『四国の雄 長宗我部元親』 その12
『上昇気流にのった元親』
父・国親が没したのは1556年であったが、以降6年もの間、元親は本山氏との合戦を繰り返し、次第に
その属城を陥れ領地を拡大し、1562年の夏頃には、本山梅慶父子は本城の朝倉城を保つのみとなった。
元親は手を弛めずに圧迫を加えたので、父子はここにもいたたまれず、伊予境の山奥である瓜生野に引
き取った。
本山氏の本拠・朝倉城

土佐の地侍のなかで大族といわれたていた本山氏が衰えたものです。
逆境に沈むと、人の命も短くなるものです。その2年後には、梅慶も子の茂辰も病死しています。
茂辰の子どもらは元親の姉の子です。この姉を通じて元親は本山と和平し、僅かの所領を与えたという。
人の運勢は緩やかな坂を上るのではなく、あるところまでは辛苦して運勢の坂を汗だくになって上らなけ
ればならないが、一旦勢いがつくと急カーブを描いて上昇する。
威勢につく人情がそうしてくれるのです。
本山氏を圧服し尽くすと、元親の運勢もそうなってきます。
帰服してくる国侍たちがひきも切らないのです。
彼はまた一条家の権威を利用している。
一条家に対して不臣であるという口実をつくりたてては国内の豪族らを攻め立て、数年で服属あるいは
国外に追い、1573年頃には土佐7郡のうち彼の所領でないのは、一条家の所領である幡多・高岡の2
郡だけとなった。
彼が家督を継いでから、ここに至るまで16年の歳月が経っていた。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
父・国親が没したのは1556年であったが、以降6年もの間、元親は本山氏との合戦を繰り返し、次第に
その属城を陥れ領地を拡大し、1562年の夏頃には、本山梅慶父子は本城の朝倉城を保つのみとなった。
元親は手を弛めずに圧迫を加えたので、父子はここにもいたたまれず、伊予境の山奥である瓜生野に引
き取った。
本山氏の本拠・朝倉城

土佐の地侍のなかで大族といわれたていた本山氏が衰えたものです。
逆境に沈むと、人の命も短くなるものです。その2年後には、梅慶も子の茂辰も病死しています。
茂辰の子どもらは元親の姉の子です。この姉を通じて元親は本山と和平し、僅かの所領を与えたという。
人の運勢は緩やかな坂を上るのではなく、あるところまでは辛苦して運勢の坂を汗だくになって上らなけ
ればならないが、一旦勢いがつくと急カーブを描いて上昇する。
威勢につく人情がそうしてくれるのです。
本山氏を圧服し尽くすと、元親の運勢もそうなってきます。
帰服してくる国侍たちがひきも切らないのです。
彼はまた一条家の権威を利用している。
一条家に対して不臣であるという口実をつくりたてては国内の豪族らを攻め立て、数年で服属あるいは
国外に追い、1573年頃には土佐7郡のうち彼の所領でないのは、一条家の所領である幡多・高岡の2
郡だけとなった。
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『四国の雄 長宗我部元親』 その11
『卓抜な武将』
元親が予想したとおりであった。
本山梅慶は2千人余りを率いて長浜に向かった。
長浜城

知らせを受けた元親は、5百人余りを率いて迎え討つため長浜から潮江堤で迎え討った。
しかし、多勢に無勢です。
元親勢は崩れたった。
「退くな者ども!」
元親が馬の鞍に立ち上がり、采配をふって旗本の勢を繰り出そうとしているところに、敵兵2騎が前後から
斬ってかかった。
元親は奮い立ち槍をふるい、2人を突き止めた。
これに励まされ、味方は勇気百倍になり、敵を圧迫し、ついに追い崩した。
この潮江には本山方の城があった。
元親はこの城に目をつけ
「この勢いに乗じて、乗り取ろうぞ」
と言った。
家臣らは
「勝って兜の緒をしめよと申します。この少人数にては無益のことであります」
と諌めたが、元親はきかない。
「思う子細がある」
と、真っ先に進んで、山をよじ登りにかかったので、兵はしかたなくそれに従った。
ところが城内からは何の応戦もない。
上り着いてみると、城内には誰もいない。みな落ち失せていたのです。
兵たちは驚き
「先刻、子細ありと仰せられましたが、このことがお判りになっていたのでありまようか」
と、元親に聞くと
「先刻の合戦にうち負けて逃げ散る敵兵が、ひとりもこの城へは引き取らぬ。さてはこの城は本山に対して
二心を抱いているのであろう。しからば必ず戦わずして降伏するであろうと思ったのよ」
と言ったので、家臣たちは槍を地に置いて平伏し
「君は天性の武将でおわす。当国は申すにおよばず、四国全体の主になり給うでございましょう」
と感嘆したというのです。
柔弱な美少年の殿とばかり思い込んでいたとすれば、この判断は卓抜な武将であると、一日で思いを変え
たことでしょう。
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元親が予想したとおりであった。
本山梅慶は2千人余りを率いて長浜に向かった。
長浜城

