征夷大将軍 『徳川家康』 その7
『岡崎を回復』
広忠(家康の父)は今川勢の援助のもとに家臣らとともに三河回復のために戦い、先ず、吉良氏を討って
降伏させた。
こうなると、今は内膳正信定に従っている旧臣らも密かに志を通ずる者が多く、その者どもの手引きで、ほ
とんど無抵抗で岡崎を回復して入城した。
岡崎城

牟呂城に入ってから8ヵ月目、1936年6月25日であった。
広忠は12歳。
広忠は内膳正信定を攻めるべく準備を進めていると、信定は形勢の不利を見て、道閲入道に頼んで降伏
を申し込んだ。
道閲にとっては、信定は子であり、広忠がひ孫です。
「一族は仲ようしてもらいたい。腹も立とうが、わしの顔に免じて内膳を許してもらいたい」
と、とりなした。
広忠は
「ひ祖父さまの仰せでござれど、先年の森山崩れも、その後の家の衰退もすべて内膳正の悪謀から起こっ
たこと。これを許しては政道の根本が立ち申さぬ」
とはねつけた。
道閲はおして
「もっともじゃ、もっともじゃ、そう言われては何もいえぬ。しかしながら、わしも長生きしたお蔭で、子が首を
刎ねられるのを見るのはまことにつらい。そういうことなら、先ずわしを殺して、それから内膳を殺してくれい」
と、泣いていったので、広忠も仕方なく、信定を助けることにした。
しかし、信定はこの翌年の冬に病死した。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:武田信玄
今川義元は、甲斐国の守護・武田信虎の娘・定恵院(信玄の姉)を正室に迎え、武田氏と甲駿同盟を結んでいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
広忠(家康の父)は今川勢の援助のもとに家臣らとともに三河回復のために戦い、先ず、吉良氏を討って
降伏させた。
こうなると、今は内膳正信定に従っている旧臣らも密かに志を通ずる者が多く、その者どもの手引きで、ほ
とんど無抵抗で岡崎を回復して入城した。
岡崎城

牟呂城に入ってから8ヵ月目、1936年6月25日であった。
広忠は12歳。
広忠は内膳正信定を攻めるべく準備を進めていると、信定は形勢の不利を見て、道閲入道に頼んで降伏
を申し込んだ。
道閲にとっては、信定は子であり、広忠がひ孫です。
「一族は仲ようしてもらいたい。腹も立とうが、わしの顔に免じて内膳を許してもらいたい」
と、とりなした。
広忠は
「ひ祖父さまの仰せでござれど、先年の森山崩れも、その後の家の衰退もすべて内膳正の悪謀から起こっ
たこと。これを許しては政道の根本が立ち申さぬ」
とはねつけた。
道閲はおして
「もっともじゃ、もっともじゃ、そう言われては何もいえぬ。しかしながら、わしも長生きしたお蔭で、子が首を
刎ねられるのを見るのはまことにつらい。そういうことなら、先ずわしを殺して、それから内膳を殺してくれい」
と、泣いていったので、広忠も仕方なく、信定を助けることにした。
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≪前回の解答≫
正解:武田信玄
今川義元は、甲斐国の守護・武田信虎の娘・定恵院(信玄の姉)を正室に迎え、武田氏と甲駿同盟を結んでいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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征夷大将軍 『徳川家康』 その6
『松平家、今川家に服属』
苦難の間にも、大蔵(阿部定吉)は主家回復の同志を集めることに努力し続けたが、どうにもはかばかしく
なく、ただ一人駿河に行き、今川家の援助を乞うた。
今川義元はあわれんで
「それは気の毒なこと、松平家はわが家と旧好のある家である。先年、東条持広殿から頼んで来ている。
仙千代(家康の父)殿をお連れしてまいるがよい。わしが引き受けてめでたく国元に帰れるようにして上げ
るであろう」
と、頼もしくも引き受けてくれた。
戦国無双・今川義元(1519-1560年)

