいれ」
と、やっと槍を引いた。
光秀は侮辱を感じ、また危惧を抱いた。
『殿様はいたずら好きでおわす故、御酒興のあまりなさったことであろうとは思うものの、これはただごと
ではない。いつもわれらを憎いと思っておられる故、お酔いのうちについその本心が出たにちがいない』
と思って、謀反心ここにきざして隙をうかがった。
(義残後覚)
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (11月21日)
正解:斎藤道三
濃姫は、斎藤道三の3女です。
母は明智光継の娘・小見の方。兄弟に斎藤利治。斉藤義竜とは異母兄妹。明智光秀とは従兄妹同士という説がありますが、明智光秀の前半生が不明であるため確定ではありません。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
その真相は闇の中で怨恨説、久しい計画説、危惧説など多くの説があります。この闇の中を一緒に覗いて
みませんか。
『怨恨説 Ⅲ』
その3
ある夜、信長が酒宴を開いた時、光秀が小用に立ち庭の片隅で用を足していると、信長はいきなり槍を取出
し鞘をはずして、光秀の首に穂先をあて
「いかにキンカ頭、なにとて座敷を立って興を破るぞ。にくい奴ゆえ、この細首突き通してくれる」
と、どなった。
岐阜駅前の信長公

光秀はあわてて
「お座敷を立ち去るのではござりませぬ。用を足していたのでござりまする。すぐ参ります」
と言い訳したが、信長はきかない。
「ゆるさん、ゆるさん」
と、研ぎみがいた穂先を首に突き当てた。
光秀は一層狼狽して
「あ、殿様、お槍先があたります。真っ平ごめんくださりますよう」
と汗になって詫びた。
「よし、その儀ならば許す。早くまいれ」
と、やっと槍を引いた。
光秀は侮辱を感じ、また危惧を抱いた。
『殿様はいたずら好きでおわす故、御酒興のあまりなさったことであろうとは思うものの、これはただごと
ではない。いつもわれらを憎いと思っておられる故、お酔いのうちについその本心が出たにちがいない』
と思って、謀反心ここにきざして隙をうかがった。
(義残後覚)
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (11月21日)
正解:斎藤道三
濃姫は、斎藤道三の3女です。
母は明智光継の娘・小見の方。兄弟に斎藤利治。斉藤義竜とは異母兄妹。明智光秀とは従兄妹同士という説がありますが、明智光秀の前半生が不明であるため確定ではありません。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
埼玉 新座市・平林寺の紅葉
『逆臣の武将・明智光秀』 その30
明智光秀はなぜ謀反したのか。
その真相は闇の中で怨恨説、久しい計画説、危惧説など多くの説があります。この闇の中を一緒に覗いて
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『怨恨説 Ⅱ』
その2
稲葉一鉄の家来であった斉藤利三が気に食わないことがあって、一鉄のもとを去って、秀光の家来になった。
一鉄はこれを信長に訴えて、利三を取り返そうとした。
織田信長(1534-1582年)

信長は訴えを受理して、返すように秀光に言った。
「その儀はお許し下されとうござる。利三ほどの勇士を家に養うのも、つまりは上様のためによき御奉公をした
いと存ずればこそのことであります故」
と、光秀は拒んだ。
信長はカッと腹を立てて
「おれの言葉をきかんのか! 推参なるやつめ!」
と、光秀の襟首をつかんで引きずりあげ、二、三間も突き飛ばし、なお憤怒のあまり脇差を抜こうとまでした
が、光秀がすばやく次の間に逃げ去ったので、信長の怒りは静まった。
光秀は次の間で涙を流し
「面目を失うた」
と言って退出した。
人々は
「光秀の風情、ただ事ではない」
とささやき合ったという。
(川角太閤記、明智軍記、常山紀談)
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:ノイローゼ説
司馬遼太郎は、「『国盗り物語』では野心があったように書きましたが、光秀はノイローゼだったのではないかと思っているのです。ですがノイローゼでは小説になりませんので」という旨の発言をし、司馬自身、光秀は恐怖心が昂じて神経症になった末に発作的に行動した、と思っていたという。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
その真相は闇の中で怨恨説、久しい計画説、危惧説など多くの説があります。この闇の中を一緒に覗いて
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『怨恨説 Ⅱ』
その2
稲葉一鉄の家来であった斉藤利三が気に食わないことがあって、一鉄のもとを去って、秀光の家来になった。
一鉄はこれを信長に訴えて、利三を取り返そうとした。
織田信長(1534-1582年)

