征夷大将軍 『徳川家康』 その41
『築山殿の妾話』
人間はいつまでも同じ興味を持ち続けることは出来ないものです。
一旦鼻についたとなると、10歳も年上の女房では、もうどうにもならない。それに筑山殿は家康にとって最
も恐ろしい今川家の一門なのです。
夫婦の愛情の細やかな間は潜在的な圧迫観念で済んでいたのでしょうが、気持ちが歪んでくれば耐え難い
ものになったのでしょう。
桶狭間合戦の地 (桶狭間古戦場訪問記は「こちら」です。)

そこに起こったのが桶狭間合戦です。
家康は完全に今川家から独立し、筑山殿からの解放感もあったのでしょう。
駿府にも行かなくなったから、会う機会も少ない。
若い増花も目につく。心は筑山殿から離れるばかりであった。
それでも2年後に今川家との話がついて竹千代とともに岡崎に築山殿を引き取った時には、まだ多少の情愛
はあったのでしょうが、何せ争えないのが年です。
家康は21という若さなのに、築山殿は31という年増です。
一説によると、築山殿は腹を立てて岡崎を飛び出し、ある時期には越前にさすらって行き、朝倉義景の妾とな
っていたこともあり、さらにその後伊勢に来て神宮の御師の妾になっていたこともあったのを、信康(竹千代)が
次第に成人してこれを悲しみ、岡崎に迎えたという説もありますが、この話は年齢的に信じられない話です。
当時の女性の31歳は、現代女性の31歳と違って、容色は衰えていたのが普通です。
その31で駿府から岡崎に来て、飛び出していったのは少なくとも2、3年後のことでしょうから、当時としては中
婆さんです。
朝倉義景がいかにもの好きでも、妾にするとは考えられないので、ずっと岡崎にいたと考えるべきなのでしょう。
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いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:織田信長
信長は家康に築山殿と信康の殺害を命じたとされますが、近年では築山殿の殺害と信康の切腹は信長の命ではなく家康と信康の対立が原因とする説もあります。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
人間はいつまでも同じ興味を持ち続けることは出来ないものです。
一旦鼻についたとなると、10歳も年上の女房では、もうどうにもならない。それに筑山殿は家康にとって最
も恐ろしい今川家の一門なのです。
夫婦の愛情の細やかな間は潜在的な圧迫観念で済んでいたのでしょうが、気持ちが歪んでくれば耐え難い
ものになったのでしょう。
桶狭間合戦の地 (桶狭間古戦場訪問記は「こちら」です。)

そこに起こったのが桶狭間合戦です。
家康は完全に今川家から独立し、筑山殿からの解放感もあったのでしょう。
駿府にも行かなくなったから、会う機会も少ない。
若い増花も目につく。心は筑山殿から離れるばかりであった。
それでも2年後に今川家との話がついて竹千代とともに岡崎に築山殿を引き取った時には、まだ多少の情愛
はあったのでしょうが、何せ争えないのが年です。
家康は21という若さなのに、築山殿は31という年増です。
一説によると、築山殿は腹を立てて岡崎を飛び出し、ある時期には越前にさすらって行き、朝倉義景の妾とな
っていたこともあり、さらにその後伊勢に来て神宮の御師の妾になっていたこともあったのを、信康(竹千代)が
次第に成人してこれを悲しみ、岡崎に迎えたという説もありますが、この話は年齢的に信じられない話です。
当時の女性の31歳は、現代女性の31歳と違って、容色は衰えていたのが普通です。
その31で駿府から岡崎に来て、飛び出していったのは少なくとも2、3年後のことでしょうから、当時としては中
婆さんです。
朝倉義景がいかにもの好きでも、妾にするとは考えられないので、ずっと岡崎にいたと考えるべきなのでしょう。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:織田信長
信長は家康に築山殿と信康の殺害を命じたとされますが、近年では築山殿の殺害と信康の切腹は信長の命ではなく家康と信康の対立が原因とする説もあります。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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征夷大将軍 『徳川家康』 その40
『姉さん女房の築山殿』
家康さんにとってやっかいな問題であっただろう、築山殿事件について触れてみたいと思います。
築山殿(1533?-1579年)

