美濃のマムシ 「斎藤道三」 その27
『道三への憎悪』
義龍は自分が道三の実子でないことを知らなかったので、急速に自分に対する愛情がなくなった道三の仕
打ちに怒り、日根野弘龍・長井道利の2人を招いて、このことを語ったところ、2人は
「それはその筈でございますよ。実を申し上げると、殿は先太守・土岐頼芸の子で、道三殿のお子ではあり
ません。その訳はしかじか。道三殿は殿の御実父でないばかりか、殿の御実父たる土岐頼芸公の国を奪っ
た追い出し申したのであります。殿のためには正さしき父君の仇。もし、殿が父子の縁を切って、道三討伐
の拳を思い立ち給うなら、一国の諸豪族らは忽ちお味方に馳せ参ずること必定であります。」
と言った。
義龍は驚き、憤り、道三に対する憎悪を燃え立たせた。(諸日記)
斎藤義龍(1527-1561年)

一方、江濃記では
道三が義龍を廃して龍重を立てようと妻に語ったところ、6歳の3男・龍定が側で聞いていて、これを龍重
に話した。
それを義龍が聞きつけて、道三を恨んで討ち取ることを計るようになったとしている。
また、信長公記では、
「だいたい惣領というものは気がのんびりしておとなしいものである。然るに道三ほどの人物も年老いては
知恵の鏡も曇るのか、義龍をアホとばかり考え、弟2人を利口者として大事にし、官位など貰ってやったり
したので、弟どもは調子に乗って義龍を軽んじるようになったので、義龍は人目を恥じて無念骨髄に徹し
た」
という。
いずれにしても道三が、義龍をおろそかにしたということは間違いないのでしょうね。
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いつもありがとうございます。
背中のブタさんが落ちそうですよ!

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (3月28日の問題)
正解:一色
斎藤義龍は父殺しの汚名を避けるため、足利氏の一門である一色氏を称して、一色左京大夫と名乗っています。
義龍の母・深芳野の母方の祖父が尾張知多郡守護の一色義遠、あるいは深芳野の父が一色義清であるとも言われます。
≪今日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
義龍は自分が道三の実子でないことを知らなかったので、急速に自分に対する愛情がなくなった道三の仕
打ちに怒り、日根野弘龍・長井道利の2人を招いて、このことを語ったところ、2人は
「それはその筈でございますよ。実を申し上げると、殿は先太守・土岐頼芸の子で、道三殿のお子ではあり
ません。その訳はしかじか。道三殿は殿の御実父でないばかりか、殿の御実父たる土岐頼芸公の国を奪っ
た追い出し申したのであります。殿のためには正さしき父君の仇。もし、殿が父子の縁を切って、道三討伐
の拳を思い立ち給うなら、一国の諸豪族らは忽ちお味方に馳せ参ずること必定であります。」
と言った。
義龍は驚き、憤り、道三に対する憎悪を燃え立たせた。(諸日記)
斎藤義龍(1527-1561年)

一方、江濃記では
道三が義龍を廃して龍重を立てようと妻に語ったところ、6歳の3男・龍定が側で聞いていて、これを龍重
に話した。
それを義龍が聞きつけて、道三を恨んで討ち取ることを計るようになったとしている。
また、信長公記では、
「だいたい惣領というものは気がのんびりしておとなしいものである。然るに道三ほどの人物も年老いては
知恵の鏡も曇るのか、義龍をアホとばかり考え、弟2人を利口者として大事にし、官位など貰ってやったり
したので、弟どもは調子に乗って義龍を軽んじるようになったので、義龍は人目を恥じて無念骨髄に徹し
た」
という。
いずれにしても道三が、義龍をおろそかにしたということは間違いないのでしょうね。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (3月28日の問題)
正解:一色
斎藤義龍は父殺しの汚名を避けるため、足利氏の一門である一色氏を称して、一色左京大夫と名乗っています。
義龍の母・深芳野の母方の祖父が尾張知多郡守護の一色義遠、あるいは深芳野の父が一色義清であるとも言われます。
≪今日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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piglet一家、花見の予定が
『さくらは咲いたけれど』
日曜日は午後には雨の予報でしたので、午前中にpiglet一家は恒例の花見に出かけました。
いつもの会場に到着するも、子どもたちが奇声を上げて球技を楽しんでいました。

