【加藤清正】 その28
『日本軍の武威』
清正が朝鮮から帰還した理由、
その2として
清正が咸鏡(かんきょう)道にいる時、明の皇帝の使者と名のる者が来て、平壌で小西行長が明軍に敗れて
漢城へ敗退したことを述べ、日本軍はいずれも敗戦、今や朝鮮全土から一人残らず追い落とされた。
将軍も速やかに帰国されるがよい。

皇帝は将軍の軍紀厳正にして非道を行わないことを聞かれ、帰国の船を貸してやると仰せられている。
然らざれば不日に40万の大軍を以って攻めつぶすぞ、と威迫した時、
清正が
「行長という者は武将ではない。本来は日本の堺の町人である。外国事情によく通じている故、案内者として
遣わされたのである。それが敗走したとて、日本の武威には何の曇りもない。日本の真の武将とは、かく申す
清正である。差し向けられる軍勢は40万と申されるが、当地へは険しい山を越えねば寄せることが出来ぬ故、
先ず日に1万が限度だ。一日に1万を討ち果たすことは、わしにおいては何の造作もないことだ。40日あれば
全てを討取り得る。そうなった後、わしは無人の野を行くごとく貴国に攻め入り、北京を陥れ、皇帝を生け捕
りにすること、朝鮮の2王子のごとくするであろう」
と答えて、これを文書にし、豊臣朝臣清正と署名して手渡したことだと、清正記にある。
同僚たる行長の名誉を落させるような悪口を言い、勝手に豊臣の姓を名乗ったのが不都合だというのです。
この事実も清正記にあるだけですが、行長の悪口を言い、欲しいままに豊臣姓を名乗ったことが、秀吉の怒り
の理由のなかに入っているのは事実ですから、似たようなことは間違いないことでしょう。
行長が和議工作に熱中して戦機を逃がしたり、内兜を見透かされて平壌で敵の不意打ちを食らって見苦しい
敗戦を喫して日本軍の武威を落としたりしたことに対する怒りが、こんな言葉となったのでしょう。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:佐和山城
石田三成は、1595年に近江佐和山19万4千石の所領を秀吉から与えられています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
清正が朝鮮から帰還した理由、
その2として
清正が咸鏡(かんきょう)道にいる時、明の皇帝の使者と名のる者が来て、平壌で小西行長が明軍に敗れて
漢城へ敗退したことを述べ、日本軍はいずれも敗戦、今や朝鮮全土から一人残らず追い落とされた。
将軍も速やかに帰国されるがよい。

皇帝は将軍の軍紀厳正にして非道を行わないことを聞かれ、帰国の船を貸してやると仰せられている。
然らざれば不日に40万の大軍を以って攻めつぶすぞ、と威迫した時、
清正が
「行長という者は武将ではない。本来は日本の堺の町人である。外国事情によく通じている故、案内者として
遣わされたのである。それが敗走したとて、日本の武威には何の曇りもない。日本の真の武将とは、かく申す
清正である。差し向けられる軍勢は40万と申されるが、当地へは険しい山を越えねば寄せることが出来ぬ故、
先ず日に1万が限度だ。一日に1万を討ち果たすことは、わしにおいては何の造作もないことだ。40日あれば
全てを討取り得る。そうなった後、わしは無人の野を行くごとく貴国に攻め入り、北京を陥れ、皇帝を生け捕
りにすること、朝鮮の2王子のごとくするであろう」
と答えて、これを文書にし、豊臣朝臣清正と署名して手渡したことだと、清正記にある。
同僚たる行長の名誉を落させるような悪口を言い、勝手に豊臣の姓を名乗ったのが不都合だというのです。
この事実も清正記にあるだけですが、行長の悪口を言い、欲しいままに豊臣姓を名乗ったことが、秀吉の怒り
の理由のなかに入っているのは事実ですから、似たようなことは間違いないことでしょう。
行長が和議工作に熱中して戦機を逃がしたり、内兜を見透かされて平壌で敵の不意打ちを食らって見苦しい
敗戦を喫して日本軍の武威を落としたりしたことに対する怒りが、こんな言葉となったのでしょう。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:佐和山城
石田三成は、1595年に近江佐和山19万4千石の所領を秀吉から与えられています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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【加藤清正】 その27
『清正への帰還命令』
朝鮮役が始まって4年目、1596年6月、清正は秀吉の勘気をこうむり急ぎ帰還せよとの命令が下った。
この勘気は小西行長や、在鮮軍参謀部の格で朝鮮に来ていた石田三成・増田長盛・大谷吉継の3奉行らが、色々
と清正の悪口を秀吉に報告したからです。
石田三成(1560-1600年)

