真田丸 その4
『兄・信幸との別れ』
野洲小山における家族会義での兄弟の論争は随分と激しいものがあったらしく、今にも兄弟斬合いにも及び
かねない程であったという。
沼田城跡 (沼田城登城記は「こちら」です。)

途中、兄・信幸の居城である沼田を通過する時、信繁は、
「場合によっては沼田の町中を焼払らわねばならぬ仕儀になるかも知れぬゆえ、その方、先ず行って様子を
伺え」
と家老の木村土佐を先発させたという。
また、父子が信幸夫人・小松の峻拒(しゅんきょ)によって城内に入ることを許されず、城下の正覚寺で休息し
ている時、石庵という半俗が来て、
「伊豆守様(信幸)がおいでにならぬようでありますが、いかが遊ばれました」
と尋ねたところ、信繁が、
「伊豆守殿は、浮木に乗って風を待っておられるわ」
と噛んで吐き出すように答えたので、石庵、済まぬ挨拶と座を退いたという。
信繁が信幸に対して、憤まんの押さえがたいものがあったことがわかります。
父・昌幸と信繁は上田に帰るや、徹夜で籠城の支度にかかった。
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上田城を兵糧攻めにし、待機するpiglet

<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
野洲小山における家族会義での兄弟の論争は随分と激しいものがあったらしく、今にも兄弟斬合いにも及び
かねない程であったという。
沼田城跡 (沼田城登城記は「こちら」です。)

途中、兄・信幸の居城である沼田を通過する時、信繁は、
「場合によっては沼田の町中を焼払らわねばならぬ仕儀になるかも知れぬゆえ、その方、先ず行って様子を
伺え」
と家老の木村土佐を先発させたという。
また、父子が信幸夫人・小松の峻拒(しゅんきょ)によって城内に入ることを許されず、城下の正覚寺で休息し
ている時、石庵という半俗が来て、
「伊豆守様(信幸)がおいでにならぬようでありますが、いかが遊ばれました」
と尋ねたところ、信繁が、
「伊豆守殿は、浮木に乗って風を待っておられるわ」
と噛んで吐き出すように答えたので、石庵、済まぬ挨拶と座を退いたという。
信繁が信幸に対して、憤まんの押さえがたいものがあったことがわかります。
父・昌幸と信繁は上田に帰るや、徹夜で籠城の支度にかかった。
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『秀吉の大陸進出の野望』 その90
『第2次 晋州城攻略』
小西行長は釜山付近まで引上げて来ると、また朝鮮に帰って来た石田三成とともに名護屋に向かった。
増田長盛、大谷吉継、宗義智らも同行した。
講和のことについて、いろいろ秀吉を説得するためであった。
名護屋城大手門 (名護屋城登城記は「こちら」です。)

小西らが帰国して秀吉に説いた結果、清正の捕虜となっていた朝鮮の2王子と高官らは朝鮮に帰される
ことになった。
秀吉の命令は、小西から清正に達せられた。
なんと殿下に申上げたことやら、和議は決して反対ではないが、この和議はどうもうさんくさいところがあ
る。
と、清正は不安ではあったが、命令である以上拒むことはできない。
「承知いたした」
と答えて、小西に引き渡した。
小西はそれを沈惟敬に引き渡した。
6月2日のことであった。
16の砦を築き長滞陣の支度を整えた諸将は、秀吉の命令に従い晋州城の攻撃にかかることになった。
これを最も心配したのは、小西であった。
小西は、これが進行しつつある和議が破れはしないかと恐れ、沈惟敬に向かって
「太閤は去年の冬、わが軍が晋州城を攻撃して失敗したのを無念として、この度これを猛攻撃せよとの
命令を下しました。拙者はこれを諫止しようと力を尽くしましたが、何分にも加藤清正という男がやたら勇
み立って色々と手荒なことを太閤に申しますので、太閤は拙者の諫言を聞いてくれません。今はもう阻
止の方法はありません。せめて城中の衆の命が助かる工夫をしたい。それには城衆全員が立ち退いて、
城をからにするのがよろしい。願わくは、このことを朝鮮側に勧めていただきたい」
小西さん、大丈夫なのでしょうか。
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小西行長は釜山付近まで引上げて来ると、また朝鮮に帰って来た石田三成とともに名護屋に向かった。
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講和のことについて、いろいろ秀吉を説得するためであった。
名護屋城大手門 (名護屋城登城記は「こちら」です。)

