2013年 日本百名城巡りの総括

『2013年は、百名城8城とその他の城5城を攻略』


今年も城巡りにお付き合い戴き、ありがとうございました。

お陰さまで、今年5年目には新たに8城を攻略し、残すところあと5城になりました。

今年は北海道の3城を廻りましたので、残り5城は大阪と中国で西方のみとなりました。

今年廻りました城を、順に紹介してみたいと思います。

日本百名城 塗りつぶし同行会」も、ほぼ塗り潰しが終わってきましたので、良かったら覗いてみてください。


【1月】

・日本百名城17 「金山城」 (群馬県)
 *登場日:平成25年1月1日 (登城記は「こちら」です。)
ka.金山城


【4月】

・日本百名城01 「根室半島シャシ群」 (北海道)
 根室半島には、「砦」の機能を持つ約30のシャシが確認されています。
 *登城日:平成25年4月19日 (登城記は「こちら」です。)
ne.根室チャシ


・日本百名城02 「五稜郭」 (北海道)
 観光地として有名な五稜郭は、江戸末期に造営された稜堡式の城郭です。
 *登城日:平成25年4月21日 (登城記は「こちら」です。)
go.五稜郭


・日本百名城03 「松前城」 (北海道)
 戊辰戦争の最末期に旧幕府の軍(元新選組の土方歳三が率いていた)との戦いで落城しています。
 *登城日:平成25年4月22日 (登城記は「こちら」です。)
ma.松前城



【7月】

・上原館 (大分県)
 豊後国府内(大分市)の上野丘陵にあった大友氏の館です。
 *登城日:平成25年7月4日 (登城記は「こちら」です。)
ue.上原館



・日本百名城94 「府内城」 (大分県)
 大分市街の中心に位置する梯郭式平城ですが、大友氏以降の城郭です。
 *登城日:平成25年7月4日 (登城記は「こちら」です。)
fu.府内城


・中津城 (大分県)
 ご存知の黒田孝高(官兵衛)築城し、細川忠興が完成させた梯郭式の平城です。
 *登場日:平成25年7月5日 (登城記は「こちら」です。)
na.中津城


・日本百名城92 「熊本城」 (熊本県)
 「せいこしょさん」(加藤清正)が造営した平山城で、近年、復元が進んでいます。
 *平成25年7月5日登城 (登城記は「こちら」です。)
ku.熊本城



・宇土城 (熊本県)
 小西行長によって宇土古城の東に位置する丘に築かれた平山城で、3重の天守などが建てられた。
 *登城日:平成25年7月6日 (登城記は「こちら」です。)
ut.宇土城




【9月】

・日本百名城28 「小諸城」 (長野県)
 信玄の軍師であった山本勘助の縄張りだと言い伝わりますが、根拠となる史料はないようです。
 *登城日:平成25年9月23日 (登城記は「こちら」です。)
ko.小諸城




【12月】

・興国寺城 (静岡県)
 北条早雲の初めての持ち城で、堀越御所の茶々丸を攻め滅ぼし韮山城に移っています。
 *登城日:平成25年12月6日  (登城記は「こちら」です。)
ko.興国寺城


・韮山城 (静岡県)
 北条早雲の居城で、この城で伊豆統一や相模に領地を広げた後も小田原に移ることなく、ここで没しています。
 *登城日:平成25年12月6日 (登城記は「こちら」です。)
ni.韮山城



・日本百名城40 「山中城」 (静岡県)
 秀吉の小田原征伐で4万の軍に攻められ、半日で落城しています。
 *登城日:平成25年12月7日 (登城記は「こちら」です。)
ya.山中城