大蔵は早速、遠州に帰り、広忠(家康の父)の供をして駿河に行く支度にかかった。
同時に大蔵の弟・定次やその他の同志らは三河に行って、松平一族やゆかりのある豪族や旧臣らを説い
て味方に引入れた。
大蔵は広忠を奉じて駿河に行ったところ、義元はしばらく手元に留め置いた後
「ここを足掛かりにして三河の故地(こち)を回復するよう」
と言って、今川家の持城であった遠州牟呂の城を広忠に与え、遠州の今川方の豪族らにも助勢するよう伝
えたので、松平家の旧臣らも志を運ぶ者は来て従ったという。
義元がここまで広忠に肩入れしたのは、もちろん単なる義侠心からではありません。
世は戦国です。
一文の得にもならないことを他人のためにしてやるほど甘い気風はありません。
その上、今川家は足利の一族で、当時世間では
「京の将軍家に血統が絶えたら三州の吉良家から入って継ぎ、吉良家に人がいなかったら駿河の今川家か
ら入って継ぐことになっているそうな」
とも言われていたほどの家柄なのです。
あたかも足利将軍の威が衰えている時代、中央に野心がなかろう筈がなく。西への道を開くために、広忠と
その家臣らが三河を回復しようとの熱望に燃えているのを利用したことは明らかでしょう。
徳川家側の記録にはありませんが、この時から松平家は今川家に服属したと見るべきなのでしょう。
この時、広忠11歳。1536年9月であった。
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いつもありがとうございます。
日曜日、pigletは毎月恒例の「歯切り」でした。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:広大な外郭
みんな小田原城の特徴ですが、小田原城の最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭です。
八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9kmの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいたそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
苦難の間にも、大蔵(阿部定吉)は主家回復の同志を集めることに努力し続けたが、どうにもはかばかしく
なく、ただ一人駿河に行き、今川家の援助を乞うた。
今川義元はあわれんで
「それは気の毒なこと、松平家はわが家と旧好のある家である。先年、東条持広殿から頼んで来ている。
仙千代(家康の父)殿をお連れしてまいるがよい。わしが引き受けてめでたく国元に帰れるようにして上げ
るであろう」
と、頼もしくも引き受けてくれた。
戦国無双・今川義元(1519-1560年)

大蔵は早速、遠州に帰り、広忠(家康の父)の供をして駿河に行く支度にかかった。
同時に大蔵の弟・定次やその他の同志らは三河に行って、松平一族やゆかりのある豪族や旧臣らを説い
て味方に引入れた。
大蔵は広忠を奉じて駿河に行ったところ、義元はしばらく手元に留め置いた後
「ここを足掛かりにして三河の故地(こち)を回復するよう」
と言って、今川家の持城であった遠州牟呂の城を広忠に与え、遠州の今川方の豪族らにも助勢するよう伝
えたので、松平家の旧臣らも志を運ぶ者は来て従ったという。
義元がここまで広忠に肩入れしたのは、もちろん単なる義侠心からではありません。
世は戦国です。
一文の得にもならないことを他人のためにしてやるほど甘い気風はありません。
その上、今川家は足利の一族で、当時世間では
「京の将軍家に血統が絶えたら三州の吉良家から入って継ぎ、吉良家に人がいなかったら駿河の今川家か
ら入って継ぐことになっているそうな」
とも言われていたほどの家柄なのです。
あたかも足利将軍の威が衰えている時代、中央に野心がなかろう筈がなく。西への道を開くために、広忠と
その家臣らが三河を回復しようとの熱望に燃えているのを利用したことは明らかでしょう。
徳川家側の記録にはありませんが、この時から松平家は今川家に服属したと見るべきなのでしょう。
この時、広忠11歳。1536年9月であった。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:広大な外郭
みんな小田原城の特徴ですが、小田原城の最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭です。
八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9kmの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいたそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
日本百名城66 『津和野城』 【100名城完結】
中世の山城を生かしながら築かれた総石垣の要塞
『雲海の空に高石垣がそびえ立つ』
津和野城は1296年頃、鎌倉幕府が能登の豪族・吉見頼行を派遣して築城したのが、はじまりと伝わります。
小規模な曲輪を連ねた典型的な中世山城でしたが、1601年の関ヶ原の戦いの行賞で入城した坂崎成正が
城山山頂を削平して、三重天守を建て壮大な石垣を設けて近世山城へと大改築しています。
現在、城跡には山城の石垣としては屈指の壮大な高石垣が残っています。
広島空港から走ってくれたビッツくん(観光リフト駐車場)