小西らが帰国して秀吉に説いた結果、清正の捕虜となっていた朝鮮の2王子と高官らは朝鮮に帰される
ことになった。
秀吉の命令は、小西から清正に達せられた。
なんと殿下に申上げたことやら、和議は決して反対ではないが、この和議はどうもうさんくさいところがあ
る。
と、清正は不安ではあったが、命令である以上拒むことはできない。
「承知いたした」
と答えて、小西に引き渡した。
小西はそれを沈惟敬に引き渡した。
6月2日のことであった。
16の砦を築き長滞陣の支度を整えた諸将は、秀吉の命令に従い晋州城の攻撃にかかることになった。
これを最も心配したのは、小西であった。
小西は、これが進行しつつある和議が破れはしないかと恐れ、沈惟敬に向かって
「太閤は去年の冬、わが軍が晋州城を攻撃して失敗したのを無念として、この度これを猛攻撃せよとの
命令を下しました。拙者はこれを諫止しようと力を尽くしましたが、何分にも加藤清正という男がやたら勇
み立って色々と手荒なことを太閤に申しますので、太閤は拙者の諫言を聞いてくれません。今はもう阻
止の方法はありません。せめて城中の衆の命が助かる工夫をしたい。それには城衆全員が立ち退いて、
城をからにするのがよろしい。願わくは、このことを朝鮮側に勧めていただきたい」
小西さん、大丈夫なのでしょうか。
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『秀吉の大陸進出の野望』 その89
『小西幸長、また騙される』
石田三成は京城を立って日本に向かった。
味方が優勢であり、講和談判に有利であることは常識であるので、届いた秀吉の指令はこうであった。
「京城を引上げたらなら、蔚山から釜山に至るまでの慶尚道の沿岸に16の砦を構え、諸将にこれを久守す
ることにせよ。そして、晋州城を攻め落として、城中の者を皆殺しにせよ」
小西幸長

約束のとおり、4月8日に沈惟敬は人質の謝用梓、徐一貫の2人を連れて来て、小西行長の陣中に入った。
この2人は明の皇帝の勅使であるということであったが、真っ赤な偽者であった。
日本人は中国の官史はみな学者だと思っているから、坊さんたちが学問の話をしかけたり、詩の唱和を望ん
だりするかも知れない、そんな時、対応が出来ないでは偽者であることが直ぐバレろので、官史採用の試験
にまだパスをしていない者を口説き、勅使にしたのだという。
「日本は講和を切望している。そなたらは勅使という名目で行く故、決して危害を加えられることはない。大い
に歓待し、進物などもたくさんくれるであろう。大変な利益になるぞ。出来るだけ本物の使節が行って、そなた
らを引上げて来られるようにする。わしもついて行くのである故、少しの心配はない。勇気をふるい興して行く
が良い」
と、説いたのです。
こんなことを日本軍は少しも知らない。
秀吉からの指令が昨日ついているうえ、こうして約束が履行されたと信じたので、諸将は撤退にかかった。
勅使と称する2人と沈惟敬は、小西の陣中にあって小西とともに撤退する。
こうして日本軍は朝鮮南端の慶尚道に撤退したが、ここで踏みとどまり、蔚山から釜山に至るまでの海辺
16ヵ所に砦を設けた。
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石田三成は京城を立って日本に向かった。
味方が優勢であり、講和談判に有利であることは常識であるので、届いた秀吉の指令はこうであった。
「京城を引上げたらなら、蔚山から釜山に至るまでの慶尚道の沿岸に16の砦を構え、諸将にこれを久守す
ることにせよ。そして、晋州城を攻め落として、城中の者を皆殺しにせよ」
小西幸長

