【知将か表裏比興の者か真田昌幸】 その31
『徳川勢の苦戦』
昌幸は次男の幸村と軍勢をまとめて、二の丸の武者だまりで床冗に腰かけ、落ち着き払っていたが、やがて
敵が二の丸近くに攻めかかって来たと知らせがくる。
上田城

兵らは皆、直ぐにも突出しようと勢い立った。
「待て、待て、せくことはない。腹ごしらえしよう」
昌幸は湯壺を持って来させ、幸村と共にゆるゆると喫し、兵士らにも兵糧をつかわせた後、
「どうやらいい潮時じゃ」
と馬を引き寄せて乗り、兵士らに
「今日の戦さ、首は取らんでもよいぞ。唯(ただ)駆り立てよ。よいか。首を取って来ても手柄にはせんぞ」
と言い聞かせておいて、采配を振るって門を開かせ、一斉に大音声をあげさせて突出し、錐(きり)をもみ込む
ように敵中に突入し、縦横に突き立て駆り立てた。
徳川勢とて当時の日本では最強の軍隊です。この前年には秀吉軍を撃破して自信に満ちていたのです。
狼狽しながらも腰をすえて頑張ろうとしたが、先手、先手と出られて散々に苦しめられているうえに、狭い町筋
が密集しているので立ち直りきれないのです。
進退を失っているところに、馬上から昌幸は片手で小旗を振ると、上田北方の山中にある戸石城から嫡子・信
幸が、東北方にある矢沢城から矢沢三十郎が、それぞれ5百人の兵を引き連れて押し出してきて、徳川勢の
後方を切りとろうとする。
徳川方の諸将らは一層あわてながら、兵を分けて後方にも備えを立てようとしたが、その時、昌幸がかねてよ
り千曲川の対岸に伏せておいた郷民2千人余りが大音声を上げ、鉄砲を撃ちかけた。
つるべ撃ち。
徳川勢は側面を炎に吹かれるようであった。
三面の敵に、さすがに堪えられずドッと崩れ立って千曲川の河原に押しだされた。
真田方は勝ちに乗って追撃する。
徳川方の将校級の者がここで討死する者、350余人だったという。
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外出中のため、戦国クイズはお休みさせていただきます。
昌幸は次男の幸村と軍勢をまとめて、二の丸の武者だまりで床冗に腰かけ、落ち着き払っていたが、やがて
敵が二の丸近くに攻めかかって来たと知らせがくる。
上田城

兵らは皆、直ぐにも突出しようと勢い立った。
「待て、待て、せくことはない。腹ごしらえしよう」
昌幸は湯壺を持って来させ、幸村と共にゆるゆると喫し、兵士らにも兵糧をつかわせた後、
「どうやらいい潮時じゃ」
と馬を引き寄せて乗り、兵士らに
「今日の戦さ、首は取らんでもよいぞ。唯(ただ)駆り立てよ。よいか。首を取って来ても手柄にはせんぞ」
と言い聞かせておいて、采配を振るって門を開かせ、一斉に大音声をあげさせて突出し、錐(きり)をもみ込む
ように敵中に突入し、縦横に突き立て駆り立てた。
徳川勢とて当時の日本では最強の軍隊です。この前年には秀吉軍を撃破して自信に満ちていたのです。
狼狽しながらも腰をすえて頑張ろうとしたが、先手、先手と出られて散々に苦しめられているうえに、狭い町筋
が密集しているので立ち直りきれないのです。
進退を失っているところに、馬上から昌幸は片手で小旗を振ると、上田北方の山中にある戸石城から嫡子・信
幸が、東北方にある矢沢城から矢沢三十郎が、それぞれ5百人の兵を引き連れて押し出してきて、徳川勢の
後方を切りとろうとする。
徳川方の諸将らは一層あわてながら、兵を分けて後方にも備えを立てようとしたが、その時、昌幸がかねてよ
り千曲川の対岸に伏せておいた郷民2千人余りが大音声を上げ、鉄砲を撃ちかけた。
つるべ撃ち。
徳川勢は側面を炎に吹かれるようであった。
三面の敵に、さすがに堪えられずドッと崩れ立って千曲川の河原に押しだされた。
真田方は勝ちに乗って追撃する。
徳川方の将校級の者がここで討死する者、350余人だったという。
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幸村終焉の地、安居神社
『日本一の兵(つわもの)』
大阪・天王寺にある安居神社は、1615年の「大阪夏の陣」で敗れた、豊臣軍の将・真田幸村(信繁)は、夏
の陣の最終局面で、徳川家康本隊を追い詰める活躍を見せますが、最後力尽きこの神社の境内にあった
松の木の下で、味方の傷ついた兵士を看病していたところを襲われ、「わしの首を手柄にされよ」と最後の言葉
を言い残し討ち取られという。
安居神社 (大阪市天王寺区逢阪)