山城ですがリフトがありますので、楽チンです。

リフトを降りて、山道を10分楽しみます。

三の丸から見る人質郭と三十間台(本丸)の石垣

結構広い三十間台

三十間から見る人質郭と三の丸

三十間台から津和野の街並みが一望できます

どうして運んだのか、山城の石垣群

5年余りで、沖縄3城、北海道の3城を含めて、100名城を踏破しました!
ずっ~と大勢の方にお付き合い戴き感謝しています。
100名城の旅を記録した『日本百名城 塗りつぶし同好会』は、「こちら」です。
日本地図が真っ赤になっています、良かったら覗いて見てください!
ブログタイトルの『100名城の旅』は完結しましたが、昨年より「お城のライトアップ写真」に目覚めてしまい、
もう暫くお城廻りが続きますので、お付き合い頂ければ幸いです。
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いつもありがとうございます。
100名城目のスタンプは、スタンプ帳を忘れてしまいましたので、メモ用紙にスタンプになってしまいました。
<登城日:平成26年6月30日>

『雲海の空に高石垣がそびえ立つ』
津和野城は1296年頃、鎌倉幕府が能登の豪族・吉見頼行を派遣して築城したのが、はじまりと伝わります。
小規模な曲輪を連ねた典型的な中世山城でしたが、1601年の関ヶ原の戦いの行賞で入城した坂崎成正が
城山山頂を削平して、三重天守を建て壮大な石垣を設けて近世山城へと大改築しています。
現在、城跡には山城の石垣としては屈指の壮大な高石垣が残っています。
広島空港から走ってくれたビッツくん(観光リフト駐車場)

山城ですがリフトがありますので、楽チンです。

リフトを降りて、山道を10分楽しみます。

三の丸から見る人質郭と三十間台(本丸)の石垣

結構広い三十間台

三十間から見る人質郭と三の丸

三十間台から津和野の街並みが一望できます

どうして運んだのか、山城の石垣群


5年余りで、沖縄3城、北海道の3城を含めて、100名城を踏破しました!
ずっ~と大勢の方にお付き合い戴き感謝しています。
100名城の旅を記録した『日本百名城 塗りつぶし同好会』は、「こちら」です。
日本地図が真っ赤になっています、良かったら覗いて見てください!
ブログタイトルの『100名城の旅』は完結しましたが、昨年より「お城のライトアップ写真」に目覚めてしまい、
もう暫くお城廻りが続きますので、お付き合い頂ければ幸いです。
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100名城目のスタンプは、スタンプ帳を忘れてしまいましたので、メモ用紙にスタンプになってしまいました。
<登城日:平成26年6月30日>

『黒田官兵衛』 その33
『北条氏説得の第2策も失敗に』
秀吉の小田原征伐が始まると官兵衛はこの役に従事し、彼らしい大功を立てている。
坂東一の名城である小田原城は、秀吉ほどの者が天下の兵をもって攻囲してもなかなか落ちず、堅固に持ち
耐えること100日余りにおよんだ。
小田原城

力攻めではダメと見た秀吉は、まず宇喜多秀家をもって当主・北条氏政の次男の氏房に、北条氏がもし降服す
るなら、伊豆・相模・武蔵野3ヵ国を与えようと伝えさせた。
氏房の意を動かし、氏政に伝えた。
しかし、氏政はこれを退けた。
秀吉は第2の手段を講じ、堀秀政に命じて、北条氏譜代の重臣・松田憲秀を説いて内応の約束をさせた。憲秀
はこれを承諾し、手筈を定めた後、嫡子・新六郎と次男・左馬介とを呼んでこのことを告げた。
新六郎は
「よい御思案、北条家の運命はもう見えています」
と、一議におよばず賛成したが、左馬介は
「これは父上・兄上のお言葉とも思えませね。松田家は北条家譜代の臣、しかも重臣の列にあります。下人・
小者も恥じるような汚いことをしようとはもっての外のこと」
と泣いて諌めたという。
「くちばしの黄色い分際で何を言う。その方にはわからぬことじゃ」
憲秀と新六郎は耳もかさず、左馬介を一室に閉じ込めてしまった。
左馬介は存亡この時にきわまったと焦心して、小姓に命じてひそかに鎧櫃の中に潜んで出て、氏政に訴え出
た。
氏政は驚いて、憲秀と新六郎を捕らえて押し込めたという。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:平山城
岡崎城がある龍頭山はもともと小高い丘で、山頂に本丸が置かれた平山城として築かれていたが、本多康重から3代忠利(1600年~1645年)にわたる改修によって平城となっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
秀吉の小田原征伐が始まると官兵衛はこの役に従事し、彼らしい大功を立てている。
坂東一の名城である小田原城は、秀吉ほどの者が天下の兵をもって攻囲してもなかなか落ちず、堅固に持ち
耐えること100日余りにおよんだ。
小田原城