約束のとおり、4月8日に沈惟敬は人質の謝用梓、徐一貫の2人を連れて来て、小西行長の陣中に入った。
この2人は明の皇帝の勅使であるということであったが、真っ赤な偽者であった。
日本人は中国の官史はみな学者だと思っているから、坊さんたちが学問の話をしかけたり、詩の唱和を望ん
だりするかも知れない、そんな時、対応が出来ないでは偽者であることが直ぐバレろので、官史採用の試験
にまだパスをしていない者を口説き、勅使にしたのだという。
「日本は講和を切望している。そなたらは勅使という名目で行く故、決して危害を加えられることはない。大い
に歓待し、進物などもたくさんくれるであろう。大変な利益になるぞ。出来るだけ本物の使節が行って、そなた
らを引上げて来られるようにする。わしもついて行くのである故、少しの心配はない。勇気をふるい興して行く
が良い」
と、説いたのです。
こんなことを日本軍は少しも知らない。
秀吉からの指令が昨日ついているうえ、こうして約束が履行されたと信じたので、諸将は撤退にかかった。
勅使と称する2人と沈惟敬は、小西の陣中にあって小西とともに撤退する。
こうして日本軍は朝鮮南端の慶尚道に撤退したが、ここで踏みとどまり、蔚山から釜山に至るまでの海辺
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『秀吉の大陸進出の野望』 その88
『明との和議交渉』
当時の日本人は、まだ国家観念や国民意識が強くなかったので、脱走して帰国する者が続出したという。
この頃、諸国に
「お国からの手形なくして帰国した者は取り押さえよ」
という通達が出されているが、これは脱走帰国者が多かったことを語る史料なのでしょう。
なかには脱走し明軍に降伏し、明軍側に属して日本軍と戦う者もあったというから、酷い話です。
これらのことは糧食が欠乏しているというのが当面の原因であったので、秀吉は糧食を送りたいとあせっ
たが、制海権が朝鮮側に奪われているので、どうすることも出来ない。
「この上は、和議に持ち込むより他はない」
と、秀吉自身が考えるようになったという。
豊臣秀吉(1537-1598年)

明の方でも、碧蹄館で大敗して日本軍の力の恐るべきことを知ってから、真剣に和議を考える有力者が出
てきたという。
こうなると、また沈惟敬が出て来て、小西行長に働きかけた。
小西はもちろん講和は最初からの志であるが、前の失敗に懲りているから散々に念をおす。
ぬかりない惟敬です。もっともらしい弁解をする。
これらの交渉は全部文書をもって行なわれたという。
この時、両人の間に交わされた和議条件がどんなものであったか、はっきりわかりませんが、後のことから
考え合わせると、次のようなことであったのでしょう。
1.明の皇女を日本の天皇の妃におくる。
2.朝鮮の4道を日本に割譲する。
3.朝鮮は日本に王子ひとり、重臣ひとりを人質に送ること。
4.日明間の貿易を再開すること。
小西は、条件はこれでよいが、大明皇帝から人質を貰いたいと要求した。
これまで散々に騙されているのですから、当然のことでしょう。
「よろしい、差し出しましょう。4月8日までには必ず連れてまいりましょう。しかし、大明国がそこまでいたす
以上、日本側でも実意をいただかねばなりません」
「それはそうです。しばらくお待ちあれ」
小西は席を外して、別室に入った。そこには石田三成が待っていた。
沈惟敬が来ると聞いて、来ていたのです。
三成は、釜山近くまで全軍を引上げさせると答えよと指示した。
「殿下がそれをお許しなりましょうか」
「ご心配にはおよばぬ。拙者が日本に馳せ戻り、必ずお許しをいただきます」
小西は席に戻り、全軍を釜山近くまで引上げさせると答えた。
「では、また」
と、沈惟敬帰っていった。
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当時の日本人は、まだ国家観念や国民意識が強くなかったので、脱走して帰国する者が続出したという。
この頃、諸国に
「お国からの手形なくして帰国した者は取り押さえよ」
という通達が出されているが、これは脱走帰国者が多かったことを語る史料なのでしょう。
なかには脱走し明軍に降伏し、明軍側に属して日本軍と戦う者もあったというから、酷い話です。
これらのことは糧食が欠乏しているというのが当面の原因であったので、秀吉は糧食を送りたいとあせっ
たが、制海権が朝鮮側に奪われているので、どうすることも出来ない。
「この上は、和議に持ち込むより他はない」
と、秀吉自身が考えるようになったという。
豊臣秀吉(1537-1598年)