近くには夏の陣で幸村が本陣を置いたとされる茶臼山があります。
この夏の陣で真田幸村は徳川軍勢を迎え撃つため、大阪城を出て、今の天王寺の辺りまで南下します。先に
出陣していた後藤又兵衛が真田隊の到着を待たずに、徳川軍に攻め込み討死。
大坂の陣

幸村は家康の本陣まで突き進み、一説には家康を討ち取ったとも言われるほどの戦いをし「日本一の兵」と
敵軍に言わしめたという。
幸村、享年49歳。
戦国無双の幸村はかっこいいですが、この像のような年齢だったのでしょう。
長い九度山での蟄居生活、幸村にとっては大坂の陣に参戦できたことは本望だったのでしょうね。


上田で徳川軍と闘った時の、幸村の像は「こちら」です。
幸村が九度山で蟄居した、真田庵は「こちら」です。
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いつもありがとうございます。
今日の午後から中国・九州へ旅に出ますので、みなさまのブログ訪問と更新ができないこともあると思います。
PCは持参していきますので、できるだけ頑張ってみます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:外堀を埋める
大坂冬の陣の和議和議は、二の丸と三の丸の破却と外堀を埋めることであったが、この城の破却は古来より行われ大抵は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものであった。
しかし、家康さんは徹底的な破壊を実行し、突貫工事で外堀を埋めた後に二の丸も埋め立てて大坂城を裸の城にしています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
大阪・天王寺にある安居神社は、1615年の「大阪夏の陣」で敗れた、豊臣軍の将・真田幸村(信繁)は、夏
の陣の最終局面で、徳川家康本隊を追い詰める活躍を見せますが、最後力尽きこの神社の境内にあった
松の木の下で、味方の傷ついた兵士を看病していたところを襲われ、「わしの首を手柄にされよ」と最後の言葉
を言い残し討ち取られという。
安居神社 (大阪市天王寺区逢阪)


近くには夏の陣で幸村が本陣を置いたとされる茶臼山があります。
この夏の陣で真田幸村は徳川軍勢を迎え撃つため、大阪城を出て、今の天王寺の辺りまで南下します。先に
出陣していた後藤又兵衛が真田隊の到着を待たずに、徳川軍に攻め込み討死。
大坂の陣

幸村は家康の本陣まで突き進み、一説には家康を討ち取ったとも言われるほどの戦いをし「日本一の兵」と
敵軍に言わしめたという。
幸村、享年49歳。
戦国無双の幸村はかっこいいですが、この像のような年齢だったのでしょう。
長い九度山での蟄居生活、幸村にとっては大坂の陣に参戦できたことは本望だったのでしょうね。


