我に七難八苦を与えたまえ「山中鹿介」 その40
『武田氏討伐』
尾高を脱出した鹿介は丹後に出たが、軍資金調達のために諸浪人を駆り集めて海賊となり、近国の海辺の
村々を剽掠(ひょうりゃく)していたが、やがて因幡に移り日比屋に居を定めて、なお海賊働きを続け、さらに
浦富の桐山の古城を修理してここに拠った。
元来、因幡の国は山名氏が守護大名であったが、前の守護・山名豊数は家臣の武田高信に追われて窮死
し、当時国は武田のものになっていた。
山名豊国(1548-1626年)

豊数には豊国という弟がいたが、兄の仇を討って国を取りかえそうにも力足りず、但馬に蟄居していた。
鹿介はこのことを聞いた。
猜疑心ではなく、ここで豊国のために働いておいてやれば、後に尼子家再興の時の助けになるという打算
があったからでしょうが、鹿介は直ちに但馬に行き、豊国に会って
「しかじかの由、武田を討って国を取り返して進ぜましょう」
と言った。
鹿介の武名は豊国も十分に聞いている。泣いて喜んだという。
鹿介は因幡に帰り、鳥取近くの瓶山に百数十人を従えて篭もり
「山名家のために逆臣・武田高信を討つ」
と宣言した。
武田は5百余人の兵を率いて攻め寄せてきたが、鹿介は一戦に撃破し、逃げる敵を追って無数の敵を討
取った。
そこに豊国も旧臣らを集めてやって来て、城をしばらく包囲すると武田はついに屈服し、城を明け渡して去
り、豊国がかわって城主になった。
豊国は鹿介に感謝し、厚遇した。
しかし、人間というものはあさましく、嫉妬に讒謗(ざんぼう)が起こった。
「長くいるべきところではない」
と、鹿介が考えている時、立原源太兵衛が京都から、至急上洛せよといってきた。
鹿介は京へ上った。1572年のことです。
京都には立原の他に、尼子勝久も来ていた。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:岩国
関ヶ原の戦い後、毛利氏は山陰の萩に減封され、吉川広家には岩国3万石の所領が与えられて岩国領の初代領主となっています。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
尾高を脱出した鹿介は丹後に出たが、軍資金調達のために諸浪人を駆り集めて海賊となり、近国の海辺の
村々を剽掠(ひょうりゃく)していたが、やがて因幡に移り日比屋に居を定めて、なお海賊働きを続け、さらに
浦富の桐山の古城を修理してここに拠った。
元来、因幡の国は山名氏が守護大名であったが、前の守護・山名豊数は家臣の武田高信に追われて窮死
し、当時国は武田のものになっていた。
山名豊国(1548-1626年)

豊数には豊国という弟がいたが、兄の仇を討って国を取りかえそうにも力足りず、但馬に蟄居していた。
鹿介はこのことを聞いた。
猜疑心ではなく、ここで豊国のために働いておいてやれば、後に尼子家再興の時の助けになるという打算
があったからでしょうが、鹿介は直ちに但馬に行き、豊国に会って
「しかじかの由、武田を討って国を取り返して進ぜましょう」
と言った。
鹿介の武名は豊国も十分に聞いている。泣いて喜んだという。
鹿介は因幡に帰り、鳥取近くの瓶山に百数十人を従えて篭もり
「山名家のために逆臣・武田高信を討つ」
と宣言した。
武田は5百余人の兵を率いて攻め寄せてきたが、鹿介は一戦に撃破し、逃げる敵を追って無数の敵を討
取った。
そこに豊国も旧臣らを集めてやって来て、城をしばらく包囲すると武田はついに屈服し、城を明け渡して去
り、豊国がかわって城主になった。
豊国は鹿介に感謝し、厚遇した。
しかし、人間というものはあさましく、嫉妬に讒謗(ざんぼう)が起こった。
「長くいるべきところではない」
と、鹿介が考えている時、立原源太兵衛が京都から、至急上洛せよといってきた。
鹿介は京へ上った。1572年のことです。
京都には立原の他に、尼子勝久も来ていた。
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正解:岩国
関ヶ原の戦い後、毛利氏は山陰の萩に減封され、吉川広家には岩国3万石の所領が与えられて岩国領の初代領主となっています。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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我に七難八苦を与えたまえ「山中鹿介」 その39
『糞尿にまみれて脱走』
吉川元春は鹿介に対面したが、その身柄は尾高城(米子市)に移し、城主・杉原盛重に厳重に監視さ
せた。
鹿介は元春の機嫌をとって油断させるため、いろいろの術策をつかっています。
山中鹿助