午後は雨とのこと。
今回の外遊び目的のひとつに、「さくら」が4月5日(日)開催予定の「代官山ラビット・ラン」にレビューでき
るか、確認するのも目的のひとつでした。
では、ということで、新たに候補に上がったのが、荒川スーパー堤防でした。
さあー、着いたよと、臆病のsakuraをキャリーから出そうと頑張るpiglet。

わたしには構わないでね。 と、わがままなsa-ko嬢

わたしは、外が好きじゃないし・・・。 動こうとしないsakura

「走り廻ると、楽しいから・・・ね」

自分で楽しむのが一番!

我が家は社交性のない人ばかり

何を言っているのか、聞こえないし・・・

嫁ですけど、超我ままです

「sakuraもラビランに行くと楽しいのに」、 「しらん」

この後も、sakuraが動き廻ることはありませんでした。
ラビランのレビューはあるのでしょうか。

今年の桜は早くて短いとか言われているようです。
みなさんも早めの桜を楽しんでくださいね!
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日曜日は午後には雨の予報でしたので、午前中にpiglet一家は恒例の花見に出かけました。
いつもの会場に到着するも、子どもたちが奇声を上げて球技を楽しんでいました。

午後は雨とのこと。
今回の外遊び目的のひとつに、「さくら」が4月5日(日)開催予定の「代官山ラビット・ラン」にレビューでき
るか、確認するのも目的のひとつでした。
では、ということで、新たに候補に上がったのが、荒川スーパー堤防でした。
さあー、着いたよと、臆病のsakuraをキャリーから出そうと頑張るpiglet。

わたしには構わないでね。 と、わがままなsa-ko嬢

わたしは、外が好きじゃないし・・・。 動こうとしないsakura

「走り廻ると、楽しいから・・・ね」

自分で楽しむのが一番!

我が家は社交性のない人ばかり

何を言っているのか、聞こえないし・・・

嫁ですけど、超我ままです

「sakuraもラビランに行くと楽しいのに」、 「しらん」

この後も、sakuraが動き廻ることはありませんでした。
ラビランのレビューはあるのでしょうか。

今年の桜は早くて短いとか言われているようです。
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春です! 桜です♪
『さくら、さくら♪』
コートを脱ぎ捨てる春がやってきました!
三寒四温で、コートを脱いだり着たりの3月でしたが、桜が一斉に咲き始めました。
ブロガーさんの記事で、何度も見かける風車のある「浮間公園」に行ってきました。

この公園は、荒川近くの「浮間舟渡駅」前ということもあって駐車場がなく、以前、車で来て断念したこともあり
ましたので、今回は電車できました。

まだ、つぼみが多く、3~4部咲きのようです。

カモさんも暖かくなって、スーイ、スイです。

咲き始めの桜は、初々しくて綺麗です。

<全ての画像がクリックで拡大します>

姫路城のグランドオープンで、お城の上空をブルーインパルスが飛んでいる動画を見て、中国の人々は
日本の青空に感動されたそうですが、青空に桜が映えますね!

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この公園は、荒川近くの「浮間舟渡駅」前ということもあって駐車場がなく、以前、車で来て断念したこともあり
ましたので、今回は電車できました。

まだ、つぼみが多く、3~4部咲きのようです。

カモさんも暖かくなって、スーイ、スイです。

咲き始めの桜は、初々しくて綺麗です。


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姫路城のグランドオープンで、お城の上空をブルーインパルスが飛んでいる動画を見て、中国の人々は
日本の青空に感動されたそうですが、青空に桜が映えますね!

