遠江国 「小山城」
『遠江国 小山城』
今川氏を倒した武田氏により、1571年築城され諏訪原城と共に大井川西方の防衛ラインを形成し、高天神城
攻略の為の拠点となった城です。
1582年、甲州征伐のため駿河・甲斐に向け出陣した徳川家康の攻撃を受け落城しています。

<画像はクリックで拡大します>
信玄後期~勝頼期の平山城の特徴である、台地の突端部を利用し戦闘正面を限定させる構造となっている。
甲州流築城術の特徴である丸馬出し・三日月堀を持ち、この三日月堀は三重の堀となっています。
平山城ですから上りますけど、雰囲気がいいです。

三日月堀

現在は能満寺山公園として整備が進み、過去に天守閣が存在した事実はありませんが、物見台があったといわれ
る三の丸跡に犬山城天守をモデルにした模擬天守「展望台小山城」が設けられています。
模擬天守

犬山城の雰囲気ありますね

田中城で家康公を感じることができなかったので、この後、駿府城へ向いました。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。
広い駐車場に、車が一台も止まっていなかったので、車の写真まで撮ってしまいました。
誕生日をナンバーにしております。みなさんも如何ですか。

今川氏を倒した武田氏により、1571年築城され諏訪原城と共に大井川西方の防衛ラインを形成し、高天神城
攻略の為の拠点となった城です。
1582年、甲州征伐のため駿河・甲斐に向け出陣した徳川家康の攻撃を受け落城しています。

<画像はクリックで拡大します>
信玄後期~勝頼期の平山城の特徴である、台地の突端部を利用し戦闘正面を限定させる構造となっている。
甲州流築城術の特徴である丸馬出し・三日月堀を持ち、この三日月堀は三重の堀となっています。
平山城ですから上りますけど、雰囲気がいいです。

三日月堀

現在は能満寺山公園として整備が進み、過去に天守閣が存在した事実はありませんが、物見台があったといわれ
る三の丸跡に犬山城天守をモデルにした模擬天守「展望台小山城」が設けられています。
模擬天守

犬山城の雰囲気ありますね

田中城で家康公を感じることができなかったので、この後、駿府城へ向いました。
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広い駐車場に、車が一台も止まっていなかったので、車の写真まで撮ってしまいました。
誕生日をナンバーにしております。みなさんも如何ですか。

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家康さんが鯛の天ぷらを食べた 「田中城」
『家康さんが鯛の天ぷら食べて死んじゃった「田中城」』
プロ友の「「みゅったさん」」が、以前、登城された記事を見て「行ってみたい!」と思っていた田中城に、御殿場
の雪解けを待って行ってきました。
この城は、家康さんの死因とも言われている「鯛の天ぷらを食した場所」で有名ですが、本丸を中心に、直径約
600mの同心円状に3重に堀を巡らす珍しい構造を持つ城でも有名です。

本丸及び二の丸跡には西益津小学校が、三の丸には西益津中学校がそれぞれ建ち、遺構の保存状況は良く
ないですが、一部の水堀及び石垣が残っています。
西益津小学校前の碑 (登城日:平成26年2月22日)

現在、本丸にあったという2層2階の物見櫓が田中城下屋敷に移設され、下屋敷が整備されています。

整備された公園には、櫓以外にも建物が移築されています。

この公園には、家康公のお手植えの「みかん」もありましたが、駿府城のみかんと違いささやかなみかんの木
でしたので、きれいに咲いた梅をバチリと・・・。

遺構として、堀の一部が残っているようですが、道路が狭いので断念したした。
この後は、「みゅったさん」と同じように「小山城」に向かいました。
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の雪解けを待って行ってきました。
この城は、家康さんの死因とも言われている「鯛の天ぷらを食した場所」で有名ですが、本丸を中心に、直径約
600mの同心円状に3重に堀を巡らす珍しい構造を持つ城でも有名です。

本丸及び二の丸跡には西益津小学校が、三の丸には西益津中学校がそれぞれ建ち、遺構の保存状況は良く
ないですが、一部の水堀及び石垣が残っています。
西益津小学校前の碑 (登城日:平成26年2月22日)