明の方でも、碧蹄館で大敗して日本軍の力の恐るべきことを知ってから、真剣に和議を考える有力者が出
てきたという。
こうなると、また沈惟敬が出て来て、小西行長に働きかけた。
小西はもちろん講和は最初からの志であるが、前の失敗に懲りているから散々に念をおす。
ぬかりない惟敬です。もっともらしい弁解をする。
これらの交渉は全部文書をもって行なわれたという。
この時、両人の間に交わされた和議条件がどんなものであったか、はっきりわかりませんが、後のことから
考え合わせると、次のようなことであったのでしょう。
1.明の皇女を日本の天皇の妃におくる。
2.朝鮮の4道を日本に割譲する。
3.朝鮮は日本に王子ひとり、重臣ひとりを人質に送ること。
4.日明間の貿易を再開すること。
小西は、条件はこれでよいが、大明皇帝から人質を貰いたいと要求した。
これまで散々に騙されているのですから、当然のことでしょう。
「よろしい、差し出しましょう。4月8日までには必ず連れてまいりましょう。しかし、大明国がそこまでいたす
以上、日本側でも実意をいただかねばなりません」
「それはそうです。しばらくお待ちあれ」
小西は席を外して、別室に入った。そこには石田三成が待っていた。
沈惟敬が来ると聞いて、来ていたのです。
三成は、釜山近くまで全軍を引上げさせると答えよと指示した。
「殿下がそれをお許しなりましょうか」
「ご心配にはおよばぬ。拙者が日本に馳せ戻り、必ずお許しをいただきます」
小西は席に戻り、全軍を釜山近くまで引上げさせると答えた。
「では、また」
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『秀吉の大陸進出の野望』 その87
『兵糧の欠乏』
軍議を再召集して、清正が提議したことは兵糧狩りであった。
「少人数で出かけて行く故、敵兵や一揆どもに攻められるのである。100人、200人が一団となって厳重に
武装して出かけるなら、敵も容易に攻めかかりはせぬし、攻めかかってきても打ち破ることが出来る。手段
を尽くすことをせず、殿下のお許しもないのに、折角占拠した京城から退去しては、殿下のご機嫌のほども
案ぜられますぞ」
というのが、その意見であった。
本妙寺の清正公

筋道の立った意見であったので、浮き足立った諸将も腰をすえ直して大部隊で地方に行って兵糧を徴発す
ることにしたが、あまり効果はなかった。
戦争のために農事が捨てられ、元来農作物が乏しいうえに民間に自然と発生した愛国心によるレジスタン
スが盛んになっていたのです。
朝鮮出兵は、その初めから将士の間には不人気であった。
長い間の戦国乱世が続いて、秀吉によって天下が平定され統一したのだから、日本人はみな平和と休息を
欲しがっていたのに、秀吉はこれを外征に駆り出したのです。この朝鮮出兵は日本の諸将にも、反対も多か
ったのです。
それでも戦争が順調であった間は、気がまぎれ、面白いとも思い、気力も盛んであったが、敗戦があり、戦
局が渋滞し、食糧も欠乏し、そのうえ経験もないほどの寒気にあったりすると士気は衰えざるを得ないので
す。
栄養失調のために、たちの悪い腫物に悩む者が多かったという。
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軍議を再召集して、清正が提議したことは兵糧狩りであった。
「少人数で出かけて行く故、敵兵や一揆どもに攻められるのである。100人、200人が一団となって厳重に
武装して出かけるなら、敵も容易に攻めかかりはせぬし、攻めかかってきても打ち破ることが出来る。手段
を尽くすことをせず、殿下のお許しもないのに、折角占拠した京城から退去しては、殿下のご機嫌のほども
案ぜられますぞ」
というのが、その意見であった。
本妙寺の清正公

筋道の立った意見であったので、浮き足立った諸将も腰をすえ直して大部隊で地方に行って兵糧を徴発す
ることにしたが、あまり効果はなかった。
戦争のために農事が捨てられ、元来農作物が乏しいうえに民間に自然と発生した愛国心によるレジスタン
スが盛んになっていたのです。
朝鮮出兵は、その初めから将士の間には不人気であった。
長い間の戦国乱世が続いて、秀吉によって天下が平定され統一したのだから、日本人はみな平和と休息を
欲しがっていたのに、秀吉はこれを外征に駆り出したのです。この朝鮮出兵は日本の諸将にも、反対も多か
ったのです。
それでも戦争が順調であった間は、気がまぎれ、面白いとも思い、気力も盛んであったが、敗戦があり、戦
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す。
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みごとに返り討ち
『鹿野山九十九谷の雲海に見事に返り討ち』
前回のリベンジで、週末に「鹿野山九十九谷の雲海」を見に行きましたが、見事に返り討ちにあってしまい
ました。
(前回のチャレンジは「こちら」です。)
前回と同様に、日の出前に現地に到着するも、雲の気配はまったくありません。
仕方なく、日の出写真撮りに夢中に。