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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:外堀を埋める
大坂冬の陣の和議和議は、二の丸と三の丸の破却と外堀を埋めることであったが、この城の破却は古来より行われ大抵は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものであった。
しかし、家康さんは徹底的な破壊を実行し、突貫工事で外堀を埋めた後に二の丸も埋め立てて大坂城を裸の城にしています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
真田の抜け穴
『大坂冬の陣の「真田の抜け穴」』
大坂冬の陣で集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人、著名な浪人として真田幸村(信繁)、
長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登ら5人衆の他にも塙直之、大谷吉治などがいた。
彼らはいずれも関ヶ原の役後に御家取り潰しなどに遭い徳川家への復讐に燃える者、戦乱に乗じて一旗上
げようとする者、豊臣家の再起を願う者、討ち死覚悟で豊臣家への忠義を尽くす者など、それぞれの思惑は
違うが、歴戦の勇士が多く士気も旺盛だったが、いかんせん寄せ集めの烏合の衆に過ぎないため統制がな
かなかとれず、実際の戦闘では作戦に乱れが生じたいたという。
三光神社 (大阪市天王寺区玉造本町)

幸村が造った出丸(真田丸)正面には前田利常率いる兵1万2千の他、南部利直、松倉重政、榊原康勝など
数千、八丁目口・谷町口には、井伊直孝の兵4千、松平忠直の兵1万などが布陣していた。真田丸には幸村
の兵5千、八丁目口・谷町口には木村重成、後藤基次、長宗我部盛親など、兵1万2千以上が配置されていた。
真田の抜け穴

ここ三光神社の境内は真田幸村が大坂冬の陣の際に掘った抜け穴があることでも有名です。
いわゆる真田丸と呼ばれる出丸をこのあたりに築いた真田幸村が、南惣構堀を隔てた大坂城内へ通じる抜け
穴を掘らせたとの伝説です。
幸村ロマンが崩れてしまいますが、この境内は真田丸の中心から数百m離れた地点にあり、実際には真田丸
の外側であったと思われ本当の説として、冬の陣で籠城を決め込んだ大坂方に業を煮やした徳川家康が掘ら
せたものとする説が有力のようです。
現在の抜け穴の入口は「真田の六文銭」文様入りの鉄の扉で閉ざされ、勿論、中に入ることは出来ません。
幸村の像

この真田の抜け穴の横には、昭和62年に幸村の像が建立され、その台座の石は、真田家の菩提寺・信州長野
の長谷寺から取り出したものを運んできているそうです。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:総構え
有岡城は総構えの城であったので、川や運河、堀、塀などで城下町の全体を囲み、城内に百姓、町人の住居などがあった城です。
有岡城は日本最古の総構えの城で、小田原城は巨大な総構え城でした。

≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
大坂冬の陣で集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人、著名な浪人として真田幸村(信繁)、
長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登ら5人衆の他にも塙直之、大谷吉治などがいた。
彼らはいずれも関ヶ原の役後に御家取り潰しなどに遭い徳川家への復讐に燃える者、戦乱に乗じて一旗上
げようとする者、豊臣家の再起を願う者、討ち死覚悟で豊臣家への忠義を尽くす者など、それぞれの思惑は
違うが、歴戦の勇士が多く士気も旺盛だったが、いかんせん寄せ集めの烏合の衆に過ぎないため統制がな
かなかとれず、実際の戦闘では作戦に乱れが生じたいたという。
三光神社 (大阪市天王寺区玉造本町)

幸村が造った出丸(真田丸)正面には前田利常率いる兵1万2千の他、南部利直、松倉重政、榊原康勝など
数千、八丁目口・谷町口には、井伊直孝の兵4千、松平忠直の兵1万などが布陣していた。真田丸には幸村
の兵5千、八丁目口・谷町口には木村重成、後藤基次、長宗我部盛親など、兵1万2千以上が配置されていた。
真田の抜け穴

ここ三光神社の境内は真田幸村が大坂冬の陣の際に掘った抜け穴があることでも有名です。
いわゆる真田丸と呼ばれる出丸をこのあたりに築いた真田幸村が、南惣構堀を隔てた大坂城内へ通じる抜け
穴を掘らせたとの伝説です。
幸村ロマンが崩れてしまいますが、この境内は真田丸の中心から数百m離れた地点にあり、実際には真田丸
の外側であったと思われ本当の説として、冬の陣で籠城を決め込んだ大坂方に業を煮やした徳川家康が掘ら
せたものとする説が有力のようです。
現在の抜け穴の入口は「真田の六文銭」文様入りの鉄の扉で閉ざされ、勿論、中に入ることは出来ません。
幸村の像


