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『黒田官兵衛』 その37

『如水の関ヶ原』

関ヶ原の戦いの時、如水は国もとの豊前中津にいた。

当主の長政が上杉征伐のために徳川家康に従って東国に行っていたので、家中の精鋭の殆どはこれに従い、

如水の手元にはいくらも兵がなかった。

中津城
na.中津城 004

古都物語によると、石田三成は中津に密使を遣わし

「故太閤の御恩を受けられること深き貴老なれば、ぜひお味方ありたい。御同心においては急ぎお上りあって、

諸事御指南にあずかりたい。功者の名ある貴老がお味方くだされるなら、味方いかばかり勇み立つか知れま

せぬ。戦い利運となり、秀頼様天下を治め給う世になった暁には、御領国はいかようにでもお望みに任せ申

す。なお、甲斐守(長政)殿も急ぎお呼び返しなされたい」

と言ってよこした。

如水は自ら使者に会って

「愚老はいかにも太閤様の御恩をこうむること人に越えているものだ。されば秀頼様のおんためとあれば、どん

なことにも疎略には出来ぬ。しかし、賜るべき領地のことを先ず決めておこう。かかることは先に確かめて決め

ておかぬと、あとで面倒の起こりがちなものだ。もし九州において7ヵ国賜るなら、お味方して、家康退治の御計

略に粉骨いたすであろう。御承諾においては誓紙をいただきたい。」

と答えて、宇治勘七という家臣を判元見届役として使者と同道させて上坂させようとした。

家臣らは如水のすることが腑に落ちず、確認した。

すると如水は笑った。

「にぶいの、汝(わい)ら。当時九州の大名どもは大坂方だ。小早川、毛利、筑紫、竜造寺。鍋島、立花、小西、

秋月、相良、高橋、伊東、竹中、中川、島津。徳川方は細川と加藤しかおらん。しかもその細川は東国に行っ

ていて、家臣ばかりが少しいるだけという有様だ。迂闊な返事をしては、この無勢になるに、すぐ攻めかけら

れる。三成はおれをだまそうとしているのだ。だから、おれも奴をだましているのよ。こうしてあしらっているう

ちに、戦さ支度を整えて戦おうという算段よ。まあ、黙って見ておるがよい。おれはまだ老いぼれていぬ」

戦さ支度にかかった。

先ず、ふれを出して兵を募集した。

武家浪人、親がかりの若者、年をとって隠居している者、百姓、町人、職人なんでもよい。希望ある者は皆集

まれというふれです。



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sakura 20140830



『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:清洲同盟
桶狭間の戦い後の1562年、先に織田氏と同盟を結んだ叔父・水野信元の仲介もあって、義元の後を継いだ今川氏真と断交して家康は信長と清洲同盟を結んでいます。
その翌年には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めています。

≪本日の問題≫


                                       <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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中山道 「馬籠宿」