力攻めではダメと見た秀吉は、まず宇喜多秀家をもって当主・北条氏政の次男の氏房に、北条氏がもし降服す
るなら、伊豆・相模・武蔵野3ヵ国を与えようと伝えさせた。
氏房の意を動かし、氏政に伝えた。
しかし、氏政はこれを退けた。
秀吉は第2の手段を講じ、堀秀政に命じて、北条氏譜代の重臣・松田憲秀を説いて内応の約束をさせた。憲秀
はこれを承諾し、手筈を定めた後、嫡子・新六郎と次男・左馬介とを呼んでこのことを告げた。
新六郎は
「よい御思案、北条家の運命はもう見えています」
と、一議におよばず賛成したが、左馬介は
「これは父上・兄上のお言葉とも思えませね。松田家は北条家譜代の臣、しかも重臣の列にあります。下人・
小者も恥じるような汚いことをしようとはもっての外のこと」
と泣いて諌めたという。
「くちばしの黄色い分際で何を言う。その方にはわからぬことじゃ」
憲秀と新六郎は耳もかさず、左馬介を一室に閉じ込めてしまった。
左馬介は存亡この時にきわまったと焦心して、小姓に命じてひそかに鎧櫃の中に潜んで出て、氏政に訴え出
た。
氏政は驚いて、憲秀と新六郎を捕らえて押し込めたという。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:平山城
岡崎城がある龍頭山はもともと小高い丘で、山頂に本丸が置かれた平山城として築かれていたが、本多康重から3代忠利(1600年~1645年)にわたる改修によって平城となっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
征夷大将軍 『徳川家康』 その5
『仙千代、岡崎を脱出』
徳川家康の記事は久しぶりになってしまいました。 前回の記事は「こちら」です。
清康の子は広忠(家康の父)、当時は仙千代といい、わずか10歳の幼さだった。
一同心細いところに、2ヵ月が経ったばかりの1536年2月はじめ、織田信秀(信長の父)が8千の大軍を率
いて岡崎に押し寄せてきた。
岡崎城

これに対する松平勢はわずかに8百余人、幼君・仙千代に泣いて暇乞いし、清康の弟2人を大将として二手
に別れ、岡崎の郊外井田に押し出て決戦し、見事に撃退した。
このようにして仙千代(広忠)の世は始まったが、外は東西から強力な脅威があり、内は松平信定が本家を
横領せんとする暗躍があり、国に居ては一身の安全も保つことが出来ない危険な状態になった。
大蔵は本国に連れ帰られていたが、その頃はまだ生きていた仙千代の曾祖父・道閲の裁断によって、心事
の曇りのなきことが証明され、助命されたばかりか、優れた智勇の人物なので、また老職に任ぜられていた
が、仙千代を奉じて岡崎を逃れ、清康(家康の祖父)の妹婿・東条(吉良)持広を頼って伊勢の神戸(かんべ
)に行った。
神戸にいたのは数ヵ月に過ぎなかったようですが、その間に仙千代は元服して広忠と名のった。
しかし、間もなく東条持広が病死すると、後を継いだ養子の義安は織田家に内通して、広忠を引き渡す計略
をめぐらし始めた。
大蔵は驚きあわてて広忠の供をして伊勢を出て、先ず三河の長篠あたりの山里に行き、郷民を語って舟を
頼み、遠江の掛塚という土地に行き、土地の鍛冶五郎という者の家に身を寄せたという。
「この間の御難苦、筆にもことばにも尽くしがたし」
と改正三河後風土記にあるそうですが、まだ少年の広忠を奉じてのことであるし、当時の田舎鍛冶屋のこと
ですから、富裕であろうとは思えないし、大蔵の苦労は大変なものだったのでしょう。
大蔵は篤実忠誠な人物であったらしいですが、息子のかつての大罪を償おうとの覚悟もあったのでしょう。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (7月20日の問題)
正解:京都伏見
官兵衛は1589年5月、家督を突然嫡男の長政に譲り、秀吉の側近として引き続き軍師として仕え、中津城は長政に任せ、京都伏見屋敷、大阪天満屋敷を拠点としています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
徳川家康の記事は久しぶりになってしまいました。 前回の記事は「こちら」です。
清康の子は広忠(家康の父)、当時は仙千代といい、わずか10歳の幼さだった。
一同心細いところに、2ヵ月が経ったばかりの1536年2月はじめ、織田信秀(信長の父)が8千の大軍を率
いて岡崎に押し寄せてきた。
岡崎城