【その1】
「昨日まで主君として仰いだる勝久に弓引くこと以外は何にても努めます。拙者に5百人の扶持(ふち)
を賜え。諸浪人を集めて伊予に押渡り、四国を切取って進ずべし」
と乞うたこと。
【その2】
「1千人の扶持を賜え、九州に入って大友の地を切取り従えて献上すべし」
と乞うたこと。
いずれも元春は許さなかった。
最期には、八橋の城を開城させてみせると言って、宍戸・口羽の勢3百人に自分の郎党を添えて遣わし、
口上を述べさせたところ、守将らは
「アホなことを言うものかな。味方にあってこそ山中殿と敬(うや)い、下知にも従おうが、命おしさに敵に
降人になった者が、恥ずかしいとも思わず、人にまで城を渡せとは何事、これでも喰らえ!」
と、さんざんに鉄砲を撃ちかけて追い返した。
しかし、守将らも、ついには城の守り通せぬことを知っていたので、間もなく明け渡して新山に入って尼子
勝久に合流した。
そのうち、鹿介は赤痢になったと称して、一夜のうちに厠(かわや)に200回近くも通った。
最初は用心していた番の者が油断してくると、厠から糞尿にまみれながらも脱走したという。
間もなく、新山の勝久は毛利軍の圧迫に耐えかねて、近くの簾岳に逃げたが、さらに追われて加賀村の
桂島に落ち、ついに隠岐へ去った。
これで尼子方の城は雲州には一城もなくなり、第1回目の再興は失敗に終ったのです。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:広家
吉川広家は、吉川元春の3男として生まれ、幼少時は「うつけ」で父を嘆かせたという逸話があり、杯を受ける際の礼儀作法がなっていないことなどを注意された書状が残っています。
また、長じてからも所領が少ないことを理由として勝手に石見・小笠原氏の養子になろうと画策し、両親の厳しい叱責を受けています。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
吉川元春は鹿介に対面したが、その身柄は尾高城(米子市)に移し、城主・杉原盛重に厳重に監視さ
せた。
鹿介は元春の機嫌をとって油断させるため、いろいろの術策をつかっています。
山中鹿助