≪城廻り以外で、今年夢中になったもの≫

夏の花火撮影から始まり冬花火まで、花火会場を廻りましたが、お気に入り写真は来年撮ることになりました。
20131214 005

望遠レンズを購入したことで飛行機撮りを始めましたが、来年はジェット戦闘機を撮ってみたいですね。
入間2013 012




今年も一年間、楽しい交流をさせて戴き、ありがとうございました。

輝く新年をお迎えください。



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【加藤清正】 その9

『秀吉の九州平定』


賤ヶ岳合戦の後、清正は物頭となり鉄砲5百挺、与力20名を預けられから、以後は部隊長としての働きとな

った。

この時、清正は主計頭(かずえのかみ)に任官したという。

秀吉と徳川家康・織田信雄との合戦、すなわち犬山城攻めや小牧合戦にも相当な手柄を立てているが、特別

に目立つことはなかった。

この小牧合戦の時、清正は26歳であった。

犬山城 (犬山城の登城記は「こちら」です。)
in.犬山城 001

3年後に九州征伐がありますが、この時は諸大名だけが戦闘して秀吉の本隊は全然戦闘はしていないから、

清正も戦闘はしていません。

九州平定の後、秀吉は肥後を佐々成政に与えた。

佐々は以前、柴田勝家を中心とするアンチ秀吉党の有力メンバーであり、勝家の敗死後も頑強に抵抗し、勢い

窮してついに秀吉に屈服した男です。

本来なら首を刎ねられても不思議でなかったのを、秀吉は助命して越中新川の一郡だけを与えてお伽衆(話し

相手)としていたのです。

この時、すでに秀吉は外征の志があったので、その先鋒に佐々を用いる気持ちがあったのではと思われます。

後に佐々の後任として肥後を半国ずつ貰った清正と小西行長がともに朝鮮入りの先鋒をうけ賜ったことから、

そう考えられます。

外征には兵糧と費用が莫大に必要になり、先鋒部隊であれば一層必要となります。

肥後は天下の美国であるから、十分にそれに耐え得るのと見たのでしょう。九州征伐の途上、秀吉は肥後の

八代から毛利輝元にあてた書状に肥後の豊かさに感嘆しています。

「こんな国は今まで見たことない。老後はこういう国に隠居したいものだ」

と書いている。



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pig 20131229


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:秀吉と親友であったため
茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如戦線離脱しています。
その理由は諸説ありますが、秀吉とは信長の部下時代からの親友であったが、勝家とは主従関係にあったこと、この相関関係に耐えきれなかったことが一番有力な説といわれます。

≪本日の問題≫


                                       <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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【加藤清正】 その8

『賤ヶ岳の七本槍』


賤ヶ岳の戦いは、伊勢攻めの2ヵ月後であった。

清正はこの時、乗馬が2頭とも病気であったので、徒歩で従ったが大垣から賤ヶ岳まで20里(約80km)の道

を、秀吉の後について疾走したが一歩も遅れなかったという。

賤ヶ岳合戦図
si..賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳七本槍の名は高いが、これは敵の佐久間玄蕃・その弟・柴田勝政(勝家の養子)が退却にかかった際、