1570年正月に家康は浜松に居城を移し、岡崎には長男の信康をおいて守備させた。
浜松に移るにあたり、妻を同行せず信康とともに岡崎に残し、その居所が築山というところにあったので、築山
殿と呼ばれるようになったという。
家康のこの妻に対する愛情は、桶狭間合戦後に急激に冷却したらしいのです。
結婚当初はその交情は相当に濃厚だったのでしょう。
結婚3年目の1559年3月7日に竹千代(信康)が生まれ、その翌年の3月18日には亀姫が生まれているの
です。
時をおかず妊娠していることは夫婦の仲が良かった証拠です。
築山殿は10歳も年上の姉さん女房ですが、まだ少年だった家康にとっては、それはかえって魅力的だったの
でしょう。
男性が少年期から青年期に移る期間には、年上の女性に気を引かれることが多いものですが、特に家康の場
合は生まれて3歳で母と生き別れしているので、この傾向が強かったのではと思われます。
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いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (10月26日の問題)
正解:加藤清正
如水は、加藤清正、立花宗茂、鍋島直茂を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後の水俣まで進軍したとき、徳川家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
家康さんにとってやっかいな問題であっただろう、築山殿事件について触れてみたいと思います。
築山殿(1533?-1579年)

1570年正月に家康は浜松に居城を移し、岡崎には長男の信康をおいて守備させた。
浜松に移るにあたり、妻を同行せず信康とともに岡崎に残し、その居所が築山というところにあったので、築山
殿と呼ばれるようになったという。
家康のこの妻に対する愛情は、桶狭間合戦後に急激に冷却したらしいのです。
結婚当初はその交情は相当に濃厚だったのでしょう。
結婚3年目の1559年3月7日に竹千代(信康)が生まれ、その翌年の3月18日には亀姫が生まれているの
です。
時をおかず妊娠していることは夫婦の仲が良かった証拠です。
築山殿は10歳も年上の姉さん女房ですが、まだ少年だった家康にとっては、それはかえって魅力的だったの
でしょう。
男性が少年期から青年期に移る期間には、年上の女性に気を引かれることが多いものですが、特に家康の場
合は生まれて3歳で母と生き別れしているので、この傾向が強かったのではと思われます。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (10月26日の問題)
正解:加藤清正
如水は、加藤清正、立花宗茂、鍋島直茂を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後の水俣まで進軍したとき、徳川家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
大阪城のライトアップ
ブログの写真が出版本に
『piglet01のブログが出版社の目に留まりました』
10月24日に彩図社さんから出版された「戦国の合戦99の謎」に、当ブログの写真を使っていただきました。
彩図社さんは、歴史本も多く出版されていますので、本棚を覗いてみたら
・「戦国武将の大誤解」(ISBN978-4-88392-767-8)
・「日本の名城99の謎」(ISBN978-4-88392-705-0 C0021)
が収まっていました。
記念に本を贈っていただきましたので、簡単に紹介します。

今回出版された「戦国の合戦99の謎」(ISBN978-4-8013-0033-0 C0021)は、5章構成になっていて
1章 名勝負にまつわる謎
2章 武器にまつわる謎
3章 戦国武将にまつわる謎
4章 合戦場の謎
5章 合戦場のルール
で、99の謎をわかりやすく解説してあります。
すべて画像入りの解かり易い戦国時代の入門書になっていますので、歴史に興味のある方は本棚に収納
されてはいかがでしょうか。
お安いです。(537円+税)
写真を使っていただいた謎は「10.関ヶ原の勝敗は会議で決まった?」
そうです。 「小山評定」にpigletのブログ写真を使っていただいたのです。 (その記事は「こちら」です。)

<クリックで拡大します>
巻末にも紹介して戴いています。

ブログタイトルの「日本百名城の旅」も完結した今年、このブログの継続について、どうしようかと考えた時も
ありましたが、新たに「城郭のライトアップ」と「激戦の地」廻りを追加して、暫く継続することにしましたが、長く
続けるといいこともあるものですね。
形として残りますので、いい記念になりました♪
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10月24日に彩図社さんから出版された「戦国の合戦99の謎」に、当ブログの写真を使っていただきました。
彩図社さんは、歴史本も多く出版されていますので、本棚を覗いてみたら
・「戦国武将の大誤解」(ISBN978-4-88392-767-8)
・「日本の名城99の謎」(ISBN978-4-88392-705-0 C0021)
が収まっていました。
記念に本を贈っていただきましたので、簡単に紹介します。

