『直江兼続』 その40
『上杉鷹山が師と仰ぐ』 その3
【景勝と兼続の二人三脚】
1604年9月、近江国および和泉国から鉄砲造りの職人を招き、白布高湯で鉄砲千丁を鍛造させています。
現在、白布温泉に「直江城州公鉄砲鍛造遺跡」と刻まれた石碑を建て、その業績を讃えています。
直江石堤 (兼続の功績を訪ねての記事は「こちら」です。)

また、兼続は米沢城下の拡張にあたって、松川の洪水から町や田畑を守るため、大規模な堤防を築いてい
ます。
これが直江石堤と呼ばれるもので、現在でも基礎が残っており、「直江堤公園」として整備されています。
兼続はさらに生き残り工作として、1604年、家康の腹心・本多正信の次男・政重を娘のお松と結婚させ、
直江家の婿養子に迎えています。
兼続は越後時代の1593年にも、本庄与次郎という男を養子にしています。本庄氏は、かつて上杉謙信に
反旗を翻した一族であったが、彼らを取り込むことで、景勝の越後支配体制を強化したのでしょう。
このように兼続はかつての敵であった者の子息でも、養子として取り込む度量の大きさがあったのです。
米沢城の景勝と兼続

こうして兼続の判断をすべて承認し、兼続のやりたいようにやらせてくれる主君・上杉景勝であり、彼はある
意味では、兼続以上の器量を持っていたのでしょう。
太田道灌はその能力が突出していたので、主君の上杉定正から、自分をしのんでしまうのではないかと
不安を抱かれ、暗殺される羽目になっていますが、その点、景勝は全面的に兼続を信頼し、2人の絶妙な
二人三脚で上杉家の危機を乗り切ったのです。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:実伝直江兼続(火坂雅志編)>
【景勝と兼続の二人三脚】
1604年9月、近江国および和泉国から鉄砲造りの職人を招き、白布高湯で鉄砲千丁を鍛造させています。
現在、白布温泉に「直江城州公鉄砲鍛造遺跡」と刻まれた石碑を建て、その業績を讃えています。
直江石堤 (兼続の功績を訪ねての記事は「こちら」です。)


また、兼続は米沢城下の拡張にあたって、松川の洪水から町や田畑を守るため、大規模な堤防を築いてい
ます。
これが直江石堤と呼ばれるもので、現在でも基礎が残っており、「直江堤公園」として整備されています。
兼続はさらに生き残り工作として、1604年、家康の腹心・本多正信の次男・政重を娘のお松と結婚させ、
直江家の婿養子に迎えています。
兼続は越後時代の1593年にも、本庄与次郎という男を養子にしています。本庄氏は、かつて上杉謙信に
反旗を翻した一族であったが、彼らを取り込むことで、景勝の越後支配体制を強化したのでしょう。
このように兼続はかつての敵であった者の子息でも、養子として取り込む度量の大きさがあったのです。
米沢城の景勝と兼続

こうして兼続の判断をすべて承認し、兼続のやりたいようにやらせてくれる主君・上杉景勝であり、彼はある
意味では、兼続以上の器量を持っていたのでしょう。
太田道灌はその能力が突出していたので、主君の上杉定正から、自分をしのんでしまうのではないかと
不安を抱かれ、暗殺される羽目になっていますが、その点、景勝は全面的に兼続を信頼し、2人の絶妙な
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『直江兼続』 その39
『上杉鷹山が師と仰ぐ』 その2
【農産物増産の奨励】
上杉家の減封危機を乗り切るため、兼続はリーダーシップを発揮し、新田開発や水利事業、商工業の振興、
農産物の栽培援助、鉱山の採掘など、殖産事業に力をいれています。
青苧