現在、本丸にあったという2層2階の物見櫓が田中城下屋敷に移設され、下屋敷が整備されています。

整備された公園には、櫓以外にも建物が移築されています。


この公園には、家康公のお手植えの「みかん」もありましたが、駿府城のみかんと違いささやかなみかんの木
でしたので、きれいに咲いた梅をバチリと・・・。

遺構として、堀の一部が残っているようですが、道路が狭いので断念したした。
この後は、「みゅったさん」と同じように「小山城」に向かいました。
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いつもありがとうございます。

piglet 6歳の誕生日
『piglet 6歳になりました』
お陰さまで、2月22日にpigletが6歳の誕生日を迎えることができました。
pigletは大した病気もなく、健康にこの6年を過ごしてくれています。

ブリーダさんから生後2週間で、我が家にやって来た頃のpigletです。

小さい頃から牧草を食べないうさぎで、昨年の春から4週に一度、伸び続ける奥歯のカットに通院しています。
新しくなった車にも、このステッカーです。

いつもは後部座席で、まったりくつろいでいるのですが、自分の臭いがないのか、ケージから出てくることも
なく、こういう状態で病院に到着です。

病院から帰ったら、誕生日お祝いのおやつがいっぱい届いていたので、皆でおやつのバイキングでした。

通院している病院の院長さんは、うさぎ界では有名な女医さんですが、いつも「いい顔しているけど、
オッヤンやなぁ~」が口癖です。
7歳、8歳と、いつまでも一緒にいてくれることを期待しながら、6歳を楽しんでくれることを願っています。
ランキングに参加しています

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お陰さまで、2月22日にpigletが6歳の誕生日を迎えることができました。
pigletは大した病気もなく、健康にこの6年を過ごしてくれています。

ブリーダさんから生後2週間で、我が家にやって来た頃のpigletです。

小さい頃から牧草を食べないうさぎで、昨年の春から4週に一度、伸び続ける奥歯のカットに通院しています。
新しくなった車にも、このステッカーです。

いつもは後部座席で、まったりくつろいでいるのですが、自分の臭いがないのか、ケージから出てくることも
なく、こういう状態で病院に到着です。

病院から帰ったら、誕生日お祝いのおやつがいっぱい届いていたので、皆でおやつのバイキングでした。

通院している病院の院長さんは、うさぎ界では有名な女医さんですが、いつも「いい顔しているけど、
オッヤンやなぁ~」が口癖です。
7歳、8歳と、いつまでも一緒にいてくれることを期待しながら、6歳を楽しんでくれることを願っています。
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『黒田官兵衛』 その11
『秀吉からの手紙』
豪族らが毛利家に心を動かす者が多くなると、この形勢が様々の流言となって信長の耳にも達した。
すると、信長は持ち前の猜疑心はムクムクと頭を持ち上げる。
誰を疑い、彼を疑い、官兵衛に対しても疑いを抱くようになった。
信長のこの疑い深さは用心深さということにもなるのだから、あながち欠点とばかりはいえませんが、覚えのな
い身で疑われる人間にとっては迷惑千万であった。
「かのようなことになるのも、御軍勢を遣わされぬからだ。軍勢を遣わされ、経略に着手さえすれば、いざこざは
一切収まるのだ」
豊臣秀吉(1537-1598年)