その追撃戦の時、秀吉の側近の若武者、加藤虎之助清正・平野権平長泰・脇坂甚内安治・加藤孫六嘉明・福

島市松正則・糟屋助右衛門武則・片桐助作且元の7人が、それぞれ槍を振るって抜群の功を立てたところから

有名になったのですが、それは宣伝上手な秀吉が随分と宣伝に努めたからだという説が昔からあります。

これ以前には、今川義元と織田信長とが参州小豆坂で戦った時に、織田方の7勇士をたたえた小豆坂の7本

槍というのが有名であったが、この時以降、賤ヶ岳の7本槍に名を奪われてしまっています。

秀吉の宣伝上手もあったのでしょうが、賤ヶ岳合戦は一種の天下分け目の戦いですから舞台も良く、こちらの

方が有名になったでしょう。

この時、清正は真っ先に飛び出し、一番槍と名のって敵の部将・拝郷五左衛門隊の鉄砲頭・戸波隼人という者

を討取っている。

この戦いの後、7本槍の対して一様に3千石を与えられたが、福島正則だけは5千石を与えられた。

「祖父物語」は、この時のこととして、面白い話を伝えている。

秀吉の朱印状を取次の杉原伯耆(ほうき)から渡された時、清正は居高だかになり

「市松もご一家、われらもお爪の端でござる。こんどの槍、われら少しも市松に劣り申さぬに、何でわれらの

方が2千石少ないでござる。気にいらねば、このお墨付き、お返し申す」

とどなって、杉原に返した。

大きな声であったので、秀吉の耳に届いた。

秀吉は

「虎(清正)は総じてアホなやつじゃ。しばらく受取っておけい。やがて市松と同じにしてやる」

といって、間もなく加増して5千石にしてやったという。

福島は秀吉の従兄弟、清正は又従兄弟で、血縁的に親疎(しんそ)があるのです。



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pig 20131228


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:織田信雄
滝川一益の居城であった長島城は、賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となるが、1586年の天正地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けたため清洲城に移っています。

≪本日の問題≫


                                         <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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【加藤清正】 その7

『亀田城落し』


安楽越えというのは、東海道の土山と鈴鹿の間の猪鼻から左に分かれ、黒川・山女原(あけびはら)を経て伊勢

の安楽に出るのでこう呼ばれていたという。

安楽から一里(約4km)少し行くと峯城がある。

ここには滝川の一族が篭っている。

伊勢国 亀田城
is.伊勢国亀田城

秀吉は、ここには抑えの兵を置き、進路を北方にとり、他の二道からから来た軍と合流し、桑名近くで滝川一益

と戦ったが勝敗はつかなかった。

秀吉は、ここにも抑えの兵を残して南行し、一益方の佐治新助が篭っている亀山城を3日間で攻め落とした。

この時も清正は秀吉の命を受け、前線の戦況視察を行っている。

すでに戦況は城中に至っており、城内のいたるところで乱戦が行われていたが、敵の鉄砲隊がいるので近づくこ

とができない。

秀吉の部将・木村隼人の甥の木村十三郎が十文字槍を振り回して飛び込もうとするが、鉄砲隊の守りが厳しく

出られない。

これを見た清正は持っていた2間半の大槍で、筒先を並べている鉄砲をいきなり叩き払うや、鉄砲隊長を突いた。

「無念、出し抜かれた!」

と叫んで、槍を繰り出し腹部を表裏まで突きぬいて倒した。

清正は

「槍をつけたのは拙者でござるが、突き倒されたのは貴殿でござる。首を上げ候え」

と言い捨て、なお城内深く進んだ。

そのうち佐治は降伏したが、敵も味方もこれを知らず、なお激しい戦闘が継続されていたので、清正は大声で

「城主・佐治は降人となりたるぞ!戦はこれまでぞ」

と、言い廻ったので、戦闘は直ぐに終わった。

秀吉は、このことを木村隼人から聞いて、十三郎にも清正にも感状を与え、刀を一腰ずつ与えているが、清正が

貰った刀は信国であったという。


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pig 20131227


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫ (12月25日)
正解:羽柴秀吉
織田四天王は、織田信長に仕えて天下統一事業に貢献した、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀の4人の武将を顕彰した呼称です。

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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ミッドタウン・クリスマス 2013