また青苧(あおそ)や漆、桑、楮(こうぞ:紙の原料)、紅花などの栽培を奨励しています。
青苧は苧(からむし)という野生の植物で、越後の代表的な特産であった。この植物の茎の皮から取り出した
繊維で織ったのが越後上布なのです。
木綿が普及していなかった戦国時代、一般庶民の衣料として大切であり、今日でも小千谷縮(おじやちじみ)、
塩沢紬として伝わっています。
これらの農産物の栽培は、もともと上杉謙信の時代から越後で奨励されていたもので、上杉家の財政を支え
ていたものです。
謙信が、上洛した際に、正親町天皇や足利将軍に莫大な金銀や宝物を献上できるほど豊かであったのは、
佐渡の鉱山のほかに、こうした農産物から得られる収入のおかげだったのです。
兼続は米沢でもこれを引き継ぎ、さらに「四季農戒書」という農業の手引書を出版し、さらなる農産物の増産
を図っています。
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【農産物増産の奨励】
上杉家の減封危機を乗り切るため、兼続はリーダーシップを発揮し、新田開発や水利事業、商工業の振興、
農産物の栽培援助、鉱山の採掘など、殖産事業に力をいれています。
青苧

また青苧(あおそ)や漆、桑、楮(こうぞ:紙の原料)、紅花などの栽培を奨励しています。
青苧は苧(からむし)という野生の植物で、越後の代表的な特産であった。この植物の茎の皮から取り出した
繊維で織ったのが越後上布なのです。
木綿が普及していなかった戦国時代、一般庶民の衣料として大切であり、今日でも小千谷縮(おじやちじみ)、
塩沢紬として伝わっています。
これらの農産物の栽培は、もともと上杉謙信の時代から越後で奨励されていたもので、上杉家の財政を支え
ていたものです。
謙信が、上洛した際に、正親町天皇や足利将軍に莫大な金銀や宝物を献上できるほど豊かであったのは、
佐渡の鉱山のほかに、こうした農産物から得られる収入のおかげだったのです。
兼続は米沢でもこれを引き継ぎ、さらに「四季農戒書」という農業の手引書を出版し、さらなる農産物の増産
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行田市 「古代蓮」
郡上おどりin青山 2015初日
『郡上おどりin青山 初日も百鬼夜行だった!』
昨年の夏より、郡上おどりは雨に3連敗中です。
予報どおりの雨でした。
会場の秩父宮ラクビー場に到着したのは、17時過ぎで「春駒」が既に流れていました。



会場は郡上一色で盛り上がっています。

あ~♪ しちりょうさんぶの はっるこま はるこま~♪♪

青頭にショートゆかた、なんと網タイツに足袋を履いたお嬢さん、なにかやらかしてくれそうです!

青山の郡上おどりも百鬼夜行状態です。

ここは神宮の森ですから、お隣の神宮球場からヤクルトスワローズのマスコット「つばみ」ちゃんも参加して
いました。

おや、おや、さっきの奇抜な出で立ちのお嬢さんは、くたびれたオッサンでした!

まずい物をみてしまったので、20時少し前に会場を後にしました。

少し歩きますが、車は絵画館の駐車場を利用しました。

今日も雨のようですが、青山へ行くのでしょうか。
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予報どおりの雨でした。
会場の秩父宮ラクビー場に到着したのは、17時過ぎで「春駒」が既に流れていました。



会場は郡上一色で盛り上がっています。

あ~♪ しちりょうさんぶの はっるこま はるこま~♪♪

青頭にショートゆかた、なんと網タイツに足袋を履いたお嬢さん、なにかやらかしてくれそうです!

青山の郡上おどりも百鬼夜行状態です。

ここは神宮の森ですから、お隣の神宮球場からヤクルトスワローズのマスコット「つばみ」ちゃんも参加して
いました。

おや、おや、さっきの奇抜な出で立ちのお嬢さんは、くたびれたオッサンでした!

