山梨・2つ目のカントリーサイン

『身延町といったら、身延山久遠寺』

身延町といったら身延山の枝垂れ桜で有名ですが、はじめて身延山久遠寺に行ってきました。

山梨 身延町 001

1274年、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部実長(波木井実長)が、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻っ

た日蓮を招き西谷の地に草庵を構えたのが、始まりだという。

山梨 身延町 002


日蓮聖人は実長の招きにより入山し、これ以来足かけ9年の永きにわたり法華経の読誦(どくじゅ)と門弟

たちの教導に終始し、1281年に旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山久遠寺」と命名してい

ます。

草庵跡
山梨 身延町 002-1

日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国に向う途上の武蔵の国

池上(現在の東京都大田区)にてその61年の生涯を閉じています。

そして、「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」という日蓮聖人の遺言により、その遺骨

は身延山に奉ぜられ、心霊とともに祀られいるそうです。

総門
車で通過です。
山梨 身延町 003

三門
「空」「無相」「無願」の三解脱をあらわしているそうです。 駐車場がないため、横目でチラ見です。
山梨 身延町 004

1475年(室町時代)には、手狭になった西谷から現在地に伽藍が移転され、戦国時代には甲斐国守護武

田氏や河内領主の穴山氏の庇護を受け門前町が形成されています。

斜行エレベータ
西谷せいしん駐車場から境内へと階段を使わずに登ることができます。
山梨 身延町 005

菩提梯
三門から本堂へと続く287段の石段ですが、斜行エレベータで上がりましたので、苦労なしです。
山梨 身延町 006

また、江戸時代には日蓮宗が徳川氏はじめ諸大名の帰依を受け発展し、その後、日脱・日省・日亨の三師

で壮大な伽藍を整えなど盛期を迎えています。

五重塔
2009年に明治8年の大火による焼失より134年ぶりによみがえった宝塔です。
木材は全て国産を使用し、設計から工法にいたるまで400年前に建てられた元和の塔を復元・再建した。
山梨 身延町 007

1821年には火災で諸堂を焼失。その後復興されるも、明治8年1月に西谷本種坊からの出火により再び

伽藍や寺宝を焼き尽くしますが、74世日鑑の尽力とその後の法主等の力により現在に至っています。

本堂
1985年、日蓮聖人700遠忌の際に再建されています。
山梨 身延町 008

山梨 身延町 010 山梨 身延町 011

祖師堂
日蓮聖人の神霊を祀る堂閣で、「棲神閣」と称しています。
山梨 身延町 009





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テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

朱がまぶしい神田明神

『神田明神を崇敬する者は成田山・新勝寺にお参りしてはならぬ』

5月上旬に神田明神の近くに仕事で行きましたので、立ち寄ってみました。

神田明神は、730年に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)によって、武蔵国豊島郡芝崎

村(千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されています。

随神門
昭和天皇御即位50年の記念として総檜・入母屋造で建立されています。
ka.神田明神 001

戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名武将によって手厚く崇敬されてきたという。

1600年の天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ったとい

う。

御神殿
昭和9年に再建。残念ながら鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の社殿です。
ka.神田明神 002

ka.神田明神 003

江戸幕府が開かれると、幕府の尊崇する神社となり、1616年に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の

地に遷座し、幕府により社殿が造営されています。

以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民に至るまで崇敬されています。

鳳凰殿 (神札授与所・参集所)
ka.神田明神 004

明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定め

られています。

ka.神田明神 005

大正12年の関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまい、昭和9年に現在の鉄骨鉄筋

コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されています。

狛犬
関東大震災後に復興された現社殿とともに建立された、正面を向いている狛犬は珍しいとか。
ka.神田明神 006

こんな伝説があります。

神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺を参拝してはいけないというタブーが伝えられている。

これは朝廷に対して叛乱を起した平将門を討伐するため、僧・寛朝を神護寺護摩堂の空海作といわれる不動

明王像と供に現在の成田山新勝寺へ使わせ乱の鎮圧のため動護摩の儀式を行わせた、すなわち新勝寺参

拝は将門を苦しめる事となるためだそうです。



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                                                 <参考文献:神田明神HP>