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美濃のマムシ 「斎藤道三」 その26
『道三、義龍を嫌う』
道三が信長と初会見した翌年の半ばころから、道三は義龍を嫌い始めます。
義龍は、この時26歳。
斎藤義龍(1527-1561年)

義龍のことを砕玉話では
「強力で勇気たくましく、見かけは遅鈍な顔をしているが、本心は実に懸命であった」
と、記しています。
道三は義龍を嫌って、代わりに次男・龍重(孫四郎)を立てるつもりになり、1554年の暮れには龍重を
左京亮に任官させて着々とその準備を進めた。
なぜ道三がこんなことを始めたのか、道三的には予定の行動であったのです。
実子でない義龍を立てたのは事情やむなき処置であって、領内に自身の威光が定着した以上、義龍を
廃して実子を立てる気になった。
しかし、別な解釈もあるのでしょう。
道三のように自我が強烈で出世欲の旺盛な人間は、富貴を自分のために求めるので、これを子孫に伝
えようという気持ちが強くなったという解釈。
この解釈の方が人間の心理の秘密をえぐっているので、真実性が強い気がします。
また、義龍の外貌が遅鈍に見えたという点も、道三は気に入らなかったのでしょう。
目から鼻に抜けるような機敏さを持つ道三です。愚鈍な感じの人間は我慢できないほど嫌いであったと
思われます。
これに対し、龍重は俊敏で賢い青年であったのでしょう。
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ボクはニヒルなうさぎです。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:前田利家
前田利家は、1551年に織田信長に小姓として仕え、若い頃の利家は、短気で喧嘩早く、派手な格好をしたかぶき者であったといいます。
≪今日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
道三が信長と初会見した翌年の半ばころから、道三は義龍を嫌い始めます。
義龍は、この時26歳。
斎藤義龍(1527-1561年)

義龍のことを砕玉話では
「強力で勇気たくましく、見かけは遅鈍な顔をしているが、本心は実に懸命であった」
と、記しています。
道三は義龍を嫌って、代わりに次男・龍重(孫四郎)を立てるつもりになり、1554年の暮れには龍重を
左京亮に任官させて着々とその準備を進めた。
なぜ道三がこんなことを始めたのか、道三的には予定の行動であったのです。
実子でない義龍を立てたのは事情やむなき処置であって、領内に自身の威光が定着した以上、義龍を
廃して実子を立てる気になった。
しかし、別な解釈もあるのでしょう。
道三のように自我が強烈で出世欲の旺盛な人間は、富貴を自分のために求めるので、これを子孫に伝
えようという気持ちが強くなったという解釈。
この解釈の方が人間の心理の秘密をえぐっているので、真実性が強い気がします。
また、義龍の外貌が遅鈍に見えたという点も、道三は気に入らなかったのでしょう。
目から鼻に抜けるような機敏さを持つ道三です。愚鈍な感じの人間は我慢できないほど嫌いであったと
思われます。
これに対し、龍重は俊敏で賢い青年であったのでしょう。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:前田利家
前田利家は、1551年に織田信長に小姓として仕え、若い頃の利家は、短気で喧嘩早く、派手な格好をしたかぶき者であったといいます。
≪今日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
美濃のマムシ 「斎藤道三」 その25
『たわけ殿の門前に馬を繋ぐ』
富田正徳寺は尾張中島郡の木曽川左岸(現在は名古屋氏天白区に移転)にあり、この時代は美濃領と尾張
領の中間に位置し付近一帯が本願寺領で、いわば中立地帯であったこの場所に双方がここに来て会見した
のです。
戦国無双・織田信長

