『秀吉の大陸進出の野望』 その25
『約束をつがえた小西』
小西行長が加藤清正にくれぐれも念を押されて約束したのは、釜山で談判が不調になったら、直ぐ清正に
連絡するということであったわけですから、釜山城を自分らだけで攻撃して落したのは違約だったのです。
これは戦いの潮合上しかたなかったのかも知れませんが、すでに釜山城を落した以上は、兵を停止させて
清正に連絡をすべきであったが、小西はそれをしなかった。
本妙寺の清正公

初めから約束をつがえる気はないのですが、石田三成との打ち合わせに従って、できるだけ敵を追って、
ずっと奥地に戦線を持って行かなければ、殿下をあざむいていたことがわかると、不安だったのです。
小西は、翌日は進んで東莱城を攻めてこれを抜き、その翌日は機張と水軍営を抜き、その翌日は梁山を抜
き、無人の野を行くように北へ北へと兵を進めた。
清正は壱岐の北端の勝本にいて、今か今かと小西からの連絡を待っていたが、15日になっても連絡がない
ので、いちおう対馬まで行ってみようと、対馬の厳原まで行ってみると
「すでに13日に釜山で合戦があり、釜山城を落しなされたという噂がある」
という。
あれほど堅く言葉をつがえたものを、そのような道理がないとは思ったが、不安でもあったので、対馬の北端
にある大浦に向かった。
大浦についてみると、確かに13日に釜山で合戦があって、釜山城は陥れ、なお奥地に向かって進撃中である
ことがわかった。
清正は激怒した。
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清正公の熊本城

<参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>
小西行長が加藤清正にくれぐれも念を押されて約束したのは、釜山で談判が不調になったら、直ぐ清正に
連絡するということであったわけですから、釜山城を自分らだけで攻撃して落したのは違約だったのです。
これは戦いの潮合上しかたなかったのかも知れませんが、すでに釜山城を落した以上は、兵を停止させて
清正に連絡をすべきであったが、小西はそれをしなかった。
本妙寺の清正公

初めから約束をつがえる気はないのですが、石田三成との打ち合わせに従って、できるだけ敵を追って、
ずっと奥地に戦線を持って行かなければ、殿下をあざむいていたことがわかると、不安だったのです。
小西は、翌日は進んで東莱城を攻めてこれを抜き、その翌日は機張と水軍営を抜き、その翌日は梁山を抜
き、無人の野を行くように北へ北へと兵を進めた。
清正は壱岐の北端の勝本にいて、今か今かと小西からの連絡を待っていたが、15日になっても連絡がない
ので、いちおう対馬まで行ってみようと、対馬の厳原まで行ってみると
「すでに13日に釜山で合戦があり、釜山城を落しなされたという噂がある」
という。
あれほど堅く言葉をつがえたものを、そのような道理がないとは思ったが、不安でもあったので、対馬の北端
にある大浦に向かった。
大浦についてみると、確かに13日に釜山で合戦があって、釜山城は陥れ、なお奥地に向かって進撃中である
ことがわかった。
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『秀吉の大陸進出の野望』 その24
『釜山城陥落』
朝鮮政府は、前に秀吉からの文書を受け取っており、当時は日鮮間の民間貿易も行われていたので、貿易
業者からの報告もあり、日本の不穏な企てについては十分に知っていた。
釜山城攻略

だから、南朝の慶尚道にはいくつかの城や要塞を築いたりしていたが、役人も民間もまるで不熱心であった。
「無用な工事をおこして、我々を苦しめる」
と、政府を恨んでいたのです。
4月13日、小西に率いられた船隊はいっせいに島陰を出て、釜山港内に突入し、岸に着くや直ちに上陸し、
釜山城に押し寄せ、6時から総攻撃にかかった。
釜山城の守備隊長は、昨夜大酒して寝たので、急報に接しても酔いがさめず、驚き、いきどおり、恐れている
間に、日本軍は鉄砲を撃ちたて、城兵が出て働くのを制した。
斥候兵が昨夜報告したように、この当時まで朝鮮には鉄砲が殆んどなかったので、驚き恐れて狭間から顔を
覗けることも出来なかった。
その間に、日本軍は付近の民家の材木を堀に投げ込み、たちまち城壁まで数条の橋をつけた。
100数十年、戦争から戦争にあけくれた時代を生きてきた当時の日本武士は、こんなことには実に馴れてい
たのです。
橋ができると、むらがる蟻のように城壁にとりつき、忽ち乗り入って、予定どおり8時頃には大将を討ち取り、
釜山城を陥れてしまった。
釜山城のこの迅速な陥落のために、釜山付近にあった朝鮮軍諸隊は全部その守りを棄てて滑走した。
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朝鮮政府は、前に秀吉からの文書を受け取っており、当時は日鮮間の民間貿易も行われていたので、貿易
業者からの報告もあり、日本の不穏な企てについては十分に知っていた。
釜山城攻略