1577年夏、官兵衛は安土に行き、信長の臣で与力の一人として秀吉の付属させられている富田平右衛門を
招いてこれと会い、播州の形勢を説明し、何事も軍を繰り出していただくことだ。延びれば、延びるほど事情は
困難になるばかりであると説いて帰国し、その後も度々、秀吉に手紙を出して、播州下向をうながした。
この頃の手紙に、こんな文句があります。
「その方の儀は、われら弟の小一郎めどうぜん(同然)に心やすく存じ候」
小一郎とは、秀吉の実弟・秀長のことです。後に大和大納言になった人物です。
「なに事をみなみな申すとも、その方ぢきだん(直談)の(を)もて、ぜし(是非)は御(おん)さばきあるべく候」
誰がどんなことを言って中傷しても、そなたはわしに直談して確かめた上で真偽を決定して欲しいの意味。
「われにくみ申す物は、其の方までくみ申すことあるべく候。其心へ(得)候て、やうじんをあるべく候」
わしに悪意を抱く者は、そなたに対しても悪意を抱くこともあろうから、そのつもりで用心すべきであるの意味。
秀吉という人は手紙上手で、十分な技巧がありながら、素朴で卑俗なことば使いとやたらに多く、また、誤字が
かえって人の心をぴたりと捉えるところが神業なのです。
いくら秀吉が技巧派であっても、技巧や演出でここまで書ける筈はなく、官兵衛に対して十分以上の信頼があっ
たので、この文章になったのでしょう。
まだ若い官兵衛は感激したことは間違いないことでしょう。
この時、官兵衛32歳。秀吉は10歳年上の42歳であった。
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いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:高田城
天下普請とは、江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事のこと。なかでも城郭普請が有名です。
高田城は、徳川家康の6男・松平忠輝の居城として天下普請によって造られ、城地の縄張りと工事の総監督は忠輝の舅の伊達政宗が勤めています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
豪族らが毛利家に心を動かす者が多くなると、この形勢が様々の流言となって信長の耳にも達した。
すると、信長は持ち前の猜疑心はムクムクと頭を持ち上げる。
誰を疑い、彼を疑い、官兵衛に対しても疑いを抱くようになった。
信長のこの疑い深さは用心深さということにもなるのだから、あながち欠点とばかりはいえませんが、覚えのな
い身で疑われる人間にとっては迷惑千万であった。
「かのようなことになるのも、御軍勢を遣わされぬからだ。軍勢を遣わされ、経略に着手さえすれば、いざこざは
一切収まるのだ」
豊臣秀吉(1537-1598年)

1577年夏、官兵衛は安土に行き、信長の臣で与力の一人として秀吉の付属させられている富田平右衛門を
招いてこれと会い、播州の形勢を説明し、何事も軍を繰り出していただくことだ。延びれば、延びるほど事情は
困難になるばかりであると説いて帰国し、その後も度々、秀吉に手紙を出して、播州下向をうながした。
この頃の手紙に、こんな文句があります。
「その方の儀は、われら弟の小一郎めどうぜん(同然)に心やすく存じ候」
小一郎とは、秀吉の実弟・秀長のことです。後に大和大納言になった人物です。
「なに事をみなみな申すとも、その方ぢきだん(直談)の(を)もて、ぜし(是非)は御(おん)さばきあるべく候」
誰がどんなことを言って中傷しても、そなたはわしに直談して確かめた上で真偽を決定して欲しいの意味。
「われにくみ申す物は、其の方までくみ申すことあるべく候。其心へ(得)候て、やうじんをあるべく候」
わしに悪意を抱く者は、そなたに対しても悪意を抱くこともあろうから、そのつもりで用心すべきであるの意味。
秀吉という人は手紙上手で、十分な技巧がありながら、素朴で卑俗なことば使いとやたらに多く、また、誤字が
かえって人の心をぴたりと捉えるところが神業なのです。
いくら秀吉が技巧派であっても、技巧や演出でここまで書ける筈はなく、官兵衛に対して十分以上の信頼があっ
たので、この文章になったのでしょう。
まだ若い官兵衛は感激したことは間違いないことでしょう。
この時、官兵衛32歳。秀吉は10歳年上の42歳であった。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:高田城
天下普請とは、江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事のこと。なかでも城郭普請が有名です。
高田城は、徳川家康の6男・松平忠輝の居城として天下普請によって造られ、城地の縄張りと工事の総監督は忠輝の舅の伊達政宗が勤めています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
【加藤清正】 その39
『清正の忠義心』
清正は豊臣家に対する恩義はいささかも忘れはしないが、家の安泰ということにも神経質なまでに気を配って
いる。
江戸に広大な邸宅を営んだというのもそれです。
諸大名が江戸に広大豪華な邸宅を営むことは、徳川家に対していつまでも奉公しようとの心の表れと見て、徳
川家は喜んだので諸大名はみな邸宅経営を競ったが、清正の邸宅の見事さは当時の人々を驚かしたという。
彼の屋敷は三宅坂の現最高裁のところにあったが、玄関から表の間は全部金箔で、外周りの総長屋の軒周り
の丸瓦には金の桔梗の紋所が打ってあり、夜中でも光って見えたという。
清正の井戸(明治神宮)