『スターライトガーデン』

六本木に仕事に行きましたので、最終日の東京ミッドタウンの「スターライトガーデン」に立ち寄ってきました。

仕事帰りということで、持参したカメラはソニーのミラーレスです。

2013 001

スターライトガーデンに入るまで、ミッドタウンの中をグルグルと40分長蛇の列で並びました。

24日の夜は、もっと並んだのでしょうね


2013 002

2013 003 2013 004

手持ちでの撮影は、ブレブレ画像ばかりでブログにアップできるような写真じゃないですね。

2013 005

約28万個のLEDが使われ、サウンドにあわせた光のショーの美しさは圧巻です。

2013 006

2013 007

最終日に行きましたので、リベンジは来年ですね。

2013 008


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【加藤清正】 その6

『滝川一益攻め』


山崎の合戦の翌年の2月に、秀吉が滝川一益を討ったときの武功です。

織田信長が本能寺で没した時、滝川一益は関東探題として上州厩橋(前橋)城にいた。

滝川一益(1525-1586)
ta.滝川一益

一益は本能寺の変報が伝わるや、帰属していた関東の諸将を招いて本能寺のことを打ち明け、人質を返し所蔵

した宝物を分け与え、伊勢長島城に帰って来った。

この時、秀吉はすでに山崎合戦で主君の仇を討ち滅ぼして、朝日が昇る勢いであった。

これに快くなかったのが、信長家臣の第一であった柴田勝家であった。

勝家は本能寺の変の時、越中で上杉景勝とせりあっていたため、急には京都に駆けるつけることができず、山崎

合戦で明智光秀が滅ぼされるのに間に合わなかったのです。

勝家を中心とするアンチ秀吉勢力が結成され、その中心をなしたのが、越中富山の佐々成政、越前北ノ庄の柴田

勝家、岐阜の信長の3男・信孝、そして伊勢長島の滝川一益であった。

秀吉は敵方の首領たる柴田勝家が雪に閉ざされて北国から出て来ることのできない間に、山崎合戦のあった暮

れには大軍を持って、岐阜城を圧迫して信孝に謝罪させ、翌年の2月には滝川を討つために7万5千の兵を三手

に分け、近江道から三道に分かれて伊勢に向かった。

一軍は弟・秀長が率いて土岐多良越えから、一軍は甥の秀次が率いて大君越えから、一軍は秀吉自ら率いて

安楽越えから伊勢に入り、桑名で三軍が合流して一益の本拠である木曾川河口の長島を攻める段取りであった。


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pig 20131224 002


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:天王山
山崎の戦いは「天王山の戦い」と呼ばれたりしますが、しかし実際には、天王山の争奪は戦局に大きな影響を与えておらず、そもそも天王山の争奪戦そのものがあったかどうかも定かでないそうです。

≪本日の問題≫


                                        <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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【加藤清正】 その5

『山崎の合戦における武功』


山崎の合戦においての清正の武功を清正記が伝えています。

山崎の合戦の秀吉軍の先鋒は、高山右近、中川瀬兵衛、池田信輝の3人であったが、高山は

「高名も不覚もまぎれぬこそ快けれ」

と称して、山崎の南門を閉ざし、余隊の兵の通行を禁止して合戦を始めたという。

山崎の戦い激戦の地碑
山崎の戦い激戦の碑

山崎には古来の関所があって、その位置がちょうど南の町のはずれに位置している。この関所の門のことだった

のでしょう。

池田信輝が高山右近心変わりかと疑ったほどであるから、秀吉も不審に思ったこと間違いのないことです。

清正を呼んで

「徒(かち)の者、2、3人連れ高山が戦ぶり見てまいれ」

と命じた。

「はっ!」

と答えて、清正は徒衆3人を連れて合戦の様子を見て歩いていると、明智方の先鋒部隊の中にさわやかに働い

ている者がいた。

「日向守が先手・伊勢与三郎が家来・近藤半助ぞ!」

と名のって、部下の者どもに脇を守らせ、鉄砲を連発させながら働いている。

この時代の戦闘は、一騎討ちといっても身分のある戦士は単騎で戦闘したのではなく、自分の左右に家来どもを

立て、これに鉄砲か弓を持たせて援護させて戦ったのです。

これを“脇をつめる”といっています。

「あの男、みごとじゃな。おれが討取ってくれよう。見ていよ。」

と言うや、2尺9寸の陣刀を引き抜き、真一文字に走り渾身の力を込めて突いた。

半助は馬から真っ逆さまに転落したところを、清正は踊りかかって半助の首を掻き切り、腰に付けた首袋入れた。

清正は秀吉の本陣に駆け戻り、合戦の状況を報告し取った首を実検にそなえた。

「武勇を心がける者、手柄者とは汝たるべし、いよいよ武功をつくすべし」

と、秀吉はその場にて自筆で感状をしたためて渡し、なお当座の褒美として脇差をくれたという。


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pig 20131224 001


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:安国寺恵瓊
毛利方は軍僧の安国寺恵瓊と秀吉方は黒田官兵衛が和議の交渉を行っています。
最終的には、備中高松城城主・清水宗治自刃を和睦条件として提示し、籠城者の命を助けるようにという嘆願書を書いて安国寺恵瓊に託し、これで和議が成立しています。

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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