だから、南朝の慶尚道にはいくつかの城や要塞を築いたりしていたが、役人も民間もまるで不熱心であった。
「無用な工事をおこして、我々を苦しめる」
と、政府を恨んでいたのです。
4月13日、小西に率いられた船隊はいっせいに島陰を出て、釜山港内に突入し、岸に着くや直ちに上陸し、
釜山城に押し寄せ、6時から総攻撃にかかった。
釜山城の守備隊長は、昨夜大酒して寝たので、急報に接しても酔いがさめず、驚き、いきどおり、恐れている
間に、日本軍は鉄砲を撃ちたて、城兵が出て働くのを制した。
斥候兵が昨夜報告したように、この当時まで朝鮮には鉄砲が殆んどなかったので、驚き恐れて狭間から顔を
覗けることも出来なかった。
その間に、日本軍は付近の民家の材木を堀に投げ込み、たちまち城壁まで数条の橋をつけた。
100数十年、戦争から戦争にあけくれた時代を生きてきた当時の日本武士は、こんなことには実に馴れてい
たのです。
橋ができると、むらがる蟻のように城壁にとりつき、忽ち乗り入って、予定どおり8時頃には大将を討ち取り、
釜山城を陥れてしまった。
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『秀吉の大陸進出の野望』 その23
『朝鮮と口実つくりの交渉』
小西行長は、物馴れた家来に数十人の兵をつけて釜山城の偵察に出した。
偵察者らは
「城の守りはいたって手薄でござる。兵も少なく、武器もととなわず、鉄砲などは殆んどないかに見えます」
と報告した。
小西行長(1558-1600年)

「よし」
そこで、天荊に言わせる。
「こうまで申したのに、応じ召されぬとあっては、いたし方ござらぬ。好むところではござらんが、兵を用いざ
るを得ぬ仕儀となりました。右、はっきりと申しておきますぞ」
相手方はただあきれている。まさか港外までおそろしい軍勢がせまっているとは思わないのです。こちらは
かまわず引き上げて、船に乗った。
小西は島陰に戻ると、直ぐ諸将を自分の船に集め指令を出した。
「明朝午前4時出発、直ちに港内に入って上陸する。6時には釜山城の攻撃かかるゆえ、この旨を心得ら
れよ。飯は今夜のうちに炊き、起きたらすぐ朝食ができるようにされたい。ただし、兵糧はいらぬ。城はい
たって手薄で、2時間もかければ落とせる見込みである」
諸将は了承して帰った。
朝鮮側は、この島陰に恐ろしい敵が7百余の船に分乗して、夜明けを待っているとはまるで知らなかった
のです。
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小西行長は、物馴れた家来に数十人の兵をつけて釜山城の偵察に出した。
偵察者らは
「城の守りはいたって手薄でござる。兵も少なく、武器もととなわず、鉄砲などは殆んどないかに見えます」
と報告した。
小西行長(1558-1600年)

「よし」
そこで、天荊に言わせる。
「こうまで申したのに、応じ召されぬとあっては、いたし方ござらぬ。好むところではござらんが、兵を用いざ
るを得ぬ仕儀となりました。右、はっきりと申しておきますぞ」
相手方はただあきれている。まさか港外までおそろしい軍勢がせまっているとは思わないのです。こちらは
かまわず引き上げて、船に乗った。
小西は島陰に戻ると、直ぐ諸将を自分の船に集め指令を出した。
「明朝午前4時出発、直ちに港内に入って上陸する。6時には釜山城の攻撃かかるゆえ、この旨を心得ら
れよ。飯は今夜のうちに炊き、起きたらすぐ朝食ができるようにされたい。ただし、兵糧はいらぬ。城はい
たって手薄で、2時間もかければ落とせる見込みである」
諸将は了承して帰った。
朝鮮側は、この島陰に恐ろしい敵が7百余の船に分乗して、夜明けを待っているとはまるで知らなかった
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『秀吉の大陸進出の野望』 その22
『釜山上陸』
小西行長に率いられた諸隊は4月12日の朝8時頃、対馬の大浦を出発し、夕方の4時頃、釜山港外に着
いた。
小西行長(1558-1600年)

