町内会の盆踊り
『四国の雄 長宗我部元親』 その27
『かつての敵と先鋒を受け持つ』
元親が秀吉の恩遇に報いるべき機会の到来はそう遠くなかった。
秀吉の九州遠征が翌年に行われるが、秀吉はそれに先立ちこの年の9月、九州の表口と裏口の両道から
先発隊を送る。
黒田官兵衛(1546-1604年)

表口である豊前方面は毛利家を中心とする中国勢が担当し、黒田官兵衛が軍目付となり、裏口の豊後方
面は四国勢たる元親と讃岐の十河存保が受けもった。
兵数は両家あわせて6千であった。かつての敵と今やともに先鋒を仰せつかわったわけです。
淡路洲本の前城主・仙石秀久が軍目付であった。
四国勢は伊予の今治から船出して豊後の沖ノ浜に入り、薩摩勢力になびいている諸城を鎮圧しつつあっ
たが、10月末になると薩摩勢が日向から豊後に侵入し、府内をめざして進撃、臼杵近くの利光城(鶴賀
城)が危うしとの報告が入った。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
元親が秀吉の恩遇に報いるべき機会の到来はそう遠くなかった。
秀吉の九州遠征が翌年に行われるが、秀吉はそれに先立ちこの年の9月、九州の表口と裏口の両道から
先発隊を送る。
黒田官兵衛(1546-1604年)

表口である豊前方面は毛利家を中心とする中国勢が担当し、黒田官兵衛が軍目付となり、裏口の豊後方
面は四国勢たる元親と讃岐の十河存保が受けもった。
兵数は両家あわせて6千であった。かつての敵と今やともに先鋒を仰せつかわったわけです。
淡路洲本の前城主・仙石秀久が軍目付であった。
四国勢は伊予の今治から船出して豊後の沖ノ浜に入り、薩摩勢力になびいている諸城を鎮圧しつつあっ
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『四国の雄 長宗我部元親』 その26
『元親と秀吉の和睦』
秀吉の四国征伐は、総大将は秀吉の弟・秀長で3カ月後の6月に行われた。
一手は淡路を経由して阿波に入り、一手は中国路から讃岐の高松に入り、入っては伊予の新麻に入った。
兵数の総計12万3千に達していた。この大軍に攻め立てられてはたまりません。
元親はついに土佐一国を安堵する条件で降伏した。
多年の紛骨もなんの甲斐もなくなったが、これが人生というものなのでしょう。
明治以来、営々としてかせぎためてきた領土を、先の大戦の惨敗でいっぺんに吹っ飛ばした現代日本人に
通じるところもあります。
豊臣大坂城

その年の10月、元親は秀吉にお礼言上のため京に上った。
大勢を召し連れてははばかりありと、覚えのある兵50余人をすぐって、20日に浦戸を船出して堺に到着し、
秀長に連れられて秀吉に拝謁した。
秀吉は英雄の心を捕るのは秀吉の得意とするところです。
大いに優待して、備前兼光2尺5寸の太刀・金子100枚・乗馬1頭、梨地蒔絵の鞍に鐙や厚房のしりがい、
胸がいまでかけてくれたという。
この時はすぐに帰国の許しが出て、急ぎ帰ったが翌年正月年賀のためにまた上って大坂城に出仕すると、
秀吉は善美つくして饗応した後、元親の召連れた家臣3人ともども天守に連れ上って見物させ、伊達染め
の羽織を元親に与えた。
「これはおれが物好きで染めさせたのよ」
元親は次の間に退って着用して出て来てお礼言上すると、秀吉は笑って
「おお、おお、よう似合うぞ」
と誉め、天守を下りると、一室に連れて入り
「今日の引出ものにくれるぞ」
と言って、柄と鞘を金蘭で包んだ太刀を5腰与え、3人の家臣にも名刀を1腰ずつ与え、なおこの前上洛し
た時に人質として連れて来て差し出しておいた次男・五郎二郎を返してくれたというのです。
元親が骨髄にしみてありがたく思ったことは言うまでもなかった。
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大阪城のライトアップ (2014年4月21日撮影)

<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
秀吉の四国征伐は、総大将は秀吉の弟・秀長で3カ月後の6月に行われた。
一手は淡路を経由して阿波に入り、一手は中国路から讃岐の高松に入り、入っては伊予の新麻に入った。
兵数の総計12万3千に達していた。この大軍に攻め立てられてはたまりません。
元親はついに土佐一国を安堵する条件で降伏した。
多年の紛骨もなんの甲斐もなくなったが、これが人生というものなのでしょう。
明治以来、営々としてかせぎためてきた領土を、先の大戦の惨敗でいっぺんに吹っ飛ばした現代日本人に
通じるところもあります。
豊臣大坂城