この真田の抜け穴の横には、昭和62年に幸村の像が建立され、その台座の石は、真田家の菩提寺・信州長野
の長谷寺から取り出したものを運んできているそうです。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:総構え
有岡城は総構えの城であったので、川や運河、堀、塀などで城下町の全体を囲み、城内に百姓、町人の住居などがあった城です。
有岡城は日本最古の総構えの城で、小田原城は巨大な総構え城でした。

≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
『黒田官兵衛』 その20
『官兵衛の瘡(そう)頭』
官兵衛が投獄された獄舎は有岡城の西北隅にあり、後ろには深いため池があり三方は竹藪に囲まれていた
ので、日の光も差し込まず、いつも陰湿な状態であったという。
官兵衛はここに幽閉されていること満1年、肉落ち、骨枯れ、全身しらみと蚊に食われ、その跡が瘡(かさ)と
なって満身が病んでいた。
この瘡はとりわけ頭と膝がひどく、後に出獄後に治っても頭はジャリハゲになり、膝は曲がったままついに伸
びなかった。
荒木村重(1535-1586年)

後年、秀吉が天下人になってから、官兵衛のことをよく陰で「瘡あたま」とか、「ちんばめ」とか言っていますが、
それはこの為であったのです。
この瘡は梅毒性のものであったといわれますから、安土往来の間に感染したものか、姫路から近い飾磨は古
い港町で、平安朝の昔から遊女屋があった場所ですから、ここで感染したのかも知れません。
それがこの不健康な場所で、不健康な生活をしたため発症したのでしょう。
これほど悲惨な境遇にいながら、官兵衛は荒木の説得をきかず、節を守り通したのです。
超人的な骨のかたさです。彼が単なる才人でないという証なのです。
この苦難の間に、わずかに官兵衛の心を慰めてくれたのは、栗山善助が商人姿に化けて伊丹に来て、密かに
城内に忍び込んで時々訪れてくれることと、城内の竹藪から伸びてきて獄窓にからみついた藤が新芽を出して、
やがて可憐な紫の花房を開いたことであったと伝えます。
幽鬼のようにやせ衰え、苔づいたボロをまとったほう髪苔面の囚人が、日陰の獄窓に花開いた色淡い藤の花
房を見て、自らの運命を諭しながら、かすかに微笑しているさまは、悲痛・悲惨にして苛烈な情景です。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:砥石城
昌幸は嫡男・信幸が上田の支城である砥石城に攻めてくると、信幸に功を挙げさせるためと同族の流血を避けるため、砥石城の守備を担当していた幸村に城を放棄させて上田城に撤退させています
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
官兵衛が投獄された獄舎は有岡城の西北隅にあり、後ろには深いため池があり三方は竹藪に囲まれていた
ので、日の光も差し込まず、いつも陰湿な状態であったという。
官兵衛はここに幽閉されていること満1年、肉落ち、骨枯れ、全身しらみと蚊に食われ、その跡が瘡(かさ)と
なって満身が病んでいた。
この瘡はとりわけ頭と膝がひどく、後に出獄後に治っても頭はジャリハゲになり、膝は曲がったままついに伸
びなかった。
荒木村重(1535-1586年)

