【知将か表裏比興の者か真田昌幸】 その44
『家族の決裂』
信幸は早速やって来た。
昌幸は石田三成の書簡を見せて、所存を聞いた。

信幸は、
「三成らのこの拳は三成らが自分の野心のために秀頼公の名を借りているものと判断いたします。また家の
ためにも危険でござる。義のためより考えるも、利のためより思うも、一味然るべからずと存ずる。ことにそれ
がしは内府(家康)の婿となり、恩を受けること厚いでござれば、これにそむいて三成方にくみする心は毛頭
ありませぬ」
と、はっきり言った。
昌幸は、自分は一味する決心でいると言って、信幸を説得にかかったが、信幸の決心は固く昌幸も諦めた。
「さらば、いたし方ない。わしは西に一味しよう。幸村は大谷が婿なれば、これも一味する。そなたは東に
一味せよ」
と決心した。
この時の説は色々とあります。
信幸・幸村の兄弟が互いに激昂して論争し、あわや血の雨を降らそうと書いたのもあり、天下分け目の時節
なれば両方に別れ所属するが家を保つために万全の策だと東西に別れたという説もあります。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:武田信玄
真田昌幸は、甲斐武田家への人質として7歳で甲斐国へ下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
信幸は早速やって来た。
昌幸は石田三成の書簡を見せて、所存を聞いた。

信幸は、
「三成らのこの拳は三成らが自分の野心のために秀頼公の名を借りているものと判断いたします。また家の
ためにも危険でござる。義のためより考えるも、利のためより思うも、一味然るべからずと存ずる。ことにそれ
がしは内府(家康)の婿となり、恩を受けること厚いでござれば、これにそむいて三成方にくみする心は毛頭
ありませぬ」
と、はっきり言った。
昌幸は、自分は一味する決心でいると言って、信幸を説得にかかったが、信幸の決心は固く昌幸も諦めた。
「さらば、いたし方ない。わしは西に一味しよう。幸村は大谷が婿なれば、これも一味する。そなたは東に
一味せよ」
と決心した。
この時の説は色々とあります。
信幸・幸村の兄弟が互いに激昂して論争し、あわや血の雨を降らそうと書いたのもあり、天下分け目の時節
なれば両方に別れ所属するが家を保つために万全の策だと東西に別れたという説もあります。
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≪前回の解答≫
正解:武田信玄
真田昌幸は、甲斐武田家への人質として7歳で甲斐国へ下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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【知将か表裏比興の者か真田昌幸】 その43
『領地に執着は鬼のごとし』
三成は、事成ったら信州・甲州の両国を与えると言ってよこしている。
昌幸はこれに動かされたのでしょう。
領地に執着すること鬼のようであったというから、彼が動かされない筈がないのです。
真田昌幸(1547-1611年)

彼は利口な人間であるので、こんな場合の約束は必ずといっていいくらい空手形になることが分からないでは
ないので、
「おれの知略をもってすれば空手形には終わらせない」
という自信があったのでしょう。
昌幸びいきの場合は、彼が太閤を尊敬することが一通りでなかったことや、家康とは性格的に合わなかったこと
や、彼が最も愛したとみえる次男の幸村が石田三成の参謀長ともいうべき大谷吉継の娘婿であることなどを挙
げて、信義心によって西軍に属したという小説も多いですが、彼が信義の人でなかったことは、これまでに記事
にしてきたとおりなのです。
三成の手紙を受取ると、昌幸は長子の信幸を天明の宿に呼んだ。
信幸は少し離れた犬伏に居たのです。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:忍城攻め
三成は、1590年の秀吉の小田原征伐に参陣。
秀吉から後北条氏の支城の館林城、忍城攻撃を命じられ、忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その時の遺構が石田堤として現存しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
三成は、事成ったら信州・甲州の両国を与えると言ってよこしている。
昌幸はこれに動かされたのでしょう。
領地に執着すること鬼のようであったというから、彼が動かされない筈がないのです。
真田昌幸(1547-1611年)

