カルガモのその後
『成長したカルガモ』
3週間前に、近くの公園でカルガモの親子を見つけて、その成長が気になり、3週連続でカルガモ親子を
追ってみました。

今週は、殆ど成長し、大きさで親子の見分けの限界にきているようでした。
たぶん、右がお父さんです。

もう、家族全員で一緒に行動することは無くなっていますが、公園のあちこちで一羽ずつ泳いでいましたので
全員が大きくなれたことでしょう。

日が落ちましたので、マイホームに帰るのでしょうか。

熟した梅を見つけました。
梅って、完熟すると甘くなるのでしょうか。

今日は、100番目の登城になる「津和野城」(島根)に向う予定です。
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いつもありがとうございます。
3週間前に、近くの公園でカルガモの親子を見つけて、その成長が気になり、3週連続でカルガモ親子を
追ってみました。

今週は、殆ど成長し、大きさで親子の見分けの限界にきているようでした。
たぶん、右がお父さんです。

もう、家族全員で一緒に行動することは無くなっていますが、公園のあちこちで一羽ずつ泳いでいましたので
全員が大きくなれたことでしょう。

日が落ちましたので、マイホームに帰るのでしょうか。

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梅って、完熟すると甘くなるのでしょうか。

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『黒田官兵衛』 その29
『豊前国中津12万石の大名に』
秀吉の九州平定後、1587年7月3日、本拠地の馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の6郡、およそ12万石
を与えられた。
その直後に中津城の築城を開始。
中津城 (中津城登城記は「こちら」です。)

九州地方は、秀吉が平定を急ぎ、また大腹ぶりを見せすぎて、やたら地侍どもに本領安堵状を出したために、
地侍どもの鼻息があらく、新領主との間に摩擦が頻発し、ついには佐々成政が新領主となった肥後に地侍の
一揆が起こったのをきっかけに、昔から領主がいたところ以外は一揆だらけになっています。
官兵衛も肥後国鎮圧のための援軍として肥後に向かうが、その隙をついて豊前でも国人勢力が肥後国人に
呼応、また、伊予国への転封を拒否し3万石を改易されていた城井鎮房が挙兵して以前の居城であった城
井谷城を占拠するなども加わり、大規模な反乱となっています。
長政が一旦は鎮圧に失敗する(岩丸山の戦い)などしたため、黒田父子は持久戦をとり、兵糧を断ち徐々に
鎮圧しています。
翌年1月に中津城が完成しています。
4月、嫡男と娘を人質に出して降伏するも城井谷城からの退去に応じなかった城井鎮房を、秀吉の指示もあ
り、長政が中津城で謀殺し郎党を攻め滅ぼし、中津を平定しています。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:陶隆房
大内義隆の時代に大内家は全盛期を迎えたが、文治政治に不満を抱いた家臣の陶隆房の逆心によって、義隆と一族は自害して大内家は事実上滅亡しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
秀吉の九州平定後、1587年7月3日、本拠地の馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の6郡、およそ12万石
を与えられた。
その直後に中津城の築城を開始。
中津城 (中津城登城記は「こちら」です。)

九州地方は、秀吉が平定を急ぎ、また大腹ぶりを見せすぎて、やたら地侍どもに本領安堵状を出したために、
地侍どもの鼻息があらく、新領主との間に摩擦が頻発し、ついには佐々成政が新領主となった肥後に地侍の
一揆が起こったのをきっかけに、昔から領主がいたところ以外は一揆だらけになっています。
官兵衛も肥後国鎮圧のための援軍として肥後に向かうが、その隙をついて豊前でも国人勢力が肥後国人に
呼応、また、伊予国への転封を拒否し3万石を改易されていた城井鎮房が挙兵して以前の居城であった城
井谷城を占拠するなども加わり、大規模な反乱となっています。
長政が一旦は鎮圧に失敗する(岩丸山の戦い)などしたため、黒田父子は持久戦をとり、兵糧を断ち徐々に
鎮圧しています。
翌年1月に中津城が完成しています。
4月、嫡男と娘を人質に出して降伏するも城井谷城からの退去に応じなかった城井鎮房を、秀吉の指示もあ
り、長政が中津城で謀殺し郎党を攻め滅ぼし、中津を平定しています。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:陶隆房
大内義隆の時代に大内家は全盛期を迎えたが、文治政治に不満を抱いた家臣の陶隆房の逆心によって、義隆と一族は自害して大内家は事実上滅亡しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
中国の覇者「毛利元就」 その8
『2つの養子政策』
尼子氏を撃退した頃、元就は3男の隆景を備後沼田の高山城主・小早川家に養子に出しています。
小早川家の居城は備後南部の沼田にあったが、その所領の大部分は芸州竹原にあったのです。
当主の正平は尼子征伐から帰陣中に戦死して、その子・又鶴丸は盲目だったので、重臣らが相談して隆景を
迎えたのだという。
吉田郡山城の元就公像