信長は訴えを受理して、返すように秀光に言った。
「その儀はお許し下されとうござる。利三ほどの勇士を家に養うのも、つまりは上様のためによき御奉公をした
いと存ずればこそのことであります故」
と、光秀は拒んだ。
信長はカッと腹を立てて
「おれの言葉をきかんのか! 推参なるやつめ!」
と、光秀の襟首をつかんで引きずりあげ、二、三間も突き飛ばし、なお憤怒のあまり脇差を抜こうとまでした
が、光秀がすばやく次の間に逃げ去ったので、信長の怒りは静まった。
光秀は次の間で涙を流し
「面目を失うた」
と言って退出した。
人々は
「光秀の風情、ただ事ではない」
とささやき合ったという。
(川角太閤記、明智軍記、常山紀談)
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:ノイローゼ説
司馬遼太郎は、「『国盗り物語』では野心があったように書きましたが、光秀はノイローゼだったのではないかと思っているのです。ですがノイローゼでは小説になりませんので」という旨の発言をし、司馬自身、光秀は恐怖心が昂じて神経症になった末に発作的に行動した、と思っていたという。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
『逆臣の武将・明智光秀』 その29
明智光秀はなぜ謀反したのか。
その真相は闇の中で怨恨説、久しい計画説、危惧説など多くの説があります。この闇の中を一緒に覗いて
みませんか。
『怨恨説 Ⅰ』
信長の討ち取りも、あっけないくらい簡単に成功した。
本能寺に攻めかかったのが、卯の刻というから午前6時、7時か8時頃にはもう終わっていたという。
本能寺の変 (後ろから駆けてくるのが、森蘭丸だそうです)

また、信忠の宿所・妙覚寺にも同時に兵を分けて攻めかかっていたのでいたが、信忠には信長と違って5百
人ほどの手兵がいた。
本能寺を攻めた明智勢が加わり攻撃したので、信忠も自殺して果てた。
これが9時頃であったという。
問題は、光秀がなぜ謀反したかです。
最もいわれているのが、怨恨説です。
その1つは、前に記事にした(こちら)丹波の八上城攻めに関する話。
光秀は波多野兄弟の命を助け、本領を安堵させるために、母を人質に送って兄弟を出降させ、これを安土
に送ったら信長がムザムザと殺してしまった。
そのため、八上城では激怒し光秀の母を殺した。
しかもなお、信長は光秀を
「母を殺してまで手柄が立てたいものか」
と嘲笑し、世の人々も光秀の不幸を憎んだので、光秀は恥じ、憤ったというのです。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:秀吉の側室を継妻にした
秀次の謀叛の疑いということですが、その発端は、秀吉の側室(一ノ台)が病になったため暇を出され親元に帰っている一ノ台を見初め、秀吉に黙って継室としたため、石田三成の讒言で秀吉がそれを知り、嫉妬に狂って罪状をでっち上げ処断したという。(川角太閤記)
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
その真相は闇の中で怨恨説、久しい計画説、危惧説など多くの説があります。この闇の中を一緒に覗いて
みませんか。
『怨恨説 Ⅰ』
信長の討ち取りも、あっけないくらい簡単に成功した。
本能寺に攻めかかったのが、卯の刻というから午前6時、7時か8時頃にはもう終わっていたという。
本能寺の変 (後ろから駆けてくるのが、森蘭丸だそうです)

また、信忠の宿所・妙覚寺にも同時に兵を分けて攻めかかっていたのでいたが、信忠には信長と違って5百
人ほどの手兵がいた。
本能寺を攻めた明智勢が加わり攻撃したので、信忠も自殺して果てた。
これが9時頃であったという。
問題は、光秀がなぜ謀反したかです。
最もいわれているのが、怨恨説です。
その1つは、前に記事にした(こちら)丹波の八上城攻めに関する話。
光秀は波多野兄弟の命を助け、本領を安堵させるために、母を人質に送って兄弟を出降させ、これを安土
に送ったら信長がムザムザと殺してしまった。
そのため、八上城では激怒し光秀の母を殺した。
しかもなお、信長は光秀を
「母を殺してまで手柄が立てたいものか」
と嘲笑し、世の人々も光秀の不幸を憎んだので、光秀は恥じ、憤ったというのです。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:秀吉の側室を継妻にした
秀次の謀叛の疑いということですが、その発端は、秀吉の側室(一ノ台)が病になったため暇を出され親元に帰っている一ノ台を見初め、秀吉に黙って継室としたため、石田三成の讒言で秀吉がそれを知り、嫉妬に狂って罪状をでっち上げ処断したという。(川角太閤記)
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
「豊臣秀次」に関し興味深い記事 (産経新聞)
『豊臣秀吉の「秀次に切腹強要」に疑義』
これまでの通説では、豊臣秀吉は実子の秀頼が生まれると、甥の関白秀次が邪魔になって切腹させた-。
この通説に国学院大の矢部健太郎准教授が疑義を呈し「秀吉は秀次を高野山へ追放しただけだったが、意図
に反し秀次が自ら腹を切った」とする新説を学術誌「国学院雑誌」に発表しています。
秀次の死をめぐっては、その背景を明確に記した史料が同時代になく、研究者も興味深い説だと評価している
という。
豊臣秀次(1568-1595年)

