2014年 日本百名城巡りのまとめ
「2014年の城巡りは、百名城7城とその他の城9城を攻略」
今年も城巡りにお付き合い戴き、ありがとうございました。
お陰さまで、6月には津和野城を最終とし、100名城巡りを達成することができました。
「日本百名城塗りつぶし同好会」も真っ赤に塗りつぶしを完了しましたので、良かったら覗いてみてください。
今年廻りました城を順に紹介してみたいと思います。
【2月】
・遠江国 小山城 (静岡県)
*登城日:平成25年2月22日 (登城記は「こちら」です。)

・田中城 (静岡県)
*登城日:平成25年2月22日 (登城記は「こちら」です。)

・日本百名城41 「駿府城」
*登城日:平成25年2月22日 (登城記は「こちら」です。)

【4月】
・日本百名城54 「大阪城」 (大阪府)
*登城日:平成26年4月21日 (登城記は「こちら」です。)

・米子城 (鳥取県)
*登城日:平成25年4月30日 (登城記は「こちら」です。)

・日本百名城65 「月山富田城」 (島根県)
*登城日:平成26年4月30日 (登城記は「こちら」です。)

・日本百名城64 「松江城」 (島根県)
*登城日:平成25年4月30日 (登城記は「こちら」です。)

【5月】
・日本百名城72 郡山城 (広島県)
*登城日:平成26年5月1日 (登城記は「こちら」です。)

・三木城 (兵庫県)
*登城日:平成26年5月4日 (登城記は「こちら」です。)

【6月】
・日本百名城66 「津和野城」 (島根県)
*登城日:平成26年6月30日 (登城記は「こちら」です。)
この城で日本百名城巡りをコンプリートしました。

【8月】
・苗木城 (岐阜県)
*登城日:平成26年8月16日 (登城記は「こちら」です。)

・神岡城 (岐阜県)
*登城日:平成26年8月22日 (登城記は「こちら」です。)

【9月】
・日本百名城39 「岐阜城」 (岐阜県)
*登城日:平成26年9月6日 (登城記は「こちら」です。)

・郡上八幡城 (岐阜県)
*登城日:平成26年9月6日 (登城記は「こちら」です。)

・岩崎城 (愛知県)
*登城日:平成26年9月7日 (登城記は「こちら」です。)

【11月】
・上野国 女渕城 (群馬県)
・登城日:平成26年11月3日 (登城記は「こちら」です。)

【城郭のライトアップ】
城郭のライトアップも6城廻りましたが、来年はこちらを主に廻ってみたいと思います。
・日本百名城54 「大阪城」 (大阪府)
*登城日:平成26年4月21日 (登城記は「こちら」です。)

・日本百名城73 「広島城」 (広島県)
*登城日:平成26年6月30日 (登城記は「こちら」です。)

・日本百名城43 「犬山城」 (岐阜県)
*登城日:平成26年8月16日 (登城記は「こちら」です。)

・日本百名城23 「金沢城」 (石川県)
*登場日;平成26年8月21日 (登城記は「こちら」です。)

・郡上八幡城ライトアップ (岐阜県)
*登城日:平成26年9月6日 (登城記は「こちら」です。)

・忍城ライトアップ (埼玉県)
*登城日:平成26年10月11日 (登城記は「こちら」です。)

『pigletが楽しんでくれたこと』
・瀬戸内海に浮かぶ「うさぎの楽園・大久野島」へ遊びに行ったこと
*記事は「こちら」です。

・代官山ラビランに3回も参加したこと
*記事は「こちら」です。

みなさまのお陰でこの1年ブログを続けることができました。
皆さまが輝く新年を迎えられることをお祈りします。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。
今年も城巡りにお付き合い戴き、ありがとうございました。
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「日本百名城塗りつぶし同好会」も真っ赤に塗りつぶしを完了しましたので、良かったら覗いてみてください。
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【2月】
・遠江国 小山城 (静岡県)
*登城日:平成25年2月22日 (登城記は「こちら」です。)