今回出版された「戦国の合戦99の謎」(ISBN978-4-8013-0033-0 C0021)は、5章構成になっていて
1章 名勝負にまつわる謎
2章 武器にまつわる謎
3章 戦国武将にまつわる謎
4章 合戦場の謎
5章 合戦場のルール
で、99の謎をわかりやすく解説してあります。
すべて画像入りの解かり易い戦国時代の入門書になっていますので、歴史に興味のある方は本棚に収納
されてはいかがでしょうか。
お安いです。(537円+税)
写真を使っていただいた謎は「10.関ヶ原の勝敗は会議で決まった?」
そうです。 「小山評定」にpigletのブログ写真を使っていただいたのです。 (その記事は「こちら」です。)

<クリックで拡大します>
巻末にも紹介して戴いています。

ブログタイトルの「日本百名城の旅」も完結した今年、このブログの継続について、どうしようかと考えた時も
ありましたが、新たに「城郭のライトアップ」と「激戦の地」廻りを追加して、暫く継続することにしましたが、長く
続けるといいこともあるものですね。
形として残りますので、いい記念になりました♪
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『黒田官兵衛』 その45
『やくたいもない!』
山名禅高の忠告は、家康の忠告であると、それと気づかない如水ではない。
黒田官兵衛(1546-1604年)

如水は言った。
「お聞きあれ、禅高。拙者に内府公を攻め滅ぼして、天下を取ろうとの所存があったならば、いと易きことで
ござったのだ。拙者は九州を打ち平げ、残るところは島津たけござったが、これとてどうしても盾つくならば、
攻め破るも難しいことではござらなんだ。その頃、中国路は備前・播磨まで大名ども皆こちらに来ていて空
国でござった。拙者が2万余りの兵を率い、加藤・鍋島らを両先鋒として海陸2千より押しのぼり、道すがら
浪人どもをかり集めてまいったなら、当地に着くころには10万余りの勢にはなっていたでござろう。清正は
猛将でござる。拙者の軍配のもとに戦うならば、内府(家康)公を討ち滅ぼさんこと易々たるもの、と思いも
したのでござるが、老人のせんなきことと思い、折角打ち従えた国々を捨てて、こうして上がって来たのでご
ざる。それを臆病者どもがあらぬ妄想をかいて恐れているのを、貴殿はまことと考えているのか、少しは魂
あって、分別がつく者ならば、さようなことを信ずる筈はござらぬ。やくたいもない!」
扇子で畳をたたきながら、居丈高になって、はばかる色もなく大言した。
これは禅高に言ったのではなく、家康の猜疑に対する痛烈なあてつけであり、おのれの不運に対する嘆きの
言葉だったのです。
禅高は有名な臆病人です。
若い頃、まだ豊国といっていたころ、その臆病のために家来ども居城・鳥取から追い出されという経歴がある。
驚き恐れ、顔色を失って立ち去ったという。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:恐怖のあまり脱糞した
三方ヶ原の戦いで敗走中の家康は、恐怖のあまり脱糞し、浜松城に入城したという。
家臣から脱糞を指摘されると「これは味噌だ」と家臣に言い放ったという逸話がよく知られていますが、出典となる史料が判明していません。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
山名禅高の忠告は、家康の忠告であると、それと気づかない如水ではない。
黒田官兵衛(1546-1604年)