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揺れる想いから、はや8年

『美人と言われるのが嫌いだった、ZARDの坂井泉水さん』

1990年代の音楽界を席巻した「ZARD」のボーカル、坂井泉水さんが2007年5月27日、40年の短い生涯

を閉じて、はや8年の歳月が流れました。

「負けないで」や「揺れる想い」などのミリオンセラーを連発した華々しい功績とは裏腹に、メディアの露出が極

端に少なかった“歌姫”。

謎に包まれた歌姫の生涯は、最後の最後までミステリアスでした。


坂井泉水さん (いつもうつむきの写真が多いのですが、あえて上を向いている写真を)
sa.坂井泉水

坂井さんは1967年2月に神奈川県平塚市で生まれていますが、彼女のプロフィルは公表されることはなかっ

た。

坂井さんは06年6月に子宮頸がんを患い、全摘出手術を受けて回復の兆しを見せていたが、肺への転移が

見つかり、07年4月から入退院を繰り返していた。事故現場の非常階段は、日課としていた散歩のコースだっ

たようです。

そんな坂井さんのアーティストとしての経歴は、実に華々しく、93年にはシングル「負けないで」が164万枚を

超える大ヒット。その後、「揺れる想い」「マイ フレンド」も100万枚を突破しています。

亡くなった07年当時に、CDやDVDの総売り上げは、3600万枚を超えていたという。

坂井さんは高校卒業後、神奈川県内の短大に進学。OL生活を経て芸能界入りしていますが、そこは歌手とは

畑違いのキャンペーンガールの世界。

89年には「東映カラオケクイーン」、翌年はレースクイーンとして活動したが、音楽への情熱はますます高まっ

ていたそうです。

坂井さんはヒット曲を連発しても、メディアへの露出は控えたままでした。ファンの前に初めて生の姿を見せた

のは、デビューから8年後の99年8月。アルバム購入者を対象にした、クルーズ客船でのライブでした。

坂井さんのように、メディア露出を控えることで“価値”を向上させ、タイアップを駆使する戦略は、当時、音楽

業界で「ビーイング商法」と呼ばれていました。

この戦略は、歌と私生活を大切にしたいという坂井さんの志向と重なり合っていたようです。


彼女は『きれい』とか、『美人』と言われるのが嫌で、歌番組の共演者に『きれいな人』と何度も言われて、テレ

ビ嫌いになったといいます。

ロケで20時間もカメラを回しながら、実際には1分程度しか本編で採用されなかったこともあったという。作品

に妥協しなかったという、彼女のストイックな一面がうかがえる。


坂井さんは「幸せとは?」と問われて、こう答えたいう。

「自分の好きなことを、一生やり続けていけることだと思います」

亡くなった年の秋には、アルバムの発売とライブツアーを行う計画があった坂井さん。闘病中も病床で詩を書

き続けていたといいますが、その一生は幸せだったのか。やはり無念だったのか。

いくら問うても、「永遠」に「君がいない」。


現在でも、車のミュージックサーバーには彼女のアルバムを7、8枚インストールしていますので、今週の週末

にも彼女の歌声でハンドルを握っているだろうと思います。



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                                                  <参考文献:週刊朝日>