・田中城 (静岡県)
*登城日:平成25年2月22日 (登城記は「こちら」です。)

・日本百名城41 「駿府城」
*登城日:平成25年2月22日 (登城記は「こちら」です。)

【4月】
・日本百名城54 「大阪城」 (大阪府)
*登城日:平成26年4月21日 (登城記は「こちら」です。)

・米子城 (鳥取県)
*登城日:平成25年4月30日 (登城記は「こちら」です。)

・日本百名城65 「月山富田城」 (島根県)
*登城日:平成26年4月30日 (登城記は「こちら」です。)

・日本百名城64 「松江城」 (島根県)
*登城日:平成25年4月30日 (登城記は「こちら」です。)

【5月】
・日本百名城72 郡山城 (広島県)
*登城日:平成26年5月1日 (登城記は「こちら」です。)

・三木城 (兵庫県)
*登城日:平成26年5月4日 (登城記は「こちら」です。)

【6月】
・日本百名城66 「津和野城」 (島根県)
*登城日:平成26年6月30日 (登城記は「こちら」です。)
この城で日本百名城巡りをコンプリートしました。

【8月】
・苗木城 (岐阜県)
*登城日:平成26年8月16日 (登城記は「こちら」です。)

・神岡城 (岐阜県)
*登城日:平成26年8月22日 (登城記は「こちら」です。)

【9月】
・日本百名城39 「岐阜城」 (岐阜県)
*登城日:平成26年9月6日 (登城記は「こちら」です。)

・郡上八幡城 (岐阜県)
*登城日:平成26年9月6日 (登城記は「こちら」です。)

・岩崎城 (愛知県)
*登城日:平成26年9月7日 (登城記は「こちら」です。)

【11月】
・上野国 女渕城 (群馬県)
・登城日:平成26年11月3日 (登城記は「こちら」です。)

【城郭のライトアップ】
城郭のライトアップも6城廻りましたが、来年はこちらを主に廻ってみたいと思います。
・日本百名城54 「大阪城」 (大阪府)
*登城日:平成26年4月21日 (登城記は「こちら」です。)

・日本百名城73 「広島城」 (広島県)
*登城日:平成26年6月30日 (登城記は「こちら」です。)

・日本百名城43 「犬山城」 (岐阜県)
*登城日:平成26年8月16日 (登城記は「こちら」です。)

・日本百名城23 「金沢城」 (石川県)
*登場日;平成26年8月21日 (登城記は「こちら」です。)

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・忍城ライトアップ (埼玉県)
*登城日:平成26年10月11日 (登城記は「こちら」です。)

『pigletが楽しんでくれたこと』
・瀬戸内海に浮かぶ「うさぎの楽園・大久野島」へ遊びに行ったこと
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我に七難八苦を与えたまえ「山中鹿介」 その22
『新宮党の遺子・孫四郎』
富田城を開城し義久兄弟が降伏した時、鹿介らが尼子家の再興を将来に意図していたかどうかは疑問ですが、
陰徳太平記には、開城すべきか、あくまで拒守して餓死すべきかの相談が行われた時、わずかに残る家臣が、
「速やかに城を渡し、命を全うして時節を待たせ候え。元就も年60有余、余命はいくばくもござるまい。元就さえ
なくば、謀を巡らして毛利家を倒さんこと、いと易くござる」
と言った記述があるといいますが、これは書き過ぎなのでしょう。
毛利元就(1497-1571年)

