イルミネーション

『偶然見つけたイルミネーション』

先日、木更津アウトレットから帰る途中、偶然見つけたイルミネーションが気になっていたので、見に行って

きました。

20151128 袖ケ浦駅前 001

場所は、東京湾に面した袖ヶ浦駅前です。

20151128 袖ケ浦駅前 002

遠目で見たときは良かったのですが、絶対的に光源が少ないので、遊んでみることに。

20151128 袖ケ浦駅前 003

ピントをずらして、光との戯れです。

20151128 袖ケ浦駅前 004

点灯パターンで無数の画像パターンを捕らえることができます。

20151128 袖ケ浦駅前 005

この日は月齢が良かったので、久しぶりに月も捉えようと望遠レンズも持参していたので、ボケを入れる

ならと、望遠をセットしてみました。

20151128 袖ケ浦駅前 007

目には見えない非現実的な画像です。

20151128 袖ケ浦駅前 008


20151128 袖ケ浦駅前 010

最後は遊びすぎになってしまいました。

20151128 袖ケ浦駅前 011

これから、至るところで美しいイルミネーションを見ることができます。

きれいな写真を撮ってみたいですね。



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「生と死のはざまを生きた誇り高き男たち」 その5

『戦場のドクター“金創医”は落第兵だった?』

戦場でケガの手当てを行っていたのが、金創医なる外科医たちです。

金創(金瘡)というのは、刀・槍・矢・鉄砲などの金属による傷のことで、それを治療するから金創医を呼んで

いたのです。

長篠の戦い
na.長篠の戦い

もっとも外科医といえば、メスや鉗子を鮮やかに振るって手術を行う医者ではないのです。もともと臆病者や

戦闘に耐えられない者が、にわか医者として戦場に赴いたのですから腕のほどは知れています。

医者といえば、現代ではエリート中のエリートなのでしょうが、戦国の世では、なんと落第兵だったのです。

しかし、戦争によって兵器を中心とする産業技術が長足の進歩を遂げるように、戦乱が要求した医療技術は、

多くの流派を生みながら発達します。

こんな金創医の手当てを受けられたのも武士に限られ、足軽たちは自分で傷の処置をしなければならなかっ

たのです。

ずいぶん怪しげな迷信的、非科学的な治療が多く、なかでも極めつけなのは、内出血を含め、出血したとき

は葦毛の馬の糞を煮立てて飲め、というものです。

なぜ葦毛なのか、はっきりしませんが、わざわざ“葦毛”と断っているのが、いかにもわけありで、雑兵たちに

とって、効き目がありそうに思えたのでしょう。



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昨夜は、イルミネーションと遊んできました。
20151128 袖ケ浦駅


                              <参考文献:戦国武将おもしろ辞典(奈良本辰也監修)>

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「生と死のはざまを生きた誇り高き男たち」 その4

『“名誉の負傷”の治療のノウハウ』

戦に負傷はつきもの。

討死や手負いは、むしろ武士の誇りで名誉とされていたが、その傷の手当はどう行われていたのでしょう。

鉄砲が戦に登場して以来、戦場での怪我は銃弾によるものが一番多くなっている。

関ヶ原の戦い
決戦関ヶ原(表紙)

その銃弾は直径10~20mmの鉛玉が使用されていた。

傷の手当は、まず玉の入りこんだところを探り、玉抜きで挟んで取り出す。抜き取れないときは、吸膏薬とい

う「たこの吸出し」のような薬を用い、膿と一緒に玉が傷口近くまで出てくるのを待って、玉抜きで取り出した。

鉄砲傷についで多かったのが、槍傷、矢傷の順で刀傷は最も少なかった。

槍や矢による傷の手当の仕方は、気付け薬、止血薬、内服薬の順に飲ませ、傷口を洗う、というものです。

傷の程度によっては縫い合わせ膏薬を塗っています。

ポルトガル人やスペイン人がキリスト教の布教と貿易の目的で渡来するようになると、南蛮式の外科治療も

行われるようになっている。

その方法は、温めた焼酎にひたした木綿で傷口をきれいに洗った後、椰子湯を傷に塗り縫合する。

その後、もう一度傷口を焼酎で洗い、卵の白味に少量の椰子油を混ぜたものを木綿にひたし、それを傷口に

当て、木綿の包帯で巻いた。

槍と矢で受けた傷は、油薬をコヨリ状にした木綿に含ませ、傷の中に入れ、傷が浅い場合のみ一針縫ってい

ます。

戦場での討死や手負いが、本当に名誉なのでしょうかネ。



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pig 20151127




                             <参考文献:戦国武将おもしろ辞典(奈良本辰也監修)>

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『秀吉の大陸進出の野望』 その65

『清正、単独で北上』

寄騎大名の鍋島直茂と相良長毎の2人は、また言った。

「開城を出発以来、ここに至るまで16日、炎天の下をあの険路を押して参って、われらの人馬は疲れきって

います。この永興城には米や大豆なども豊かにありますゆえ、暫くここに逗留することに決め、京城の宇喜

多殿へ注進し、その指図次第にしては如何でござろうか」

要するに進軍が嫌なのです。

加藤清正(1562-1611年)
ka.加藤清正

それがはっきり清正にはわかった。わかった以上は強いても無駄であるから、

「しからば、ご両所はここにご滞在あれ、われらはわれらの心にまかせて、あくまでも追いてめ、両王子を生

け捕ることにしましょう」

と言って、翌朝早く手勢1万だけで出発し、北に向かった。




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清正公の熊本城・宇土櫓
20130707 熊本城 005