これに対する松平勢はわずかに8百余人、幼君・仙千代に泣いて暇乞いし、清康の弟2人を大将として二手
に別れ、岡崎の郊外井田に押し出て決戦し、見事に撃退した。
このようにして仙千代(広忠)の世は始まったが、外は東西から強力な脅威があり、内は松平信定が本家を
横領せんとする暗躍があり、国に居ては一身の安全も保つことが出来ない危険な状態になった。
大蔵は本国に連れ帰られていたが、その頃はまだ生きていた仙千代の曾祖父・道閲の裁断によって、心事
の曇りのなきことが証明され、助命されたばかりか、優れた智勇の人物なので、また老職に任ぜられていた
が、仙千代を奉じて岡崎を逃れ、清康(家康の祖父)の妹婿・東条(吉良)持広を頼って伊勢の神戸(かんべ
)に行った。
神戸にいたのは数ヵ月に過ぎなかったようですが、その間に仙千代は元服して広忠と名のった。
しかし、間もなく東条持広が病死すると、後を継いだ養子の義安は織田家に内通して、広忠を引き渡す計略
をめぐらし始めた。
大蔵は驚きあわてて広忠の供をして伊勢を出て、先ず三河の長篠あたりの山里に行き、郷民を語って舟を
頼み、遠江の掛塚という土地に行き、土地の鍛冶五郎という者の家に身を寄せたという。
「この間の御難苦、筆にもことばにも尽くしがたし」
と改正三河後風土記にあるそうですが、まだ少年の広忠を奉じてのことであるし、当時の田舎鍛冶屋のこと
ですから、富裕であろうとは思えないし、大蔵の苦労は大変なものだったのでしょう。
大蔵は篤実忠誠な人物であったらしいですが、息子のかつての大罪を償おうとの覚悟もあったのでしょう。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (7月20日の問題)
正解:京都伏見
官兵衛は1589年5月、家督を突然嫡男の長政に譲り、秀吉の側近として引き続き軍師として仕え、中津城は長政に任せ、京都伏見屋敷、大阪天満屋敷を拠点としています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
涼を求めて 「秩父華厳の滝」
『秩父華厳の滝』
関東も梅雨明けしたら、猛暑が続いています。
近くで涼しくなれるところはないかと地図を広げていたら、秩父に華厳の滝なるものを発見。
滝といったら、山道を延々と歩くのが普通ですが、この滝は駐車場から至近距離なのです。
じゃ、行くしかないと、21日(月)の祭日に行ってきました。
近くといっても、東京からは100kmの距離です。朝8時過ぎに出て10時30分に到着です。
滝の入口の大きな看板

もう、ここで水の流れが聞こえています。

入口から1分で沢です。

冷気とマイナスイオンがいっぱいです。(看板に書いてありました)

秩父華厳の滝は、落差12m程度の小さな滝です。
「秩父華厳」という名の通り一直線に流れ落ちる形は日光の華厳の姿に良く似ています。


山ゆりでしょうか

<所在地>秩父郡皆野町大字下日野沢
<アクセス>電車:秩父鉄道「皆野駅」より、皆野町営バス「日野沢」行き
「秩父華厳の滝前」下車、徒歩約5分
車:関越道花園ICから国道140号で秩父方面へ向かい、
親鼻橋で皆野市街方面へ(看板がたくさんあります)
滝に行く途中に「満願の湯」がありますので、帰りに立ち寄りました。
ここは何度も入ったことのある人気の温泉です。
この時期は温泉に入ってから、滝に行くほうがいいですね。

暑いですけど、次回は戦国時代に戻る予定です。
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じゃ、行くしかないと、21日(月)の祭日に行ってきました。
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滝の入口の大きな看板

もう、ここで水の流れが聞こえています。

入口から1分で沢です。


冷気とマイナスイオンがいっぱいです。(看板に書いてありました)