当時の情勢から見て、毛利家が義久兄弟を野放しにしておく筈はなく、必ず監視下に置くに違いないと考えるの
が自然です。
とすれば、誰を奉じて再興するかということです。
尼子の血統を伝える者が、義久3人以外にあるとは当時はわからなかった筈です。
後に鹿介らが奉じて立った新宮党の遺子・孫四郎(勝久)の存在くらいは知っていたのでしょうが、それが無事で
いるのか、奉じるに足りるほどの器であるのか、わかっていたとは思えないからです。
富田城を開城した時点で再興を考えたのではなく、浪人して歩いているうちに孫四郎の存在を確かめ、孫四郎と
会いその人物を見て初めて奉じることが確定的になったのでしょう。
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いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:霧隠才蔵
霧隠才蔵は、「霧隠鹿右衛門を元にした架空の忍者」で、伊賀忍者の頭領・百地三太夫の弟子とされています。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
富田城を開城し義久兄弟が降伏した時、鹿介らが尼子家の再興を将来に意図していたかどうかは疑問ですが、
陰徳太平記には、開城すべきか、あくまで拒守して餓死すべきかの相談が行われた時、わずかに残る家臣が、
「速やかに城を渡し、命を全うして時節を待たせ候え。元就も年60有余、余命はいくばくもござるまい。元就さえ
なくば、謀を巡らして毛利家を倒さんこと、いと易くござる」
と言った記述があるといいますが、これは書き過ぎなのでしょう。
毛利元就(1497-1571年)

当時の情勢から見て、毛利家が義久兄弟を野放しにしておく筈はなく、必ず監視下に置くに違いないと考えるの
が自然です。
とすれば、誰を奉じて再興するかということです。
尼子の血統を伝える者が、義久3人以外にあるとは当時はわからなかった筈です。
後に鹿介らが奉じて立った新宮党の遺子・孫四郎(勝久)の存在くらいは知っていたのでしょうが、それが無事で
いるのか、奉じるに足りるほどの器であるのか、わかっていたとは思えないからです。
富田城を開城した時点で再興を考えたのではなく、浪人して歩いているうちに孫四郎の存在を確かめ、孫四郎と
会いその人物を見て初めて奉じることが確定的になったのでしょう。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:霧隠才蔵
霧隠才蔵は、「霧隠鹿右衛門を元にした架空の忍者」で、伊賀忍者の頭領・百地三太夫の弟子とされています。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
上野国 女渕城
『上野国 女渕(おなぶち)城』
女渕城は群馬県前橋市粕川町の赤城山麓にある戦国期に存在した城ですが、いつ、だれが城を築いたのか
わかっていません。
赤城山麓のこの他は、他の城と同様に武田氏、北条氏、上杉氏らの戦国大名の勢力争いの舞台となった地
で、女渕城もこれらの軍勢に攻められ城主を度々変えたようです。

1590年、小田原の北条方に属していたことから、豊臣秀吉の軍勢に攻められ、小田原氏の敗北と同時期に
落城し廃城となっています。
この城は、この地域では珍しく広大な水掘り(最大幅90m)を巡らせ、北から北曲輪、本丸、二の丸、三の丸
(御霊局和)、 竜光寺曲輪が並んでいます。


本丸で佇むpigletは、朝日がまぶしく固まっています。

沼田城を追われた沼田景義が女渕城城代を務めていたこともありますが、 由良氏の後援を受けて沼田城の
回復を図るが真田昌幸によって謀殺されてしまう。 池波正太郎の「まぼろしの城」に登場する沼田景義の物語
は戦国のならいとはいえ哀れです。 赤城山南麓の小城のひとつひとつに物語があります。
この城の登城は、11月下旬に群馬へ紅葉狩りに行った時に立ち寄りましたが、コンデジの中で眠っていました。
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<参考文献:現地案内板>
女渕城は群馬県前橋市粕川町の赤城山麓にある戦国期に存在した城ですが、いつ、だれが城を築いたのか
わかっていません。
赤城山麓のこの他は、他の城と同様に武田氏、北条氏、上杉氏らの戦国大名の勢力争いの舞台となった地
で、女渕城もこれらの軍勢に攻められ城主を度々変えたようです。

1590年、小田原の北条方に属していたことから、豊臣秀吉の軍勢に攻められ、小田原氏の敗北と同時期に
落城し廃城となっています。
この城は、この地域では珍しく広大な水掘り(最大幅90m)を巡らせ、北から北曲輪、本丸、二の丸、三の丸
(御霊局和)、 竜光寺曲輪が並んでいます。