秀吉の姉の子である秀次は1591年、実子のいない秀吉の養子となり、関白を引き継いだ。しかし秀頼誕生
から2年足らずの1595年7月に失脚。高野山へ追放され、同月15日、金剛峯寺の前身である青巌寺で切
腹しています。
切腹に至る詳しい事情の史料はありませんが、儒学者・小瀬甫庵(おぜほあん)が江戸時代初期に記した太
閤記では「切腹命令」という文書を掲載。
文書には石田三成ら五奉行が署名し、7月13日の日付があるという。
矢部准教授はこの日付について、「京都から約130キロ離れた高野山までは坂も厳しく、歩いて3日はかか
る。13日付の命令書を持って多くの兵を連れて赴き、15日に切腹させるのは難しい」と疑念を示す。
そこでさまざまな史料にあたり、秀吉が同月12日に高野山の僧、木食応其(もくじきおうご)へ宛てた書状に
着目。
「秀次が高野山に住むにあたっては見張り番を付け、料理人や世話係などを用意してほしい」と記されており、
「数日後には切腹させる人に、料理人が必要だろうか。秀吉は秀次を長期間、高野山に住まわせようと考えて
いたと思う」と推測する。
また秀次切腹の情報を最初に朝廷へ伝えた「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)」1595年7月16日
条には「関白殿 昨十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申す」とある。矢部准教授はこの「切らせられ」
という記述は秀吉が「切らせた」のではなく、敬語の「お切りになった」と読むべきだと指摘。「秀次は高野山
での幽閉に耐えられず、身の潔白を証明するために自らの決断で切腹した」とみている。
しかし、秀次の死後、秀次の一族・妻妾・息子・娘・家臣の多くが粛清されていること。また、秀次に関連した
大名は監禁させられ聚楽第も破却されていることは、どう説明するのでしょうか。
興味深いですね。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (11月15日)
正解:学校
本能寺は、1591年豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区寺町御池下ル)へと移転させられ、旧本能寺跡には、京都市立堀川高等学校本能学舎などがあります。
≪本日の問題≫
<参考文献:産経新聞(11月18日)>
これまでの通説では、豊臣秀吉は実子の秀頼が生まれると、甥の関白秀次が邪魔になって切腹させた-。
この通説に国学院大の矢部健太郎准教授が疑義を呈し「秀吉は秀次を高野山へ追放しただけだったが、意図
に反し秀次が自ら腹を切った」とする新説を学術誌「国学院雑誌」に発表しています。
秀次の死をめぐっては、その背景を明確に記した史料が同時代になく、研究者も興味深い説だと評価している
という。
豊臣秀次(1568-1595年)

秀吉の姉の子である秀次は1591年、実子のいない秀吉の養子となり、関白を引き継いだ。しかし秀頼誕生
から2年足らずの1595年7月に失脚。高野山へ追放され、同月15日、金剛峯寺の前身である青巌寺で切
腹しています。
切腹に至る詳しい事情の史料はありませんが、儒学者・小瀬甫庵(おぜほあん)が江戸時代初期に記した太
閤記では「切腹命令」という文書を掲載。
文書には石田三成ら五奉行が署名し、7月13日の日付があるという。
矢部准教授はこの日付について、「京都から約130キロ離れた高野山までは坂も厳しく、歩いて3日はかか
る。13日付の命令書を持って多くの兵を連れて赴き、15日に切腹させるのは難しい」と疑念を示す。
そこでさまざまな史料にあたり、秀吉が同月12日に高野山の僧、木食応其(もくじきおうご)へ宛てた書状に
着目。
「秀次が高野山に住むにあたっては見張り番を付け、料理人や世話係などを用意してほしい」と記されており、
「数日後には切腹させる人に、料理人が必要だろうか。秀吉は秀次を長期間、高野山に住まわせようと考えて
いたと思う」と推測する。
また秀次切腹の情報を最初に朝廷へ伝えた「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)」1595年7月16日
条には「関白殿 昨十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申す」とある。矢部准教授はこの「切らせられ」
という記述は秀吉が「切らせた」のではなく、敬語の「お切りになった」と読むべきだと指摘。「秀次は高野山
での幽閉に耐えられず、身の潔白を証明するために自らの決断で切腹した」とみている。
しかし、秀次の死後、秀次の一族・妻妾・息子・娘・家臣の多くが粛清されていること。また、秀次に関連した
大名は監禁させられ聚楽第も破却されていることは、どう説明するのでしょうか。
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正解:学校
本能寺は、1591年豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区寺町御池下ル)へと移転させられ、旧本能寺跡には、京都市立堀川高等学校本能学舎などがあります。
≪本日の問題≫
<参考文献:産経新聞(11月18日)>