この時、信長は大たわけ・乱暴者を如実に表したもの凄い異装でやって来て、やがて会見になると最も行儀
正しい長裃(ながかみしも)姿となって現れ、美濃の君臣を驚倒させたという話は、あまりにも有名な話です。
この会見が済んで信長が帰るのを道三は20町ばかり馬を並べて見送ったが、見送りを済ませて帰る途中、
道三は猪子兵介という武へん者の側近に
「どう見たぞ、わしが婿殿を?」
「されば」
兵介はニヤニヤと笑っていった。
「どう見直しても、お気の毒ながら大たわけでござりますな」
婿の悪口をここまで舅に言う心理はわかりませんが、世は戦国時代でおのれ以外の者はみな敵だということ
でしょう。
兵介は道三が喜ぶであろうと思って言ったのです。
ところが道三は憂わしげな顔で、しみじみと言ったという。
「さればのう、無念なことじゃ。あのたわけ殿の門前に、わしが子供らは馬を繋ぐことになるであろうよ」
“門前に馬を繋ぐ”とは、臣従するという意味なのです。
この時、道三60歳。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:2歳
織田信秀の長子は織田信広ですが、母が側室という立場から家督の相続権はなかったらしく、母・土田御前が正室であったため、その子・信長が嫡男となり2歳にして那古野城主となっています。
≪今日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
富田正徳寺は尾張中島郡の木曽川左岸(現在は名古屋氏天白区に移転)にあり、この時代は美濃領と尾張
領の中間に位置し付近一帯が本願寺領で、いわば中立地帯であったこの場所に双方がここに来て会見した
のです。
戦国無双・織田信長

この時、信長は大たわけ・乱暴者を如実に表したもの凄い異装でやって来て、やがて会見になると最も行儀
正しい長裃(ながかみしも)姿となって現れ、美濃の君臣を驚倒させたという話は、あまりにも有名な話です。
この会見が済んで信長が帰るのを道三は20町ばかり馬を並べて見送ったが、見送りを済ませて帰る途中、
道三は猪子兵介という武へん者の側近に
「どう見たぞ、わしが婿殿を?」
「されば」
兵介はニヤニヤと笑っていった。
「どう見直しても、お気の毒ながら大たわけでござりますな」
婿の悪口をここまで舅に言う心理はわかりませんが、世は戦国時代でおのれ以外の者はみな敵だということ
でしょう。
兵介は道三が喜ぶであろうと思って言ったのです。
ところが道三は憂わしげな顔で、しみじみと言ったという。
「さればのう、無念なことじゃ。あのたわけ殿の門前に、わしが子供らは馬を繋ぐことになるであろうよ」
“門前に馬を繋ぐ”とは、臣従するという意味なのです。
この時、道三60歳。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:2歳
織田信秀の長子は織田信広ですが、母が側室という立場から家督の相続権はなかったらしく、母・土田御前が正室であったため、その子・信長が嫡男となり2歳にして那古野城主となっています。
≪今日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
美濃のマムシ 「斎藤道三」 その24
『道三と信長の会見』
帰蝶が織田信長に嫁いでから4年目、1553年4月、道三は婿の信長を見たいと思い立った。
当時、信長は22歳。
岐阜駅前の信長公

父・信秀が死んで織田家の当主となってから4年経っていたが、恐ろしく評判の悪い青年であった。
「尾張の織田上総介殿は大たわけ。あのようなたわけは見たことがないわ」
という評判がしきりなのです。
異風好みの服装、礼儀作法を一切ふみにじった日常の行動、すべて聞こえてくるのです。
信長公記によると、人々が道三の前で
「婿殿は大たわけでござる」
という。
その都度に道三は
「たわけではないわ、汝らにはわからんのよ」
と言ったという。
悪党でも道三には優れた洞察力がある。乱暴者、たわけ者の底にはなにかある筈であると思ったので
しょう。
こういうこともあり、道三は一度見たいという気持ちを募らせ、有名な富田正徳寺における両雄の会見と
なったのです。
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いつもありがとうございます。
3月26日 グランドオープン ☆゚’・:*☆オメデト♪