後年、秀吉が天下人になってから、官兵衛のことをよく陰で「瘡あたま」とか、「ちんばめ」とか言っていますが、
それはこの為であったのです。
この瘡は梅毒性のものであったといわれますから、安土往来の間に感染したものか、姫路から近い飾磨は古
い港町で、平安朝の昔から遊女屋があった場所ですから、ここで感染したのかも知れません。
それがこの不健康な場所で、不健康な生活をしたため発症したのでしょう。
これほど悲惨な境遇にいながら、官兵衛は荒木の説得をきかず、節を守り通したのです。
超人的な骨のかたさです。彼が単なる才人でないという証なのです。
この苦難の間に、わずかに官兵衛の心を慰めてくれたのは、栗山善助が商人姿に化けて伊丹に来て、密かに
城内に忍び込んで時々訪れてくれることと、城内の竹藪から伸びてきて獄窓にからみついた藤が新芽を出して、
やがて可憐な紫の花房を開いたことであったと伝えます。
幽鬼のようにやせ衰え、苔づいたボロをまとったほう髪苔面の囚人が、日陰の獄窓に花開いた色淡い藤の花
房を見て、自らの運命を諭しながら、かすかに微笑しているさまは、悲痛・悲惨にして苛烈な情景です。
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≪前回の解答≫
正解:砥石城
昌幸は嫡男・信幸が上田の支城である砥石城に攻めてくると、信幸に功を挙げさせるためと同族の流血を避けるため、砥石城の守備を担当していた幸村に城を放棄させて上田城に撤退させています
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
日本百名城 54 大阪城
『豊臣と徳川が築いた天下人の大城郭』
大阪城は、水運の利に恵まれた上町台地に豊臣秀吉が天下取りの拠点とするべく、1583年に築城を開始。
1585年には5重8階、黒漆塗りの下見板と金箔瓦、金の飾り金具をつけた豪華な望楼型天守を完成させ、
これによって秀吉は天下人の権威を欲しいままに示したそうな。
豊臣大坂城

しかし、1615年の大坂夏の陣で、豊臣大坂城は天守もろとも炎上。
その後、徳川秀忠は徳川への政権交代を天下に知らしめるために、豊臣大坂城の縄張りの上に盛り土をし、
石垣を新たに積みなおして城を築いています。
徳川大坂城

しかし、この城も1665年に焼失。
以来、昭和5年に復興されるまで天守は存在していません。
この3代目天守は豊臣大坂城を模して、徳川大坂城の天守台上に建てられています。
観光客は多いですけど、意味不明のお城というところかな。
もう随分と生きてきましたが、修学旅行以来の人生2回目の登城です。
城内はサングラスして、かん高い声をした人たちが殆どでした。

ビルデング大阪城に入ってもしかたないから、料金所で「百名城スタンプ」を聞くと、なんと入場し1階の受付
にありますとのこと・・・。
大阪城がこんな風に見えてしまいました。

600円也を払ったので、シャチホコもボッチィっと

最近、城郭のライトアップにハマッテいますので、城前のホテルをキープしていました。
【夕暮れの大阪城】 仕事で来ましたので、残念ながらカメラはミラーレスです。

【ライトアップの大阪城】


【朝日の大阪城】

百名城スタンプ(96城目) 残りは、月山富田城、松江城、吉田郡山城、津和野城の4城です。

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大阪城は、水運の利に恵まれた上町台地に豊臣秀吉が天下取りの拠点とするべく、1583年に築城を開始。
1585年には5重8階、黒漆塗りの下見板と金箔瓦、金の飾り金具をつけた豪華な望楼型天守を完成させ、
これによって秀吉は天下人の権威を欲しいままに示したそうな。
豊臣大坂城

しかし、1615年の大坂夏の陣で、豊臣大坂城は天守もろとも炎上。
その後、徳川秀忠は徳川への政権交代を天下に知らしめるために、豊臣大坂城の縄張りの上に盛り土をし、
石垣を新たに積みなおして城を築いています。
徳川大坂城

しかし、この城も1665年に焼失。
以来、昭和5年に復興されるまで天守は存在していません。
この3代目天守は豊臣大坂城を模して、徳川大坂城の天守台上に建てられています。
観光客は多いですけど、意味不明のお城というところかな。
もう随分と生きてきましたが、修学旅行以来の人生2回目の登城です。
城内はサングラスして、かん高い声をした人たちが殆どでした。

ビルデング大阪城に入ってもしかたないから、料金所で「百名城スタンプ」を聞くと、なんと入場し1階の受付
にありますとのこと・・・。
大阪城がこんな風に見えてしまいました。