しかし、家中にはこの処置に不服の者があり
「たとえ盲人であられようと、又鶴丸様こそ御血筋、主と仰ぐべきである。もし、また養子をとられるにしても、ご
一門から迎えられるべきで、他氏の人を迎えるとは心得ぬ」
と言ったので、その者どもを隆景は斬っている。
この養子縁組は、元就が相当に根回しを行い小早川家の一族や老臣らを籠絡したのだと思われます。
続いて、次男の元春が吉川家の養子となって、家督を継いでいます。
吉川家は元就の妻の実家で、吉田からそう遠くはない新庄の小倉山城主であった。
かなりの大身であったが家中に不和が起こり、重臣等が元就のもとに来て
「ご主人・興経は闇主でござれば、これが当主である限り滅亡は火を見るより明らかでござる。ご次男の元春
様を賜って家を継がせ申し、興経を隠居させたく存ずる」
と言ったので、元春を養子に出したのだという。
この時も、吉川家譜代の臣で小倉山城代であった、江田因幡守父子が
「この城をわれらにあずけ給うたのは、手切れとなれば潔く戦えとの思い召しであったろうものを、かようなこと
となったこと、残念である」
と言って、父子ともに切腹していることから、前から元就が手を入れて家中の不和をあおったのではないかと
思われます。
ともあれ、毛利家の身代は2つの養子政策で、大きく太ったのです。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:170年
月山富田城は、山陰の覇者・尼子氏が本拠を構え、170年間の尼子氏6代の盛衰の舞台となっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
尼子氏を撃退した頃、元就は3男の隆景を備後沼田の高山城主・小早川家に養子に出しています。
小早川家の居城は備後南部の沼田にあったが、その所領の大部分は芸州竹原にあったのです。
当主の正平は尼子征伐から帰陣中に戦死して、その子・又鶴丸は盲目だったので、重臣らが相談して隆景を
迎えたのだという。
吉田郡山城の元就公像

しかし、家中にはこの処置に不服の者があり
「たとえ盲人であられようと、又鶴丸様こそ御血筋、主と仰ぐべきである。もし、また養子をとられるにしても、ご
一門から迎えられるべきで、他氏の人を迎えるとは心得ぬ」
と言ったので、その者どもを隆景は斬っている。
この養子縁組は、元就が相当に根回しを行い小早川家の一族や老臣らを籠絡したのだと思われます。
続いて、次男の元春が吉川家の養子となって、家督を継いでいます。
吉川家は元就の妻の実家で、吉田からそう遠くはない新庄の小倉山城主であった。
かなりの大身であったが家中に不和が起こり、重臣等が元就のもとに来て
「ご主人・興経は闇主でござれば、これが当主である限り滅亡は火を見るより明らかでござる。ご次男の元春
様を賜って家を継がせ申し、興経を隠居させたく存ずる」
と言ったので、元春を養子に出したのだという。
この時も、吉川家譜代の臣で小倉山城代であった、江田因幡守父子が
「この城をわれらにあずけ給うたのは、手切れとなれば潔く戦えとの思い召しであったろうものを、かようなこと
となったこと、残念である」
と言って、父子ともに切腹していることから、前から元就が手を入れて家中の不和をあおったのではないかと
思われます。
ともあれ、毛利家の身代は2つの養子政策で、大きく太ったのです。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:170年
月山富田城は、山陰の覇者・尼子氏が本拠を構え、170年間の尼子氏6代の盛衰の舞台となっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
中国の覇者「毛利元就」 その7
『大内氏の尼子征伐の失敗』
尼子氏の毛利征伐失敗は尼子氏の武名を落し、これまで尼子氏に属していた石見、出雲、備中、備後の豪族
らが、大内氏に帰属を申込み、尼子征伐をなされるなら、先手を勤めておおいに働きましょう。と申し送ってくる
者が多くなって、大内氏は尼子征伐を決定して1542年7月、大内義隆は山口を出発した。
月山富田城 (月山富田城登城記は「こちら」です。)