その1つは
行長がせっかく骨折って和議をまとめ上げようとしても、清正がこれを邪魔するというものであった。
清正は秀吉の意志の最も忠実な遵奉者です。
秀吉の意志が和平に傾いた以上これには最も忠実に従うのであるが、かねてからの不和なだけに、清正は
行長の和議はどうやら秀吉の意志とは、はるかにかけ離れた屈辱的なものであるらしいことを感知したので
す。
それで色々と水をさしたらしいのです。
清正記には
「せっかく行長が明(みん)を説きつけ、明から日本へ和を乞う使者を遣わす運びをしたのに、その使者に対
して清正は、鉄砲足軽頭・三宅角左衛門、いかるが平次に命じて狼藉追剥ぎさせた」
と三成が秀吉に申し上げたとあります。
これは他書には出てないことですから、そのまま信用は出来ませんが、三成が根も葉もないことを言うことも
ないのでしょう。
軍紀厳正な清正のことだから、そんな乱暴なことをさせたとは思えないが、行長や三成にとっては、和議その
ものに同意はしても、秀吉の意志をそのまま押し通そうとする妥協のない清正の態度はいろいろ邪魔であった
ことは間違いないことでしょう。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:隈本
「隈本(隅本とも)」という地名を「熊本」と改名した人物は清正です。
「隅本」よりも「熊本」の方が勇ましかろうと言う理由だったと伝えられています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
朝鮮役が始まって4年目、1596年6月、清正は秀吉の勘気をこうむり急ぎ帰還せよとの命令が下った。
この勘気は小西行長や、在鮮軍参謀部の格で朝鮮に来ていた石田三成・増田長盛・大谷吉継の3奉行らが、色々
と清正の悪口を秀吉に報告したからです。
石田三成(1560-1600年)

その1つは
行長がせっかく骨折って和議をまとめ上げようとしても、清正がこれを邪魔するというものであった。
清正は秀吉の意志の最も忠実な遵奉者です。
秀吉の意志が和平に傾いた以上これには最も忠実に従うのであるが、かねてからの不和なだけに、清正は
行長の和議はどうやら秀吉の意志とは、はるかにかけ離れた屈辱的なものであるらしいことを感知したので
す。
それで色々と水をさしたらしいのです。
清正記には
「せっかく行長が明(みん)を説きつけ、明から日本へ和を乞う使者を遣わす運びをしたのに、その使者に対
して清正は、鉄砲足軽頭・三宅角左衛門、いかるが平次に命じて狼藉追剥ぎさせた」
と三成が秀吉に申し上げたとあります。
これは他書には出てないことですから、そのまま信用は出来ませんが、三成が根も葉もないことを言うことも
ないのでしょう。
軍紀厳正な清正のことだから、そんな乱暴なことをさせたとは思えないが、行長や三成にとっては、和議その
ものに同意はしても、秀吉の意志をそのまま押し通そうとする妥協のない清正の態度はいろいろ邪魔であった
ことは間違いないことでしょう。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:隈本
「隈本(隅本とも)」という地名を「熊本」と改名した人物は清正です。
「隅本」よりも「熊本」の方が勇ましかろうと言う理由だったと伝えられています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
【加藤清正】 その26
『軍紀厳正な清正』
清正の軍は軍紀厳正で、釜山上陸以来、民を侵さなかったので、その占領している土地では民は皆平常とか
わりなく生業に従っていたというが、この時もそうであった。
加藤清正(1562-1611年)

2王子を誠に手厚く取扱い、それに随従している宮女らが2王子に従って城を出る時には、前もって兵士らに
「顔を見てはならない。その着物に触れてはならない」
と厳重に戒めたという。
清正軍の軍紀が厳正であったのは清正が厳格な人間であったからであることは言うまでもありませんが、彼
が秀吉の命に最も忠実であったからでもあるのです。
出兵にあたって、秀吉は諸将に対して、軍紀について特に制書を下して、殺すべからず、略奪するべからず、
放火すべからず、人をおさえ取るべからず、下人百姓らを徴発し欲しいままに課役その他非分のこと申しか
けてはならぬなどと、実に厳しく訓令している。
これをそのままに励行した大名らは少なかったが、清正はいつもこれを遵守していたのです。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:慶長の役
秀吉の朝鮮への第一次出兵を文禄の役、第二次出兵を慶長の役といい、併せて文禄・慶長の役というのが一般的になっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
清正の軍は軍紀厳正で、釜山上陸以来、民を侵さなかったので、その占領している土地では民は皆平常とか
わりなく生業に従っていたというが、この時もそうであった。
加藤清正(1562-1611年)