600円也を払ったので、シャチホコもボッチィっと

最近、城郭のライトアップにハマッテいますので、城前のホテルをキープしていました。
【夕暮れの大阪城】 仕事で来ましたので、残念ながらカメラはミラーレスです。

【ライトアップの大阪城】


【朝日の大阪城】

百名城スタンプ(96城目) 残りは、月山富田城、松江城、吉田郡山城、津和野城の4城です。

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【知将か表裏比興の者か真田昌幸】 その30
『昌幸の戦術』
城内から4百余人の兵が出て来たが、少し戦って逃げる。
弱を示して誘い込もうとしているのです。逆上している徳川勢にはそれがわからない。
「逃げるな、卑怯者!」
勢い立って追いかけ、町口を2カ所攻め破って入ると、小路の行き止まりにヨシズをかけ、その前に小袖・織物・
帯・蒔絵をした器物を置き散らしてある。
上田城

寄せ手の足軽どもはこれを見て、弓矢や鉄砲を捨て、その衣類や器物を拾いにかかる。
将校らが叱って制止したが、これを楽しみに戦に来ているといっても過言でない者どもです。
聞く筈がない。
一枚の小袖、一筋の帯、ひとつの器に何人もが群がり、喧嘩まで起きる騒ぎです。
とたんにヨシズの陰から鉄砲が火を噴いた。乱射乱撃、まるで火の雨が降り注ぐ状態なのです。
あわてふためいている間に、千人余りの足軽が撃ち殺された。
徳川方の将校らは
「町筋に火をかけて焼き払う以外には、どこにいるかわからぬこの鉄砲隊どもをしりぞける方法はないわ」
と言い出し、まさにそうしようとしたところに、一人が
「火をかけては味方が危ない、不案内な土地じゃ。総勢火に巻かれてサバのように黒焦げになってしもうぞ」
と言ったので、中止になった。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:忍城
石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに加わったと伝えられ、浅野長政らと持田口攻めを担当したが甲斐姫らに撃退されたとされたという。
甲斐姫は 「こちら」 まにゅの子さんのブログです。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
城内から4百余人の兵が出て来たが、少し戦って逃げる。
弱を示して誘い込もうとしているのです。逆上している徳川勢にはそれがわからない。
「逃げるな、卑怯者!」
勢い立って追いかけ、町口を2カ所攻め破って入ると、小路の行き止まりにヨシズをかけ、その前に小袖・織物・
帯・蒔絵をした器物を置き散らしてある。
上田城

寄せ手の足軽どもはこれを見て、弓矢や鉄砲を捨て、その衣類や器物を拾いにかかる。
将校らが叱って制止したが、これを楽しみに戦に来ているといっても過言でない者どもです。
聞く筈がない。
一枚の小袖、一筋の帯、ひとつの器に何人もが群がり、喧嘩まで起きる騒ぎです。
とたんにヨシズの陰から鉄砲が火を噴いた。乱射乱撃、まるで火の雨が降り注ぐ状態なのです。
あわてふためいている間に、千人余りの足軽が撃ち殺された。
徳川方の将校らは
「町筋に火をかけて焼き払う以外には、どこにいるかわからぬこの鉄砲隊どもをしりぞける方法はないわ」
と言い出し、まさにそうしようとしたところに、一人が
「火をかけては味方が危ない、不案内な土地じゃ。総勢火に巻かれてサバのように黒焦げになってしもうぞ」
と言ったので、中止になった。
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≪前回の解答≫
正解:忍城
石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに加わったと伝えられ、浅野長政らと持田口攻めを担当したが甲斐姫らに撃退されたとされたという。
甲斐姫は 「こちら」 まにゅの子さんのブログです。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
【知将か表裏比興の者か真田昌幸】 その29
『昌幸の策略』
3日間が過ぎて、城内から使者が来ていう。
「御厚情により掃除はすでに済みましたが、家来どもの妻子を路頭に迷わせては、安房(昌幸)生涯の恥辱
でござる。いず方へなりとも安堵いたすよう引取らせたいと存ずれば、とてものお情けにて、今3日お待ちく
ださるまいか」
なるほど安房ほどの者、郎党どもを哀れむ心の厚いことではある。これを許さぬは武士の情けを知らぬとい
われよう。
上田城

