日本で最初の世界文化遺産「姫路城」
『シラサギが羽を広げたような「白鷺城」』
一夜明けると雨はすっかりあがり青空ではありませんが、天気が回復していました。
まずは、昨夜も撮ったホテルの非常階段から一枚バチリ。 やはり写真は、自然光で撮るものですね。

城内は混んでいるということで、今回は、今まで見たことのない天守の裏にまわってみました。

① 大手門
大姫路城にしては、簡素な大手門です。

② 連立式天守閣
誰もがここで立ち止まり、先ずは一枚です。 青空でないと雲に吸収されてしまいます。

③ 大天守
この角度からの天守はバランスがよくていいですね。

④ 帯の櫓
この櫓の石垣は城内で一番高く、その高さは垂直方向に約23mあるそうです。
その石垣の上に、物見櫓と数寄屋風建物を続けて一つにまとめられて造られています。

⑤ 石垣技術
ここで警備のおっちゃんと仲良くなり、説明してくださったことを書き込みました。

⑥ 天守との別れ
姫山公園からは天守を見ることはできません。

⑦ 姫山公園の内堀
ここは観光客の人は殆どいなく、地元の方が散歩されていました。

⑧ 清水門
西側北方の虎口で、近辺の「鷺の清水」によりその名となったそうです。

清水門を出てすぐのところにある「鷹の清水」

⑨ 千姫の小路と平行な土塁
見事な土塁ですが、立ち入り禁止になっています。

⑩ 西の丸「ワの櫓」
お堀に小舟をうかばせーて~♪

⑪ 大手門近くの内堀
内堀はさすがに大手門の近くが一番広いですね。

⑫ 今、一番観光客の多い城「姫路城」
今回の姫路城登城は、ライトアップ撮影とこれまで見たことのなかった城の裏側を見ることができ、新たな
発見もありました。
次回の登城の際もテーマをもって登城したいと思います。

ランキングに参加しています

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一夜明けると雨はすっかりあがり青空ではありませんが、天気が回復していました。
まずは、昨夜も撮ったホテルの非常階段から一枚バチリ。 やはり写真は、自然光で撮るものですね。

城内は混んでいるということで、今回は、今まで見たことのない天守の裏にまわってみました。

① 大手門
大姫路城にしては、簡素な大手門です。

② 連立式天守閣
誰もがここで立ち止まり、先ずは一枚です。 青空でないと雲に吸収されてしまいます。

③ 大天守
この角度からの天守はバランスがよくていいですね。

④ 帯の櫓
この櫓の石垣は城内で一番高く、その高さは垂直方向に約23mあるそうです。
その石垣の上に、物見櫓と数寄屋風建物を続けて一つにまとめられて造られています。

⑤ 石垣技術
ここで警備のおっちゃんと仲良くなり、説明してくださったことを書き込みました。

⑥ 天守との別れ
姫山公園からは天守を見ることはできません。

⑦ 姫山公園の内堀
ここは観光客の人は殆どいなく、地元の方が散歩されていました。

⑧ 清水門
西側北方の虎口で、近辺の「鷺の清水」によりその名となったそうです。

清水門を出てすぐのところにある「鷹の清水」

⑨ 千姫の小路と平行な土塁
見事な土塁ですが、立ち入り禁止になっています。

⑩ 西の丸「ワの櫓」
お堀に小舟をうかばせーて~♪

⑪ 大手門近くの内堀
内堀はさすがに大手門の近くが一番広いですね。

⑫ 今、一番観光客の多い城「姫路城」
今回の姫路城登城は、ライトアップ撮影とこれまで見たことのなかった城の裏側を見ることができ、新たな
発見もありました。
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貸切の姫路城
『超混雑の姫路城をひとりじめ』
岡山城、福山城、広島城のライトアップ撮影が、いづれも雨でカメラを出すこともできず、最終夜の姫路に
やってきました。
ホテルは城の見える部屋をとってありましたが、見えるのは雨のなかの姫路城。
食事して、シャワーをし、外を見ると小ぶりになっています。
行くしかないでしょう! と、カメラをコンビニの袋に入れて、いざ出陣です。
大手門のおみやげさんの軒下で暫く撮っていると、ほぼ雨が止んできたじゃないですか。

いざ、入門です。

誰もいない・・・、姫路城が貸切です!