秩父華厳の滝は、落差12m程度の小さな滝です。
「秩父華厳」という名の通り一直線に流れ落ちる形は日光の華厳の姿に良く似ています。



山ゆりでしょうか

<所在地>秩父郡皆野町大字下日野沢
<アクセス>電車:秩父鉄道「皆野駅」より、皆野町営バス「日野沢」行き
「秩父華厳の滝前」下車、徒歩約5分
車:関越道花園ICから国道140号で秩父方面へ向かい、
親鼻橋で皆野市街方面へ(看板がたくさんあります)
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富士山をぐるり一周 「その3」
『富士裾野の動物たち』
鳴沢氷穴を出たら県道71号で大室山に向って、富士の裾野を南下する予定でしたが、天気が少し回復
していましたので、富士パノラマライン(R139)で本栖湖に向ってしまいました。
なんと本栖湖に写る逆さ富士を期待してしまったのです。 そう、千円札裏側のあの富士山です。
撮影スポットの「中之倉トンネル入口」に到着するも、富士山はベールに包まれたまま姿を出してくれません。
車から降りることなくUターンして、一路「道の駅 朝霧高原」へ。
朝霧高原のこのプレートが大好きなんです!

でも、まだ富士山の御姿は見ていません。
動物たちに会うため、ここから県道71号へ向うと、牧場の動物たちが迎えてくれます。

ちょっとダイエットのし過ぎではないかい? バランスよく食べなよ!

う~ん、いい顔しているね~

動物たちに語りかけながら南下すると、「富士ミルクランド」に到着です。
ここでは沢山の種類の動物たちに会うここができます^^

今日の搾乳の当番は「さくらさん」ですが、お客が来ないのでヒマしています。

右のロバ君は噛み付くとか・・・。 優しそうな顔をしているのにねぇ~。

うちの十姉妹の「まろ」ように、餌箱に入っているヤギさんもいます。

うちの「まろ」は、夜は餌入れで寝ています(;´д`)

引き馬さんもヒマしています。

うさぎさんもいましたが、耳の長いうさぎさんばかりがケージに入っていました。
さあ、富士山を一周したので夕食を清水港に食べに行こうと思ったけど、、ちょっと遠い。
じゃ、沼津港があるじゃないかと、沼津港に到着。

どこに入るか迷ったが、チョット人気の「丸天」さんに、
食したのは名前は忘れましたが、限定版の丼でした。

次回は、チョット遠くても清水港だなぁ~
一日かけて富士山をぐるりと廻ったのは、7月18日でした。
夏休みも始りましたので、富士山の裾野で一日遊んでみてはいかがでしょうか。
ランキングに参加しています

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鳴沢氷穴を出たら県道71号で大室山に向って、富士の裾野を南下する予定でしたが、天気が少し回復
していましたので、富士パノラマライン(R139)で本栖湖に向ってしまいました。
なんと本栖湖に写る逆さ富士を期待してしまったのです。 そう、千円札裏側のあの富士山です。
撮影スポットの「中之倉トンネル入口」に到着するも、富士山はベールに包まれたまま姿を出してくれません。
車から降りることなくUターンして、一路「道の駅 朝霧高原」へ。
朝霧高原のこのプレートが大好きなんです!

でも、まだ富士山の御姿は見ていません。
動物たちに会うため、ここから県道71号へ向うと、牧場の動物たちが迎えてくれます。

ちょっとダイエットのし過ぎではないかい? バランスよく食べなよ!

う~ん、いい顔しているね~

動物たちに語りかけながら南下すると、「富士ミルクランド」に到着です。
ここでは沢山の種類の動物たちに会うここができます^^

今日の搾乳の当番は「さくらさん」ですが、お客が来ないのでヒマしています。

右のロバ君は噛み付くとか・・・。 優しそうな顔をしているのにねぇ~。


うちの十姉妹の「まろ」ように、餌箱に入っているヤギさんもいます。


うちの「まろ」は、夜は餌入れで寝ています(;´д`)

引き馬さんもヒマしています。

うさぎさんもいましたが、耳の長いうさぎさんばかりがケージに入っていました。
さあ、富士山を一周したので夕食を清水港に食べに行こうと思ったけど、、ちょっと遠い。
じゃ、沼津港があるじゃないかと、沼津港に到着。

どこに入るか迷ったが、チョット人気の「丸天」さんに、
食したのは名前は忘れましたが、限定版の丼でした。

次回は、チョット遠くても清水港だなぁ~
一日かけて富士山をぐるりと廻ったのは、7月18日でした。
夏休みも始りましたので、富士山の裾野で一日遊んでみてはいかがでしょうか。
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