本丸で佇むpigletは、朝日がまぶしく固まっています。

沼田城を追われた沼田景義が女渕城城代を務めていたこともありますが、 由良氏の後援を受けて沼田城の
回復を図るが真田昌幸によって謀殺されてしまう。 池波正太郎の「まぼろしの城」に登場する沼田景義の物語
は戦国のならいとはいえ哀れです。 赤城山南麓の小城のひとつひとつに物語があります。
この城の登城は、11月下旬に群馬へ紅葉狩りに行った時に立ち寄りましたが、コンデジの中で眠っていました。
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「お台場レインボー花火 2014」 その3
『お台場レインボー花火 2014』 (2014.12.27)
レインボー花火4回目(最終)に行ってきました。
先週の土曜日も、雨の中で花火は打ち上げられたのですが、車の中から出ることはできませんでした。˃⌂˂
今回が今年最後で、10分間と短い花火大会ですので、まばたきをしないでシャッターを切り捲りです´∀`

昨夜が最終回でしたので、多くのギャラリーが集まられていました。

真冬の花火見物は寒いですけど、空気が澄んでいますので綺麗に見ることができます。

画像はクリックですべて拡大します。

うちわでパタパタとやりながら、多くの花火を重ねてみましたが、これはやり過ぎですね。

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レインボー花火4回目(最終)に行ってきました。
先週の土曜日も、雨の中で花火は打ち上げられたのですが、車の中から出ることはできませんでした。˃⌂˂
今回が今年最後で、10分間と短い花火大会ですので、まばたきをしないでシャッターを切り捲りです´∀`

昨夜が最終回でしたので、多くのギャラリーが集まられていました。

真冬の花火見物は寒いですけど、空気が澄んでいますので綺麗に見ることができます。

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うちわでパタパタとやりながら、多くの花火を重ねてみましたが、これはやり過ぎですね。

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我に七難八苦を与えたまえ「山中鹿介」 その21
『尼子十勇士』
尼子十勇士の名は有名ですが、史書に出てくる人物は殆どいません。
山中鹿介、横道兵庫介、秋上伊織助、寺本生死介の4人くらいでしょうか。
清水寺に奉納されている尼子十勇士

尼子義久に別れを告げた時の69人の中には、山中、横道、秋上の3人のみです。
立花源太兵衛は、この降伏の時に使者として色々周旋した功があったとして、毛利家に出雲に2千貫の知行を
与えると言い渡されたが、立原は
「これを申し受けては主君を売ったに似ております。切におことわり申す」
と拒絶して京都に去ったという。
見事です。
安芸に連れて行かれた尼子の3兄弟は、始めのうちは寺に押し込められていたが、後には禄を給せられて客分
のような格になり、その子孫は佐々木と名のって臣下になったという。
さあ、鹿介はどうなったのでしょう。
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いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:出家した
毛利元就は、尼子義久を安芸円明寺に幽閉したので、大名としての尼子氏は滅亡しています。
その後、義久は1589年に毛利輝元より毛利氏の客分として遇され、安芸志道に居館を与えられています。
1596年に長門阿武郡嘉年の五穀禅寺において剃髪し出家して「友林」と号しています。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
尼子十勇士の名は有名ですが、史書に出てくる人物は殆どいません。
山中鹿介、横道兵庫介、秋上伊織助、寺本生死介の4人くらいでしょうか。
清水寺に奉納されている尼子十勇士