真っ白な姫路城は白トビ城です。

ライトさんありがとう。

この角度からもいいですね

白トビが激しいので、ホワイトバランスを変えてバチリ

「かの櫓」です。

ここでお子さん連れのファミリーが入城されてきました。
「奥さんが手振れで旨く写真が撮れない」となげいておられたので、三脚をお貸しすると大変喜んでいただき
ました。

ホテルに帰り、非常階段から写真を撮らせて欲しいと願ってみると、「危なくないように」とOKを戴きバチリ。

シロ過ぎる姫路城のライトアップは旨く撮れませんでしたけど、大混雑の姫路城を貸切で廻れたのは感動もの
でした。
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岡山城、福山城、広島城のライトアップ撮影が、いづれも雨でカメラを出すこともできず、最終夜の姫路に
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食事して、シャワーをし、外を見ると小ぶりになっています。
行くしかないでしょう! と、カメラをコンビニの袋に入れて、いざ出陣です。
大手門のおみやげさんの軒下で暫く撮っていると、ほぼ雨が止んできたじゃないですか。

いざ、入門です。

誰もいない・・・、姫路城が貸切です!

真っ白な姫路城は白トビ城です。

ライトさんありがとう。

この角度からもいいですね

白トビが激しいので、ホワイトバランスを変えてバチリ

「かの櫓」です。

ここでお子さん連れのファミリーが入城されてきました。
「奥さんが手振れで旨く写真が撮れない」となげいておられたので、三脚をお貸しすると大変喜んでいただき
ました。

ホテルに帰り、非常階段から写真を撮らせて欲しいと願ってみると、「危なくないように」とOKを戴きバチリ。

シロ過ぎる姫路城のライトアップは旨く撮れませんでしたけど、大混雑の姫路城を貸切で廻れたのは感動もの
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岡山城本丸にあった岡山神社
『宇喜多家が移設した岡山神社』
岡山神社は清和天皇貞観年中(860年)に創建され、現在の岡山城本丸の地に鎮座し、坂下(さかおり)の
社と呼ばれていたそうです。
1578年に宇喜多直家が岡山城を築くにあたり、現在の社地に遷し岡山城の守護神として社領を寄附され、
宇喜多秀家が本殿を、小早川秀秋が拝殿以下を造営しています。

南方からやって来たのかと思うくらい、個性的な狛犬たちです。

旧藩主池田家が城主の時は城内鎮守として崇敬されていましたが、昭和20年、戦災にて随神門と末社数社
だけを残して焼失しています。
【隋神門】
池田継政によって、1745年に造立され戦火を逃れた三間一戸の八脚門です。
写真には水滴が写るように、雨が振り出してきました。

昭和33年に本殿が再建され、昭和50年に拝殿、幣殿が造営されています。
【本殿】
昭和33年に再建されていますが、残念ながらコンクリート造りのようです。

雨が本格的に降ってきましたので、この後に予定していた、小早川秀明の墓所がある瑞雲寺と岡山城の
ライトアップ写真を断念し、広島に向かいました。
ランキングに参加しています

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岡山神社は清和天皇貞観年中(860年)に創建され、現在の岡山城本丸の地に鎮座し、坂下(さかおり)の
社と呼ばれていたそうです。
1578年に宇喜多直家が岡山城を築くにあたり、現在の社地に遷し岡山城の守護神として社領を寄附され、
宇喜多秀家が本殿を、小早川秀秋が拝殿以下を造営しています。

南方からやって来たのかと思うくらい、個性的な狛犬たちです。


旧藩主池田家が城主の時は城内鎮守として崇敬されていましたが、昭和20年、戦災にて随神門と末社数社
だけを残して焼失しています。
【隋神門】
池田継政によって、1745年に造立され戦火を逃れた三間一戸の八脚門です。
写真には水滴が写るように、雨が振り出してきました。

昭和33年に本殿が再建され、昭和50年に拝殿、幣殿が造営されています。
【本殿】
昭和33年に再建されていますが、残念ながらコンクリート造りのようです。

雨が本格的に降ってきましたので、この後に予定していた、小早川秀明の墓所がある瑞雲寺と岡山城の
ライトアップ写真を断念し、広島に向かいました。
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いつもありがとうございます。