行長は諸隊の船を港外の島影に待機させておいて、宗義智だけを同道して湾内に入り、港役人に、用意し
た文書を渡した。
「われわれはこれから大明に攻め入るのであるから、貴国は案内役をつとめ、また道を貸してもらいたい」
という文面である。
港役人がこんな文書を受け取る筈がありません。受け取ったところで、返答できる権限がある筈がない。
そんなことは、行長は百も承知なのです。
行長は宗は、連れて来た通訳の天荊(てんけい)という坊さんに言いつけて、しきりに押し問答させる。
2人にとって、これは秀吉への言い訳のために必要であったのです。
情理をつくして説諭し、論判したが、どうしても聞き入れなかったという形式をつくらなければならないの
です。
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小西行長に率いられた諸隊は4月12日の朝8時頃、対馬の大浦を出発し、夕方の4時頃、釜山港外に着
いた。
小西行長(1558-1600年)

行長は諸隊の船を港外の島影に待機させておいて、宗義智だけを同道して湾内に入り、港役人に、用意し
た文書を渡した。
「われわれはこれから大明に攻め入るのであるから、貴国は案内役をつとめ、また道を貸してもらいたい」
という文面である。
港役人がこんな文書を受け取る筈がありません。受け取ったところで、返答できる権限がある筈がない。
そんなことは、行長は百も承知なのです。
行長は宗は、連れて来た通訳の天荊(てんけい)という坊さんに言いつけて、しきりに押し問答させる。
2人にとって、これは秀吉への言い訳のために必要であったのです。
情理をつくして説諭し、論判したが、どうしても聞き入れなかったという形式をつくらなければならないの
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『秀吉の大陸進出の野望』 その21
『名護屋城に集結』
いつも景気のよい大言壮語はしても、内心は最もこまかに思慮する秀吉だったが、トントン拍子に成功し、
心が疎漏散漫になっていたのでしょう。
英雄といえども人間で、悲しいことです。
名護屋城大手門

加藤清正が準備を整え、小西行長もひしひしと準備する。
小西は宇土城を出て、三角(みずみ)港から船出する。
有明海を島原海峡から出て、平戸海峡を通って、肥前の松浦半島の名護屋城に行くのです。
秀吉はやがて自ら戦地に出る予定であったので、この城は一時的なものであったが、九州の大名らは秀
吉のご機嫌をとるため豪奢な城を造ったのです。
秀吉はまだ来ていないが、石田三成、長束正家、大谷吉継など本営付参謀将校らは先発して来ていたの
です。
清正も白川尻から船出して、行長と同じコースを通って軍勢1万人が名護屋城に着いた。
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名護屋城模型

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いつも景気のよい大言壮語はしても、内心は最もこまかに思慮する秀吉だったが、トントン拍子に成功し、
心が疎漏散漫になっていたのでしょう。
英雄といえども人間で、悲しいことです。
名護屋城大手門

加藤清正が準備を整え、小西行長もひしひしと準備する。
小西は宇土城を出て、三角(みずみ)港から船出する。
有明海を島原海峡から出て、平戸海峡を通って、肥前の松浦半島の名護屋城に行くのです。
秀吉はやがて自ら戦地に出る予定であったので、この城は一時的なものであったが、九州の大名らは秀
吉のご機嫌をとるため豪奢な城を造ったのです。
秀吉はまだ来ていないが、石田三成、長束正家、大谷吉継など本営付参謀将校らは先発して来ていたの
です。
清正も白川尻から船出して、行長と同じコースを通って軍勢1万人が名護屋城に着いた。
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名護屋城模型

<参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>
『秀吉の大陸進出の野望』 その20
『明はおなごのような国』
秀吉が外戦いを思い立ったのは、土民からの成り上がり者である彼としては、自分の偉大さと万人に卓越
した力量とを、絶えず全国民に見せつけていなければ、不安だったのでしょう。
北野大茶湯碑

彼はこれまでの日本の英雄たちの誰もしようとしなかったことを、次から次へと実現して見せてきた。
天下統一は勿論ですが、2度にわたって巨額な金銀を皇族・公家・大名・家来どもに分与している。
もう国内で出来ることはし尽くし、今は外征以外に皆を驚嘆させる途はなかったのでしょう。
しかし、この思い立ちは、敵情の調査はないが、船の支度や兵站の輸送や軍勢の準備などは、実に周到に
できたが、彼の敵情についての知識はかつての八幡船の話だけだったのです。
倭寇の全盛期には、日本人らは僅か6、70人の人数で中国を襲い、思うがままに掠奪した。
その僅かな人数で、内部まで入り込み、各地を横行し、南京城の城門まで攻めた連中もいたという。
その時、明の正規軍が鈴なりに上がっていたが、その6、70人が悠々と城門前を歩き回るのを、まるで手出
しせず、なすがままに任せたという。
秀吉はこれらの事実を聞いて
「明はおなごのような国、それに属国となっている高麗はデクノボウの国、ひたたまりもあるものか」
と、見くびっていたのです。
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いつもありがとうございます。
北野神社拝殿(国宝)