知らせを受けた元親は、5百人余りを率いて迎え討つため長浜から潮江堤で迎え討った。
しかし、多勢に無勢です。
元親勢は崩れたった。
「退くな者ども!」
元親が馬の鞍に立ち上がり、采配をふって旗本の勢を繰り出そうとしているところに、敵兵2騎が前後から
斬ってかかった。
元親は奮い立ち槍をふるい、2人を突き止めた。
これに励まされ、味方は勇気百倍になり、敵を圧迫し、ついに追い崩した。
この潮江には本山方の城があった。
元親はこの城に目をつけ
「この勢いに乗じて、乗り取ろうぞ」
と言った。
家臣らは
「勝って兜の緒をしめよと申します。この少人数にては無益のことであります」
と諌めたが、元親はきかない。
「思う子細がある」
と、真っ先に進んで、山をよじ登りにかかったので、兵はしかたなくそれに従った。
ところが城内からは何の応戦もない。
上り着いてみると、城内には誰もいない。みな落ち失せていたのです。
兵たちは驚き
「先刻、子細ありと仰せられましたが、このことがお判りになっていたのでありまようか」
と、元親に聞くと
「先刻の合戦にうち負けて逃げ散る敵兵が、ひとりもこの城へは引き取らぬ。さてはこの城は本山に対して
二心を抱いているのであろう。しからば必ず戦わずして降伏するであろうと思ったのよ」
と言ったので、家臣たちは槍を地に置いて平伏し
「君は天性の武将でおわす。当国は申すにおよばず、四国全体の主になり給うでございましょう」
と感嘆したというのです。
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『四国の雄 長宗我部元親』 その10
『姫和子(ひめわこ)』
長浜城を取られた本山梅慶は激怒して、1千の兵を繰り出した。
長宗我部国親はわずか3百人を率いて途中で迎え撃ち、10時から正午までの2時間に渡って行われたが、
国親は勝利を得ます。
長曾我部元親初陣の像

その後、数日の間に本山方の浦戸城を攻め、これを落としたが、間もなく国親は急病で没してしまった。
死に臨んで、嫡男・元親を枕元に召し
「必ず本山を討ってわが霊前にたむけよ」
と遺言したという。
思いもかけぬ父の急死によって家を継いだ元親は、きっとこの機に乗じて本山から押し寄せてくるであろう
と覚悟した。
土佐物語では、元親は
「生得背高く色白く、柔和で、器量骨柄あっぱれ類なしと見えながら、寡黙で、人との対応あいさつなどもは
かばがしくなく、日夜深窓にばかりこもっていたので、家臣らは姫若子とあだ名して、上下ささやき笑ってい
た」
というのですから、元親自身の覚悟は別にして、家臣らは心細かったでしょう。
長宗我部元親は幼少の頃は、長身・色白でおとなしい性格で人に会っても挨拶も返事もせずにぼんやりして
いたため、軟弱ともうつけ者とも評される性格から「姫若子」(ひめわこ)と揶揄され、父の国親は跡継ぎとして
悩んでいたそうです。
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長宗我部国親はわずか3百人を率いて途中で迎え撃ち、10時から正午までの2時間に渡って行われたが、
国親は勝利を得ます。
長曾我部元親初陣の像