『木曽街道の馬籠宿』

関ケ原の合戦で勝利をおさめた徳川家康は、交通網の整備に着手し、幕府が管轄する道路を定めこれら

の道路には多くの宿駅を定めています。


ma.馬籠宿 002

中山道は江戸日本橋を起点とし京都まで132里(約530km)の道程で、ここには69の宿場が設けられて

いた。

本州の中部山岳地帯を縦断し、木曽を通っていたことから別名を「木曽路」とも「木曽街道」とも呼ばれてい

そうな。


江戸へ80里半、京へ52里半。 いくつおにぎりを食べると着くのやら。
ma.馬籠宿 001

馬籠宿は、中山道43番目の宿場(→中山道六十九次)で、木曽で一番南の宿場町でした。

中山道は東海道とともに江戸と京都を結ぶ大動脈で、東海道の126里・53宿に比べて遠回りでしたが、

東海道は大井川で行く手を遮られたり、桑名一宮間の船旅で海難の危険が伴ったのに対し、中山道の

旅にはこうした難所がなかったので、京都から江戸に向かう姫君たちはほとんど中山道を選んだという。


人気の観光スポットで、大勢の人が訪れています。
ma.馬籠宿 003


名物の水車、人が切れるのを待つには根気がいります。
ma.馬籠宿 004


石畳はいいのですが、立ち並ぶ家が新しくて気分が乗れません。
ma.馬籠宿 005


もう少し上ると、島崎藤村の生家があるということですが親戚でもないから、熱中症にならないうちに退散
です。
ma.馬籠宿 006

徳川秀忠が上田の城でチャンバラ遊びをし、中山道を一生懸命走ったけど、関ヶ原の戦いに間に合わなかった

のか。  うむ、ふむ。

to.徳川秀忠

訪問日は、8月16日でした。





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征夷大将軍 『徳川家康』 その22

『大高城の兵糧入れ』

今川義元の上洛の志は久しいものであったが実行に移したのは、1559年になってからです。

彼はまず尾州の笠寺・鳴海その他の数ヵ所に城砦を構え、軍勢を配置した。

今川家と織田家とは数十年におよぶ戦争を繰り返している。

大高城
oo.大高城

今川の上洛は織田家の滅亡を意味するので、じっとしてはおられないのです。信長もまた鳴海近辺の数ヵ所

に城砦を構えて対抗した。

今川方の城砦の中で、最も敵中に深く入っているのは大高城であった。城の東方の左右に織田方の鷲津・丸

根の2城が左右の門のようにあって、兵法にいう死地となっているのです。

この城から兵糧が尽きたと、駿府に訴えてきたが困難を極めたことなので、今川家はこれに当たろうという者

はいない。

その役割は元康(家康)に廻ってきた。

「引き受けました。年少の身の面目でございます」

さわやかに引き受けて岡崎に帰り、もの見を出して様子を探った上で、取りかかった。

先ず、敵の寺部・梅坪の両城のある村落に放火して焼き立て、鷲津・丸根の城兵らが、寺部・梅坪の両城が今

川方に攻め落とされると見て気を奪われ狼狽している間に、すたすたと大高城に兵糧を運んでしまった。

これが有名な「大高城の兵糧入れ」といって、当時広く語り伝えられ、家康一代の誇りとなっています。

この時、元康18歳であった。



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sa-ko 20140828


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:大高城へ食料補給のため
大高城に松平元康が兵糧を届け、長照に代わり元康が城の守備についた。
桶狭間の戦いで、今川義元の死を確認した元康は岡崎城に引き下がったため、大高城は再び織田家の領地となっています。

≪本日の問題≫


                                       <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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征夷大将軍 『徳川家康』 その21

『先方で活躍する元康(家康)』

岡崎勢が押し寄せてきた。

元康(家康)の母・お大の兄・水野信元は侮り切っている。

「なにほどのことであろう。ひと当てに蹴散らせ」

と3百余騎、一団となってまっしぐらに駆けよせ、岡崎勢の中央を突破しようとした。

家康が贈ったという松平信一の具足
ma.松平信一の具足

元康(家康)は下知して、歩兵を折り返えし槍の穂先を揃えて構えさせた、急に立って敵の馬の太腹・胸掛

・平頸あたりを突き立てさせた。

水野勢の先手の馬は狂い立って倒れ、続く者はこれに乗りかけて倒れ、兵は落馬する。

全軍しどろもどろとなって乱れるところを、後陣に控えた岡崎の騎馬隊がドッと突進したので、水野勢は崩れ

立ち70余りの死体を残して城中に逃げ込んだ。

この後、元康は寡兵をもってしばしば織田方の豪族を打ち破ったので、勢いになびくのは弱者の常です。

知多郡の豪族らは、大半は今川方となった。

信長は安からぬことに思った。

勢いを挽回するために徹底的に快勝を得、敵対した者を最も残酷に処罰することを必要と考えている。

兵1千余りを元康の一族・松平信一が篭る尾張春日井郡の品野城に遣わし、向い城を構え昼夜3日間猛

攻した。

一時に攻め落として、城兵全部を殺して首をさらしものにする算段であった。

しかし、城兵はよく防いで3日の猛攻によく耐えた。

「この城は力攻めではいかぬ。気長に食攻めにしよう」

と、少し遠のき包囲した。

ところが数日後の風雨の夜、城方では寄せ手が構えた向い城に、忍びの者を入れて放火し、同時に250人

が斬り入ったのです。寄せ手は油断しきっていたことで、散々になって敗走した。

このように今川家にとって、元康を主将とする三河武士を西進の先手にしたことは、この上なく有利となった

のです。



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pig 20140827



『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:伝通院
松平広忠の正室で、徳川家康の母(お大)は、晩年は伝通院と称し家康が滞在する山城伏見城で死去。遺骨は江戸小石川の傳通院に埋葬されています。
ちなみに、崇源院は浅井三姉妹の江、常高院は浅井三姉妹の初です

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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征夷大将軍 『徳川家康』 その20

『母・お大の実家との戦争』

元康(家康)の母・お大の兄・水野信元との戦争が始まった。

信元はお大が、まだ松平家にいる間に織田家側となり、これがお大の離縁の原因になったのですが、信元は

松平家に元来の怨みがある訳ではありません。

織田家に所属したのは家の安泰を保つために、そうしなければならなかっただけのことです。

強国に間に挟まれた弱国の仕方ない自存の道であったことは、松平家と同様だったのです。

したがって、この両家が戦わなければならない理由は、彼ら自身の中にはなく、その背後の勢力に強制された

だけのことなのです。

当時、信元は織田家のために尾張知多郡の石箇瀬(いしがせ)を守っていたので、元康はこれを討とうとして

兵を向けた。

知らせに接して信元は、

「元康は弱年者なれば合戦上手とも覚えず、またその血をいえばわが甥である。大事をとって籠城して戦って

はよその聞こえもしかるべからず」

といって、野戦すべく城を出、地の利よきところに陣取ったという。(改正風土記)

「よその聞こえもしかるべからず」という信元の言葉の「よそ」とは織田家を指しているのです。

その織田家に疑惑を持たれることになるという意味に解釈するのでしょう。



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sa-ko 20140826


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:敵の指を喰いちぎった
毛利良勝が斬りつけようとした時、数合ほどやり合った後に、首を掻こうとした毛利の指を食い喰いちぎって絶命したと伝わります。