また、その門は矢倉門で桁行10間余りあり、子馬ほど虎(サイとも)5匹の彫り物されて金が塗ってあったが、
それが朝日に輝いて品川沖に反射して、漁が恐れて近づかず漁師が困ったという。
名古屋城を家康が営んだ時、家康はこれを外様大名の手伝い普請にした。当時やたらに城の手伝い普請が
多かったので、直情径行の福島正則は、池田輝政が家康の娘婿であるので、不平を言った。
「こう毎年お手伝いを仰せつけられては、費用も労力も、かなわん。おとこは大御所の婿じゃ、ちと申し上げ欲
しいの」
清正はヒゲをかきなでながら、正則をたしなめた。
「これこれ、気をつけて口をきけい。そんなにお手伝いが嫌なら、国に帰って謀反の企てでもするがよいぞ」
正則はハッとして口をつぐんだという。
清正が特に申し出てこの城の天守閣を一手請負にしているのも、石引き上の巨石に自ら伊達な装束をし、片鎌
槍を杖づいて立ち、花のように着飾らした美少年を左右に数人並び立たせ、大音声に木やりを唄って引かせた
ので、人々が群集して市のように賑わったというのも、皆その狙いは一つ、徳川家の機嫌を取るためであった。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:豊臣秀頼を匿うため
熊本城本丸御殿の「昭君之間」は、豊臣家の有事に際し秀吉の子秀頼を密かに匿うために造られた部屋であるといわれ、表面上は天下人の徳川家康に恭順しながらも、秀吉への恩を忘れない清正の忠義を示しているのでしょう。
実際は藩主の居間に使われていたようです。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
清正は豊臣家に対する恩義はいささかも忘れはしないが、家の安泰ということにも神経質なまでに気を配って
いる。
江戸に広大な邸宅を営んだというのもそれです。
諸大名が江戸に広大豪華な邸宅を営むことは、徳川家に対していつまでも奉公しようとの心の表れと見て、徳
川家は喜んだので諸大名はみな邸宅経営を競ったが、清正の邸宅の見事さは当時の人々を驚かしたという。
彼の屋敷は三宅坂の現最高裁のところにあったが、玄関から表の間は全部金箔で、外周りの総長屋の軒周り
の丸瓦には金の桔梗の紋所が打ってあり、夜中でも光って見えたという。
清正の井戸(明治神宮)

また、その門は矢倉門で桁行10間余りあり、子馬ほど虎(サイとも)5匹の彫り物されて金が塗ってあったが、
それが朝日に輝いて品川沖に反射して、漁が恐れて近づかず漁師が困ったという。
名古屋城を家康が営んだ時、家康はこれを外様大名の手伝い普請にした。当時やたらに城の手伝い普請が
多かったので、直情径行の福島正則は、池田輝政が家康の娘婿であるので、不平を言った。
「こう毎年お手伝いを仰せつけられては、費用も労力も、かなわん。おとこは大御所の婿じゃ、ちと申し上げ欲
しいの」
清正はヒゲをかきなでながら、正則をたしなめた。
「これこれ、気をつけて口をきけい。そんなにお手伝いが嫌なら、国に帰って謀反の企てでもするがよいぞ」
正則はハッとして口をつぐんだという。
清正が特に申し出てこの城の天守閣を一手請負にしているのも、石引き上の巨石に自ら伊達な装束をし、片鎌
槍を杖づいて立ち、花のように着飾らした美少年を左右に数人並び立たせ、大音声に木やりを唄って引かせた
ので、人々が群集して市のように賑わったというのも、皆その狙いは一つ、徳川家の機嫌を取るためであった。
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≪前回の解答≫
正解:豊臣秀頼を匿うため
熊本城本丸御殿の「昭君之間」は、豊臣家の有事に際し秀吉の子秀頼を密かに匿うために造られた部屋であるといわれ、表面上は天下人の徳川家康に恭順しながらも、秀吉への恩を忘れない清正の忠義を示しているのでしょう。
実際は藩主の居間に使われていたようです。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
【加藤清正】 その38
『清正、没する』
秀頼が上洛してから3ヵ月目の6月24日、清正は熊本で没した。
秀頼が二条城で家康に謁見した翌々月の下旬に熊本に下ったが、途中、船上で病気になり熊本に帰り着いて
2、3日もすると舌も不自由になり、次第に重くなって死んだという。
本妙寺清正公像