祝賀飛行のためのテスト飛行を行う、ブルーインパルス(写真はyahooニュースからお借りしています)
『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:道三と義兄弟
稲葉一徹と道三は義兄弟になります。一徹の姉・深芳野は、初めに土岐頼芸の側室に、その後、斎藤道三に譲られています。
≪今日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
帰蝶が織田信長に嫁いでから4年目、1553年4月、道三は婿の信長を見たいと思い立った。
当時、信長は22歳。
岐阜駅前の信長公

父・信秀が死んで織田家の当主となってから4年経っていたが、恐ろしく評判の悪い青年であった。
「尾張の織田上総介殿は大たわけ。あのようなたわけは見たことがないわ」
という評判がしきりなのです。
異風好みの服装、礼儀作法を一切ふみにじった日常の行動、すべて聞こえてくるのです。
信長公記によると、人々が道三の前で
「婿殿は大たわけでござる」
という。
その都度に道三は
「たわけではないわ、汝らにはわからんのよ」
と言ったという。
悪党でも道三には優れた洞察力がある。乱暴者、たわけ者の底にはなにかある筈であると思ったので
しょう。
こういうこともあり、道三は一度見たいという気持ちを募らせ、有名な富田正徳寺における両雄の会見と
なったのです。
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祝賀飛行のためのテスト飛行を行う、ブルーインパルス(写真はyahooニュースからお借りしています)
『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:道三と義兄弟
稲葉一徹と道三は義兄弟になります。一徹の姉・深芳野は、初めに土岐頼芸の側室に、その後、斎藤道三に譲られています。
≪今日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
美濃のマムシ 「斎藤道三」 その23
『土岐頼芸没する』
1547年に、道三は再び土岐盛頼(頼武)を攻めた。
盛頼は自殺し、頼芸は越前に落ちたが、朝倉家が冷遇し始めたので、関東の上総の万喜に同族・土岐頼尚
に頼んで流落して行ったが、間もなく眼病を患い失明してしまった。
ずっと後年の天正年間(1573~1592年)になって、土岐氏の旧臣である稲葉一鉄がその流落をあわれん
で迎え、5百石を与え侍女5、6人をつけていたわり養ったので、気楽な老後となり82歳で没したという。
この土岐頼芸や駿河の今川氏真の生涯など、名家に生まれた不肖な戦国大名の典型的な例です。
頼芸は82歳、氏真は77歳まで生き、当時としては随分と長生きしたものですが、本来の性格が気楽にでき
ていて、苦しみが身にしみない人間であったからでしょうか。
ぎすぎすして生きるより、まったりと生きて行く方が長生きの秘訣なのでしょうね。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (3月22日の問題)
正解:家康のキリシタン国外追放令
高山右近は、1588年に加賀金沢城主の前田利家に招かれて、扶持を受けて暮らしていたが、1614年の徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、加賀を退去しマニラに渡っています。
≪今日の問題≫
考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
1547年に、道三は再び土岐盛頼(頼武)を攻めた。
盛頼は自殺し、頼芸は越前に落ちたが、朝倉家が冷遇し始めたので、関東の上総の万喜に同族・土岐頼尚
に頼んで流落して行ったが、間もなく眼病を患い失明してしまった。
ずっと後年の天正年間(1573~1592年)になって、土岐氏の旧臣である稲葉一鉄がその流落をあわれん
で迎え、5百石を与え侍女5、6人をつけていたわり養ったので、気楽な老後となり82歳で没したという。
この土岐頼芸や駿河の今川氏真の生涯など、名家に生まれた不肖な戦国大名の典型的な例です。
頼芸は82歳、氏真は77歳まで生き、当時としては随分と長生きしたものですが、本来の性格が気楽にでき
ていて、苦しみが身にしみない人間であったからでしょうか。
ぎすぎすして生きるより、まったりと生きて行く方が長生きの秘訣なのでしょうね。
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≪前回の解答≫ (3月22日の問題)
正解:家康のキリシタン国外追放令
高山右近は、1588年に加賀金沢城主の前田利家に招かれて、扶持を受けて暮らしていたが、1614年の徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、加賀を退去しマニラに渡っています。
≪今日の問題≫
考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>