『秀吉の大陸進出の野望』 その47
『秀吉からの指示待ち』
まもなく第3軍の黒田長政、大友義統が到着し、続いて宇喜多秀家が到着した。
この諸将らも追撃の動議はださない。
郊外に陣所を構えて、秀吉からの指示を待つことにする。
宇喜多秀家(1572-1655年)

京城郊外に駐屯した諸大名は、それぞれに区域を分担して、治安と警察の任にあたっていたが、ある日、
清正の兵10人が中富兵馬という物頭格の武士に率いられて巡邏し、ある村に入って、一軒の家の前を
通ると、道傍の地べたに長いひざを立ててしゃがみこみ、長いきせるで煙草を吸っている村人らが数人い
たが、兵士らの姿を見てスーッと顔色がかわった。
中富は暫くその前に立って、村人らを凝視して十分に恐怖感を与えたから
「その方ども、何か隠しているのか?ありていに申上げよ」
何も隠していない。自分らは村祭りのことで相談していたのであるが、あなた方が急にお出でになったので、
驚いていただけである。村人らは答える。
「そんな筈はない。そんなあまい言い抜けで騙されるおれではない。もし、本当のことを言わないなら、日本
軍に対する謀反の相談をしていた者として、本営に連れて行き、死刑に処するぞ」
と言って、中富は兵士らに
「ひとり残さず。引っくくれ」
とさけんだ。
兵士らが捕らえにかかった時、屋内から飛び出してきた者があった。
「待った!待った!待たっしゃれ!」
あざやかな日本語で叫んで、割って入った。
朝鮮人の服装をした男であった。しかも、土民の服装ではない。
埃じみて、折目も乱れているが、上流官人の服装である。
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<参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>
まもなく第3軍の黒田長政、大友義統が到着し、続いて宇喜多秀家が到着した。
この諸将らも追撃の動議はださない。
郊外に陣所を構えて、秀吉からの指示を待つことにする。
宇喜多秀家(1572-1655年)

京城郊外に駐屯した諸大名は、それぞれに区域を分担して、治安と警察の任にあたっていたが、ある日、
清正の兵10人が中富兵馬という物頭格の武士に率いられて巡邏し、ある村に入って、一軒の家の前を
通ると、道傍の地べたに長いひざを立ててしゃがみこみ、長いきせるで煙草を吸っている村人らが数人い
たが、兵士らの姿を見てスーッと顔色がかわった。
中富は暫くその前に立って、村人らを凝視して十分に恐怖感を与えたから
「その方ども、何か隠しているのか?ありていに申上げよ」
何も隠していない。自分らは村祭りのことで相談していたのであるが、あなた方が急にお出でになったので、
驚いていただけである。村人らは答える。
「そんな筈はない。そんなあまい言い抜けで騙されるおれではない。もし、本当のことを言わないなら、日本
軍に対する謀反の相談をしていた者として、本営に連れて行き、死刑に処するぞ」
と言って、中富は兵士らに
「ひとり残さず。引っくくれ」
とさけんだ。
兵士らが捕らえにかかった時、屋内から飛び出してきた者があった。
「待った!待った!待たっしゃれ!」
あざやかな日本語で叫んで、割って入った。
朝鮮人の服装をした男であった。しかも、土民の服装ではない。
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『秀吉の大陸進出の野望』 その46
『詰めが甘い日本軍』
清正軍も小西軍も京城に入って一夜を明かし、翌朝、諸将は集まって軍議し、その結果は
「一応ここに留まって、後続部隊の到着を待つべきであろう。殿下のお指図も仰がなければならない」
ということになった。
加藤清正(1562-1611年)