2王子を誠に手厚く取扱い、それに随従している宮女らが2王子に従って城を出る時には、前もって兵士らに
「顔を見てはならない。その着物に触れてはならない」
と厳重に戒めたという。
清正軍の軍紀が厳正であったのは清正が厳格な人間であったからであることは言うまでもありませんが、彼
が秀吉の命に最も忠実であったからでもあるのです。
出兵にあたって、秀吉は諸将に対して、軍紀について特に制書を下して、殺すべからず、略奪するべからず、
放火すべからず、人をおさえ取るべからず、下人百姓らを徴発し欲しいままに課役その他非分のこと申しか
けてはならぬなどと、実に厳しく訓令している。
これをそのままに励行した大名らは少なかったが、清正はいつもこれを遵守していたのです。
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『戦国クイズ』
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正解:慶長の役
秀吉の朝鮮への第一次出兵を文禄の役、第二次出兵を慶長の役といい、併せて文禄・慶長の役というのが一般的になっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
【加藤清正】 その25
『朝鮮2王子の束縛』
清正の武将としての働きは日本国内では、際立つものは少ない。
天草の地侍一揆の鎮圧戦と、関ヶ原の戦いの時に小西行長の本城である宇土城を攻めたくらいで、その他
は朝鮮における働きですが、前役(文禄の役)における最も大きい功績は2王子を虜にしたことです。
清正と行長は京城に入って間もなく、それぞれその向かうところを分掌し、行長は西海に面した平安道を行き、
清正は東海に面した咸鏡(かんきょう)道を進むことになった。
加藤清正(1562-1611年)

清正は黄海道の安城(現在の新幕)から東北に向って、朝鮮の脊梁山脈を越えて元山近くの安辺に出て、海
に沿った平野地帯を北上して永興府まで行くと、町の入口に永興の朝鮮役人の立てた高札があった。
これを家臣・美濃金太夫に読ませると、国王李昖(りえん)は明国に退き、王子兄弟はここから奥にお通りとい
う意味の文章であったという。
国王や王子らが無時避難したことを民に知らせて、その心を安定させるものであったのでしょう。
「追いつめて2王子を生け捕りにいたそう」
と、清正が勇躍したところ、鍋島直茂は
「異国の者の腹は奥深うござる。われらを切所に誘い込んで討ちとろうとのはかりごとであるやも知れぬ。また
われらが勢は、この暑熱に16日も押してまいり、人馬とも疲れ果てている。ここは兵糧なども多量にござれば、
暫く頭留して漢城への注進あって、指図次第で漢城へ引き取ることにいたそうではござらんか。」
と反対した。
清正は
「この高札を高麗人どもが立てたと思いでござるか、われらはさようには思わず、ひとえに天照大神・八幡大菩
薩の示現と覚える。されば神慮にまかせて追い掛けて、王子らを生け捕りにいたさん。鍋島殿はここにてお待
ちあれ」
といい、現地の役人を案内者として先に立て、手勢8千人を率いて、空けても暮れても東北方に向って進み、
途中、海汀倉(かいていそう)で朝鮮軍を撃破し、満州国境に近い会寧府で2王子に追及して捕らえた。
永興府で鍋島直茂に分かれてから52日目であった。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:小早川秀秋の裏切り
関ヶ原の戦いで、小西行長の部隊は東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦して奮戦しています。
しかし、小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継隊が壊滅すると、続いて小西隊・宇喜多隊も崩れ、行長は伊吹山中に逃れています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
清正の武将としての働きは日本国内では、際立つものは少ない。
天草の地侍一揆の鎮圧戦と、関ヶ原の戦いの時に小西行長の本城である宇土城を攻めたくらいで、その他
は朝鮮における働きですが、前役(文禄の役)における最も大きい功績は2王子を虜にしたことです。
清正と行長は京城に入って間もなく、それぞれその向かうところを分掌し、行長は西海に面した平安道を行き、
清正は東海に面した咸鏡(かんきょう)道を進むことになった。
加藤清正(1562-1611年)