その年の10月、元親は秀吉にお礼言上のため京に上った。
大勢を召し連れてははばかりありと、覚えのある兵50余人をすぐって、20日に浦戸を船出して堺に到着し、
秀長に連れられて秀吉に拝謁した。
秀吉は英雄の心を捕るのは秀吉の得意とするところです。
大いに優待して、備前兼光2尺5寸の太刀・金子100枚・乗馬1頭、梨地蒔絵の鞍に鐙や厚房のしりがい、
胸がいまでかけてくれたという。
この時はすぐに帰国の許しが出て、急ぎ帰ったが翌年正月年賀のためにまた上って大坂城に出仕すると、
秀吉は善美つくして饗応した後、元親の召連れた家臣3人ともども天守に連れ上って見物させ、伊達染め
の羽織を元親に与えた。
「これはおれが物好きで染めさせたのよ」
元親は次の間に退って着用して出て来てお礼言上すると、秀吉は笑って
「おお、おお、よう似合うぞ」
と誉め、天守を下りると、一室に連れて入り
「今日の引出ものにくれるぞ」
と言って、柄と鞘を金蘭で包んだ太刀を5腰与え、3人の家臣にも名刀を1腰ずつ与え、なおこの前上洛し
た時に人質として連れて来て差し出しておいた次男・五郎二郎を返してくれたというのです。
元親が骨髄にしみてありがたく思ったことは言うまでもなかった。
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『四国の雄 長宗我部元親』 その25
『秀吉が信長の後継者となる』
翌年4月、賤ヶ岳の合戦で柴田勝家が敗れて、秀吉の前に信長の後継者たるべき道が大きく開けたが、
秀吉は引き続いて織田信雄と徳川家康との連合勢と対峙しなければならなかった。
元親はアンチ秀吉方と気脈を通じて秀吉を制肘し、ついに四国全体を完全に自分のものとしてしまった。
豊臣秀吉(1537-1598年)

しかし、それから半年後には、秀吉と信雄の和議が成り、家康は鉾を収めて退守の姿勢に入り、秀吉の
東方は安全となった。
元親としては気をもまざるを得ません。
翌、1585年に秀吉は紀州根来の衆徒を征服します。
この征服は、この前年、秀吉が織田信長・徳川家康の連合軍と尾張・伊勢の野で揉みあっていた時、根
来衆と雑賀衆が、元親と謀を通じて大坂を襲おうと企てたので、その罪を討つという名目であった。
秀吉の紀州征伐を聞いて、元親は秀吉のご機嫌うかがいと称して老臣・谷忠兵衛を遣わしたが、その時、
こう言わせたと南海通記にあります。
「世上蒼亡の故に、久しく音問を絶っていますが、更に疎意あってのことではござらぬ。ご武勇おん太刀
陰をもって、元親儀も四国を平均することができました。日ならずご幕下に属して、四カ国の兵を率いて
先鋒をつとめさせていただくでございましょう。このこと言上のため、家臣・谷忠兵衛をさし上せます」
これに対して秀吉は
「元親四国に横行して我意をふるうにより、追討のため近日10万の兵を渡海させようと思うていたが、使
者を遣わしてあいさつしたことにより、征伐は許す。元親には土佐一国をあてごうにより、他の3国は収公
する。この旨心得て、早々に上洛せよ。もし延引せば征伐不日にあるものと覚悟せよ」
信長の要求した時は、まだ元親は完全に四国を征服していなかったが、それでもその命令をはねつけた
のです。
今では完全に征服しており、秀吉の命令が受けつける筈がなかった。
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換毛が始まっています

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秀吉は引き続いて織田信雄と徳川家康との連合勢と対峙しなければならなかった。
元親はアンチ秀吉方と気脈を通じて秀吉を制肘し、ついに四国全体を完全に自分のものとしてしまった。
豊臣秀吉(1537-1598年)

しかし、それから半年後には、秀吉と信雄の和議が成り、家康は鉾を収めて退守の姿勢に入り、秀吉の
東方は安全となった。
元親としては気をもまざるを得ません。
翌、1585年に秀吉は紀州根来の衆徒を征服します。
この征服は、この前年、秀吉が織田信長・徳川家康の連合軍と尾張・伊勢の野で揉みあっていた時、根
来衆と雑賀衆が、元親と謀を通じて大坂を襲おうと企てたので、その罪を討つという名目であった。
秀吉の紀州征伐を聞いて、元親は秀吉のご機嫌うかがいと称して老臣・谷忠兵衛を遣わしたが、その時、
こう言わせたと南海通記にあります。
「世上蒼亡の故に、久しく音問を絶っていますが、更に疎意あってのことではござらぬ。ご武勇おん太刀
陰をもって、元親儀も四国を平均することができました。日ならずご幕下に属して、四カ国の兵を率いて
先鋒をつとめさせていただくでございましょう。このこと言上のため、家臣・谷忠兵衛をさし上せます」
これに対して秀吉は
「元親四国に横行して我意をふるうにより、追討のため近日10万の兵を渡海させようと思うていたが、使
者を遣わしてあいさつしたことにより、征伐は許す。元親には土佐一国をあてごうにより、他の3国は収公
する。この旨心得て、早々に上洛せよ。もし延引せば征伐不日にあるものと覚悟せよ」
信長の要求した時は、まだ元親は完全に四国を征服していなかったが、それでもその命令をはねつけた
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『四国の雄 長宗我部元親』 その24
『雑賀衆』
元親は合戦に先立ち紀州の雑賀衆に支援を頼んでいた。
紀州の根来衆・雑賀衆は鉄砲を多数持っているし、その技術に熟達もしていたので、頼まれれば謝礼金
を貰って方々に支援を行っていたのです。
雑賀孫一(鈴木孫一 1534?-1589年?)

