『秀吉の大陸進出の野望』 その105
『怒りの清正』
「治部めと仲直りせよと仰せあるか!」
清正の顔は真っ青になっていた。
増田長盛は無理に微笑をつくった。
加藤清正

「それそれ、その治部めというお言葉がようござらぬ。今の世に、治部めなどという者が日本中にござろうか。
心を静めて、よくお考えあれよ」
清正の怒りの火に油が注がれた。
「たとえ、殿下のご機嫌なおらず切腹を仰せ付けられようと、治部めとは決して仲直りいたさぬぞ!」
と絶叫したが、それでも収まらず増田にもあたった。
「貴殿も貴殿でござる。われらが足かけ5年も異国に在陣して、日夜に苦労したことをお考えあるなら、日頃の
よしみ、玄関までのことはなくても、せめて次の間くらいまではお出迎えあって、なつかしなどのお言葉もある
べきに、居た席も動かず、首ばかりひねくりまわしての挨拶、うれしゅうござらぬ。しょせん貴殿のような礼儀を
知らぬ人に、相談申し出たが不覚であった。以後は、決してお訪ねいたさぬ」
と絶交を宣言した。
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清正公の熊本城

<参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>
「治部めと仲直りせよと仰せあるか!」
清正の顔は真っ青になっていた。
増田長盛は無理に微笑をつくった。
加藤清正

「それそれ、その治部めというお言葉がようござらぬ。今の世に、治部めなどという者が日本中にござろうか。
心を静めて、よくお考えあれよ」
清正の怒りの火に油が注がれた。
「たとえ、殿下のご機嫌なおらず切腹を仰せ付けられようと、治部めとは決して仲直りいたさぬぞ!」
と絶叫したが、それでも収まらず増田にもあたった。
「貴殿も貴殿でござる。われらが足かけ5年も異国に在陣して、日夜に苦労したことをお考えあるなら、日頃の
よしみ、玄関までのことはなくても、せめて次の間くらいまではお出迎えあって、なつかしなどのお言葉もある
べきに、居た席も動かず、首ばかりひねくりまわしての挨拶、うれしゅうござらぬ。しょせん貴殿のような礼儀を
知らぬ人に、相談申し出たが不覚であった。以後は、決してお訪ねいたさぬ」
と絶交を宣言した。
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清正公の熊本城

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真田丸 その8
『上田城の戦い火蓋が切られる』
戦いは始まった。
秀忠勢3万8千余、真田勢はせいぜい2千5百、これで戦う気になったのだから、大胆さもさることながら、
自信もあったのでしょう。
上田城

9月5日には、上田城の近くまで押し寄せ、皆近辺の民家に止宿したのを見て、榊原康政は驚いて、
「不心得千万。真田は軍謀老練の者。味方かような体たらくでは、夜討ちをかけられたら、どうする所存ぞ。
野陣を張り、かがり火をおびただしく焚いて、寸分も油断あるべからず」
と怒鳴ったので、それに従った。
その夜、信繁は夜討ちに出たが防備厳重なのを見て引き返したところ、昌幸は頷いて、
「今の徳川家には甲州武士が多いゆえ、夜守の作法を心得ているわ」
といったという。
翌9月6日早朝、秀忠は小諸城を出発した。
染屋平まで馬を進めて、上田城を望見した。
その時、昌幸も信繁を伴って4、50騎で物見に出た。
これを見て秀忠は部下の将に命じて烈しく鉄砲を撃ちかけたが、昌幸はそしらぬ振りで馬を返した。
徳川勢は追いかけたが、途中、竹木の繁った要害の地がある。
牧野康成・忠成父子はこれに目をつけ
「かようなところには伏兵がいるものだ。真田が相手にならず引き返したのは、味方をおびき寄せるため
であったかも知れぬ。それ、駆り立ててみよ!」
と、手勢に駆り立てさせると、案の定であった。
伏兵どもも立ち起こり、鉄砲を撃ちかけ、槍を取って立ち向かい血戦が始まった。
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昌幸は何処へ逃げた!

<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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秀忠勢3万8千余、真田勢はせいぜい2千5百、これで戦う気になったのだから、大胆さもさることながら、
自信もあったのでしょう。
上田城