彼は利口な人間であるので、こんな場合の約束は必ずといっていいくらい空手形になることが分からないでは
ないので、
「おれの知略をもってすれば空手形には終わらせない」
という自信があったのでしょう。
昌幸びいきの場合は、彼が太閤を尊敬することが一通りでなかったことや、家康とは性格的に合わなかったこと
や、彼が最も愛したとみえる次男の幸村が石田三成の参謀長ともいうべき大谷吉継の娘婿であることなどを挙
げて、信義心によって西軍に属したという小説も多いですが、彼が信義の人でなかったことは、これまでに記事
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三成の手紙を受取ると、昌幸は長子の信幸を天明の宿に呼んだ。
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≪前回の解答≫
正解:忍城攻め
三成は、1590年の秀吉の小田原征伐に参陣。
秀吉から後北条氏の支城の館林城、忍城攻撃を命じられ、忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その時の遺構が石田堤として現存しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
【知将か表裏比興の者か真田昌幸】 その42
『三成からの密書』
関ヶ原の戦いは、その初めは上杉景勝が会津でアンチ徳川の挙兵準備をしているところから始まります。
家康は当時大坂にいて、五大老中第一の実力者として天下の政治を見ていたが、景勝討伐のために東に向
かった。
石田三成(1560-1600年)

天下の大名の大多数がこれに従って東下した。
昌幸もまた居城の上田から次男・幸村をつれて随従した。長子・信幸は沼田にいたが、これもまた沼田から
出てこれに従っている。
家康の身は東に行きながら、家康の心は西にあったという。
自分を東に誘い出しておいて、西で石田一派が事を挙げるであろうということを、家康は良く知っていたという
のです。
家康だけでなく、黒田長政も細川忠興らもみんな予想していたのだという。
しかし、昌幸はこれを全然知らなかった。
石田三成は脈の少しでもありそうな大名には、莫大な恩賞を餌にして味方するようにと密書を届けているが、
昌幸はこれを野洲の天明宿(佐野市)で受け取った。
「かほどの大事をくわたつるに、前もって何の相談もせぬということがあるものか」
と、昌幸は立腹し、返書にそのことを書き送っている。
これは昌幸に対し弁解した三成の返書が残っているから、明らかなことです。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:武田信玄
上杉景勝は、武田信玄の娘・菊姫(勝頼の異母妹)を正室として迎えることで甲越同盟を結び、武田との関係を強化しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
関ヶ原の戦いは、その初めは上杉景勝が会津でアンチ徳川の挙兵準備をしているところから始まります。
家康は当時大坂にいて、五大老中第一の実力者として天下の政治を見ていたが、景勝討伐のために東に向
かった。
石田三成(1560-1600年)

天下の大名の大多数がこれに従って東下した。
昌幸もまた居城の上田から次男・幸村をつれて随従した。長子・信幸は沼田にいたが、これもまた沼田から
出てこれに従っている。
家康の身は東に行きながら、家康の心は西にあったという。
自分を東に誘い出しておいて、西で石田一派が事を挙げるであろうということを、家康は良く知っていたという
のです。
家康だけでなく、黒田長政も細川忠興らもみんな予想していたのだという。
しかし、昌幸はこれを全然知らなかった。
石田三成は脈の少しでもありそうな大名には、莫大な恩賞を餌にして味方するようにと密書を届けているが、
昌幸はこれを野洲の天明宿(佐野市)で受け取った。
「かほどの大事をくわたつるに、前もって何の相談もせぬということがあるものか」
と、昌幸は立腹し、返書にそのことを書き送っている。
これは昌幸に対し弁解した三成の返書が残っているから、明らかなことです。
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≪前回の解答≫
正解:武田信玄
上杉景勝は、武田信玄の娘・菊姫(勝頼の異母妹)を正室として迎えることで甲越同盟を結び、武田との関係を強化しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
【知将か表裏比興の者か真田昌幸】 その41
『昌幸は利に敏(さと)い、陰険な性格』
北条家では、早速使者を上洛させ
「氏直やがて上洛いたすでありましょう。また名胡桃のことは、北条家で下知して行ったのではなく、出先の者
が勝手にやったことであります。名胡桃の城は直ちに真田に返します」
と詫びたが、秀吉は聞かず、ついにこの翌年の小田原征伐となった。
上杉景勝(1556-1623年)

