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山梨・9つ目のカントリーサイン

『東京都が生活圏の丹波山村』

丹波山村は、山梨県の北東部県境、北都留郡の北西端に位置し、雲取山~飛竜山~将監峠と大菩薩嶺~

鹿倉山に囲まれています。この雲取山は標高2017mもあり、東京都最高峰です。

丹波山村 003

丹波山村 001

このように村の大半が山林地帯で秩父多摩甲斐国立公園に属し、多摩川上流支流で奥多摩湖へ東流する

丹波川が渓谷をつくり、東京都民の大事な水がめ奥多摩湖に注いでいます。

村の人口は600人弱と全国で最も人口の少ない市町村のひとつです。

山梨県の村ですが、甲府などと結ぶバス便は存在しなく、代わりにJR東日本青梅線奥多摩駅から結ぶバス

があるため、生活圏は山梨県よりも東京都に属しております。


丹波山村ガイドマップ
丹波山村ガイド 004
<クリックで拡大します>

①村営つり場      ②そば処やまびこ庵
③ローラーすべり台  ④丹沢温泉めんこい湯
⑤交流促進センター  ⑥レクレーション広場
⑦郷土民族資料館   ⑧農林特産物直売所


300百年の伝統をもち、7月の祇園まつりに奉納される「ささら獅子舞」
丹波山村ささら獅子舞踊り 003


都心から約3時間、奥多摩を過ぎるとすぐそこです。紅葉の時期にも行ってみたいですね。



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                                            <参考文献:丹波山村HP>
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『四国の雄 長宗我部元親』 その32

『秀吉に評価された元親』

朝鮮の役が始まったのは、九州の陣から6年目で、元親は54才になっていた。

大儀なことではあったでしょうが、家の安泰のために、世子の盛親とともに土佐兵を率いて出征しています。

盛親は4男であったが、次男の五郎二郎(香川親和)は早く死に、3男の親忠は土佐の豪族・津野家を継い

だので、彼が世子となったのです。

この外征中のこととして、元親記におもしろい話が2つ出ています。

朝鮮の役
文禄・慶長の役

一つ目は

在韓の諸将が集まって軍議したとき

「小西摂津(行長)が居る城が味方の陣から離れすぎている。あれでは敵に接近しすぎている。せめて敵味

方の間にある河のこちらであれば、危急の際救い易い故、摂津に言うて、こちら側に築きなおさせようでは

ないか」

という議が軍目付らから出て、人々みなこれに同じた。

それに対し元親は

「小西殿がわざと敵陣近くに築かれたのでござる。考えあってのことなれば、こちらに退かせることはいかが

でござろうか。あの城は味方の諸陣を離れてはいるが、敵陣とは相当距離もある。拙者は不同意でござる」

と異議を唱えた。

その日はそれで済んだが、後日この相談がまた始まった。

元親はこの話が出ることを推察していたので、わざと病気だといって出席しなかった。

相談は、このことを秀吉に報告してその裁断を仰ごうということになり、連名して書を作成したが、元親が欠

席では具合が悪いから、強いて出席を求めてきた。

元親は盛親を代理として出席させますが、盛親には連署の権限はありません。

いたし方なく、報告書は元親の連署のないままに内地に送られ、秀吉に届いた。


日本の前線基地「名護屋城」 (名護屋城登城記は「こちら」です。)
na.名護屋城模型


秀吉はこれを見て

「けしからぬことかな。この地形で退くということがあるものか。大名ども、みな腰がぬけたな」

と、激怒したが、ふとその書状に元親の連諸がないことに気づいた。

事情を聞くと

「長宗我部殿は病気にて、その席には出られなかったのでございます。ご子息の盛親殿が代理として出

られましたが」

秀吉はうなずいて

「さもあろう。この相談、元親は気に入らなんだよ。しかしながら、目付どもの折角の意見にただ一人正面

きって反対も出来ぬ故、つくり病気して出なんじゃ。一人の働きをもって家をおこし名をあぐる者は、よほど

に普通の者と違うところがあるわ」

と言ったという。



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pig 20150828




                                      <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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『四国の雄 長宗我部元親』 その31

『浮世の夢を見尽くした元親』

仙石ほどの勇士が、敗戦になると人間は意外なくらい臆病になるものらしい。

当時、仙石のことをこう落首したという。

仙石は四国をさして逃げにけり

三国一の臆病者かな

秀吉が激怒したことは言うまでもないが、その怒りはもっぱら仙石秀久に向けられ、秀久は勘当されている。

長宗我部元親(1539-1599年)
ch.長曾我部元親

元親に対してはたいへん同情して、籐堂高虎を遣わして元親の嫡男・信親の死を手厚く弔わせたばかりか、

島津氏降伏の後、大隅の国の2郡を与えようとしています。

元親の悲しみを慰めてやろうとの、秀吉のあたたかい心からであったのでしょうが、元親はこれを辞退してい

ます。

数10年の間、努力して、やっと四国を手中に入れたかと思うと、半年の後には土佐一国を残して手離さなけ

ればならず、今また愛する子を死なせた彼としては、浮世の夢を見尽くした気がしていたのかもしれません。

恐らく元親にはもう領地欲などなかったのでしょう。



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先週の週末に移動中に出会った花火です。
20150827.jpg



<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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『四国の雄 長宗我部元親』 その30

『九州裏街道口の先鋒軍は崩壊』

味方敗軍、混戦になったので老臣・桑名は敵を防ぎながら、元親の嫡子・信親に

「急ぎ落ちさえ給え」

と手振りして知らせたが、一寸も退かず馬から下りて4尺3寸の大太刀を持って込み掛かってくる敵を一薙

ぎに8人も切り伏せた。(オーバー過ぎです)