【その1】
「昨日まで主君として仰いだる勝久に弓引くこと以外は何にても努めます。拙者に5百人の扶持(ふち)
を賜え。諸浪人を集めて伊予に押渡り、四国を切取って進ずべし」
と乞うたこと。
【その2】
「1千人の扶持を賜え、九州に入って大友の地を切取り従えて献上すべし」
と乞うたこと。
いずれも元春は許さなかった。
最期には、八橋の城を開城させてみせると言って、宍戸・口羽の勢3百人に自分の郎党を添えて遣わし、
口上を述べさせたところ、守将らは
「アホなことを言うものかな。味方にあってこそ山中殿と敬(うや)い、下知にも従おうが、命おしさに敵に
降人になった者が、恥ずかしいとも思わず、人にまで城を渡せとは何事、これでも喰らえ!」
と、さんざんに鉄砲を撃ちかけて追い返した。
しかし、守将らも、ついには城の守り通せぬことを知っていたので、間もなく明け渡して新山に入って尼子
勝久に合流した。
そのうち、鹿介は赤痢になったと称して、一夜のうちに厠(かわや)に200回近くも通った。
最初は用心していた番の者が油断してくると、厠から糞尿にまみれながらも脱走したという。
間もなく、新山の勝久は毛利軍の圧迫に耐えかねて、近くの簾岳に逃げたが、さらに追われて加賀村の
桂島に落ち、ついに隠岐へ去った。
これで尼子方の城は雲州には一城もなくなり、第1回目の再興は失敗に終ったのです。
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『戦国クイズ』
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正解:広家
吉川広家は、吉川元春の3男として生まれ、幼少時は「うつけ」で父を嘆かせたという逸話があり、杯を受ける際の礼儀作法がなっていないことなどを注意された書状が残っています。
また、長じてからも所領が少ないことを理由として勝手に石見・小笠原氏の養子になろうと画策し、両親の厳しい叱責を受けています。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
我に七難八苦を与えたまえ「山中鹿介」 その38
『鹿介の助命』
吉川元春の計略は巧みであった。大山を討つとは声言に過ぎなかったのです。
途中から急に反転し末石城に攻め、息をつぐ間もなく攻めかけた。
油断しきっていた鹿介はどうすることもできない。
しかし、ここで死んでは尼子家の再興は絶望になるため、ついに宍戸隆家・口羽通良をつかって降参を申し
出た。
吉川元春(1530-1586年)

元春はこの降参を受けたが
「鹿介は首刎ねよ」
と命じた。
宍戸隆家と口羽通良は鹿介の人物をかっており、助命を乞うた。
「ならん。やつは勇知人に越えた者だ。助命したら、必ずわが家に禍をなすであろう。情に溺れてはならん」
元春はさらに強く言ったが、2人はなおも
「敵として恐ろしい者は味方にすれば最も頼もしいものでもあります。毒薬も用いようでは良薬になるとか。
鹿介を味方といたせば、いかばかり御当家の益となりましょう」
と、懇願して止まない。
ついに元春も助命を受入れ2人に身柄を預け厳重に監視するとうに命じたが、助けるとなれば味方に引きつ
けた方がよいと思ったのでしょう。
周防の徳地で1千貫、伯耆の大山で1千貫の知行を鹿介に与えることにすると2人に申し渡した。
2人からこれらを伝えられると、鹿介は
「一命を助け下さるのみならず、所領まで賜わること、深恩謝することばがござらぬ。さりながら、これというの
も、御両所の御推挙によることでござる」
と丁重に礼を述べたという。
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『戦国クイズ』
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正解:説教魔
元就は筆まめで数多くの手紙が残っています。
手紙には元就の小言や同じような内容が繰り返し記されているため、戦国の手紙を研究している人物の多くが「元就の手紙は長くてくどい」と言う意味の事を記し、吉本健二氏は元就の手紙を「苦労人であった為かもしれないが説教魔となっている」と評しています。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
吉川元春の計略は巧みであった。大山を討つとは声言に過ぎなかったのです。
途中から急に反転し末石城に攻め、息をつぐ間もなく攻めかけた。
油断しきっていた鹿介はどうすることもできない。
しかし、ここで死んでは尼子家の再興は絶望になるため、ついに宍戸隆家・口羽通良をつかって降参を申し
出た。
吉川元春(1530-1586年)