如水は言った。
「お聞きあれ、禅高。拙者に内府公を攻め滅ぼして、天下を取ろうとの所存があったならば、いと易きことで
ござったのだ。拙者は九州を打ち平げ、残るところは島津たけござったが、これとてどうしても盾つくならば、
攻め破るも難しいことではござらなんだ。その頃、中国路は備前・播磨まで大名ども皆こちらに来ていて空
国でござった。拙者が2万余りの兵を率い、加藤・鍋島らを両先鋒として海陸2千より押しのぼり、道すがら
浪人どもをかり集めてまいったなら、当地に着くころには10万余りの勢にはなっていたでござろう。清正は
猛将でござる。拙者の軍配のもとに戦うならば、内府(家康)公を討ち滅ぼさんこと易々たるもの、と思いも
したのでござるが、老人のせんなきことと思い、折角打ち従えた国々を捨てて、こうして上がって来たのでご
ざる。それを臆病者どもがあらぬ妄想をかいて恐れているのを、貴殿はまことと考えているのか、少しは魂
あって、分別がつく者ならば、さようなことを信ずる筈はござらぬ。やくたいもない!」
扇子で畳をたたきながら、居丈高になって、はばかる色もなく大言した。
これは禅高に言ったのではなく、家康の猜疑に対する痛烈なあてつけであり、おのれの不運に対する嘆きの
言葉だったのです。
禅高は有名な臆病人です。
若い頃、まだ豊国といっていたころ、その臆病のために家来ども居城・鳥取から追い出されという経歴がある。
驚き恐れ、顔色を失って立ち去ったという。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:恐怖のあまり脱糞した
三方ヶ原の戦いで敗走中の家康は、恐怖のあまり脱糞し、浜松城に入城したという。
家臣から脱糞を指摘されると「これは味噌だ」と家臣に言い放ったという逸話がよく知られていますが、出典となる史料が判明していません。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
東京大仏
『ご存知ですか、東京大仏』
みなさん、ご存知ですか「東京大仏」。 なんと日本で三番目の大きい大仏だそうです。

先週末、バラを探しに「赤塚植物園」に行ったとき、公園の入口近くにありましたので立ち寄ってみました。
立派なお門です。

この地は、赤塚城の二の丸ということで碑も建っています。 (赤塚城登城記は「こちら」です。)

青銅製の鋳造大仏では、奈良・鎌倉に次ぐ日本で3番目の大きさで、高さは基壇が地上2m、蓮台2.3m、
座高8.2mで総高さは12.5mあるそうです。
一番と二番には、大きく水をあけられているかも知れませんが、優しい顔をした大仏さんです。

恐い顔の仁王さんもいますが、怒られてもガマンの鬼さんもいます。

鬼さんガマン中ですが肩こりがひどそうですね。 そのうち爆発しそうです!


年越し、初詣は賑うお寺だそうです。

紅葉が待ち遠しいですから、来週の連休には北関東に秋を迎えに行ってみたいと思っています。

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みなさん、ご存知ですか「東京大仏」。 なんと日本で三番目の大きい大仏だそうです。

先週末、バラを探しに「赤塚植物園」に行ったとき、公園の入口近くにありましたので立ち寄ってみました。
立派なお門です。

この地は、赤塚城の二の丸ということで碑も建っています。 (赤塚城登城記は「こちら」です。)

青銅製の鋳造大仏では、奈良・鎌倉に次ぐ日本で3番目の大きさで、高さは基壇が地上2m、蓮台2.3m、
座高8.2mで総高さは12.5mあるそうです。
一番と二番には、大きく水をあけられているかも知れませんが、優しい顔をした大仏さんです。

恐い顔の仁王さんもいますが、怒られてもガマンの鬼さんもいます。

鬼さんガマン中ですが肩こりがひどそうですね。 そのうち爆発しそうです!


年越し、初詣は賑うお寺だそうです。

紅葉が待ち遠しいですから、来週の連休には北関東に秋を迎えに行ってみたいと思っています。

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征夷大将軍 『徳川家康』 その39
『松平から徳川へ改姓』
一向一揆が終わった後、家康は馬を東三河に出し、しきりに今川方の諸城を陥れ、ついには吉田城を攻略
した。
吉田は東三河における今川家の拠点ですから、これで東三河も完全に家康の手に帰し、すでに西三河は彼
の手中にあったのですから、三河全土を手に入れたのです。
これが1564年6月、家康23歳のときでした。
三方ヶ原の戦いで敗戦した家康(1537年)