3回目の岡山城
『3回目の岡山城』
山陽路の城のライトアップ写真を撮りに4月19日~21日に行って来ました。
出発の時から天気予報は「雨」でしたが、スケジュールを組んだら日程変更ができないのが、サラリーマンの
悲しい宿命です。
岡山駅に着くと、桃太郎さんが「犬」、「きじ」、「はと」を従えて出迎えてくれました。

まずは久しぶりの岡山城です。
「西の丸 西手櫓」
江戸時代初頭に二の丸の西側の防備に設けた隅櫓で、今に残っています。
西の丸は市街地になっていますので、今回、初めてみる櫓です。 現在は小学校のグランドになっています
ので、残念ながら立ち入ることはできませんでした。

この城は、お城廻りをはじめてから、2010年2月、2012年2月、そして今回と3回目の登城になります。
【廊下門】
天守の復元時に、木造で復元されています。

【月見櫓】
二代目藩主の池田忠雄が岡山城の増改築時に、本丸搦め手に備えて建てた江戸時代初期の隅櫓です。

【宇喜多氏築城時の石垣】
平成5年の発掘時に発見されています。

【不明(あかずの)門】
本段への入口になる門で、天守と同時に鉄筋コンクリートで復元されています。

【天守閣】
宇喜多秀家が岡山城の象徴に建築した3層6階建ての望楼形天守閣が、昭和41年に鉄筋コンクリート造り
で復元されています。
城郭建築物に天守閣が出現して発展し始めた時期の構造です。

この角度からがいいですね。

後楽園へ渡る橋、ここからのライトアップを撮ってみたいですね。

この時点までは小雨程度でしたので、日没の18時30分まで、岡山神社と小早川秀明の墓所がある瑞雲寺
へと向うため、一旦、岡山城を後にしました。
戻ってこれたのでしょうか。
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山陽路の城のライトアップ写真を撮りに4月19日~21日に行って来ました。
出発の時から天気予報は「雨」でしたが、スケジュールを組んだら日程変更ができないのが、サラリーマンの
悲しい宿命です。
岡山駅に着くと、桃太郎さんが「犬」、「きじ」、「はと」を従えて出迎えてくれました。

まずは久しぶりの岡山城です。
「西の丸 西手櫓」
江戸時代初頭に二の丸の西側の防備に設けた隅櫓で、今に残っています。
西の丸は市街地になっていますので、今回、初めてみる櫓です。 現在は小学校のグランドになっています
ので、残念ながら立ち入ることはできませんでした。

この城は、お城廻りをはじめてから、2010年2月、2012年2月、そして今回と3回目の登城になります。
【廊下門】
天守の復元時に、木造で復元されています。

【月見櫓】
二代目藩主の池田忠雄が岡山城の増改築時に、本丸搦め手に備えて建てた江戸時代初期の隅櫓です。


【宇喜多氏築城時の石垣】
平成5年の発掘時に発見されています。

【不明(あかずの)門】
本段への入口になる門で、天守と同時に鉄筋コンクリートで復元されています。

【天守閣】
宇喜多秀家が岡山城の象徴に建築した3層6階建ての望楼形天守閣が、昭和41年に鉄筋コンクリート造り
で復元されています。
城郭建築物に天守閣が出現して発展し始めた時期の構造です。

この角度からがいいですね。

後楽園へ渡る橋、ここからのライトアップを撮ってみたいですね。

この時点までは小雨程度でしたので、日没の18時30分まで、岡山神社と小早川秀明の墓所がある瑞雲寺
へと向うため、一旦、岡山城を後にしました。
戻ってこれたのでしょうか。
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『直江兼続』 その5
『義と愛民の志』 その5
【「義」と「愛民」の志】
謙信の死から22年後、関ヶ原合戦後に上杉家が苦境に立たされたとき、それははっきりした形で現れて
います。
米沢城