高知・雪蹊寺の長宗我部信親の墓
ty.長宗我部信親の墓(雪蹊寺)

そのうちしだいに敵が手許につけ入って来ると、今度はさし添えの刀左文字を抜き、また6人斬り伏せた。

物具の上から斬るので、刀の刃はぼろぼろにこぼれてノコギリのようになった。

「今はもうせん方なし。腹を切ろう」

と心にきめたが、なお襲いかかってくる敵についに討ち取られてしまった。

信親、享年22才であった。

この時、信親が用いた左文字の刀は、元親が最初に信長に懇親の使いを遣わし、信親のために名乗の一

字を乞うた時、信長が名前に添えて贈ってくれた、あの刀であったという。

信親は元親が最も愛する子であった。

信親の戦死を聞くと

「同じところで死のうぞ」

と、馬を乗り太刀を抜いて敵がかかって来るのを待ち受けていた。

そこへ家臣・十市が来て

「もったいなや、何とて退きたまわるぞ」

と諌めて、自分の馬に乗せようとしているところに、どこからか元親の馬が走り帰ってきたという。

以上は、元親記の記述です。

この時の馬は内記黒(ないきぐろ)という名であったといいますから、去年の10月に最初に秀吉にお目見

えした時に秀吉から貰った馬であった。

元親は伊予の日振島に逃れ、仙石は讃岐の居城に逃げ帰り、九州裏街道口の先鋒軍は崩壊してしまった。



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sa-ko 20150827




                                        <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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『四国の雄 長宗我部元親』 その29

『豊後国・戸次川の戦い』

12月12日の払暁(明け方)、府内を出発して戸次川の左岸竹中山に向かい、着くや長宗我部軍右翼と

なり、十河と仙石は左翼となって布陣した。

薩摩軍は上方勢が後詰めとして来たと聞いて、利光城の囲みを解いて退却したが、これは薩摩軍の深

い計略であった。

戸次川古戦場跡
he.戸次川古戦場

それとは知らない仙石は、敵軍退却と聞いて意気あがって

「すわや、薩摩人ども臆病風に吹かれたぞ。戦は気に乗じるをよしとする。戸次川を渡って追撃にかかり

申そう。面白い戦さが出来申すぞ」

と主張した。

元親は異議を唱えた。

「いやいや、それはよろしゅうござらぬ。当地の地勢は守るにまことによい地勢。待ち構えて弱気を示し、

敵をさそい出し、敵よりかからせて、これを撃破し、浮き足立つところを追い崩すがようござる。われより

進んで戦うのは危のうござる」

十河もこれに賛成したが、きおい立っている仙石は耳にも入れない。

「貴殿らが不同意なら、拙者一人で渡る」

と、自分の隊2千人を率いて川を渡ってしまった。

薩摩軍は3隊に分かれて密林中に埋伏して敵が来るのを待っていたので、一斉に立ち上がって攻撃

にかかり猛烈をきわめた。

ついに四国勢は大敗北、十河存保は戦死、元親の嫡子・信親も戦死、元親の老臣・桑名太郎左衛門

も戦死という散々なことになってしまった。



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sakura 20150825-1



                                       <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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『四国の雄 長宗我部元親』 その28

『目付役・仙石秀久』

四国勢は急ぎ府内城に結集して軍儀を開いたが、仙石秀久は元気なもので剽悍(ひょうかん)な男だ。

「敵が押し寄せて来るというに、男たるものが居すくんでいるというほうはない。直ちに行き向かって有無の

一戦を遂げ申そう」

と、はやりにはやった発言をする。

仙石秀久(1552-1614年)
se.仙石秀久

「いやいや、それはようござらぬ。間もなく本軍がまいられる。それを待つがよろしい。かってなことはならぬ

と、関白殿下がくれぐれも仰せられたはこのことでござるぞ」

と、元親も十河存保も言った。

また

「毛利家の軍勢も豊前口にいることでござれば、かかるにしても打ち合わせた上のことにすべきでござろう」

とも言ったが、秀久はきかない。

「敵は利光城を攻め立て、城将・利光宗魚は悲壮なる血戦を繰り返していると申すではござらぬか。これを

見すぐしては男とは申されぬ。貴殿方同意なくば、拙者一手をもって後詰つかまつる」

と、激語する。

秀吉からつけられた軍目付にこうまで言われては、不本意でも同意しないわけにはいかない。




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pig 20150824




                                      <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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サンバのリズムに誘われて 2015

『今年もサンバのパーカッションに誘われて♪』

強烈なサンバのリズムに誘われて、夏の終わりを告げる地元商店街のサンバパレードにいってきました!

今年の浅草サンバは8月29日(土)ですが、昨年と同様に浅草サンバでも入賞される「リベルタージ」の

サンバパレードです。

パーカッションの音は聞こえませんが説明はヤボですから、サンバをお楽しみください。

2015 サンバ 001

2015 サンバ 002

2015 サンバ 003

2015 サンバ 004

2015 サンバ 005-1

2015 サンバ 006

2015 サンバ 007

実は会場に着いた時は、すでにパレードは始まっていて、先頭に追いつくことはできませんでしたので

第二部も見たのですが、サンバの踊りをカメラに納めることはできませんでした。

2015 サンバ 009

この笑顔に今年身も会うことができました。 (昨年のサンバは「こちら」です。)

2015 サンバ 010


サンバ見学の後に町内会の盆踊りに行き和太鼓の演舞をみましたが、う~ん、順番が逆なのでしょうね。

2015 サンバ 012




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プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













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