以後、1582年に織田信長が本能寺で没するまでの18年間に、家康は武田信玄とともに今川家を滅ぼして
その土地を分割し、信長に助勢して江州姉川で浅井・朝倉軍を撃破し、三方ヶ原で武田信玄に大敗するも、
その後、信長と連合して武田勝頼を長篠で撃破し、天目山に追いつめて自害させ、武田氏を滅ぼす。
これらの戦については、これまでの記事の「戦国時代 お江」、「戦国武将 武田信玄」、「戦国武将 武田勝頼」
を参照して頂ければと思います。
さらに、その後のことについては「戦国武将 前田利家」や「戦国武将 石田三成」の記事を参照願います。
ここでは、松平から徳川への改姓について、記してみたいと思います。
松平家は元来、この土地に尊崇されて加茂明神の氏子で、加茂氏を名乗っています。
加茂明神の神紋である葵を定紋としているのもこの理由であって、家康の時代になっても本性は加茂朝臣
と名乗っていたが、その勢力が増大して三河・遠江の太守になると庄屋時代からの姓はふさわしくなく、日本
の武門武士の棟梁として何百年の間、半神的英雄視されている八幡太郎家の末裔とした方がふさわしと思
うようになり、清和源氏を姓とし、徳川を氏としたのだと思われます。
家康は改姓にあたって、将軍足利義昭を通じて朝廷に奏請し、勅許を受けています。
1569年12月9日、家康28歳のときであった。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:織田信秀
小豆坂の戦いは、岡崎城に近い小豆坂(岡崎市)で行われた三河側の今川氏・松平氏連合と、尾張から侵攻してきた織田氏の間で1542年と1548の2度にわたって繰り広げられています。
発端は松平氏家中の家督相続をめぐる対立でしたが、これに領地拡大を図る織田氏と今川氏が介入し、事実上、松平清康の死後勢力の衰えた松平氏に代わる西三河地方の覇権を巡って、織田信秀と今川義元との戦いでした。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
一向一揆が終わった後、家康は馬を東三河に出し、しきりに今川方の諸城を陥れ、ついには吉田城を攻略
した。
吉田は東三河における今川家の拠点ですから、これで東三河も完全に家康の手に帰し、すでに西三河は彼
の手中にあったのですから、三河全土を手に入れたのです。
これが1564年6月、家康23歳のときでした。
三方ヶ原の戦いで敗戦した家康(1537年)

以後、1582年に織田信長が本能寺で没するまでの18年間に、家康は武田信玄とともに今川家を滅ぼして
その土地を分割し、信長に助勢して江州姉川で浅井・朝倉軍を撃破し、三方ヶ原で武田信玄に大敗するも、
その後、信長と連合して武田勝頼を長篠で撃破し、天目山に追いつめて自害させ、武田氏を滅ぼす。
これらの戦については、これまでの記事の「戦国時代 お江」、「戦国武将 武田信玄」、「戦国武将 武田勝頼」
を参照して頂ければと思います。
さらに、その後のことについては「戦国武将 前田利家」や「戦国武将 石田三成」の記事を参照願います。
ここでは、松平から徳川への改姓について、記してみたいと思います。
松平家は元来、この土地に尊崇されて加茂明神の氏子で、加茂氏を名乗っています。
加茂明神の神紋である葵を定紋としているのもこの理由であって、家康の時代になっても本性は加茂朝臣
と名乗っていたが、その勢力が増大して三河・遠江の太守になると庄屋時代からの姓はふさわしくなく、日本
の武門武士の棟梁として何百年の間、半神的英雄視されている八幡太郎家の末裔とした方がふさわしと思
うようになり、清和源氏を姓とし、徳川を氏としたのだと思われます。
家康は改姓にあたって、将軍足利義昭を通じて朝廷に奏請し、勅許を受けています。
1569年12月9日、家康28歳のときであった。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:織田信秀
小豆坂の戦いは、岡崎城に近い小豆坂(岡崎市)で行われた三河側の今川氏・松平氏連合と、尾張から侵攻してきた織田氏の間で1542年と1548の2度にわたって繰り広げられています。
発端は松平氏家中の家督相続をめぐる対立でしたが、これに領地拡大を図る織田氏と今川氏が介入し、事実上、松平清康の死後勢力の衰えた松平氏に代わる西三河地方の覇権を巡って、織田信秀と今川義元との戦いでした。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>