                                 <参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>

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『秀吉の大陸進出の野望』 その64

『清正の説得』

侍臣は市内の民家を聞きまわり、帰って来て報告した。

「4日前にお通りであった由でございます。数百人の軍兵どもが守護していたと申します」

その夜、清正は寄騎大名の鍋島直茂と相良長毎を本陣に呼び食事をともにしながら、これらのことを相談

して、

「拙者は国王の弟君を追いかけたいと存ずるが、各々のご所存をうかがいたい」

と、発議した。

鍋島直茂(1537-1598年)
na.鍋島直茂

鍋島も相良も急には答えない。同意でないことは明らかのようであったが、清正はなお続けた。

「ことさらめかしく申すまでもなく、戦というものは戦う者の力量以外に運不運のともなうもので、いかに力量が

あり、勇敢なものだとて、必ず人に勝った手柄を立てられるとは限らぬものでござる。されば、運の向いてる時

には、気力を励まして強く追いかれるべきものでござる。両王子がこの町を通って奥地にまいられたとは、われ

らに手柄立てよとて天のあたえ賜った好運でござる。あくまでこれを追求するこそ、武人の心がけではござるま

いか」

鍋島は盃を一口飲んで言う。

「加藤殿の仰せ、一応道理とは存じますが、異国の者はなかなか心が深く、はかりごとが多いとうけたまわりま

す。餌をかけ人を遠く切所に誘いこんでおいてぐるりと取巻き、わなに陥れるような戦をすること、昔からめずら

しくないとうけたまわっています。あの建札も、あるいは餌の一つかと疑わしく思います。もし、そうなら不覚をと

ることになりましょう」

すると、相良長毎もいう。

「われらもあの建札は疑わしいと思っています。敵の奴らは、われらの寄せ来るのを知っている道理であります

のに、ああもありありとわかり易いところに掲げてあること、不審千万ではありませんか」

清正は笑って

「ご両所は、あの建札をはかりごとかとお疑いでござるが、拙者はそうは存ぜぬ、天照皇大神、八幡大菩薩、別

しては拙者の常に信仰捧持する妙経の指示、お加護と信じています。従わねば、かえって冥罰がありましょう。

お考え直しを願いたい」

と言ったが、2人の心は動きそうになかった。



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鍋島氏の居城・佐賀城 (佐賀城登城記は「こちら」です。)
sa.佐賀城 001



                                   <参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>

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『秀吉の大陸進出の野望』 その63

『国王・弟君の建札』

クジ引きが済み、受け持ち区域が決まったので、諸将はそれぞれ別れた。

清正軍と小西軍はなお数日同じ方向に向かい、安城で別れて、清正軍は東北方に向かい、小西軍はなお

北西への道を続けることになった。

清正は、安城から新渓・谷山(こくざん)と経るが、一兵も道をさえぎる者はいないが、谷山から朝鮮の脊梁

山脈に入るので道は険難となった。

鉄嶺の麓地帯を通って海辺の安辺に出た。元山湾の岸です。

海に沿って、元山、徳源、文山、高原を通り、ここから海を離れて永興府に着いた。

この間、一敵にも会っていないのです。

城門の入口に建札がある。

通事を呼んで、読ませると

「われらは臨海君珒(し)、順和君珏(かく)である。日本軍の侵入によって、国軍皆敗れ、王城も陥り、国君

は蒙塵されるよりほかなくなった。われら憤りを発し、救国の義援を興さんため、当道に来て、これより奥地

に赴く。いやしくも勤王の志るもの、奮って馳せ参ぜよ。ともに義に殉じようではないか」

と、いう意味であるという。

清正は、臨海君珒、順和君珏とはどんな身分の人かと尋ねた。

「国王の弟君たちでござる」

と、通事は答える。

「国王の弟君たち?しかとか」

「そうでござる」

清正の心はおどった。ゆゆしい手柄の立てられることが目の前にせまっていると思った。

「いつお2人はここをお通りになったのか、それをここの住民どもに尋ねよ」

と、侍臣に命じた。



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sakura 20151125


                                    <参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>

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「生と死のはざまを生きた誇り高き男たち」 その3

『一番槍、一番首をめぐる熾烈なる競争』

戦場では、先駆けが極めて重要な意味をもっていた。

一番槍が大手柄とされるのも、戦場の緊迫感、死への恐怖の中で、一団の先頭を切って勇猛果敢に敵陣を

突破することが、武士にとって最高に名誉ある華々しい行為であったばかりでなく、その活躍によって、敵軍

が崩れ立ち、勝敗の流れを決することにもつながるからなのです。

関ヶ原の戦いでの家康の首検証所
関ヶ原家康 001

敵味方がにらみ合う中で、中央に進み名乗りをあげて敵と戦うことも、家中の誉れを一身に負った行為として

高く評価されていた。

敵将を討取った手柄も大きい。

めったにそうした機会に恵まれないだけに“冥加(みょうが)の侍”といわれた。

一番槍や二番槍の先駆け同様に武功とされたのが殿(しんがり)です。

敗走の際、あとに残り、味方の退却を援助するために敵を支えるのです。

勇猛にして忠義の士でなけでば出来ない役割であったのです。

また、一番首、二番首も大手柄とされた。

一番、二番というのは、本陣へ首を持ち帰った順番ではなく、首を取った時間の早さであったが、敵味方入り

乱れて戦うなか、早さの特定がなかなか困難で、首の順番をめぐる争いも生じていたという。



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現在の家康の首検証跡 (関ヶ原訪問記は「こちら」です。)
関ヶ原家康 002



                        <参考文献:戦国武将おもしろ辞典(奈良本辰也監修)>

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piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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