西軍方についた上杉家は、それまでの会津120万石の大封から米沢30万石に減封されたが、その時、
執政として上杉家の舵取りを任された兼続は家臣のリストラに断固反対し、
「人こそ組織の財産なり」
として、あえて人員整理をすることなく難局に立ち向かっているのです。
桑、青苧(あおそ)、漆、紅花などの換金作物の栽培を奨励し、半田銀山をはじめ金銀山の開発を行い、
西根下堰など用水の整備により耕作地を広げ、苦しい藩財政をやり繰りし、実質50万石以上の歳入を
得るにいたる財政改革を成功させています。
また、兼続は東日本で1、2を争う「禅林文庫」という蔵書50万冊を誇る図書館を創り、子供の教育につ
とめます。
これこそ謙信がかかげた「経済と義の両立」というテーマに乗っ取った政治であったのです。
むろん、大いなる豊かさを家臣たちに保障することができた謙信の時代と、窮乏に耐えなければならない
兼続の時代は対極でしたが、一方で信義を貫き通し、同時に殖産興業によって民の暮らしを守ろうとする
兼続の姿勢は、上杉家をひとつに結束させたのです。
師から弟子へと受け継がれた「義」と「愛民」の志は消えることはなかったのです。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。
岡山城 (今回の登城目的は、ライトアップを撮りに行ったのですが・・・)

<参考文献:参考文献:実伝直江兼続(火坂雅志編)>
【「義」と「愛民」の志】
謙信の死から22年後、関ヶ原合戦後に上杉家が苦境に立たされたとき、それははっきりした形で現れて
います。
米沢城

西軍方についた上杉家は、それまでの会津120万石の大封から米沢30万石に減封されたが、その時、
執政として上杉家の舵取りを任された兼続は家臣のリストラに断固反対し、
「人こそ組織の財産なり」
として、あえて人員整理をすることなく難局に立ち向かっているのです。
桑、青苧(あおそ)、漆、紅花などの換金作物の栽培を奨励し、半田銀山をはじめ金銀山の開発を行い、
西根下堰など用水の整備により耕作地を広げ、苦しい藩財政をやり繰りし、実質50万石以上の歳入を
得るにいたる財政改革を成功させています。
また、兼続は東日本で1、2を争う「禅林文庫」という蔵書50万冊を誇る図書館を創り、子供の教育につ
とめます。
これこそ謙信がかかげた「経済と義の両立」というテーマに乗っ取った政治であったのです。
むろん、大いなる豊かさを家臣たちに保障することができた謙信の時代と、窮乏に耐えなければならない
兼続の時代は対極でしたが、一方で信義を貫き通し、同時に殖産興業によって民の暮らしを守ろうとする
兼続の姿勢は、上杉家をひとつに結束させたのです。
師から弟子へと受け継がれた「義」と「愛民」の志は消えることはなかったのです。
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岡山城 (今回の登城目的は、ライトアップを撮りに行ったのですが・・・)

<参考文献:参考文献:実伝直江兼続(火坂雅志編)>
『直江兼続』 その4
『義と愛民の志』 その4
【慈愛の心をもって民を哀れむ】
兼続が上杉謙信とともに過ごした時期は長くありません。
景勝とともに春日山城に引き取られてから、1578年に謙信が没するまで、わずか数年に過ぎません。
しかし、最も多感な10代の青春期を戦国きっての偉大な戦術家のもとで過ごしたことは、その後の兼続の人
生に多大な影響を与えています。
七尾城 (七尾城の登城記は「こちら」です。)

この時期、謙信は長年対立していた一向宗と和睦し、北陸路を侵し始めた織田軍と対決すべく、みずから軍
勢を率いて越中、能登への出陣を繰り返しています。
1577年には能登七尾城を落し、さらに柴田勝家らの織田勢を加賀手取川に破って、その強さを誇っていま
す。
そんな上杉軍の戦いぶりを兼続は間近で目にし、謙信の戦術を現場で学んだのです。
後年、出羽最上氏と長谷堂合戦の際、兼続はみずから殿(しんがり)をつとめ、謙信直伝の「懸(かが)り引き」
の策を用いて見事な退却戦を演じ、これを成功させています。
しかし、兼続が謙信から学び取った最も大きかったものは、その精神性にあったのです。
謙信は、語録のなかで
「大将の根底とするところは、仁義礼智信の五を規(のり)とし、慈愛をもって衆人を哀れみ・・・。」(北越軍談)
と、説いています。
大将は合戦に強いことは勿論だが、その根底に仁義智信の五常を備え
「慈愛の心をもって民を哀れむことだ」
謙信は、そう考えていたのです。
直江兼続は謙信の「義」の精神とともに、民を愛し、民とともに生きる心を引き継いだという。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:参考文献:実伝直江兼続(火坂雅志編)>
【慈愛の心をもって民を哀れむ】
兼続が上杉謙信とともに過ごした時期は長くありません。
景勝とともに春日山城に引き取られてから、1578年に謙信が没するまで、わずか数年に過ぎません。
しかし、最も多感な10代の青春期を戦国きっての偉大な戦術家のもとで過ごしたことは、その後の兼続の人
生に多大な影響を与えています。
七尾城 (七尾城の登城記は「こちら」です。)