元春はこの降参を受けたが
「鹿介は首刎ねよ」
と命じた。
宍戸隆家と口羽通良は鹿介の人物をかっており、助命を乞うた。
「ならん。やつは勇知人に越えた者だ。助命したら、必ずわが家に禍をなすであろう。情に溺れてはならん」
元春はさらに強く言ったが、2人はなおも
「敵として恐ろしい者は味方にすれば最も頼もしいものでもあります。毒薬も用いようでは良薬になるとか。
鹿介を味方といたせば、いかばかり御当家の益となりましょう」
と、懇願して止まない。
ついに元春も助命を受入れ2人に身柄を預け厳重に監視するとうに命じたが、助けるとなれば味方に引きつ
けた方がよいと思ったのでしょう。
周防の徳地で1千貫、伯耆の大山で1千貫の知行を鹿介に与えることにすると2人に申し渡した。
2人からこれらを伝えられると、鹿介は
「一命を助け下さるのみならず、所領まで賜わること、深恩謝することばがござらぬ。さりながら、これというの
も、御両所の御推挙によることでござる」
と丁重に礼を述べたという。
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正解:説教魔
元就は筆まめで数多くの手紙が残っています。
手紙には元就の小言や同じような内容が繰り返し記されているため、戦国の手紙を研究している人物の多くが「元就の手紙は長くてくどい」と言う意味の事を記し、吉本健二氏は元就の手紙を「苦労人であった為かもしれないが説教魔となっている」と評しています。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
我に七難八苦を与えたまえ「山中鹿介」 その37
『毛利元就没する』
間もなく、その年の晩秋に毛利元就が重体に陥ったとの報告があって、毛利輝元・小早川隆景らは大急ぎ
で帰国の途についたが、吉川元春は依然とどまっていた。
毛利元就墓所 (訪問記は「こちら」です。)

鹿介はこの機に乗じて、新山を出て末次城を攻めたてたが、守備が堅くて墜ちない。そのうちに毛利勢が多
数出兵してきて、一手は末次の後詰めをし、一手は新山を襲おうとしたので、鹿介は新山に引き返した。
以後、数度の戦闘があったが、尼子方が劣勢で益々窮地となった。
毛利元就は翌、1571年7年6月に安芸吉田で死んだ。
吉川元春は依然、出雲に止まっていたが、父の訃報を受取ると憤然として
「仏事供養は、吉田で輝元と隆景が勤めるであろう。わたしは家の敵を討って供養いたす。伯耆の大山の衆
徒教悟院、尼子に心を通わしてわが家に仇をなしつつあらば、これを討とう」
と言って、一万の兵を率いて居城・高瀬を出た。
当時、鹿介は伯耆の末石城(末吉城)に篭っていたが、
「よしよし、元春大山に攻めかからば、所々に分かちおいた味方の軍勢を一手にして後より襲いかかり、挟み
撃ちにしてくれる」
と喜んだ。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:大石内蔵助
勝海舟は、ここ数百年間の歴史を遡って見ても、本当の逆境に挑んで、慌てず落ち着いて処理した者はほとんどいない。もしいるとするなら、山中鹿介と大石内蔵助だろうと言ったいう。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
間もなく、その年の晩秋に毛利元就が重体に陥ったとの報告があって、毛利輝元・小早川隆景らは大急ぎ
で帰国の途についたが、吉川元春は依然とどまっていた。
毛利元就墓所 (訪問記は「こちら」です。)

鹿介はこの機に乗じて、新山を出て末次城を攻めたてたが、守備が堅くて墜ちない。そのうちに毛利勢が多
数出兵してきて、一手は末次の後詰めをし、一手は新山を襲おうとしたので、鹿介は新山に引き返した。
以後、数度の戦闘があったが、尼子方が劣勢で益々窮地となった。
毛利元就は翌、1571年7年6月に安芸吉田で死んだ。
吉川元春は依然、出雲に止まっていたが、父の訃報を受取ると憤然として
「仏事供養は、吉田で輝元と隆景が勤めるであろう。わたしは家の敵を討って供養いたす。伯耆の大山の衆
徒教悟院、尼子に心を通わしてわが家に仇をなしつつあらば、これを討とう」
と言って、一万の兵を率いて居城・高瀬を出た。
当時、鹿介は伯耆の末石城(末吉城)に篭っていたが、
「よしよし、元春大山に攻めかからば、所々に分かちおいた味方の軍勢を一手にして後より襲いかかり、挟み
撃ちにしてくれる」
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正解:大石内蔵助
勝海舟は、ここ数百年間の歴史を遡って見ても、本当の逆境に挑んで、慌てず落ち着いて処理した者はほとんどいない。もしいるとするなら、山中鹿介と大石内蔵助だろうと言ったいう。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
見ていますか!「マッサン」
『鹿介の兜がニッカウヰスキーのエンブレムに』
連日、山中鹿介にお付き合いいただいておりますが、今日はチョッと一服です。
見ておられますか、NHK連続テレビ小説「マッサン」
「マッサン」はニッカウヰスキー創業者・竹鶴政孝氏(ドラマでは亀山政春)とその英国人妻・リタ(ドラマでは
エリー)がモデルとなっています。