この雑賀衆は、風向きが悪かったために予定の日に到着せず、合戦に間に合わなかったのです。
彼らはくやしがって
「申し訳ござらぬ。いずれは讃岐攻めをなさるであろうから、せめてその先鋒をうけたまわりたい」
と所望した。
元親は
「海を隔ててのこと、致し方ござらぬ。各々の緩怠ではござらぬ。約束をたがえず来ていただいたこと、
誠にありがとうござる。讃岐入りはわれらが手にて十分でござれば、お志は過分ながら、お心を放たる
べく、速やかに帰国あれ」
と、丁寧に慰めて、隊長に馬・鞍・太刀を、士卒らには兵糧2百石を贈ったので、みな喜んで帰ったという。
これは名将言行録にある話で、出典は元親記です。
元親の寛容で信義に厚いことを伝える話になっていますが、雑賀衆が雇われ鉄砲兵として諸国に行った
実例が面白いところです。
阿波を征服すると、さらに兵を讃岐に兵を向けて十河城を落し、十河存保を追放しています。
存保は秀吉を頼って回復をはかったが、当時の秀吉は柴田勝家と対峙状態であったから、この方面には
手が廻らず、四国は元親の野望に任され放題であった。
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を貰って方々に支援を行っていたのです。
雑賀孫一(鈴木孫一 1534?-1589年?)

この雑賀衆は、風向きが悪かったために予定の日に到着せず、合戦に間に合わなかったのです。
彼らはくやしがって
「申し訳ござらぬ。いずれは讃岐攻めをなさるであろうから、せめてその先鋒をうけたまわりたい」
と所望した。
元親は
「海を隔ててのこと、致し方ござらぬ。各々の緩怠ではござらぬ。約束をたがえず来ていただいたこと、
誠にありがとうござる。讃岐入りはわれらが手にて十分でござれば、お志は過分ながら、お心を放たる
べく、速やかに帰国あれ」
と、丁寧に慰めて、隊長に馬・鞍・太刀を、士卒らには兵糧2百石を贈ったので、みな喜んで帰ったという。
これは名将言行録にある話で、出典は元親記です。
元親の寛容で信義に厚いことを伝える話になっていますが、雑賀衆が雇われ鉄砲兵として諸国に行った
実例が面白いところです。
阿波を征服すると、さらに兵を讃岐に兵を向けて十河城を落し、十河存保を追放しています。
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『四国の雄 長宗我部元親』 その23
『中富川の戦いで破る』
阿波に入った土佐勢は阿波の中原地帯に近づき、一ノ宮と夷山(楯山)の両城の間を通ると、両方から鉄砲
を激しく撃ちかけた。
勝瑞城本丸の堀

兵士らは腹を立てて、踏み潰せと猛りたったが、元親は
「この城は小城だ。かのような小敵ともみあうこと無用。勝端に行って十河存保と戦って勝てば、両城とも戦わ
ずして手に入るであろう」
と制して、かまわず通り勝端城の西方の中富川(吉野川の支流)で戦い、これを破った。
敵の敗兵が阪西城に入ったので、元親の一将はこれを攻め、既に三の丸・二の丸を落としたが、元親は
「十河さえ撃滅すれば、他は捨ておいても潰滅するのだ。捨ておいて帰れ」
と無理に引き取らせた。
阪西城の守兵はもとより、一ノ宮・夷山の守兵らも夜の間に逃げ出し、さすがの十河も勝端城を出て讃岐
へ逃げ帰った。
元親の用兵の扱いが長けていた証なのでしょう。
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<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
阿波に入った土佐勢は阿波の中原地帯に近づき、一ノ宮と夷山(楯山)の両城の間を通ると、両方から鉄砲
を激しく撃ちかけた。
勝瑞城本丸の堀

兵士らは腹を立てて、踏み潰せと猛りたったが、元親は
「この城は小城だ。かのような小敵ともみあうこと無用。勝端に行って十河存保と戦って勝てば、両城とも戦わ
ずして手に入るであろう」
と制して、かまわず通り勝端城の西方の中富川(吉野川の支流)で戦い、これを破った。
敵の敗兵が阪西城に入ったので、元親の一将はこれを攻め、既に三の丸・二の丸を落としたが、元親は
「十河さえ撃滅すれば、他は捨ておいても潰滅するのだ。捨ておいて帰れ」
と無理に引き取らせた。
阪西城の守兵はもとより、一ノ宮・夷山の守兵らも夜の間に逃げ出し、さすがの十河も勝端城を出て讃岐
へ逃げ帰った。
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