もし、諸将が気を弛めず、なお進撃して追いかけたら、国王を捕らえることができたかも知れないし、そう
なれば秀吉のこの出兵は成功し、東洋の歴史も違っていたのかも知れません。
しかし、清正も小西も、その他の将らも追撃を主張しなかったのです。
一国の首都を陥れたということは大変なことであるから、これで戦闘は終わり、朝鮮は降伏すると思った
のでしょうか。
国際戦に馴れないからの失断です。
民族を異にする国の間の戦争は、本質的には民族戦争となり、たとえ全部の領土が占拠されても民族が
存する限りは、執拗に続けられることが分からなかったのです。
清正らはまた相談して
「やがて、殿下は御渡海あって、ここのおいでになるであろうが、その際は御座所としては、この王宮以外
にはない。乱民のために焼き払われ、塀や礎石や敷瓦した床しか残っておらぬが、これだけでも大事にし
ておく必要があろう。きびしく番兵を立てて乱されぬよう護衛し、われらは城外に陣所を移そう」
と、決めてそれぞれ郊外に退去して陣所を構えた。
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熊本城・五間櫓のライトアップ

<参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>
清正軍も小西軍も京城に入って一夜を明かし、翌朝、諸将は集まって軍議し、その結果は
「一応ここに留まって、後続部隊の到着を待つべきであろう。殿下のお指図も仰がなければならない」
ということになった。
加藤清正(1562-1611年)

もし、諸将が気を弛めず、なお進撃して追いかけたら、国王を捕らえることができたかも知れないし、そう
なれば秀吉のこの出兵は成功し、東洋の歴史も違っていたのかも知れません。
しかし、清正も小西も、その他の将らも追撃を主張しなかったのです。
一国の首都を陥れたということは大変なことであるから、これで戦闘は終わり、朝鮮は降伏すると思った
のでしょうか。
国際戦に馴れないからの失断です。
民族を異にする国の間の戦争は、本質的には民族戦争となり、たとえ全部の領土が占拠されても民族が
存する限りは、執拗に続けられることが分からなかったのです。
清正らはまた相談して
「やがて、殿下は御渡海あって、ここのおいでになるであろうが、その際は御座所としては、この王宮以外
にはない。乱民のために焼き払われ、塀や礎石や敷瓦した床しか残っておらぬが、これだけでも大事にし
ておく必要があろう。きびしく番兵を立てて乱されぬよう護衛し、われらは城外に陣所を移そう」
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『秀吉の大陸進出の野望』 その45
『分捕り』
戦争の際の掠奪・暴行・捕虜虐待等の野蛮不道徳な行為が国際間の話し合いで、法規として禁止されるよう
になったのは新しいことなのです。
1856年のバリ条約を最初として、度々の国際会議を重ねて今日の形になってから、まだ100年余りしか経
っていないのです。
ナポレオン戦争(1803-1815年)

ナポレオン戦争時代は、敵味方とも掠奪したり、捕虜虐待行為は普通のことだったといいます。
戦場で敵を倒すと、敵の所持品の時計、財布や指輪などを奪っているが、当時の人の多くはそれを不法とす
る道徳感はなかったのです。
日本も同様で、戦国武将たちはこの点では道徳感覚が低く、戦国武将どころか、それから300年近い後の
維新戦争の時もそうであったというのです。
「分捕り」という言葉さえあって、掠奪することを悪と思わない者が多かったのです。
しかし、どんな時代にも天性の道徳心が高い人はいるのです。そういう人が武将であれば軍令を立てて厳し
く禁止する。
豊臣秀吉はこのような武将であったという。
彼は国内戦においても、掠奪や捕虜虐待を禁じ、敵の戦死者などには最も情けある処置をしているのです。
朝鮮出兵においても軍令を布告して、きびしい禁止条項としていることも前述したとおりです。
清正が釜山上陸以来、この軍令を厳重に守ってきたことも前述しましたが、京城に入って掠奪を禁じたのも、
やはりそのためであったのです。
律儀な清正は、秀吉の命令に違反すまいとしたのです。
掠奪について、こんな話を「清正高麗陣覚書」が書き残しています。
京城に入る前、忠州で清正軍が小西軍に追いついた時のことです。
清正は小西軍が布・木綿類を大量に掠奪して、牛馬に満載しているのを見て、小西に向かって
「こんなくだない物を分捕って難儀して運ぶなど、行軍力を鈍らせるだけである。京城に着きさえすれば、金・
銀・財宝・金襴・緞子など山のようにある。焼いてしまいなさい」
と勧めて、みな一箇所に集めさせ、焼き捨てさせたというのです。
どの程度まで、この記事を信じるべきかわかりませんが、掠奪ということに対する清正の態度、小西の態度
を、ある程度は表現されているのかもしれません。
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熊本城・大天守の石垣 (昇れそうですよね)