この名胡桃事件の頃、おそらく少し前のことと思われますが、昌幸は上杉景勝が秀吉にお目見えするために
大坂に上っている不在中に、越後に人質として送り景勝の家臣となっていた幸村を呼び戻して上坂させ、大谷
吉継に頼んで秀吉の近臣にして貰っている。
景勝は帰国後に知って
「古狸め!またしてもおれを裏切ったか!」
と激怒して、秀吉に訴えた。
しかし、秀吉は景勝をなだめて、幸村はそのまま手元に留めた。
昌幸がこれまでしばしば反覆していることについては、小身の豪族として、また情勢上しかたない部分もあった
のでしょうが、この時の所業には一言の弁解もできなく、昌幸は利に敏い、陰険な性格であったことは間違い
ないと思われます。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:21万人
・主力:豊臣秀吉、徳川家康、織田信雄、蒲生氏郷、黒田孝高、豊臣秀長、宇喜多秀家、細川忠興、小早川隆景、吉川広家、浅野長政、石田三成、長束正家、立花宗茂、大谷吉継、石川数正、高山右近、加藤清正、福島正則などの約17万人
・水軍:長宗我部元親、加藤嘉明、九鬼嘉隆、脇坂安治の約1万人
・北方隊:前田利家、上杉景勝、真田昌幸の約3万5千人
推定合計は約21万人だったそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
北条家では、早速使者を上洛させ
「氏直やがて上洛いたすでありましょう。また名胡桃のことは、北条家で下知して行ったのではなく、出先の者
が勝手にやったことであります。名胡桃の城は直ちに真田に返します」
と詫びたが、秀吉は聞かず、ついにこの翌年の小田原征伐となった。
上杉景勝(1556-1623年)

この名胡桃事件の頃、おそらく少し前のことと思われますが、昌幸は上杉景勝が秀吉にお目見えするために
大坂に上っている不在中に、越後に人質として送り景勝の家臣となっていた幸村を呼び戻して上坂させ、大谷
吉継に頼んで秀吉の近臣にして貰っている。
景勝は帰国後に知って
「古狸め!またしてもおれを裏切ったか!」
と激怒して、秀吉に訴えた。
しかし、秀吉は景勝をなだめて、幸村はそのまま手元に留めた。
昌幸がこれまでしばしば反覆していることについては、小身の豪族として、また情勢上しかたない部分もあった
のでしょうが、この時の所業には一言の弁解もできなく、昌幸は利に敏い、陰険な性格であったことは間違い
ないと思われます。
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≪前回の解答≫
正解:21万人
・主力:豊臣秀吉、徳川家康、織田信雄、蒲生氏郷、黒田孝高、豊臣秀長、宇喜多秀家、細川忠興、小早川隆景、吉川広家、浅野長政、石田三成、長束正家、立花宗茂、大谷吉継、石川数正、高山右近、加藤清正、福島正則などの約17万人
・水軍:長宗我部元親、加藤嘉明、九鬼嘉隆、脇坂安治の約1万人
・北方隊:前田利家、上杉景勝、真田昌幸の約3万5千人
推定合計は約21万人だったそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
【知将か表裏比興の者か真田昌幸】 その40
『騙すことが専門だった昌幸が騙された』
中山九兵衛は北条方の沼田城代・猪俣則直と十分な打ち合わせ済みです。
城の櫓に上って旗を振ると、城外の森陰に兵を率いて隠れていた猪俣が現われ、名胡桃城に駆け付ける。
中山は門を開け、猪俣らを向かい入れた。
名胡桃城

思いもかけないことに、守兵らはあっけにとられているうちに、猪俣の兵は名胡桃城を固めてしまった。
守兵の中に城内を脱出して、名胡桃城代・鈴木主水を追いかけて知らせる者があった。
鈴木は仰天し、恥じ、嚇怒した。
書面にしたため昌幸に報告した後、城に攻めかかろうとしたが、兵力が少ない。
ついに正覚寺という寺に入って腹を切ったという。
昌幸は激怒した。
人を騙しても騙されることは決してなかった昌幸です。手痛い打撃であったことはいうまでもありません。
直ちに秀吉に訴え、家康にも報告した。
秀吉は
「沼田のこと所望にまかせて取り計らってやったにもかかわらず、約束の上洛の期が来ているのに、未だに
出発したという報告にも接しない。不快に思っていたところに、かかることがあった由、沙汰のかぎりである。
今はもう容赦せぬ。直ちに征伐を加うべし」
と決意のほどを北条家に示した。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:稲葉山城の奪取
竹中半兵衛は、斎藤龍興の居城・稲葉山城(岐阜城)を16人の部下とともにわずか1日で奪取しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
中山九兵衛は北条方の沼田城代・猪俣則直と十分な打ち合わせ済みです。
城の櫓に上って旗を振ると、城外の森陰に兵を率いて隠れていた猪俣が現われ、名胡桃城に駆け付ける。
中山は門を開け、猪俣らを向かい入れた。
名胡桃城