この竹鶴政孝氏が考案したエンブレムに、山中鹿助の兜がデザインされているのです。


このエンブレムは、スコットランドや英国の紋章を参考にして考案されたもので、魔よけの印でもある狛犬、
中央の兜は山中鹿介が使用した兜をあしらったもので武芸を意味しており、NIKKA の文字周辺の元禄
模様は文化を表しているそうです。
これは竹鶴政孝氏がスコットランドに留学したとき、王室に献上するウイスキーのエンブレムにライオンと
ユニコーンが描かれたのを見て、鹿介の兜と狛犬をデザイン化したそうです。

山中鹿介の兜がデザインに使用されたのは、マッサンが和の心、義の心を持ち続けながら、様々な苦難、
試練に耐え、純国産のウイスキー造りを目指す心の支えになっていたからなのでしょうか。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:安来市観光協会HP>
連日、山中鹿介にお付き合いいただいておりますが、今日はチョッと一服です。
見ておられますか、NHK連続テレビ小説「マッサン」
「マッサン」はニッカウヰスキー創業者・竹鶴政孝氏(ドラマでは亀山政春)とその英国人妻・リタ(ドラマでは
エリー)がモデルとなっています。

この竹鶴政孝氏が考案したエンブレムに、山中鹿助の兜がデザインされているのです。


このエンブレムは、スコットランドや英国の紋章を参考にして考案されたもので、魔よけの印でもある狛犬、
中央の兜は山中鹿介が使用した兜をあしらったもので武芸を意味しており、NIKKA の文字周辺の元禄
模様は文化を表しているそうです。
これは竹鶴政孝氏がスコットランドに留学したとき、王室に献上するウイスキーのエンブレムにライオンと
ユニコーンが描かれたのを見て、鹿介の兜と狛犬をデザイン化したそうです。

山中鹿介の兜がデザインに使用されたのは、マッサンが和の心、義の心を持ち続けながら、様々な苦難、
試練に耐え、純国産のウイスキー造りを目指す心の支えになっていたからなのでしょうか。
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<参考文献:安来市観光協会HP>
我に七難八苦を与えたまえ「山中鹿介」 その36
『侍は渡りもの』
尼子方の城は次々に落されていったが、最も尼子方の気力を喪失させたのが、秋上伊織助とその父・綱平
が心変りして毛利氏に降参したことであった。
秋上は7百貫の知行に目が眩みのことですが、陰徳太平記では
「現在の尼子家のことが、みな鹿介と立原で決して、自分が殆ど顧みられないので不平に思っていることを、
吉川元春が聞いて誘惑した」
というのです。
三日月に祈る鹿助(月山富田城)