その後、数日の間に本山方の浦戸城を攻め、これを落としたが、間もなく国親は急病で没してしまった。
死に臨んで、嫡男・元親を枕元に召し
「必ず本山を討ってわが霊前にたむけよ」
と遺言したという。
思いもかけぬ父の急死によって家を継いだ元親は、きっとこの機に乗じて本山から押し寄せてくるであろう
と覚悟した。
土佐物語では、元親は
「生得背高く色白く、柔和で、器量骨柄あっぱれ類なしと見えながら、寡黙で、人との対応あいさつなどもは
かばがしくなく、日夜深窓にばかりこもっていたので、家臣らは姫若子とあだ名して、上下ささやき笑ってい
た」
というのですから、元親自身の覚悟は別にして、家臣らは心細かったでしょう。
長宗我部元親は幼少の頃は、長身・色白でおとなしい性格で人に会っても挨拶も返事もせずにぼんやりして
いたため、軟弱ともうつけ者とも評される性格から「姫若子」(ひめわこ)と揶揄され、父の国親は跡継ぎとして
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山梨・8つ目のカントリーサイン
『時速500kmのリニアカーが走る 都留市』
戦国時代には都留郡を領した国衆・小山田氏が市域を本拠とし、守護武田氏と有力国衆との抗争に介入
して武田氏と敵対していたが、信虎期に武田氏と和睦して武田家臣団に加わっています。
信玄期には有力家臣として活躍し、勝頼期には織田・徳川連合軍の侵攻に際して小山田信茂が織田方に
内通しますが、織田氏により討伐され小山田氏は滅亡しています。


そして現在は、なんといってもリニアカーの町です。

市内には「山梨県立リニア見学センター」があり、時速500kmで走るリニアカーの見学者で賑わっていま
す。

夏休みのこの時期は混み合っているのでしょうね。
日曜と月曜は基本的に走っていませんが、他の日も走らない日もありますので、上記の「山梨県立リニア
見学センター」のホームページで走行日を確認されてお出かけください。
ランキングに参加しています

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して武田氏と敵対していたが、信虎期に武田氏と和睦して武田家臣団に加わっています。
信玄期には有力家臣として活躍し、勝頼期には織田・徳川連合軍の侵攻に際して小山田信茂が織田方に
内通しますが、織田氏により討伐され小山田氏は滅亡しています。


そして現在は、なんといってもリニアカーの町です。

市内には「山梨県立リニア見学センター」があり、時速500kmで走るリニアカーの見学者で賑わっていま
す。

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週末は盆踊り三昧
『チョットさみしい盆踊り』
昨夜は近所の盆踊りはなかったので、車で近郊の盆踊りに行ってきました。
会場は小学校の校庭で、立派な櫓は建ててあるのですが、参加されている方が少なくチョット寂しい
会場でした。

お揃いのおどり浴衣ばかりですから、地元の人たちが楽しまれている会場だったようです。

ボク、がんばれ!

楽しかったのでしょう。満面の笑みを見せてくださっています。

【ご存知ですか。にゅ~盆踊り】
池袋西口公園で7月に開催されている”にゅ~盆踊り”
残念ながら、今年は7月12日(日)に開催されています。
おん祭MINOKAMO夏の陣の「ダンシングヒーロ」に対し、
にゅ~盆踊りでは「どうにもとまなない」なのです。

短い夏を楽しみましょう!
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会場は小学校の校庭で、立派な櫓は建ててあるのですが、参加されている方が少なくチョット寂しい
会場でした。

お揃いのおどり浴衣ばかりですから、地元の人たちが楽しまれている会場だったようです。

ボク、がんばれ!

楽しかったのでしょう。満面の笑みを見せてくださっています。

【ご存知ですか。にゅ~盆踊り】
池袋西口公園で7月に開催されている”にゅ~盆踊り”
残念ながら、今年は7月12日(日)に開催されています。
おん祭MINOKAMO夏の陣の「ダンシングヒーロ」に対し、
にゅ~盆踊りでは「どうにもとまなない」なのです。

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『四国の雄 長宗我部元親』 その9
『長浜城の攻略』
長岡郡の長浜は浦戸湾の入口にあって、背後に山を背負い天然の要害をなしています。
ここの本山方の属城があって、一族の者に守らせていた。
土佐長浜城跡 (高知市HPからお借りしています。)