それでは徳川武士の恥と、また待つことにした。
その2日目の夜から天が曇って、夜が明けてもなお陰雲がこめている。
これは信州で「峡雲(さいぶり)」といっている特殊な気象現象で、里には降らないが奥山では大雨が降ってい
て、その水が昼頃に千曲川支流・神川に洪水となって流れて来る。
「しめたな!」
ほくそえんで、昌幸は寄せ手の陣に使者を遣わす。
騎馬の使者は、馬を陣頭に乗り付けるや、大音声に
「先日申し送りましたように、家中の者どもの妻子を引き取りくれるように方々へ頼みつかわしたのでござる
が、徳川殿のおん敵となったる者の家族なれば引取ることはかなわぬと、いずれも申し引取ってくれませぬ。
今はもう致し方なくござれば、主従城を枕に討死いたす覚悟をきめ申した。各々方お手柄にお攻め下さるべし」
と呼ばわり捨て、一目散に逃げかえった。
徳川方は驚き怒り、逆上した。
「憎っくき、真田め!」
合戦の相談もせず、われ先にと駆け出して行った。
昌幸は足軽を少し前に出して鉄砲を撃ちかけた。
徳川勢は怒り心頭している。
ものともせず、追いたて、追い立て城に迫る。
小川があったが、瞬間もためらわない。一気に渡って真一文字に大手の町口に乗り入ってきた。
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千曲川要害(今は公園)から攻めるPiglet

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (4月22日の問題)
正解:千曲川
上田城は、千曲川の断崖を利用し南側が最も天然の防御力が強く、当時の情勢から東(徳川氏)からの攻撃を想定した城と言われます。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
3日間が過ぎて、城内から使者が来ていう。
「御厚情により掃除はすでに済みましたが、家来どもの妻子を路頭に迷わせては、安房(昌幸)生涯の恥辱
でござる。いず方へなりとも安堵いたすよう引取らせたいと存ずれば、とてものお情けにて、今3日お待ちく
ださるまいか」
なるほど安房ほどの者、郎党どもを哀れむ心の厚いことではある。これを許さぬは武士の情けを知らぬとい
われよう。
上田城

それでは徳川武士の恥と、また待つことにした。
その2日目の夜から天が曇って、夜が明けてもなお陰雲がこめている。
これは信州で「峡雲(さいぶり)」といっている特殊な気象現象で、里には降らないが奥山では大雨が降ってい
て、その水が昼頃に千曲川支流・神川に洪水となって流れて来る。
「しめたな!」
ほくそえんで、昌幸は寄せ手の陣に使者を遣わす。
騎馬の使者は、馬を陣頭に乗り付けるや、大音声に
「先日申し送りましたように、家中の者どもの妻子を引き取りくれるように方々へ頼みつかわしたのでござる
が、徳川殿のおん敵となったる者の家族なれば引取ることはかなわぬと、いずれも申し引取ってくれませぬ。
今はもう致し方なくござれば、主従城を枕に討死いたす覚悟をきめ申した。各々方お手柄にお攻め下さるべし」
と呼ばわり捨て、一目散に逃げかえった。
徳川方は驚き怒り、逆上した。
「憎っくき、真田め!」
合戦の相談もせず、われ先にと駆け出して行った。
昌幸は足軽を少し前に出して鉄砲を撃ちかけた。
徳川勢は怒り心頭している。
ものともせず、追いたて、追い立て城に迫る。
小川があったが、瞬間もためらわない。一気に渡って真一文字に大手の町口に乗り入ってきた。
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千曲川要害(今は公園)から攻めるPiglet

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (4月22日の問題)
正解:千曲川
上田城は、千曲川の断崖を利用し南側が最も天然の防御力が強く、当時の情勢から東(徳川氏)からの攻撃を想定した城と言われます。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>