この時期、謙信は長年対立していた一向宗と和睦し、北陸路を侵し始めた織田軍と対決すべく、みずから軍
勢を率いて越中、能登への出陣を繰り返しています。
1577年には能登七尾城を落し、さらに柴田勝家らの織田勢を加賀手取川に破って、その強さを誇っていま
す。
そんな上杉軍の戦いぶりを兼続は間近で目にし、謙信の戦術を現場で学んだのです。
後年、出羽最上氏と長谷堂合戦の際、兼続はみずから殿(しんがり)をつとめ、謙信直伝の「懸(かが)り引き」
の策を用いて見事な退却戦を演じ、これを成功させています。
しかし、兼続が謙信から学び取った最も大きかったものは、その精神性にあったのです。
謙信は、語録のなかで
「大将の根底とするところは、仁義礼智信の五を規(のり)とし、慈愛をもって衆人を哀れみ・・・。」(北越軍談)
と、説いています。
大将は合戦に強いことは勿論だが、その根底に仁義智信の五常を備え
「慈愛の心をもって民を哀れむことだ」
謙信は、そう考えていたのです。
直江兼続は謙信の「義」の精神とともに、民を愛し、民とともに生きる心を引き継いだという。
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<参考文献:参考文献:実伝直江兼続(火坂雅志編)>
『直江兼続』 その3
『義と愛民の志』 その3
【天才は孤独】
謙信と親交のあった公家の近衛前久は、書状のなかでこう書いています。
春日山城の謙信公

「(上洛中の謙信は)華奢な若衆をたくさん集めて大いに酒を飲み、たびたび夜を明かした。」
謙信が酒好きであったことは有名ですが、また才知ある容貌美麗な若者を好み、彼らを集めて酒を飲んでは
戦場の経験や、乱世を生きて行くうえでの人生訓を語ったといいます。
天才は孤独なものです。
みずみずしい感性を持った若者を相手に、みずからの思想を語るとき、絶対的なカリスマとして上杉家を率い
る謙信の孤独は多少なりとも癒されたのでしょう。
後に
「長(たけ)高く、姿容美しく、言語晴朗なり」(名将言行録)
といわれ、ひときわ華のある存在であった兼続は、たちまち謙信の目に止まり、その寵遇を受けたという。
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真っ白な姫路城のライトアップ

<参考文献:参考文献:実伝直江兼続(火坂雅志編)>
【天才は孤独】
謙信と親交のあった公家の近衛前久は、書状のなかでこう書いています。
春日山城の謙信公

「(上洛中の謙信は)華奢な若衆をたくさん集めて大いに酒を飲み、たびたび夜を明かした。」
謙信が酒好きであったことは有名ですが、また才知ある容貌美麗な若者を好み、彼らを集めて酒を飲んでは
戦場の経験や、乱世を生きて行くうえでの人生訓を語ったといいます。
天才は孤独なものです。
みずみずしい感性を持った若者を相手に、みずからの思想を語るとき、絶対的なカリスマとして上杉家を率い
る謙信の孤独は多少なりとも癒されたのでしょう。
後に
「長(たけ)高く、姿容美しく、言語晴朗なり」(名将言行録)
といわれ、ひときわ華のある存在であった兼続は、たちまち謙信の目に止まり、その寵遇を受けたという。
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真っ白な姫路城のライトアップ

<参考文献:参考文献:実伝直江兼続(火坂雅志編)>