<参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>
戦争の際の掠奪・暴行・捕虜虐待等の野蛮不道徳な行為が国際間の話し合いで、法規として禁止されるよう
になったのは新しいことなのです。
1856年のバリ条約を最初として、度々の国際会議を重ねて今日の形になってから、まだ100年余りしか経
っていないのです。
ナポレオン戦争(1803-1815年)

ナポレオン戦争時代は、敵味方とも掠奪したり、捕虜虐待行為は普通のことだったといいます。
戦場で敵を倒すと、敵の所持品の時計、財布や指輪などを奪っているが、当時の人の多くはそれを不法とす
る道徳感はなかったのです。
日本も同様で、戦国武将たちはこの点では道徳感覚が低く、戦国武将どころか、それから300年近い後の
維新戦争の時もそうであったというのです。
「分捕り」という言葉さえあって、掠奪することを悪と思わない者が多かったのです。
しかし、どんな時代にも天性の道徳心が高い人はいるのです。そういう人が武将であれば軍令を立てて厳し
く禁止する。
豊臣秀吉はこのような武将であったという。
彼は国内戦においても、掠奪や捕虜虐待を禁じ、敵の戦死者などには最も情けある処置をしているのです。
朝鮮出兵においても軍令を布告して、きびしい禁止条項としていることも前述したとおりです。
清正が釜山上陸以来、この軍令を厳重に守ってきたことも前述しましたが、京城に入って掠奪を禁じたのも、
やはりそのためであったのです。
律儀な清正は、秀吉の命令に違反すまいとしたのです。
掠奪について、こんな話を「清正高麗陣覚書」が書き残しています。
京城に入る前、忠州で清正軍が小西軍に追いついた時のことです。
清正は小西軍が布・木綿類を大量に掠奪して、牛馬に満載しているのを見て、小西に向かって
「こんなくだない物を分捕って難儀して運ぶなど、行軍力を鈍らせるだけである。京城に着きさえすれば、金・
銀・財宝・金襴・緞子など山のようにある。焼いてしまいなさい」
と勧めて、みな一箇所に集めさせ、焼き捨てさせたというのです。
どの程度まで、この記事を信じるべきかわかりませんが、掠奪ということに対する清正の態度、小西の態度
を、ある程度は表現されているのかもしれません。
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『秀吉の大陸進出の野望』 その44
『京城入り』
清正の馬は逞しいうえに、清正自身が大男なのです。
小さな馬にまたがった小男の徳五郎は、高い山を仰ぐような形で清正を見上げながら言う。
「国王はもういませんばい」
「いないとはなんじゃ。どうしたのか」
「都ば落ちて、奥のほうへ逃げて行きなさったそうですたい。おとといの夜中じゃそうですばい。兵も逃げ散り、
公家衆も逃げ散り、役人衆もみんな逃げてしまいましたけん、横道もんどもが暴れまくって、宮殿や役所に入
り込み物は取り出す、火はつける。えらいことですわ」
「なんじゃと!」
都の方を臨むと、いきなりもくもくと黒煙が上がった。
加藤清正の愛馬「帝釈栗毛」(本妙寺)