<参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>
秀吉が外戦いを思い立ったのは、土民からの成り上がり者である彼としては、自分の偉大さと万人に卓越
した力量とを、絶えず全国民に見せつけていなければ、不安だったのでしょう。
北野大茶湯碑

彼はこれまでの日本の英雄たちの誰もしようとしなかったことを、次から次へと実現して見せてきた。
天下統一は勿論ですが、2度にわたって巨額な金銀を皇族・公家・大名・家来どもに分与している。
もう国内で出来ることはし尽くし、今は外征以外に皆を驚嘆させる途はなかったのでしょう。
しかし、この思い立ちは、敵情の調査はないが、船の支度や兵站の輸送や軍勢の準備などは、実に周到に
できたが、彼の敵情についての知識はかつての八幡船の話だけだったのです。
倭寇の全盛期には、日本人らは僅か6、70人の人数で中国を襲い、思うがままに掠奪した。
その僅かな人数で、内部まで入り込み、各地を横行し、南京城の城門まで攻めた連中もいたという。
その時、明の正規軍が鈴なりに上がっていたが、その6、70人が悠々と城門前を歩き回るのを、まるで手出
しせず、なすがままに任せたという。
秀吉はこれらの事実を聞いて
「明はおなごのような国、それに属国となっている高麗はデクノボウの国、ひたたまりもあるものか」
と、見くびっていたのです。
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北野神社拝殿(国宝)

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『秀吉の大陸進出の野望』 その19
『秀吉はもうろくしていた?』
清正は家来を博多に出向かせ高麗に詳しい高麗人を探させたが、ここでも詳しい者を探すことはできない。
「現地で探すより他はない」
秀吉の失敗の原因は無数にあるのでしょうが、その最も大きいには、敵情に対する調査ができていなかっ
たことです。
豊臣秀吉(1537-1598年)

地理の調査など全然ないわけですから、地図らしき地図もなかったのです。
秀吉自信、朝鮮八道の名前を記憶できないので、八道を色分けに塗らせた図面を屏風や扇子に描かせ
て、青国だ、赤国だ、黄国だと呼んでいたというのです。
秀吉の目的は朝鮮にはなく、明国だったのですから、もし秀吉が十分に明の内情を調査していたら、朝鮮
を経由して行くなど最も迂遠な戦術であったことがわかった筈です。
当時、明では満州地方に中国全土を征服して清朝を建てる愛新覚羅氏の勢力が伸びつつあって、これに
苦しみ、国内では苛政に苦しむ人民軍が随所にいたのです。
南シナ海を横切って南方から侵入すれば、土崩瓦解して結果は違ったのかも知れません。
国内戦においては、用意周到、水も漏らさぬ調査と前工作をしてきた秀吉が外戦においてこれほど疎漏
だったのは、秀吉がもうろくしていたと言うより他はないのでしょう。
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大阪城ライトアップ

<参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>
清正は家来を博多に出向かせ高麗に詳しい高麗人を探させたが、ここでも詳しい者を探すことはできない。
「現地で探すより他はない」
秀吉の失敗の原因は無数にあるのでしょうが、その最も大きいには、敵情に対する調査ができていなかっ
たことです。
豊臣秀吉(1537-1598年)

地理の調査など全然ないわけですから、地図らしき地図もなかったのです。
秀吉自信、朝鮮八道の名前を記憶できないので、八道を色分けに塗らせた図面を屏風や扇子に描かせ
て、青国だ、赤国だ、黄国だと呼んでいたというのです。
秀吉の目的は朝鮮にはなく、明国だったのですから、もし秀吉が十分に明の内情を調査していたら、朝鮮
を経由して行くなど最も迂遠な戦術であったことがわかった筈です。
当時、明では満州地方に中国全土を征服して清朝を建てる愛新覚羅氏の勢力が伸びつつあって、これに
苦しみ、国内では苛政に苦しむ人民軍が随所にいたのです。
南シナ海を横切って南方から侵入すれば、土崩瓦解して結果は違ったのかも知れません。
国内戦においては、用意周到、水も漏らさぬ調査と前工作をしてきた秀吉が外戦においてこれほど疎漏
だったのは、秀吉がもうろくしていたと言うより他はないのでしょう。
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