清正は黄海道の安城(現在の新幕)から東北に向って、朝鮮の脊梁山脈を越えて元山近くの安辺に出て、海
に沿った平野地帯を北上して永興府まで行くと、町の入口に永興の朝鮮役人の立てた高札があった。
これを家臣・美濃金太夫に読ませると、国王李昖(りえん)は明国に退き、王子兄弟はここから奥にお通りとい
う意味の文章であったという。
国王や王子らが無時避難したことを民に知らせて、その心を安定させるものであったのでしょう。
「追いつめて2王子を生け捕りにいたそう」
と、清正が勇躍したところ、鍋島直茂は
「異国の者の腹は奥深うござる。われらを切所に誘い込んで討ちとろうとのはかりごとであるやも知れぬ。また
われらが勢は、この暑熱に16日も押してまいり、人馬とも疲れ果てている。ここは兵糧なども多量にござれば、
暫く頭留して漢城への注進あって、指図次第で漢城へ引き取ることにいたそうではござらんか。」
と反対した。
清正は
「この高札を高麗人どもが立てたと思いでござるか、われらはさようには思わず、ひとえに天照大神・八幡大菩
薩の示現と覚える。されば神慮にまかせて追い掛けて、王子らを生け捕りにいたさん。鍋島殿はここにてお待
ちあれ」
といい、現地の役人を案内者として先に立て、手勢8千人を率いて、空けても暮れても東北方に向って進み、
途中、海汀倉(かいていそう)で朝鮮軍を撃破し、満州国境に近い会寧府で2王子に追及して捕らえた。
永興府で鍋島直茂に分かれてから52日目であった。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:小早川秀秋の裏切り
関ヶ原の戦いで、小西行長の部隊は東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦して奮戦しています。
しかし、小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継隊が壊滅すると、続いて小西隊・宇喜多隊も崩れ、行長は伊吹山中に逃れています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
【加藤清正】 その24
『小西行長と加藤清正』
現在の私たちは、戦争に懲りて和平を良しとし、主戦を悪しとする気風がありますが、歴史上のことは今日的
な考えで判断する訳にもいかないところがあると思われます。
行長は和平を望むあまりに秀吉を欺き、朝鮮側に対して秀吉の意志を割り引いて伝えていること、後の和議
のため、明の使者が日本に来た時も秀吉が提出した条件を正しく明側に伝えず、明側の提出した条件を極め
てごまかして秀吉に伝えていなかったという。
小西行長(1558-1600年)

この和議は、はじめは行長が朝鮮側に説いいますが、これを説くにあたって、行長は
「日本の諸大名は、みな外戦を欲していない。太閤が躍起になっているので、皆やむなく追従しているに過ぎ
ない。内心には戦いを望んでいない」
と言ったという。
和議を持ち出せば必ず成立する可能性のあることを言わなければ、相手が話に乗ってこないと考えてのこと
でしょうが、戦争は継続中であることから、自国軍の秘密というより弱点を敵側に漏らすことの善悪は明確な
ところです。
秀吉の外征が暴挙であることは言うまでもないことですが、このこととは別のことです。
これは最初の朝鮮役の時の話ですが、2度目の役の時には行長はもっと酷いことをしているという。
日本軍は海上の不安のため食糧の用意が乏しいから、民を山に逃げこませ食糧を隠匿し、食糧の調達を出
来ぬようせよと教えたという。
もし、これが本当のことであれば、行長は始終一貫して和平主義を堅持して努力を続けた志は大いに評価で
きるが、そこには越えてはならない域がある筈です。
彼には、その越えてはならない域の分別がなかったのです。
この行長に対して、清正は常に真面目に秀吉の意を奉じ、その実現に努力している。
清正は愚鈍に近い人間とも思えるところがありますが、その純忠で誠実な魂は評価しなければならないところ
だと思われます。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:黒田節
母里友信の画像が黒田節の姿たっだですね。
「黒田節」に謡われる名槍「日本号」は、母里友信が福島正則から呑み獲った逸話でも知られる唄です。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
現在の私たちは、戦争に懲りて和平を良しとし、主戦を悪しとする気風がありますが、歴史上のことは今日的
な考えで判断する訳にもいかないところがあると思われます。
行長は和平を望むあまりに秀吉を欺き、朝鮮側に対して秀吉の意志を割り引いて伝えていること、後の和議
のため、明の使者が日本に来た時も秀吉が提出した条件を正しく明側に伝えず、明側の提出した条件を極め
てごまかして秀吉に伝えていなかったという。
小西行長(1558-1600年)