思いもかけないことに、守兵らはあっけにとられているうちに、猪俣の兵は名胡桃城を固めてしまった。
守兵の中に城内を脱出して、名胡桃城代・鈴木主水を追いかけて知らせる者があった。
鈴木は仰天し、恥じ、嚇怒した。
書面にしたため昌幸に報告した後、城に攻めかかろうとしたが、兵力が少ない。
ついに正覚寺という寺に入って腹を切ったという。
昌幸は激怒した。
人を騙しても騙されることは決してなかった昌幸です。手痛い打撃であったことはいうまでもありません。
直ちに秀吉に訴え、家康にも報告した。
秀吉は
「沼田のこと所望にまかせて取り計らってやったにもかかわらず、約束の上洛の期が来ているのに、未だに
出発したという報告にも接しない。不快に思っていたところに、かかることがあった由、沙汰のかぎりである。
今はもう容赦せぬ。直ちに征伐を加うべし」
と決意のほどを北条家に示した。
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正解:稲葉山城の奪取
竹中半兵衛は、斎藤龍興の居城・稲葉山城(岐阜城)を16人の部下とともにわずか1日で奪取しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
竹中半兵衛の墓
『三木合戦で陣没した竹中半兵衛』
信長から、中国攻めの総大将に秀吉が任じられると、半兵衛は秀吉に従って中国遠征に参加。
1578年、宇喜多氏の備前八幡山城を調略によって落城させ、信長に賞賛される。
竹中重治(半兵衛)(1544-1579年)

同年、信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して、黒田官兵衛が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、
城内で捕縛されたため、信長は単独で有岡城に向かった官兵衛が裏切ったと思いこみ、秀吉に松寿丸を
殺害するように命じた。
そこに半兵衛が進み出て「その役目手前がつかまつる」として長浜城に向い、松寿丸を自分の領地である
菩提山城に移動させ、そこで信長の命に逆らってかくまった。
1579年4月、播磨三木城の包囲(三木合戦)中に病に倒れた。秀吉は重治の病状を心配して京都で療養
させたが、半兵衛はすでに自らの死期を悟り、武士ならば戦場で死にたいと秀吉に懇願して播磨三木の平
井山秀吉本陣に戻り、陣中にて6月13日に死去した。
享年36歳。死因は肺の病気だったという。
秀吉の平井山本陣 (平井山本陣訪問記は「こちら」です。)

この年の10月に助け出された官兵衛は、松寿丸が助けられていたことを非常に感謝し、竹中家の家紋を
貰い受けています。
墓所は秀吉の陣地があった兵庫県三木市平井山の観光ぶどう園内にあります。

訪問日:平成26年5月4日


450年過ぎた今も、生花が絶えていません。
秀吉さんも官兵衛さんも、ここで泣いたのでしょうね。

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:6回
鳥取城は、山中幸盛に2度、吉川元春に2度、豊臣秀吉に2度、と合計6度の降伏や力攻めによる落城があった城です。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
信長から、中国攻めの総大将に秀吉が任じられると、半兵衛は秀吉に従って中国遠征に参加。
1578年、宇喜多氏の備前八幡山城を調略によって落城させ、信長に賞賛される。
竹中重治(半兵衛)(1544-1579年)

同年、信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して、黒田官兵衛が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、
城内で捕縛されたため、信長は単独で有岡城に向かった官兵衛が裏切ったと思いこみ、秀吉に松寿丸を
殺害するように命じた。
そこに半兵衛が進み出て「その役目手前がつかまつる」として長浜城に向い、松寿丸を自分の領地である
菩提山城に移動させ、そこで信長の命に逆らってかくまった。
1579年4月、播磨三木城の包囲(三木合戦)中に病に倒れた。秀吉は重治の病状を心配して京都で療養
させたが、半兵衛はすでに自らの死期を悟り、武士ならば戦場で死にたいと秀吉に懇願して播磨三木の平
井山秀吉本陣に戻り、陣中にて6月13日に死去した。
享年36歳。死因は肺の病気だったという。
秀吉の平井山本陣 (平井山本陣訪問記は「こちら」です。)