しかし、諸城を落しながら尼子氏の本城・富田の月山城まで来るのに、翌年の2月までかかったのですから、随
分手ぬるい戦さぶりです。
これからが埒(らち)があかず、ぐずぐずしている間に、備後、石見、出雲らの豪族らが心変わりして、尼子氏に
寝返りを打つ者が続出した。
寒気きびしく、糧食の輸送もはかばかしくなく、ついに大内軍は総撤退となったが、尼子方の追撃が激しく悲惨
な退陣となって、大内方の名のある多くの武士が討取られ、大内義隆の養子・晴持も中海で溺死した。
元就はさすがに戦さ上手で、追撃して来る敵と戦いながら、巧みに吉田に引き上げた。
この敗戦が中国の形勢を変化させることとなった。
これまでに大内氏に属していた豪族らで、尼子に寝返りする者が多くなったので、尼子氏は石見に出兵して石見
銀山を奪ったのをはじめとして、伯耆(ほうき)、因幡(いなば)を荒し、備後に入り、芸州をうかがったが、元就
はよく防いで、これを撃退しています。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:大内氏
第一次月山富田城の戦いは、大内義隆が毛利氏などの諸勢力を引き連れて月山富田城に攻め込んだ。この遠征は、1年4ヶ月の長期間にも及んだあげく大内側の敗戦となり、晴持を失った義隆はこれ以後、政治に対する意欲を失っている。
この戦いは大内氏衰退の一因となった一方、尼子氏は晴久のもとで勢力を回復させ、最盛期を創出しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
尼子氏の毛利征伐失敗は尼子氏の武名を落し、これまで尼子氏に属していた石見、出雲、備中、備後の豪族
らが、大内氏に帰属を申込み、尼子征伐をなされるなら、先手を勤めておおいに働きましょう。と申し送ってくる
者が多くなって、大内氏は尼子征伐を決定して1542年7月、大内義隆は山口を出発した。
月山富田城 (月山富田城登城記は「こちら」です。)

しかし、諸城を落しながら尼子氏の本城・富田の月山城まで来るのに、翌年の2月までかかったのですから、随
分手ぬるい戦さぶりです。
これからが埒(らち)があかず、ぐずぐずしている間に、備後、石見、出雲らの豪族らが心変わりして、尼子氏に
寝返りを打つ者が続出した。
寒気きびしく、糧食の輸送もはかばかしくなく、ついに大内軍は総撤退となったが、尼子方の追撃が激しく悲惨
な退陣となって、大内方の名のある多くの武士が討取られ、大内義隆の養子・晴持も中海で溺死した。
元就はさすがに戦さ上手で、追撃して来る敵と戦いながら、巧みに吉田に引き上げた。
この敗戦が中国の形勢を変化させることとなった。
これまでに大内氏に属していた豪族らで、尼子に寝返りする者が多くなったので、尼子氏は石見に出兵して石見
銀山を奪ったのをはじめとして、伯耆(ほうき)、因幡(いなば)を荒し、備後に入り、芸州をうかがったが、元就
はよく防いで、これを撃退しています。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:大内氏
第一次月山富田城の戦いは、大内義隆が毛利氏などの諸勢力を引き連れて月山富田城に攻め込んだ。この遠征は、1年4ヶ月の長期間にも及んだあげく大内側の敗戦となり、晴持を失った義隆はこれ以後、政治に対する意欲を失っている。
この戦いは大内氏衰退の一因となった一方、尼子氏は晴久のもとで勢力を回復させ、最盛期を創出しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
中国の覇者「毛利元就」 その6
『間者を利用する元就』
元就の領地拡大に対し、尼子氏は元就征伐にかかります。
当時の尼子氏の主は、経久の孫・晴久です。
3年前に、尼子氏の家来で内別作助四郎という者が吉田に来て、元就に目通りを求め
「尼子晴久は、拙者のわずかな過失を怒り、拙者も伝来の所領を没収して、国を追い出しました。行きどころ
ないままに、以前お知り合いをいただいたのを頼りに、ご当家を頼ってまいりました。お召し使いいただくて」
と、嘆願した。
「そなたは筆が上手であったな。よくぞまいった。よしよし、召し使ってやるぞ」
元就は機嫌よく受け入れて、右筆にした。
尼子晴久(1514-1561年)