この和議は、はじめは行長が朝鮮側に説いいますが、これを説くにあたって、行長は
「日本の諸大名は、みな外戦を欲していない。太閤が躍起になっているので、皆やむなく追従しているに過ぎ
ない。内心には戦いを望んでいない」
と言ったという。
和議を持ち出せば必ず成立する可能性のあることを言わなければ、相手が話に乗ってこないと考えてのこと
でしょうが、戦争は継続中であることから、自国軍の秘密というより弱点を敵側に漏らすことの善悪は明確な
ところです。
秀吉の外征が暴挙であることは言うまでもないことですが、このこととは別のことです。
これは最初の朝鮮役の時の話ですが、2度目の役の時には行長はもっと酷いことをしているという。
日本軍は海上の不安のため食糧の用意が乏しいから、民を山に逃げこませ食糧を隠匿し、食糧の調達を出
来ぬようせよと教えたという。
もし、これが本当のことであれば、行長は始終一貫して和平主義を堅持して努力を続けた志は大いに評価で
きるが、そこには越えてはならない域がある筈です。
彼には、その越えてはならない域の分別がなかったのです。
この行長に対して、清正は常に真面目に秀吉の意を奉じ、その実現に努力している。
清正は愚鈍に近い人間とも思えるところがありますが、その純忠で誠実な魂は評価しなければならないところ
だと思われます。
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『戦国クイズ』
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正解:黒田節
母里友信の画像が黒田節の姿たっだですね。
「黒田節」に謡われる名槍「日本号」は、母里友信が福島正則から呑み獲った逸話でも知られる唄です。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
『黒田官兵衛』 その6
『母里万助(友信)と栗山善助(利安)』
1568年の年の春、官兵衛の夫人が姫路城で男の子を産んでいます。
幼名は松寿、後の長政です。
この翌年、母里(もり)万助が小生として奉公に上がっている。
後に黒田家の勇士として天下に武勇の名をはせ、なかでも日本号の槍を福島正則から飲み取ったという有名
な母里友信(太兵衛)です。
母里友信(太兵衛)(1556-1615年)

万助はこの時14歳。
官兵衛は万助を召し使うようになってから、万助の様子を観察していると、途方もない乱暴者で、気の荒いこと
一通りではない。
しかし、大竹を打ち割ったような気性と誠実さは頼もしかった。
そこで、栗山善助と万助を呼んで
「その方どもは、ともに誠実でおれも頼もしく思っている。しかしながら、善助は分別者、万助は無分別者だ。
ついては、両人兄弟の契約を結べ。善助は年長であれば兄となって万助をよく導き、万助は弟となって何事に
よらず善助の訓戒をきいて、決して違背せぬようにせい」
と、言い、2人に起請文2通ずつ書かせて、1通を互いに取り交わさせ、1通は、「おれが貰っておく」
と言って、自らも納めた。
母里は成人の後も幼時の性質が直らず、生涯乱暴で直情径行で、誰に向かっても言いたいままのことを言い、
したいままに振る舞って、晩年になってからまでも一旦言い出したことは絶対に曲げず、主人の長政さえ手こ
ずるほどであったが、栗山に対してだけは終生従順であったという。
それは少年時のこの契約のためであったのでしょうか。
この時、官兵衛24歳、栗山19歳、母里14歳のそれぞれ5つ違いであった。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:帝釈栗毛
清正の愛馬は、帝釈栗毛(たいしゃくくりげ)です。
帝釈とは仏教の守護神帝釈天のことで、体高は六尺三寸あったという巨大な馬だったそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
1568年の年の春、官兵衛の夫人が姫路城で男の子を産んでいます。
幼名は松寿、後の長政です。
この翌年、母里(もり)万助が小生として奉公に上がっている。
後に黒田家の勇士として天下に武勇の名をはせ、なかでも日本号の槍を福島正則から飲み取ったという有名
な母里友信(太兵衛)です。
母里友信(太兵衛)(1556-1615年)