≪本日の問題≫


                                   <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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征夷大将軍 『徳川家康』 その19

『ゆがみはじめた今川氏の弓矢』

出かけが多く、家康さんの記事が疎かになってしまいましたので、 少し綴ってみたいと思います。


元信(家康)はすぐには駿府に帰らず、しばらく岡崎に止まっていたが、今川家から来ている城代の山田

新左衛門に向って、

「われら若年者でござれば、本丸には従前通りご辺居られたし、われらは二の丸に居て、諸事ご指南仰ぎ

とうござる」

と言って、本丸に入ることを遠慮したので、報告を聞いて義元は大いに心証をよくしたという。

今川義元(1519-1560年)
im.今川義元 001

元信の用心深さは無類のものがあり、後年には一層強く表れてくる性質であるが、この若い時代から用心

深かったのです。

元信は翌1557年の春、駿府に帰ったが間もなく「元康」と改名した。祖父・清康の武名を慕ったのです。

1558年、元康は17歳となった。この年の春、また義元の許しを得て岡崎に帰ったが、間もなく三河の諸

豪にして織田家に心を通じている者ども数名を討って、みな勝利している。

これは元康の初陣であったが、用兵の巧みさに家臣ら皆おどろいたという。

義元は勝報を聞いて、松平家の旧領のうち山中の300貫の地を返し、刀も贈ったという。

この時の帰国は一時のことではなく、ずっと岡崎にいる許可を得ていたので岡崎の老臣らは駿府に行って、

「元康すでに帰国いたしました上は、所領をもとのように返し下され、また今川家より派遣のお役人らもお引

き取り下されとうござる。もちろん、岡崎の家老らから差し出しています人質どもは従前通り留め置き下さり

ますよう」

と願い出たが、義元は渡そうとしない。

「余(よ)は近年のうちに尾州へ発向する心組みでいる。領地の儀は、その節、境目を正して引き渡すであろ

う。それまで待つよう」

と答えたので、みな仕方なく帰り、憂憤を押えて月日を送ったという。(実記)

太原雪斎が生きていたら、こんなへたな欲をかかず、返すものは返して、岡崎の士心を繋いだと思われます

が、その雪斎は3年前に死んでいたのです。

今川家の弓矢は雪斎が死んだ時からゆがみ始めたのです。




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pig 20140825


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:名護屋城
名護屋城は、秀吉が大陸への進攻を企図した際、前線基地として大掛かりに築城した城です。
名護屋城には五重天守や御殿が建てられ、城の周囲には城下町には人口10万人を超えるほど繁栄していたそうです。

≪本日の問題≫


                                      <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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信長さんの足跡を駆け足で

『信長さんの足跡を辿ってみました』


郡上おどりに参加した翌日(8月17日)、せっかく美濃に来たのだから「信長さんの足跡を辿ってみよう」と

いうことで、美濃、尾張をぐるぐると廻ってみました。

宿泊したホテルは、美濃でしたので廻る順番は記事の順番ではありませんが、吉法師(信長の幼名)から

辿ってみます。


吉法師が誕生した「那古野城」(名古屋城の二の丸にあります)
no.信長の足跡 001

「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ

ここ清洲城で尾張を統一

尾張国統一を果たした翌1560年5月、今川義元が尾張国へ侵攻

信長さんは、今川氏の尾張侵攻を阻止すべく、5月19日午後一時、幸若舞『敦盛』を舞った後、昆布と勝ち栗

を前に、立ったまま、湯漬けを食べ、ここ清洲城から6騎で出陣。

no.信長の足跡 002

清洲城から出陣した、信長さんは熱田神宮で戦勝祈願 (残念ながら今回は行けず)

その後、善照寺砦で4千の軍勢を整えて出撃。

no.信長の足跡 003

桶狭間の今川軍陣中に強襲をかけ、今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取る。

現当主である氏真の実父を失った今川軍は、氏真の命で本国駿河国に退却。

桶狭間古戦場伝説地(豊明市)がありますので、それはまた別途詳細記事の時に。

no.信長の足跡 004

1563年、美濃攻略のため本拠を小牧山城に移す。

ここ小牧山城が信長さんが始めて築いた城です。 (現在は城を模した博物館)

no.信長の足跡 007

尾張はバスも信長さんです。

no.信長の足跡 008

西美濃三人衆などを味方につけた信長さんは、1567年に斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ(稲葉山城の

戦い)、尾張・美濃の2ヵ国を領する大名に。 

信長さんは、この後から「天下布武」の朱印を使用。

この岐阜城(稲葉山城)はライトアップを撮る予定でしたが、「郡上おどり」への参加時間が遅くなるため、翌日

撮ったものです。

撮影場所は、プロ友の「権中納言さん」から教わっていた『長良橋南』で撮ったものです。

いつかはライトアップの岐阜城を、この場所から撮ってみたいものです

no.信長の足跡 009

今回は、安土までは足を伸ばすことができませんでしたので、21年11月に登城した時の安土城。

no.信長の足跡 010


個別には、別途記事にしてみたいと思います。



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pig 20140824

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プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













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