戦の時、隙をうかがって暴民が掠奪・暴行・放火などの乱暴するのは常のことですが、清正のこれまでの経験
では、こんな大都会が戦禍の巷になったことはなかった。
また長期に渡っての空城であったこともない。どんなに長くても数時間の後には占領軍が入ったのです。
京城は戸数16,7万の大都会で、しかもまる2日間も守備する者がいなかったのです。
暴民どもは極楽城入った餓鬼の群れのように荒れまわったに違いないのです。
清正は一層馬足を早め、京城の南大門に入ったのは、夜の8時頃であった。
それと殆んど同時に、小西軍も東大門を入って来た。
いずれも一人として防ぐものはいない。市民らも逃げ去ったとみえて人影はない。
暴民らもいないのです。
宮殿や官署のある地点まで行ってみると、人の姿のまるで見えないところで壮麗な建物が炎々と燃えてい
るだけであった。
清正は報告書を書いて名護屋に送った後、王宮前の広場に夜陣の設営をさせたが、その前にきびしく将士
らをいましめた。
「金銀・財宝・布帛の類を勝手に分捕りしてはならぬ。たとえ捨ててあるものでも、御軍令の条々にそむくこと
と心得よ。犯す者は斬るぞ」
と。
熊本城二様の石垣 (右側が清正公が築いた石垣)

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清正の馬は逞しいうえに、清正自身が大男なのです。
小さな馬にまたがった小男の徳五郎は、高い山を仰ぐような形で清正を見上げながら言う。
「国王はもういませんばい」
「いないとはなんじゃ。どうしたのか」
「都ば落ちて、奥のほうへ逃げて行きなさったそうですたい。おとといの夜中じゃそうですばい。兵も逃げ散り、
公家衆も逃げ散り、役人衆もみんな逃げてしまいましたけん、横道もんどもが暴れまくって、宮殿や役所に入
り込み物は取り出す、火はつける。えらいことですわ」
「なんじゃと!」
都の方を臨むと、いきなりもくもくと黒煙が上がった。
加藤清正の愛馬「帝釈栗毛」(本妙寺)

戦の時、隙をうかがって暴民が掠奪・暴行・放火などの乱暴するのは常のことですが、清正のこれまでの経験
では、こんな大都会が戦禍の巷になったことはなかった。
また長期に渡っての空城であったこともない。どんなに長くても数時間の後には占領軍が入ったのです。
京城は戸数16,7万の大都会で、しかもまる2日間も守備する者がいなかったのです。
暴民どもは極楽城入った餓鬼の群れのように荒れまわったに違いないのです。
清正は一層馬足を早め、京城の南大門に入ったのは、夜の8時頃であった。
それと殆んど同時に、小西軍も東大門を入って来た。
いずれも一人として防ぐものはいない。市民らも逃げ去ったとみえて人影はない。
暴民らもいないのです。
宮殿や官署のある地点まで行ってみると、人の姿のまるで見えないところで壮麗な建物が炎々と燃えてい
るだけであった。
清正は報告書を書いて名護屋に送った後、王宮前の広場に夜陣の設営をさせたが、その前にきびしく将士
らをいましめた。
「金銀・財宝・布帛の類を勝手に分捕りしてはならぬ。たとえ捨ててあるものでも、御軍令の条々にそむくこと
と心得よ。犯す者は斬るぞ」
と。
熊本城二様の石垣 (右側が清正公が築いた石垣)

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<参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>
東京湾アクアラインの夕日
『東京湾アクアラインの落陽』
♪ しぼったばかりの夕陽の赤が~ 水平線からもれいる~~ ♪♪
あ、、これは違いますね。 苫小牧でした。
よい天気が続いてますので、東京湾に沈む落陽の見に行ってきました。

場所は、条件がよければ富士山も見えるという「袖ヶ浦臨海公園」
くっきりすっきりではありませんが、東京湾アクアラインの「海ほたる」も見えています。

落陽を撮る練習を重ねると、スポットとしては良いのかも知れません。

羽田空港の川崎側からの進入コースのようで、旅客機が重なるように飛んでいます。

宮崎ではありません、千葉です。

次回来る時は、レンズを考えたほうがいいべすね。

空気が澄んでくるこれからの時期、夜間にライトアップされた「海ほたる」も撮ってみたいです。

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あ、、これは違いますね。 苫小牧でした。
よい天気が続いてますので、東京湾に沈む落陽の見に行ってきました。