まずい物をみてしまったので、20時少し前に会場を後にしました。

少し歩きますが、車は絵画館の駐車場を利用しました。

今日も雨のようですが、青山へ行くのでしょうか。
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郡上おどり in 青山
『郡上おどりの夏 始まる』
第22回 「郡上おどりin青山」が、今日から2日間「秩父宮ラクビー場」で開催されます。

【スケジュール】
6月26日(金)
16時 踊り講習会
17時 郡上おどり 開始
19時30分 お楽しみ抽選会
20時30分 おどり終了
6月27日(土)
15時 子供踊り講習会
17時 郡上おどり 開始
18時45分 お楽しみ抽選会
20時 おどり終了
♪猫がねずみ取りゃ いたちが笑う~♪ いたち笑うな コラわれも取る~♪♪
両日とも雨の予報になっていますが、郡上おどりに雨はつきものです。
百鬼夜行の 2014年徹夜おどり (8月16日の徹夜おどりは「こちら」です。)

青山で郡上おどりを楽しみましょう♪
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【スケジュール】
6月26日(金)
16時 踊り講習会
17時 郡上おどり 開始
19時30分 お楽しみ抽選会
20時30分 おどり終了
6月27日(土)
15時 子供踊り講習会
17時 郡上おどり 開始
18時45分 お楽しみ抽選会
20時 おどり終了
♪猫がねずみ取りゃ いたちが笑う~♪ いたち笑うな コラわれも取る~♪♪
両日とも雨の予報になっていますが、郡上おどりに雨はつきものです。
百鬼夜行の 2014年徹夜おどり (8月16日の徹夜おどりは「こちら」です。)

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『直江兼続』 その38
『上杉鷹山が師と仰ぐ』 その1
【米沢への転封】
上杉鷹山といえば、財政難で苦しんでいた米沢藩を藩政改革で見事に立ち直らせた米沢藩9代目の名君と
して有名です。
その鷹山が師と仰ぎ、政策上で参考にしたのが、直江兼続でした。
上杉鷹山(1751-1822年)

兼続が政治力を発揮したのは、1600年の関ヶ原の戦いが徳川家康の勝利に終わり、上杉家が存亡の危
機に陥ったときのことです。
家康と敵対していた上杉景勝の居城・会津若松城では和戦両論が論議されたが、景勝と兼続は意を決し、
家康に謝罪することにした。
1601年7月1日、景勝と兼続は家康の子・結城秀康や家臣・本多正信、榊原康政を頼って上洛した。
本多正信はかねてから兼続と親交があり、上杉家に好意をもっていたようです。
1601年8月16日、結城秀康に伴われて伏見城で家康に謝罪。
翌17日、会津120万石から、兼続の居城があった米沢30万石を命じられています。
このときの兼続の情勢判断が見事であったといえるのでしょう。
上杉家は取潰されても仕方ない状況であったが、兼続の手腕で米沢30万石に留まったのです。
とはいえ、120万石から30万石へと、石高は1/4になってしまったのです。さらに会津時代の家臣の多く
が、景勝や兼続を慕って上杉家を見捨てずについてきたし、上杉家も減らそうとはしなかった。
そこで米沢転封にあたって、家臣には収入を1/3に減らすという条件をつけています。
兼続自身も5万石あった自分の所領の殆どを、家臣たちに分け与えています。
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【米沢への転封】
上杉鷹山といえば、財政難で苦しんでいた米沢藩を藩政改革で見事に立ち直らせた米沢藩9代目の名君と
して有名です。
その鷹山が師と仰ぎ、政策上で参考にしたのが、直江兼続でした。
上杉鷹山(1751-1822年)