人々は、右筆は機密のことを知りやすい職分でござる。罪を償って尼子に帰参しなくても内通するかも知れま
せぬ。かねてのご明知にも似ぬことを遊ばすと、諫言しましたが、
元就は
「内別作が律義者であることは、わしは昔から知っている。心配いらぬぞ」
と、退けて、益々信用したという。
いよいよ尼子氏が押し寄せることが近づいて来ると、度々重臣らと軍議を開いたが、軍議の度に元就は言っ
た。
「尼子が本陣を冑山にとってくれたらしめたものじゃ。わしは甲立の宍戸安芸守と示し合わせて南北から攻め
上がって尼子晴久を討取ることが出来る。しかし、三猪口に陣取られ、周防からの通路を絶ち切られたら、運
命窮する。一応、山口を頼って落ち、大内家の軍勢を繰り出してもらって奪還を図るより他はない。今は運を
天に任せて、尼子が三猪口に陣を取らぬように祈るほかはない」
すると、尼子勢の到着が一両日にせまり、城中ひしめき合っている最中、内別作は出奔した。
人々は騒ぎ立て、元就、それごらんなされよと言う。
元就は笑って
「これで第一段は旨く行ったのじゃよ。わしは敵が冑山に陣取り、真上から城内を見下ろす位置に立ったらど
うしようぞ、心配していたのじゃ。三猪口も急所ではあるが、冑山に陣取られるよりもいいわい。内別作が敵
の間者であることを、わしが知らいでか」
と説明したので、人々は驚いたという。
尼子勢は攻め寄せて来たが、元就は巧妙な戦をしたので尼子勢は攻めあぐんだ。
9月初めから12月初めまで、3ヵ月に渡って善戦し少しも屈しなかったのです。
12月初めに大内軍1万が陶(すえ)晴高らを大将として来たので、尼子方はどうにもならず、10数日の後、折
からの大雪を幸いとして、対陣し国もとへ引き取った。
これは元就の最初の大難であったが、人は生涯のうちで何度か大難に合い、それを打開する度に大きくなると
いいます。大をなす人物は大飛躍の好機到来として勇敢にしてこれにあたり、元就もこの大難を見事に跳ね飛
ばすと、勢力は飛躍的に伸び、もはや芸州内に敵対する者は一人もいなくなった。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:周防
大内氏は、周防国府の介を世襲した在庁官人から守護大名、そして戦国大名へと成長し、周防・長門、石見、豊前、筑前各国の守護職に補任されたほか、最盛期には中国地方と北九州の6か国を実効支配しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
元就の領地拡大に対し、尼子氏は元就征伐にかかります。
当時の尼子氏の主は、経久の孫・晴久です。
3年前に、尼子氏の家来で内別作助四郎という者が吉田に来て、元就に目通りを求め
「尼子晴久は、拙者のわずかな過失を怒り、拙者も伝来の所領を没収して、国を追い出しました。行きどころ
ないままに、以前お知り合いをいただいたのを頼りに、ご当家を頼ってまいりました。お召し使いいただくて」
と、嘆願した。
「そなたは筆が上手であったな。よくぞまいった。よしよし、召し使ってやるぞ」
元就は機嫌よく受け入れて、右筆にした。
尼子晴久(1514-1561年)