この年の10月に助け出された官兵衛は、松寿丸が助けられていたことを非常に感謝し、竹中家の家紋を
貰い受けています。
墓所は秀吉の陣地があった兵庫県三木市平井山の観光ぶどう園内にあります。


訪問日:平成26年5月4日


450年過ぎた今も、生花が絶えていません。
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≪前回の解答≫
正解:6回
鳥取城は、山中幸盛に2度、吉川元春に2度、豊臣秀吉に2度、と合計6度の降伏や力攻めによる落城があった城です。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
『黒田官兵衛』 その24
『鳥取城の渇え殺し』
鳥取城は3ヶ月も経つと、城兵、その家族など合わせて4千の食料は尽きた。
草木を食べ、牛馬も殺しては食べ、ついには餓死者が出た。
その餓死者の肉まで食うという惨状に、城主・吉川経家は、ついに開城を決意、自分は腹切るという条件で
城兵の助命を申し出る。
鳥取城 (この門を通過すると、何かを感じるのは私だけでしょうか)

秀吉は吉川経家の節義に対して、開城するならば切腹の必要なしと答えたが、経家の決意は固かった。
切腹に際して、吉川経家は遺書をしたためた。
吉川元春には
「日本国を両分する織田、毛利の境である城で戦ったのは武士の本懐」
と記し、遺児たちには
「我ら(子どもたち)一人前御ようにたち、おのおのをたすけ申し、一門の名をあげ候」
と毛利元就以来の伝統ともいうべき兄弟の結束を書き置いた。
秀吉は、酒肴を贈って経家に永別の宴を張らせ、さらに城兵たちには、大釜で粥を煮て振舞ったという。
自害後、その首は秀吉の下に届けられた。秀吉は首を見るなり「哀れなる義士かな」と言って男泣きしたと伝
わる。
その後、安土の織田信長のもとに送られ、信長によって丁重に葬られたという。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:仙石忠政
1601年真田昌幸・信繁が紀伊国九度山に配流になり、上田城は徳川の手で破壊されてしまう。徳川側についた嫡男信之が上田領を引き継ぎ、三の丸跡地に居館(陣屋)を構える。そのため、信之時代には上田城は存在しておらず、信之を上田城主とするのは正確ではないようです。
1626年代わった仙石忠政により再建が始められたが、2年後に忠政の死により城普請は中断される。
以後、仙石氏三代の後は松平氏が明治維新まで城主を務めるが、本格的な再建は行われなかった。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
鳥取城は3ヶ月も経つと、城兵、その家族など合わせて4千の食料は尽きた。
草木を食べ、牛馬も殺しては食べ、ついには餓死者が出た。
その餓死者の肉まで食うという惨状に、城主・吉川経家は、ついに開城を決意、自分は腹切るという条件で
城兵の助命を申し出る。
鳥取城 (この門を通過すると、何かを感じるのは私だけでしょうか)

秀吉は吉川経家の節義に対して、開城するならば切腹の必要なしと答えたが、経家の決意は固かった。
切腹に際して、吉川経家は遺書をしたためた。
吉川元春には
「日本国を両分する織田、毛利の境である城で戦ったのは武士の本懐」
と記し、遺児たちには
「我ら(子どもたち)一人前御ようにたち、おのおのをたすけ申し、一門の名をあげ候」
と毛利元就以来の伝統ともいうべき兄弟の結束を書き置いた。
秀吉は、酒肴を贈って経家に永別の宴を張らせ、さらに城兵たちには、大釜で粥を煮て振舞ったという。
自害後、その首は秀吉の下に届けられた。秀吉は首を見るなり「哀れなる義士かな」と言って男泣きしたと伝
わる。
その後、安土の織田信長のもとに送られ、信長によって丁重に葬られたという。
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1601年真田昌幸・信繁が紀伊国九度山に配流になり、上田城は徳川の手で破壊されてしまう。徳川側についた嫡男信之が上田領を引き継ぎ、三の丸跡地に居館(陣屋)を構える。そのため、信之時代には上田城は存在しておらず、信之を上田城主とするのは正確ではないようです。
1626年代わった仙石忠政により再建が始められたが、2年後に忠政の死により城普請は中断される。
以後、仙石氏三代の後は松平氏が明治維新まで城主を務めるが、本格的な再建は行われなかった。
≪本日の問題≫
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