場所は、条件がよければ富士山も見えるという「袖ヶ浦臨海公園」
くっきりすっきりではありませんが、東京湾アクアラインの「海ほたる」も見えています。

落陽を撮る練習を重ねると、スポットとしては良いのかも知れません。

羽田空港の川崎側からの進入コースのようで、旅客機が重なるように飛んでいます。

宮崎ではありません、千葉です。

次回来る時は、レンズを考えたほうがいいべすね。

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『秀吉の大陸進出の野望』 その43
『武将としての面目』
清正勢も鍋島勢、相良勢も息もつかず進んだ。先駆した斥候らの報告によると、京城の内には敵兵らしい
ものは全然姿が見えず、暴民らが王宮や富貴の家に乱入して掠奪をはたらいているという。
清正j公の片鎌槍

敵兵は都の守りを捨てて四散したようであった。
「急げ、急げ!」
清正はどなり立てながらしゃにむに進んだ。
こうなれば小西軍と、どちらが一番乗りするかの争いなのです。
京城が無防備な地となっている以上、一番に乗り入ったからとて特別な手柄とは言えないだろうと、平和な
時代のわたしたちには思われるが、戦功とはそういうものではなく、やはり一番に乗り入ったのが勲功第一
とされるものらしいのです。
その上、ここまで来るまでの間に清正は小西に冷飯を食わされ続けてきているのです。京城乗り込みだけ
は、どうしても先登しなければ武将としての面目が立たないと思いつめていたのです。
さらに進むと、前方からよちよちと駆け戻って来る者があった。
両足の先が地につきそうな小さな朝鮮馬にまたがった徳五郎です。
徳五郎も、この頃では甲冑を着せてもらい馬に乗っていたのです。役目は通事ですが、朝鮮服では朝鮮人
に対して、にらみが効かないからからなのです。
馬だけは普通の馬では怖くて乗れないというので、ロバほどに小さい朝鮮馬に乗っているのです。
今日は京城入りだというので、斥候の兵とともに先行していたのです。
清正は、その報告を聞くのに馬を止めるのを嫌って
「わしと馬をならべよ。進みながら聞こう」
といった。
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いつもありがとうございます。
熊本城御殿・昭君の間 (豊臣秀頼を迎えるため用意したとか・・・)

<参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>
清正勢も鍋島勢、相良勢も息もつかず進んだ。先駆した斥候らの報告によると、京城の内には敵兵らしい
ものは全然姿が見えず、暴民らが王宮や富貴の家に乱入して掠奪をはたらいているという。
清正j公の片鎌槍

敵兵は都の守りを捨てて四散したようであった。
「急げ、急げ!」
清正はどなり立てながらしゃにむに進んだ。
こうなれば小西軍と、どちらが一番乗りするかの争いなのです。
京城が無防備な地となっている以上、一番に乗り入ったからとて特別な手柄とは言えないだろうと、平和な
時代のわたしたちには思われるが、戦功とはそういうものではなく、やはり一番に乗り入ったのが勲功第一
とされるものらしいのです。
その上、ここまで来るまでの間に清正は小西に冷飯を食わされ続けてきているのです。京城乗り込みだけ
は、どうしても先登しなければ武将としての面目が立たないと思いつめていたのです。
さらに進むと、前方からよちよちと駆け戻って来る者があった。
両足の先が地につきそうな小さな朝鮮馬にまたがった徳五郎です。
徳五郎も、この頃では甲冑を着せてもらい馬に乗っていたのです。役目は通事ですが、朝鮮服では朝鮮人
に対して、にらみが効かないからからなのです。
馬だけは普通の馬では怖くて乗れないというので、ロバほどに小さい朝鮮馬に乗っているのです。
今日は京城入りだというので、斥候の兵とともに先行していたのです。
清正は、その報告を聞くのに馬を止めるのを嫌って
「わしと馬をならべよ。進みながら聞こう」
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『秀吉の大陸進出の野望』 その42
『京城が目前』
清正は進軍にかかり少し行くと、物見に出ていた木村又蔵が馳せ帰ってきた。
「ここは京城の東南にあたりますが、京城から見て東北の方の遠山に旗印がおびただしく見えますのは、
小西行長の軍勢と見えます。お急ぎあるべし」
加藤清正(1562-1611年)