当代記(1622~1642年に成立した記録資料:信憑性は不確な部分が多いという)では清正の死は、ひとえ
に好色の故、虚(きょ)の病だと記している。
虚の病とは腎虚のことです。
しかし、清正の死因については、唐瘡(梅毒)説や家康またはその一派による毒殺説などもあります。
清正の死から2年後の1613年、豊臣氏恩顧の最有力大名であった浅野幸長も同じく花柳病で死去している。
清正・幸長の両名は豊臣氏恩顧の有力大名として家康から警戒されていたのは事実であり、その両名が同じ
病気でしかも急死したため、家康による毒殺ではないかとの憶測もあり、池波正太郎氏の「火の国の城」では、
根強い毒殺説を題材とした小説になっています。
また死因は瘡(癩病、ハンセン病)であったとする説もあり、罹患者の多かった時代には清正を祀る加藤神社
に平癒を願う参詣者が多かったという。
清正公の遺骸は甲冑の武装のまま石棺に朱詰めにされ、熊本城の西北にある本妙寺にある清正公像の真下
に埋葬されているそうです。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:家康が京に滞在する時の宿所
現在の二条城は、徳川家康が京に滞在中の宿所として造った城で、1603年に完成しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
秀頼が上洛してから3ヵ月目の6月24日、清正は熊本で没した。
秀頼が二条城で家康に謁見した翌々月の下旬に熊本に下ったが、途中、船上で病気になり熊本に帰り着いて
2、3日もすると舌も不自由になり、次第に重くなって死んだという。
本妙寺清正公像

当代記(1622~1642年に成立した記録資料:信憑性は不確な部分が多いという)では清正の死は、ひとえ
に好色の故、虚(きょ)の病だと記している。
虚の病とは腎虚のことです。
しかし、清正の死因については、唐瘡(梅毒)説や家康またはその一派による毒殺説などもあります。
清正の死から2年後の1613年、豊臣氏恩顧の最有力大名であった浅野幸長も同じく花柳病で死去している。
清正・幸長の両名は豊臣氏恩顧の有力大名として家康から警戒されていたのは事実であり、その両名が同じ
病気でしかも急死したため、家康による毒殺ではないかとの憶測もあり、池波正太郎氏の「火の国の城」では、
根強い毒殺説を題材とした小説になっています。
また死因は瘡(癩病、ハンセン病)であったとする説もあり、罹患者の多かった時代には清正を祀る加藤神社
に平癒を願う参詣者が多かったという。
清正公の遺骸は甲冑の武装のまま石棺に朱詰めにされ、熊本城の西北にある本妙寺にある清正公像の真下
に埋葬されているそうです。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:家康が京に滞在する時の宿所
現在の二条城は、徳川家康が京に滞在中の宿所として造った城で、1603年に完成しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
【加藤清正】 その37
『秀頼の上洛』
1611年3月、家康は上洛して二条城に入り、織田有楽斎を通じて秀頼の上洛を促した。
秀頼はこの年に19歳になっています。
家康としてはこれによって成人した秀頼の徳川に対する気持ちを打診する気持ちがあったでしょうし、もし応じ
なければ、これを口実にして武力に訴える気持ちであったのでしょう。
二条城 (二条城登城記は「こちら」です。)