これも陰徳太平記ですが
伊織助はただ一人で鹿介の宿所を訪れて、
「今日の対面、誠に面目もなきことでござる。御辺と拙者とは少年の頃より親しく交わり、死なばもろともにと
誓ったほどの仲でござるに、父・剛平の子細があって、毛利家に降参つかまつったれば、今日以降はこのよ
うにお会いして親しく物語することはかなわぬ身となり申した。勝久君に忠勤をつくさんと思うていた志もあだ
しごととなり申した。誠に残念でござる。さりながら年来の契り忘れ難うござれば、面をかぶって、お暇乞いの
ためにまかり出で申した。」
という。
すると、鹿介は
「さて、御父・剛平殿は毛利方になられたのでござるか。侍は渡りものでござれば、それも無理からぬことで
ござる。貴殿が少年の頃よりの友情を思うて、これまでまいられたこと、誠に浅からぬ志。父に尽くすは子の
道、父君に従って尼子をそむき給うこと、拙者においては少しも恨みとは存ぜぬ。侍の身は明日を知らぬ者。
たがいに別れの杯を交わして、明日よりは、拙者は貴殿を目にかけて討つ計策をめぐらしましょう故、貴殿は
拙者を討つことを心掛けて下され。侍は各々その主のためにするものでござれば、これを恨むべきでも、恐
るべきでもござるまい」
と酒を酌み交わした。
ほろほろと酔うほどになってから
「さらばこれまで。たとえ明日戦場の露となろうとも、たがいの好みは忘れるまいの」
と手をとり合い、涙にむせんで別れたという。
う~ん、武士道美談でありますが、
尼子勝久は秋上伊織助の離反を聞いて、現実的に
「秋上が敵となった以上、味方の勢は減り、戦いは利がないであろう」
と嘆いたという。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:毛利隆元
吉川元春は、毛利元就の次男で兄が毛利隆元、小早川隆景は弟です。毛利輝元は兄・隆元の子です。なお、吉川元長は元春の子です。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
尼子方の城は次々に落されていったが、最も尼子方の気力を喪失させたのが、秋上伊織助とその父・綱平
が心変りして毛利氏に降参したことであった。
秋上は7百貫の知行に目が眩みのことですが、陰徳太平記では
「現在の尼子家のことが、みな鹿介と立原で決して、自分が殆ど顧みられないので不平に思っていることを、
吉川元春が聞いて誘惑した」
というのです。
三日月に祈る鹿助(月山富田城)

これも陰徳太平記ですが
伊織助はただ一人で鹿介の宿所を訪れて、
「今日の対面、誠に面目もなきことでござる。御辺と拙者とは少年の頃より親しく交わり、死なばもろともにと
誓ったほどの仲でござるに、父・剛平の子細があって、毛利家に降参つかまつったれば、今日以降はこのよ
うにお会いして親しく物語することはかなわぬ身となり申した。勝久君に忠勤をつくさんと思うていた志もあだ
しごととなり申した。誠に残念でござる。さりながら年来の契り忘れ難うござれば、面をかぶって、お暇乞いの
ためにまかり出で申した。」
という。
すると、鹿介は
「さて、御父・剛平殿は毛利方になられたのでござるか。侍は渡りものでござれば、それも無理からぬことで
ござる。貴殿が少年の頃よりの友情を思うて、これまでまいられたこと、誠に浅からぬ志。父に尽くすは子の
道、父君に従って尼子をそむき給うこと、拙者においては少しも恨みとは存ぜぬ。侍の身は明日を知らぬ者。
たがいに別れの杯を交わして、明日よりは、拙者は貴殿を目にかけて討つ計策をめぐらしましょう故、貴殿は
拙者を討つことを心掛けて下され。侍は各々その主のためにするものでござれば、これを恨むべきでも、恐
るべきでもござるまい」
と酒を酌み交わした。
ほろほろと酔うほどになってから
「さらばこれまで。たとえ明日戦場の露となろうとも、たがいの好みは忘れるまいの」
と手をとり合い、涙にむせんで別れたという。
う~ん、武士道美談でありますが、
尼子勝久は秋上伊織助の離反を聞いて、現実的に
「秋上が敵となった以上、味方の勢は減り、戦いは利がないであろう」
と嘆いたという。
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正解:毛利隆元
吉川元春は、毛利元就の次男で兄が毛利隆元、小早川隆景は弟です。毛利輝元は兄・隆元の子です。なお、吉川元長は元春の子です。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
我に七難八苦を与えたまえ「山中鹿介」 その35
『吉川元春が一枚上手』
布部の戦いで、尼子勢を破った毛利勢は富田城に入った。
末次城に布部の大敗戦の報が届き、尼子勝久をはじめとする一同が色を失った。
吉川元春(1530-1586年)