万助はこの時14歳。
官兵衛は万助を召し使うようになってから、万助の様子を観察していると、途方もない乱暴者で、気の荒いこと
一通りではない。
しかし、大竹を打ち割ったような気性と誠実さは頼もしかった。
そこで、栗山善助と万助を呼んで
「その方どもは、ともに誠実でおれも頼もしく思っている。しかしながら、善助は分別者、万助は無分別者だ。
ついては、両人兄弟の契約を結べ。善助は年長であれば兄となって万助をよく導き、万助は弟となって何事に
よらず善助の訓戒をきいて、決して違背せぬようにせい」
と、言い、2人に起請文2通ずつ書かせて、1通を互いに取り交わさせ、1通は、「おれが貰っておく」
と言って、自らも納めた。
母里は成人の後も幼時の性質が直らず、生涯乱暴で直情径行で、誰に向かっても言いたいままのことを言い、
したいままに振る舞って、晩年になってからまでも一旦言い出したことは絶対に曲げず、主人の長政さえ手こ
ずるほどであったが、栗山に対してだけは終生従順であったという。
それは少年時のこの契約のためであったのでしょうか。
この時、官兵衛24歳、栗山19歳、母里14歳のそれぞれ5つ違いであった。
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正解:帝釈栗毛
清正の愛馬は、帝釈栗毛(たいしゃくくりげ)です。
帝釈とは仏教の守護神帝釈天のことで、体高は六尺三寸あったという巨大な馬だったそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
【加藤清正】 その23
『秀吉の方針に従う清正』
伝わる話として、小西行長や宗義智も清正と同じく壱岐の風本に停泊して風待ちをしていたが、2人は度々
朝鮮に渡り海路を熟知していたので、風が小止みした夜に密かに抜け出して朝鮮に向ったという。
夜が明けて清正はこれを知り
「出しぬきおった!」
と激怒して船を出したが風波が強く、吹き戻され益々怒ったという。
清正と行長の朝鮮侵攻

こうした話が甫庵太閤記などの書物に書き残されていることは、清正が行長に怒ったことが何かあったので
しょう。
行長は戦闘を始めるなら、第2軍の清正に連絡して始めるべきであるのでしょうが、それをせず、始めるや
グングン奥地へ進んでいったので、出し抜かれたと怒ったのでないでしょうか。
行長としては秀吉をごまかさなければならないから、出来るだけ戦線を奥地深く進めておく必要もあったこと、
また、清正とはかねてから不和であったから意識して連絡をしなかったのなら、清正の怒りも道理であったと
思います。
この後、清正と小西の仲は一層悪くなり、ことごとに競い合い、いがみ合っていますが、その最も対照的であ
ったのは、小西が始終一貫して和平主義であったのに対して、清正は始終一貫して秀吉の方針に最も忠実
であったことでしょう。
当初においては、清正は主戦主義であり、明国まで攻め入ることを真面目に考えており、途中、秀吉が和平
を考えるようになると、彼もまた和平を考えるようになっていますが、その和平はあくまで秀吉の意志に沿って
のことであり、和平になりさえすればどんな不利な条件でも構わないという小西とは鋭く対立していたという。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:5万人
ルイス・フロイスらが情報収集した日本兵の数は5万人。
死因については「敵によって殺された者はわずかで、大部分の者は、労苦、飢餓、寒気、および疾病によって死亡したのである」と記しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
伝わる話として、小西行長や宗義智も清正と同じく壱岐の風本に停泊して風待ちをしていたが、2人は度々
朝鮮に渡り海路を熟知していたので、風が小止みした夜に密かに抜け出して朝鮮に向ったという。
夜が明けて清正はこれを知り
「出しぬきおった!」
と激怒して船を出したが風波が強く、吹き戻され益々怒ったという。
清正と行長の朝鮮侵攻

こうした話が甫庵太閤記などの書物に書き残されていることは、清正が行長に怒ったことが何かあったので
しょう。
行長は戦闘を始めるなら、第2軍の清正に連絡して始めるべきであるのでしょうが、それをせず、始めるや
グングン奥地へ進んでいったので、出し抜かれたと怒ったのでないでしょうか。
行長としては秀吉をごまかさなければならないから、出来るだけ戦線を奥地深く進めておく必要もあったこと、
また、清正とはかねてから不和であったから意識して連絡をしなかったのなら、清正の怒りも道理であったと
思います。
この後、清正と小西の仲は一層悪くなり、ことごとに競い合い、いがみ合っていますが、その最も対照的であ
ったのは、小西が始終一貫して和平主義であったのに対して、清正は始終一貫して秀吉の方針に最も忠実
であったことでしょう。
当初においては、清正は主戦主義であり、明国まで攻め入ることを真面目に考えており、途中、秀吉が和平
を考えるようになると、彼もまた和平を考えるようになっていますが、その和平はあくまで秀吉の意志に沿って
のことであり、和平になりさえすればどんな不利な条件でも構わないという小西とは鋭く対立していたという。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:5万人
ルイス・フロイスらが情報収集した日本兵の数は5万人。
死因については「敵によって殺された者はわずかで、大部分の者は、労苦、飢餓、寒気、および疾病によって死亡したのである」と記しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>