尼子義久に別れを告げた時の69人の中には、山中、横道、秋上の3人のみです。
立花源太兵衛は、この降伏の時に使者として色々周旋した功があったとして、毛利家に出雲に2千貫の知行を
与えると言い渡されたが、立原は
「これを申し受けては主君を売ったに似ております。切におことわり申す」
と拒絶して京都に去ったという。
見事です。
安芸に連れて行かれた尼子の3兄弟は、始めのうちは寺に押し込められていたが、後には禄を給せられて客分
のような格になり、その子孫は佐々木と名のって臣下になったという。
さあ、鹿介はどうなったのでしょう。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:出家した
毛利元就は、尼子義久を安芸円明寺に幽閉したので、大名としての尼子氏は滅亡しています。
その後、義久は1589年に毛利輝元より毛利氏の客分として遇され、安芸志道に居館を与えられています。
1596年に長門阿武郡嘉年の五穀禅寺において剃髪し出家して「友林」と号しています。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
我に七難八苦を与えたまえ「山中鹿介」 その20
『富田城の開城』
「朋輩を眼前に討たれて見捨ててはかえられず」
と、益田方がドッと押し出して来たので、尼子方でも応戦して相当激しい戦いの末、益田方を撃退した。
毛利方の兵糧攻めに、尼子方の窮迫は日々深刻となり、士気は衰え敵に降伏する者が相次いだ。
月山富田城山中御殿跡

「尼子家の大身の侍どもは、ことごとく降参して今は13人の家老の中には、河副美作守、森脇市正だけが残り
て、その外はみな近習の輩なり」(陰徳太平記)
最期は、わずか300人余りになったというのです。
ついに1566年11月21日、富田城を開城します。
尼子義久は毛利陣に遣わして降伏を申し入れ、自らは切腹したいと申し出た。
毛利元就は、降伏は許したが切腹は許さず、倫久・秀久の両弟とともに富田城を出て芸州に来らるべしと答え
た。
28日、義久兄弟は城を明け渡して、毛利陣に出頭し芸州に連行された。
この時、鹿介や立原源太兵衛ら69人は、先途を見届けたいと望んで杵築(出雲)の港までついて行き、ここで
饗応してなごりを惜しんだという。
この69人の名前を陰徳太平記には列挙しています。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:8カ国
月山富田城を落とした毛利元就は一代にして、中国地方8ヶ国(安芸・備後(広島県)、周防・長門(山口県)、石見・出雲(島根県)、因幡・伯耆(鳥取県))を支配する大大名にのし上がっています。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
「朋輩を眼前に討たれて見捨ててはかえられず」
と、益田方がドッと押し出して来たので、尼子方でも応戦して相当激しい戦いの末、益田方を撃退した。
毛利方の兵糧攻めに、尼子方の窮迫は日々深刻となり、士気は衰え敵に降伏する者が相次いだ。
月山富田城山中御殿跡

「尼子家の大身の侍どもは、ことごとく降参して今は13人の家老の中には、河副美作守、森脇市正だけが残り
て、その外はみな近習の輩なり」(陰徳太平記)
最期は、わずか300人余りになったというのです。
ついに1566年11月21日、富田城を開城します。
尼子義久は毛利陣に遣わして降伏を申し入れ、自らは切腹したいと申し出た。
毛利元就は、降伏は許したが切腹は許さず、倫久・秀久の両弟とともに富田城を出て芸州に来らるべしと答え
た。
28日、義久兄弟は城を明け渡して、毛利陣に出頭し芸州に連行された。
この時、鹿介や立原源太兵衛ら69人は、先途を見届けたいと望んで杵築(出雲)の港までついて行き、ここで
饗応してなごりを惜しんだという。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:8カ国
月山富田城を落とした毛利元就は一代にして、中国地方8ヶ国(安芸・備後(広島県)、周防・長門(山口県)、石見・出雲(島根県)、因幡・伯耆(鳥取県))を支配する大大名にのし上がっています。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
我に七難八苦を与えたまえ「山中鹿介」 その19
『一騎討ちは鹿介の勝利』
鹿介と棫木狼之介に一騎討ちの勝負の結果は、陰徳太平記と雲陽軍実記では、だいぶ異なります。
陰徳太平記では
鹿介が棫木狼之介に斬り立てられて水際まで退ってすでに危なく見えたところを、鹿介に続いて川中島に渡って
きた秋上伊織助が後ろから狼之介を袈裟がけに斬った。
狼之介は前に倒れたが、倒れながら払った太刀に鹿介の膝をしたたかに斬った。鹿介は狼之介の首を刎(は)ね
たが、歩行できず郎党の肩にかかって引き上げたとしている。
全然よいところがありません。
安来市広瀬町にある品川大膳(棫木狼之介)の墓所