兼続が政治力を発揮したのは、1600年の関ヶ原の戦いが徳川家康の勝利に終わり、上杉家が存亡の危
機に陥ったときのことです。
家康と敵対していた上杉景勝の居城・会津若松城では和戦両論が論議されたが、景勝と兼続は意を決し、
家康に謝罪することにした。
1601年7月1日、景勝と兼続は家康の子・結城秀康や家臣・本多正信、榊原康政を頼って上洛した。
本多正信はかねてから兼続と親交があり、上杉家に好意をもっていたようです。
1601年8月16日、結城秀康に伴われて伏見城で家康に謝罪。
翌17日、会津120万石から、兼続の居城があった米沢30万石を命じられています。
このときの兼続の情勢判断が見事であったといえるのでしょう。
上杉家は取潰されても仕方ない状況であったが、兼続の手腕で米沢30万石に留まったのです。
とはいえ、120万石から30万石へと、石高は1/4になってしまったのです。さらに会津時代の家臣の多く
が、景勝や兼続を慕って上杉家を見捨てずについてきたし、上杉家も減らそうとはしなかった。
そこで米沢転封にあたって、家臣には収入を1/3に減らすという条件をつけています。
兼続自身も5万石あった自分の所領の殆どを、家臣たちに分け与えています。
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『直江兼続』 その37
『兼続と慶次郎』 その8
【仕えるに足りるのはこの家のみ】
前田慶次郎と4人の朱槍衆は、喊声をあげて迫る最上の兵を、突き伏せ、蹴散らし、体を張って鬼神のごとく
大暴れした。
前田慶次郎(1533-1605年)

慶次郎たちを援護するように、上杉家古参の水原親憲の鉄砲隊が、街道わきの山の上から敵勢めがけて一
斉射撃を加えた。
この時、敵将・最上義光は兜に銃弾を受けた。
貫通こそしなかったが、最上家伝来の金覆輪筋兜の篠垂が欠け、生々しく弾痕が残った。
銃弾を受けた最上義光の兜 (最上義光歴史館に展示してあります)

慶次郎らの命がけの奮戦により、直江兼続は無事、上杉領に生還をはたした。
関ヶ原合戦の戦後処理で、上杉軍は会津若松120万石から、米沢30万石に減封され、譜代でない組外御
扶持方(くみほかごふちかた)の侍たちは、次々に上杉家を去っています。
しかし、慶次郎は
「関ヶ原の戦で、諸大名たちの心の底がよくわかった。仕えるに足りるのは、やはりこの家のみだ」
と上杉家を離れなかった。
米沢市堂森善光寺の供養塔 (前田慶次郎を訪ねて米沢・堂森の旅は「こちら」です。)

慶次郎は米沢郊外の堂森に「無苦庵」なる草庵を建て、近くに湧き出す清水で茶をたて、雪月花を友として
風流三昧の暮らしをしたという。
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【仕えるに足りるのはこの家のみ】
前田慶次郎と4人の朱槍衆は、喊声をあげて迫る最上の兵を、突き伏せ、蹴散らし、体を張って鬼神のごとく
大暴れした。
前田慶次郎(1533-1605年)

慶次郎たちを援護するように、上杉家古参の水原親憲の鉄砲隊が、街道わきの山の上から敵勢めがけて一
斉射撃を加えた。
この時、敵将・最上義光は兜に銃弾を受けた。
貫通こそしなかったが、最上家伝来の金覆輪筋兜の篠垂が欠け、生々しく弾痕が残った。
銃弾を受けた最上義光の兜 (最上義光歴史館に展示してあります)

慶次郎らの命がけの奮戦により、直江兼続は無事、上杉領に生還をはたした。
関ヶ原合戦の戦後処理で、上杉軍は会津若松120万石から、米沢30万石に減封され、譜代でない組外御
扶持方(くみほかごふちかた)の侍たちは、次々に上杉家を去っています。
しかし、慶次郎は
「関ヶ原の戦で、諸大名たちの心の底がよくわかった。仕えるに足りるのは、やはりこの家のみだ」
と上杉家を離れなかった。
米沢市堂森善光寺の供養塔 (前田慶次郎を訪ねて米沢・堂森の旅は「こちら」です。)

慶次郎は米沢郊外の堂森に「無苦庵」なる草庵を建て、近くに湧き出す清水で茶をたて、雪月花を友として
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