そのうち敗兵が逃げ帰ってくる。
誰も討死、彼も討死と悲しい知らせばかりであるのに、鹿介の姿がなかなか見えない。
「もう討たれやしつらん、さもあるものならば、尼子家の弓矢再興せんことかないまじ、いかがせん」
と、声をのんでいるところに、その夜半に鹿介が帰って来て、即時に人々を集めて
「武士は言うにおよばず、町人らに至るまでことごとく出でて、末次のお城の土居をつくろえ」
といいまわしたので
「さては鹿介殿は御無事であったか」
と、みんなが集まり、土居に塀を結ったり、柵をつけたり、所々に落とし穴を掘ったり、伽羅伽羅橋を落したり
して、防戦の用意に励んだという。
全軍が鹿介に望みを託していたことを伺い知ることができます。
それから10日後の2月24日、毛利勢は7千の兵を繰り出し、吉川元春父子3人がこれを率い末次城の向か
いの山に陣取った。
尼子方では、敵が急流の川を渡るところを撃つつもりで、手ぐすねを引いて待ち構えていたが、戦さ上手の元
春はその手にのらない。
夜になるとかがり火を炊いて、帯陣を続けるようにみせかけておいて、密かに宍道から洗合いから渡り背後か
ら攻め寄せた。
尼子方の狼狽はいうまでもなく、鹿介らは勝久を奉じて新山に逃げ込んだ。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:ドン・フランシスコ
大友宗麟は、耳川の戦い直前に洗礼を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となっています。
なお、シメオンは黒田官兵衛、レオンは蒲生氏郷です。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
布部の戦いで、尼子勢を破った毛利勢は富田城に入った。
末次城に布部の大敗戦の報が届き、尼子勝久をはじめとする一同が色を失った。
吉川元春(1530-1586年)

そのうち敗兵が逃げ帰ってくる。
誰も討死、彼も討死と悲しい知らせばかりであるのに、鹿介の姿がなかなか見えない。
「もう討たれやしつらん、さもあるものならば、尼子家の弓矢再興せんことかないまじ、いかがせん」
と、声をのんでいるところに、その夜半に鹿介が帰って来て、即時に人々を集めて
「武士は言うにおよばず、町人らに至るまでことごとく出でて、末次のお城の土居をつくろえ」
といいまわしたので
「さては鹿介殿は御無事であったか」
と、みんなが集まり、土居に塀を結ったり、柵をつけたり、所々に落とし穴を掘ったり、伽羅伽羅橋を落したり
して、防戦の用意に励んだという。
全軍が鹿介に望みを託していたことを伺い知ることができます。
それから10日後の2月24日、毛利勢は7千の兵を繰り出し、吉川元春父子3人がこれを率い末次城の向か
いの山に陣取った。
尼子方では、敵が急流の川を渡るところを撃つつもりで、手ぐすねを引いて待ち構えていたが、戦さ上手の元
春はその手にのらない。
夜になるとかがり火を炊いて、帯陣を続けるようにみせかけておいて、密かに宍道から洗合いから渡り背後か
ら攻め寄せた。
尼子方の狼狽はいうまでもなく、鹿介らは勝久を奉じて新山に逃げ込んだ。
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大友宗麟は、耳川の戦い直前に洗礼を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となっています。
なお、シメオンは黒田官兵衛、レオンは蒲生氏郷です。
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>