見事な日の出です。

前回と違い「朝もや」も無く、きれいな山並みだけが、、

この日の気温は、-5℃だったとか。

この時期、関東地方は天気にだけは恵まれます。

今回は、見事に返り討ちとなってしまいましたが、再度のチャレンジをしたいものです。

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前回のリベンジで、週末に「鹿野山九十九谷の雲海」を見に行きましたが、見事に返り討ちにあってしまい
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(前回のチャレンジは「こちら」です。)
前回と同様に、日の出前に現地に到着するも、雲の気配はまったくありません。
仕方なく、日の出写真撮りに夢中に。

見事な日の出です。

前回と違い「朝もや」も無く、きれいな山並みだけが、、

この日の気温は、-5℃だったとか。

この時期、関東地方は天気にだけは恵まれます。

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真田丸 その3
『三成の挙兵』
1600年、上杉景勝は石田三成と通謀して、反家康の兵を会津に挙げた。
家康は諸大名を率いて討伐に向ったところ、途中、野州小山にて西で石田三成らが挙兵したとの報告が届
いた。
小山評定跡碑

真田一族も上杉討伐の陣中にあったが、昌幸のもとに三成から
「故・太閤の旧恩を思い、西軍に味方ありたし。味方勝利の暁には、甲信2国をあてがい申す」
と言って来たので、昌幸は西軍へ味方することを決心し、長男・信幸と次男・信繁を会して相談した。
信幸は、秀吉の仲裁で真田家が徳川家と和睦した時、駿府に伺候して以来、家康に厚遇され、その翌年に
は家康の養女(本多忠勝の娘)を嫁にもらったほどで、家康に心服しきっていた。
「以てほかのこと、これは石田輩が秀頼公の名をかりて、おのれらの野心のために起こしたものでござる。
切に思いとどまりください」
と諫言した。
信繁の方は、石田方の参謀長的地位にある大谷吉継とは秀吉のもとに勤仕した頃から世話になったばか
りか、その娘を嫁に貰ったほどの仲であり、また秀吉に勤仕して豊臣家の恩義を感ずることも深かった。
「太閤が亡くなられてから以後の、江戸内府の所業、ひとつとして腹の立たぬはない。石田のこの度の挙兵
は義挙にまぎれがない。また家を興すに至極の時だ。父上の思召し通りにすべきでござる。」
と主張する。
双方激論となって、しからば各自の心任せにしようと、信幸は留まり昌幸と信繁は兵をまとめて上田に帰り、
籠城の支度にかかった。
この時、信繁35歳であった。
以上が関ヶ原合戦までの信繁の略歴です。
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上田城攻略中のpiglet

<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
1600年、上杉景勝は石田三成と通謀して、反家康の兵を会津に挙げた。
家康は諸大名を率いて討伐に向ったところ、途中、野州小山にて西で石田三成らが挙兵したとの報告が届
いた。
小山評定跡碑

真田一族も上杉討伐の陣中にあったが、昌幸のもとに三成から
「故・太閤の旧恩を思い、西軍に味方ありたし。味方勝利の暁には、甲信2国をあてがい申す」
と言って来たので、昌幸は西軍へ味方することを決心し、長男・信幸と次男・信繁を会して相談した。
信幸は、秀吉の仲裁で真田家が徳川家と和睦した時、駿府に伺候して以来、家康に厚遇され、その翌年に
は家康の養女(本多忠勝の娘)を嫁にもらったほどで、家康に心服しきっていた。
「以てほかのこと、これは石田輩が秀頼公の名をかりて、おのれらの野心のために起こしたものでござる。
切に思いとどまりください」
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信繁の方は、石田方の参謀長的地位にある大谷吉継とは秀吉のもとに勤仕した頃から世話になったばか
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「太閤が亡くなられてから以後の、江戸内府の所業、ひとつとして腹の立たぬはない。石田のこの度の挙兵
は義挙にまぎれがない。また家を興すに至極の時だ。父上の思召し通りにすべきでござる。」
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双方激論となって、しからば各自の心任せにしようと、信幸は留まり昌幸と信繁は兵をまとめて上田に帰り、
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この時、信繁35歳であった。
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