一方、雲陽軍実記では、狼之介が鹿介に斬り立てられ、すでに危なくなったが「打物わざではかなわぬ。力ならば
おれが勝っているはず」と思案して
「やあ、鹿殿、組み申さん、精気を凝らし、もはやひと時あまり戦うても、たがいに薄傷も負わず。組みて勝負を決
せん」
と言い、組み打ちとなった。
鹿介は狼之介に組み伏せられ、すでに刺されようとした時、すばやく鎧通しを抜いて下から狼之介の腹を2刀刺
し、弱ったところで跳ね返し、首を斬って
「石見の国より出たる狼を、出雲の鹿が討ち取ったり」
と叫んだので、尼子方の者どもはドッと勝ちどきをあげたという。
これはたぶん、雲陽軍実記の方が正しいと信じたいと思いますが、みなさんはどうなのでしょう。
両書が一致しているのは、この後、合戦になったことです。
*雲陽軍実記:尼子氏の盛衰を描いた歴史書で、尼子家臣の河本大八隆政が大名としての尼子氏滅亡後の15
80年頃に記したとされます。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:富田城の御殿があった場所
月山富田城は、山頂部に本丸・二の丸・三の丸などがあり、これに対して山中御殿とは、御殿が所在したところで、麓の里御殿に対して中御殿と呼ばれたものと考えられています。
ここは上下2段に分かれており、南側上段に城主の館、北側下段に付属の館があったと伝わっています。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
鹿介と棫木狼之介に一騎討ちの勝負の結果は、陰徳太平記と雲陽軍実記では、だいぶ異なります。
陰徳太平記では
鹿介が棫木狼之介に斬り立てられて水際まで退ってすでに危なく見えたところを、鹿介に続いて川中島に渡って
きた秋上伊織助が後ろから狼之介を袈裟がけに斬った。
狼之介は前に倒れたが、倒れながら払った太刀に鹿介の膝をしたたかに斬った。鹿介は狼之介の首を刎(は)ね
たが、歩行できず郎党の肩にかかって引き上げたとしている。
全然よいところがありません。
安来市広瀬町にある品川大膳(棫木狼之介)の墓所

一方、雲陽軍実記では、狼之介が鹿介に斬り立てられ、すでに危なくなったが「打物わざではかなわぬ。力ならば
おれが勝っているはず」と思案して
「やあ、鹿殿、組み申さん、精気を凝らし、もはやひと時あまり戦うても、たがいに薄傷も負わず。組みて勝負を決
せん」
と言い、組み打ちとなった。
鹿介は狼之介に組み伏せられ、すでに刺されようとした時、すばやく鎧通しを抜いて下から狼之介の腹を2刀刺
し、弱ったところで跳ね返し、首を斬って
「石見の国より出たる狼を、出雲の鹿が討ち取ったり」
と叫んだので、尼子方の者どもはドッと勝ちどきをあげたという。
これはたぶん、雲陽軍実記の方が正しいと信じたいと思いますが、みなさんはどうなのでしょう。
両書が一致しているのは、この後、合戦になったことです。
*雲陽軍実記:尼子氏の盛衰を描いた歴史書で、尼子家臣の河本大八隆政が大名としての尼子氏滅亡後の15
80年頃に記したとされます。
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≪前回の解答≫
正解:富田城の御殿があった場所
月山富田城は、山頂部に本丸・二の丸・三の丸などがあり、これに対して山中御殿とは、御殿が所在したところで、麓の里御殿に対して中御殿と呼ばれたものと考えられています。
ここは上下2段に分かれており、南側上段に城主の館、北側下段に付属の館があったと伝わっています。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>