清正は軍勢に急ぐように言いつけ、木村とともに駆け抜けて進むと京城の町が見えた。
城壁があり、その城壁の外回りに人家がびっしりと並んでいる。清正も釜山上陸以来、ここまで来る間に
朝鮮の城とは町全体を取巻く城壁のことを言い、その城壁の内にも外にも町があることを知っている。
「あれこそ当国の都ぞ!者ども急げ!急げ!」
と、軍勢どもに指図しておいて、家来の貴田孫兵衛を呼び寄せた。
貴田孫兵衛は、豊前の彦山の麓にある槻村の百姓で六助といっていたが、剛力無双で秀吉の九州征伐
の時、御前角力で勇力をあらわしたので武士に取り立てられ、貴田孫兵衛と名のって清正に仕えるように
なった者であった。
清正は孫兵衛を呼ぶと、一通の書状を書いた。
とりいそぎ言上いたします。京城から一里ほどのこちらに漢江と申す河があります。ただちに押し渡りまし
て、京城へ進撃し今や目前にせまりました。これより乗り込みます。なお、追って御注進いたします。恐々
謹言
5月2日
加藤主計頭清正
長束大蔵大輔殿
木下半助殿
御陣所
「その方は直ちに釜山に引き返し、名護屋のご本営にまいり、これを差し出した上、くわしく申上げるよう」
と言った。
孫兵衛は背に負った母衣をゆらし、馬に飛び乗り従騎を連れて後方に駆け去った。
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清正公の巨大な熊本城 <クリックで拡大します>

<参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>
清正は進軍にかかり少し行くと、物見に出ていた木村又蔵が馳せ帰ってきた。
「ここは京城の東南にあたりますが、京城から見て東北の方の遠山に旗印がおびただしく見えますのは、
小西行長の軍勢と見えます。お急ぎあるべし」
加藤清正(1562-1611年)

清正は軍勢に急ぐように言いつけ、木村とともに駆け抜けて進むと京城の町が見えた。
城壁があり、その城壁の外回りに人家がびっしりと並んでいる。清正も釜山上陸以来、ここまで来る間に
朝鮮の城とは町全体を取巻く城壁のことを言い、その城壁の内にも外にも町があることを知っている。
「あれこそ当国の都ぞ!者ども急げ!急げ!」
と、軍勢どもに指図しておいて、家来の貴田孫兵衛を呼び寄せた。
貴田孫兵衛は、豊前の彦山の麓にある槻村の百姓で六助といっていたが、剛力無双で秀吉の九州征伐
の時、御前角力で勇力をあらわしたので武士に取り立てられ、貴田孫兵衛と名のって清正に仕えるように
なった者であった。
清正は孫兵衛を呼ぶと、一通の書状を書いた。
とりいそぎ言上いたします。京城から一里ほどのこちらに漢江と申す河があります。ただちに押し渡りまし
て、京城へ進撃し今や目前にせまりました。これより乗り込みます。なお、追って御注進いたします。恐々
謹言
5月2日
加藤主計頭清正
長束大蔵大輔殿
木下半助殿
御陣所
「その方は直ちに釜山に引き返し、名護屋のご本営にまいり、これを差し出した上、くわしく申上げるよう」
と言った。
孫兵衛は背に負った母衣をゆらし、馬に飛び乗り従騎を連れて後方に駆け去った。
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