人々は、右筆は機密のことを知りやすい職分でござる。罪を償って尼子に帰参しなくても内通するかも知れま
せぬ。かねてのご明知にも似ぬことを遊ばすと、諫言しましたが、
元就は
「内別作が律義者であることは、わしは昔から知っている。心配いらぬぞ」
と、退けて、益々信用したという。
いよいよ尼子氏が押し寄せることが近づいて来ると、度々重臣らと軍議を開いたが、軍議の度に元就は言っ
た。
「尼子が本陣を冑山にとってくれたらしめたものじゃ。わしは甲立の宍戸安芸守と示し合わせて南北から攻め
上がって尼子晴久を討取ることが出来る。しかし、三猪口に陣取られ、周防からの通路を絶ち切られたら、運
命窮する。一応、山口を頼って落ち、大内家の軍勢を繰り出してもらって奪還を図るより他はない。今は運を
天に任せて、尼子が三猪口に陣を取らぬように祈るほかはない」
すると、尼子勢の到着が一両日にせまり、城中ひしめき合っている最中、内別作は出奔した。
人々は騒ぎ立て、元就、それごらんなされよと言う。
元就は笑って
「これで第一段は旨く行ったのじゃよ。わしは敵が冑山に陣取り、真上から城内を見下ろす位置に立ったらど
うしようぞ、心配していたのじゃ。三猪口も急所ではあるが、冑山に陣取られるよりもいいわい。内別作が敵
の間者であることを、わしが知らいでか」
と説明したので、人々は驚いたという。
尼子勢は攻め寄せて来たが、元就は巧妙な戦をしたので尼子勢は攻めあぐんだ。
9月初めから12月初めまで、3ヵ月に渡って善戦し少しも屈しなかったのです。
12月初めに大内軍1万が陶(すえ)晴高らを大将として来たので、尼子方はどうにもならず、10数日の後、折
からの大雪を幸いとして、対陣し国もとへ引き取った。
これは元就の最初の大難であったが、人は生涯のうちで何度か大難に合い、それを打開する度に大きくなると
いいます。大をなす人物は大飛躍の好機到来として勇敢にしてこれにあたり、元就もこの大難を見事に跳ね飛
ばすと、勢力は飛躍的に伸び、もはや芸州内に敵対する者は一人もいなくなった。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:周防
大内氏は、周防国府の介を世襲した在庁官人から守護大名、そして戦国大名へと成長し、周防・長門、石見、豊前、筑前各国の守護職に補任されたほか、最盛期には中国地方と北九州の6か国を実効支配しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
中国の覇者「毛利元就」 その5
『大内氏に鞍替え』
力が強くなるにつれ、野心が大きくなるのは当然のことです。
元就は自立して、大内、尼子の両氏と並ぶ勢力となりたいと思い、その階梯として尼子氏から大内氏に鞍替
えします。
吉田郡山城

「大内氏はゆるやかだが、尼子氏は荒々しい。尼子に属している限り忙しく使われて、力を養う間がない。今
のおれの勢力なら、たとえ尼子が攻めて来ても相当抵抗ができる。それに武田の者が自分のものとなった
今では、もう食うべき豪族は芸州内にはいくらも残っていない。どうしても備後に進出し、尼子所属の備後豪
族らを食うより他はない」
と、考えたのでしょう。
元就は用心深い男ですから、尼子氏と手を切るにしても不用意には切りません。
近隣の豪族らと婚姻を結んだりして、尼子から討伐軍が来た場合の用心をしておいて、尼子に手切れを申し
送り、大内氏に帰属を申し込んでおいて、兵を出し、芸州内の尼子方の城、備後の城をしきりに切り落として
います。
これらの城攻めをするにあたり、井上源五郎という忍びの名人を使ったそうです。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (6月22日の問題)
正解:土佐
長宗我部元親は、土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国の覇者となっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
力が強くなるにつれ、野心が大きくなるのは当然のことです。
元就は自立して、大内、尼子の両氏と並ぶ勢力となりたいと思い、その階梯として尼子氏から大内氏に鞍替
えします。
吉田郡山城

「大内氏はゆるやかだが、尼子氏は荒々しい。尼子に属している限り忙しく使われて、力を養う間がない。今
のおれの勢力なら、たとえ尼子が攻めて来ても相当抵抗ができる。それに武田の者が自分のものとなった
今では、もう食うべき豪族は芸州内にはいくらも残っていない。どうしても備後に進出し、尼子所属の備後豪
族らを食うより他はない」
と、考えたのでしょう。
元就は用心深い男ですから、尼子氏と手を切るにしても不用意には切りません。
近隣の豪族らと婚姻を結んだりして、尼子から討伐軍が来た場合の用心をしておいて、尼子に手切れを申し
送り、大内氏に帰属を申し込んでおいて、兵を出し、芸州内の尼子方の城、備後の城をしきりに切り落として
います。
これらの城攻めをするにあたり、井上源五郎という忍びの名人を使ったそうです。
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正解:土佐
長宗我部元親は、土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国の覇者となっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>