ある時、この城の門が老朽化したので、本山梅慶は建て替えようとして、当時、土佐で名工の名のあった
岡豊の大工を雇った。
これを聞き込んだ長宗我部国親は密かに大工を呼び、多分の金銀を与えて
「しかじかの由聞きおよぶが、その城門の扉を大勢で押せばカンヌキが外れるようにこしらえてくれぬか。
もし、おおせられたらならば、さらに過分の褒美をとらせるであろう」
と頼み込んだ。
領主の頼みであるうえに得分な話です。大工は承知して、そのとおりに建てた。
その後、国親は夜、長浜城に押し寄せ、城門を押し破って火をかけ、喊声を上げて斬りまわったので、城
方は何の防戦もせず、あるいは討たれ、あるいは落ちて行き、城は国親の手に帰したというのが、四国軍
記の記述です。
土佐日記も大筋は同じです。
大工はもと岡豊の者であったが、長浜に来て長浜城主の扶持を受けていた。
この者が代々の長宗我部家の恩を忘れかね、ひそかに岡豊に来て、
「城内の案内はよく存じています。思し召し立ち給うことがあるなら、手引きいたします」
と説いて、夜討となったとしています。
いずれにしても、大工の手引きで、夜討して長浜城を取ったのです。
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長岡郡の長浜は浦戸湾の入口にあって、背後に山を背負い天然の要害をなしています。
ここの本山方の属城があって、一族の者に守らせていた。
土佐長浜城跡 (高知市HPからお借りしています。)

ある時、この城の門が老朽化したので、本山梅慶は建て替えようとして、当時、土佐で名工の名のあった
岡豊の大工を雇った。
これを聞き込んだ長宗我部国親は密かに大工を呼び、多分の金銀を与えて
「しかじかの由聞きおよぶが、その城門の扉を大勢で押せばカンヌキが外れるようにこしらえてくれぬか。
もし、おおせられたらならば、さらに過分の褒美をとらせるであろう」
と頼み込んだ。
領主の頼みであるうえに得分な話です。大工は承知して、そのとおりに建てた。
その後、国親は夜、長浜城に押し寄せ、城門を押し破って火をかけ、喊声を上げて斬りまわったので、城
方は何の防戦もせず、あるいは討たれ、あるいは落ちて行き、城は国親の手に帰したというのが、四国軍
記の記述です。
土佐日記も大筋は同じです。
大工はもと岡豊の者であったが、長浜に来て長浜城主の扶持を受けていた。
この者が代々の長宗我部家の恩を忘れかね、ひそかに岡豊に来て、
「城内の案内はよく存じています。思し召し立ち給うことがあるなら、手引きいたします」
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いずれにしても、大工の手引きで、夜討して長浜城を取ったのです。
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<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
『四国の雄 長宗我部元親』 その8
『自滅する仇』
長宗我部国親は時機を待っていたが、岡豊から東方一里ほどの長岡の城主・山田丹波が酒色にふけって
民心士心ともに離反していた。
岡豊城竪堀

山田丹波はかつて本山の催促に応じて国親の父を討った仲間であった。
国親は不意に襲って城を落とし、その捕らえ、その領を収めた。
しかし、国親は丹波を殺しはしません。
「惰弱にて無用な人なり。そのままおくとも何ごとかし出さん」
と言って、多少の領地をとらせて、片田舎にさしおいた。というのです。
この時、本山が山田丹波のために国親に抗議し、場合によっては兵力に訴えでもしたら、結果としてゆるく
なった本山派も、また、ひとつに固まったのでしょうが、本山はそれをしなかった。
古書に記述はありませんが、
「梅慶入道め、新しく結んだ縁にひかれて、古い同志を見殺しにしおったわ。頼みにならぬ男だ」
と、一層離反したのでしょう。
親分学の心得第一条として、子分の危急は理非を問わず救ってやる心がけがなければ親分にはなれない
のです。
自ら省みて、理非が気になって、それが出来そうにない者は、最初から親分たることをあきらめるべきであ
るというこのなのでしょう。
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<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
長宗我部国親は時機を待っていたが、岡豊から東方一里ほどの長岡の城主・山田丹波が酒色にふけって
民心士心ともに離反していた。
岡豊城竪堀

山田丹波はかつて本山の催促に応じて国親の父を討った仲間であった。
国親は不意に襲って城を落とし、その捕らえ、その領を収めた。
しかし、国親は丹波を殺しはしません。
「惰弱にて無用な人なり。そのままおくとも何ごとかし出さん」
と言って、多少の領地をとらせて、片田舎にさしおいた。というのです。
この時、本山が山田丹波のために国親に抗議し、場合によっては兵力に訴えでもしたら、結果としてゆるく
なった本山派も、また、ひとつに固まったのでしょうが、本山はそれをしなかった。
古書に記述はありませんが、
「梅慶入道め、新しく結んだ縁にひかれて、古い同志を見殺しにしおったわ。頼みにならぬ男だ」
と、一層離反したのでしょう。
親分学の心得第一条として、子分の危急は理非を問わず救ってやる心がけがなければ親分にはなれない
のです。
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