大坂の陣のわずか3年前のことです。
老さき短い家康としては、目の玉の黒いうちに豊臣家を何とかしておきたい気持ちがあったと考えたほうが自
然です。
もちろん豊臣家としては、かつては江戸の爺(じい)と言っていた家康に呼びつけられて上洛することは、格式
を落とすようでしたくない。
秀頼もそうであったでしょうが、淀殿は、なおそうであったのでしょう。
当時の後家さん(未亡人)は頑固なもので、現実の情勢がどんなに変化しようと、法律的に認められている権
利は少しも失いまいとし、おやじの生きていたこの頃の格式は一分も落とすまいとするのが常であったという。
豊臣家の悲惨な最期は、淀殿という後家さんが家の主宰者であったところに最も大きな原因があるともいいま
すが、どうなのでしょう。
秀頼だけであったなら、天下は実力のある者の天下であるべきで、天下取りの息子だというだけの理由で、実
力のない自分ごときはダメだということを理解し、早々と大坂城を明け渡し、どこかに5、60万石の領地を貰っ
て引き移ることも考えただろうし、そうすれば、あの悲惨な最期はなかった筈です。
豊臣家では上洛することを不見識として、なかなか煮え切らなかったが、これを危険とみて清正は福島正則や
浅野幸長と説得して、ついに上洛させる運びにした。
この時、3人は相談して、福島は万一の時の用心に病気と称して大坂に留守居し、清正と浅野が秀頼の乗物
の両側に徒歩で従った。
清正は土分の者5百人を小者のいでたちをさせ京都と伏見の町に潜伏させ、自らは二条城では丸腰にならな
ければならないので、懐に短刀を秘めていたという。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:三河一向一揆
本田正信は、1563年、三河一向一揆が起こると、一揆方の武将として家康に敵対し、一揆衆が家康によって鎮圧されると、徳川氏を出奔して大和の松永久秀に仕えています。
久秀には重用されたようですが、やがて久秀のもとを去って諸国を流浪しています。
流浪の間、正信がどこで何をしていたのかは定かではありませんが、旧知の大久保忠世を通じて家康への帰参を嘆願し、忠世のとりなしによっ再び徳川氏に帰参しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
1611年3月、家康は上洛して二条城に入り、織田有楽斎を通じて秀頼の上洛を促した。
秀頼はこの年に19歳になっています。
家康としてはこれによって成人した秀頼の徳川に対する気持ちを打診する気持ちがあったでしょうし、もし応じ
なければ、これを口実にして武力に訴える気持ちであったのでしょう。
二条城 (二条城登城記は「こちら」です。)

大坂の陣のわずか3年前のことです。
老さき短い家康としては、目の玉の黒いうちに豊臣家を何とかしておきたい気持ちがあったと考えたほうが自
然です。
もちろん豊臣家としては、かつては江戸の爺(じい)と言っていた家康に呼びつけられて上洛することは、格式
を落とすようでしたくない。
秀頼もそうであったでしょうが、淀殿は、なおそうであったのでしょう。
当時の後家さん(未亡人)は頑固なもので、現実の情勢がどんなに変化しようと、法律的に認められている権
利は少しも失いまいとし、おやじの生きていたこの頃の格式は一分も落とすまいとするのが常であったという。
豊臣家の悲惨な最期は、淀殿という後家さんが家の主宰者であったところに最も大きな原因があるともいいま
すが、どうなのでしょう。
秀頼だけであったなら、天下は実力のある者の天下であるべきで、天下取りの息子だというだけの理由で、実
力のない自分ごときはダメだということを理解し、早々と大坂城を明け渡し、どこかに5、60万石の領地を貰っ
て引き移ることも考えただろうし、そうすれば、あの悲惨な最期はなかった筈です。
豊臣家では上洛することを不見識として、なかなか煮え切らなかったが、これを危険とみて清正は福島正則や
浅野幸長と説得して、ついに上洛させる運びにした。
この時、3人は相談して、福島は万一の時の用心に病気と称して大坂に留守居し、清正と浅野が秀頼の乗物
の両側に徒歩で従った。
清正は土分の者5百人を小者のいでたちをさせ京都と伏見の町に潜伏させ、自らは二条城では丸腰にならな
ければならないので、懐に短刀を秘めていたという。
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正解:三河一向一揆
本田正信は、1563年、三河一向一揆が起こると、一揆方の武将として家康に敵対し、一揆衆が家康によって鎮圧されると、徳川氏を出奔して大和の松永久秀に仕えています。
久秀には重用されたようですが、やがて久秀のもとを去って諸国を流浪しています。
流浪の間、正信がどこで何をしていたのかは定かではありませんが、旧知の大久保忠世を通じて家康への帰参を嘆願し、忠世のとりなしによっ再び徳川氏に帰参しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>