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『直江兼続』 その20

『関ヶ原決戦の秘策』 その1

【水落城での密談】

直江兼続と石田三成がはじめて対談したのは1585年の秋だったといいます。

その年の8月、富山城に佐々成政を降した羽柴秀吉は、越中・越後国境に近い落水城で上杉景勝と会談して

いる。

天地人の三成(小栗さん)
is.石田三成 小栗002

上杉三代日記では

「景勝は直治(兼続)を召連れ、秀吉公、石田一人にて、堕水(落水)の奥の間にて、二時計りの御相談なり」

と記しています。

このとき、兼続と三成は同年の26歳、初対面でたちまち意気投合したというのです。

この2人は初対面とはいえ、兼続と三成はまったく知らない仲ではなかったのです。

1583年、秀吉が賤ヶ岳の戦いに勝利して越前北庄城に柴田勝家を滅ぼしたおり、景勝は秀吉だけでなく三

成と増田盛長にも贈り物をして祝意を表した際に、三成はこれに対し兼続に答礼の書状を送っているのです。

翌1584年、秀吉が和親の証として景勝に人質を要求したとき、景勝は上条宣順(政繁)の3男・義真を自身

の養子として送っていますが、この交渉を進めたのも兼続と三成であり、三成は兼続へ礼状をしたためてい

ます。



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pig 20150527



                                   <参考文献:実伝直江兼続(火坂雅志編)>

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『直江兼続』 その19

『父祖伝来の山河に別れ』 その6

【律義者の景勝】

兼続の米沢30万石といえば、景勝の後に越後に入った堀秀治と同格で、加藤清正が25万石、浅野長政

は21万石、小西行長は20万石、石田三成ですら19万石なのです。

一陪臣に過ぎない直江兼続の30万石は類例のない破格の処遇であり、景勝が驚いても不思議でないの

です。

豊臣秀吉(1537-1598年)
to.豊臣秀吉

その破格の厚遇、太閤秀吉ならやってのけそうな気がしますし、また兼続の才覚を知る者なら納得もある

でしょうが、普通であれば6万石や3万石が現実的だと思います。

ですが「上杉に山城あり」と知られた兼続が、諸大名と対等に交遊していたエピソードとも思い合わせると、

30万石は話として面白いと思われます。

こうして上杉景勝は、越後から会津へ移りますが、「上杉将士書上」は興味深いことを伝えています。

かねて不識庵謙信を尊崇していた徳川家康が、景勝に対しても

「殊に律義者と思召し、殊の外御懇なり、景勝、会津転封の時も、鉄砲50丁、羅紗20間、樽肴添へて、

御祝遣され」

とあります。

このわずか2年後の1600年のいわゆる関ヶ原合戦の引き金となっった家康の会津討伐行を思うと感慨

深いものがあります。

秀吉に最後まで義理立てする景勝という漢(おとこ)は、やはり芯からの律義者であったのでしょう。



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pig 20150526



                                      <参考文献:実伝直江兼続(火坂雅志編)>

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『直江兼続』 その18

『父祖伝来の山河に別れ』 その5

【上杉家の会津への転封】

奥羽の地には、岩出山の伊達政宗、山形の最上義光など、一筋縄ではいかぬ面々がちらばっています。

そこで秀吉は

「氏郷の跡を継ぎ、奥羽の鎮撫たり得る者といえば、上杉の武名以外にない。石高を120万石に加増し、

3年の在国を認め、この間、上方勤番も免除する」

という破格の条件をもって、景勝に会津への転封をうながした。

春日山城から領内の上越市を見下ろす
ka.春日山城 002

これを「上杉三代日記」は、

「慶長3年(1598年)、秀吉公上意にて景勝会津へ、百万石にて国替」

と記しているが、旧蒲生領の会津・米沢92万石に加え、上杉領の佐渡・庄内を加えれば120万石の大

封となる計算であった。

さすがに景勝は困惑した。

上杉家と越後には2百数年にもおよぶ繋がりがあり、父祖伝来の山河に対する愛惜の思いはもとより、

領民との情誼においても、一朝一夕には絶ち切れぬものがあり、秀吉の移封の奨めを拒絶かなわぬこ

とと思いながらも迷ったのです。

その迷いを押し切ったのが兼続であった。

景勝から相談を受けた兼続は、即座に「会津に移りましょう」と答えたという。

それで迷いの吹っ切れた景勝が、秀吉に承諾を伝えると、秀吉はふと思いついたように

「直江山城には、米沢30万石を分け与えるように」

と言い添えたことから、秀吉と兼続の間には、すでにこの密談があったのではないかと、一瞬景勝は疑

惑の念を抱いたという話も残っているとか。



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sakura 20150525



                                     <参考文献:実伝直江兼続(火坂雅志編)>

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『直江兼続』 その17

『父祖伝来の山河に別れ』 その4

【蒲生氏郷の急死】

豊臣臣下の景勝は1592年の朝鮮出兵においても兵5千人を率いて渡海するなど、神妙に軍役を果たして

おり、あくまで律儀を貫いています。

蒲生氏郷(1556-1595年)
ga.蒲生氏郷

慶長の役には、秀頼を守って居留守をつとめていますが、このときすでに景勝は、徳川家康・前田利家・毛

利輝元・宇喜多秀家らとともに五大老の座に列せられており、このまま越後と京坂を行き来する歳月を過ご

すかと思われた。

ところが、会津の蒲生氏郷の急死が思わぬ波紋となって景勝の身までにおよんだ。

氏郷の跡は嫡男・秀行が継いだものの、秀行は弱冠13歳。

秀吉はこの秀行に会津92万石の朱印状を与えたうえ、重臣や近隣の諸大名にも秀行の助力するように命

じます。

しかし、名将・氏郷を失った蒲生家は、さながら緒の切れた数珠のようなものとなったのです。

しょせん少年では家中の統率は無理で、重臣間の抗争がしだいにあらわになると、激怒した秀吉は、ついに

秀行を野洲宇都宮12万石に転封させ、この蒲生家が去った会津に誰が据えるかであったが、景勝の名が

浮上したのです。



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pig 20150524



                                  <参考文献:実伝直江兼続(火坂雅志編)>

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プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













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