9月5日には、上田城の近くまで押し寄せ、皆近辺の民家に止宿したのを見て、榊原康政は驚いて、
「不心得千万。真田は軍謀老練の者。味方かような体たらくでは、夜討ちをかけられたら、どうする所存ぞ。
野陣を張り、かがり火をおびただしく焚いて、寸分も油断あるべからず」
と怒鳴ったので、それに従った。
その夜、信繁は夜討ちに出たが防備厳重なのを見て引き返したところ、昌幸は頷いて、
「今の徳川家には甲州武士が多いゆえ、夜守の作法を心得ているわ」
といったという。
翌9月6日早朝、秀忠は小諸城を出発した。
染屋平まで馬を進めて、上田城を望見した。
その時、昌幸も信繁を伴って4、50騎で物見に出た。
これを見て秀忠は部下の将に命じて烈しく鉄砲を撃ちかけたが、昌幸はそしらぬ振りで馬を返した。
徳川勢は追いかけたが、途中、竹木の繁った要害の地がある。
牧野康成・忠成父子はこれに目をつけ
「かようなところには伏兵がいるものだ。真田が相手にならず引き返したのは、味方をおびき寄せるため
であったかも知れぬ。それ、駆り立ててみよ!」
と、手勢に駆り立てさせると、案の定であった。
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『秀吉の大陸進出の野望』 その104
『増田長盛という男』
7月28日、清正は大坂に着いた。
清正は大坂で、秀吉が自分に機嫌を大変悪くしていると知って、胸を痛めはしたが、顧みて恥じることは
ないので
「人間は真心が通らないことは決してない。まして、おれには妙経の加護がある」
と信じて、淀川をさかのぼって伏見に向かった。
増田長盛(1545-1615年)

清正は3奉行の石田三成、大谷吉継とはかねてより合わなかったが、増田長盛とは仲が良かったので、
増田に取り成しを頼もうと増田の屋敷に向かった。
互いにあいさつが済んだ後、清正は
「お願いと申すのは余の儀ではござらぬ。定めしご承知のことと存ずるが、拙者の今度のご召喚は、殿
下が拙者に対して、ご不審のことがおわしてのことと聞きました。拙者は出陣以来、殿下のお旨をかたく
守り、いささかも違反はしていません。天地に誓い、神明に誓っていつわりござらぬ。拙者のために、そ
れをお取り成し拝顔出来るよう、おはかりくだされたい」
増田はうなずきながら聞いていたが、言う。
「お頼みの次第は、貴殿のお心次第でたやすくかなうことです。貴殿が治部少(石田三成)とお仲直りさ
えなされば、それでわけなく済むのです。明日にも拙者が治部少へ話してみましょう。それ以外には方法
はありませんぞ」
聞いているうちに、清正はむらむらと腹が立った。人もあろうに石田と仲直りせよという、石田こそ小西の
人形使いではないか、讒言の大本ではないか、そいつに屈服せよというのかと、怒りが胸先につき上げ
てきた。
「八幡!」
と、清正は絶叫した。

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7月28日、清正は大坂に着いた。
清正は大坂で、秀吉が自分に機嫌を大変悪くしていると知って、胸を痛めはしたが、顧みて恥じることは
ないので
「人間は真心が通らないことは決してない。まして、おれには妙経の加護がある」
と信じて、淀川をさかのぼって伏見に向かった。
増田長盛(1545-1615年)

清正は3奉行の石田三成、大谷吉継とはかねてより合わなかったが、増田長盛とは仲が良かったので、
増田に取り成しを頼もうと増田の屋敷に向かった。
互いにあいさつが済んだ後、清正は
「お願いと申すのは余の儀ではござらぬ。定めしご承知のことと存ずるが、拙者の今度のご召喚は、殿
下が拙者に対して、ご不審のことがおわしてのことと聞きました。拙者は出陣以来、殿下のお旨をかたく
守り、いささかも違反はしていません。天地に誓い、神明に誓っていつわりござらぬ。拙者のために、そ
れをお取り成し拝顔出来るよう、おはかりくだされたい」
増田はうなずきながら聞いていたが、言う。
「お頼みの次第は、貴殿のお心次第でたやすくかなうことです。貴殿が治部少(石田三成)とお仲直りさ
えなされば、それでわけなく済むのです。明日にも拙者が治部少へ話してみましょう。それ以外には方法
はありませんぞ」
聞いているうちに、清正はむらむらと腹が立った。人もあろうに石田と仲直りせよという、石田こそ小西の
人形使いではないか、讒言の大本ではないか、そいつに屈服せよというのかと、怒りが胸先につき上げ
てきた。
「八幡!」
と、清正は絶叫した。

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『秀吉の大陸進出の野望』 その103
『清正に召還命令』
「加藤清正は、和議を妨害しています。ついこの頃は、大明皇帝から殿下へ遣わされる勅使を、鉄砲隊に
命じて襲撃させ、数人を殺害したばかりか、勅使所持の金銭などを強奪しました。またお許しなきに、明国
人や朝鮮人に対して、ご名字を冒して、豊臣清正と名のっています。さらに小西行長のことを、あれは日本
の大名ではない。泉州堺の町人にすぎぬ、朝鮮の地理をよく存じているので、案内役として先鋒隊に召連
れているに過ぎぬ。和議のためなどと称して駆け回っているようであるが、町人風情のすることが何の力
があろう。和議進行の妨げになること一通りでございません。お召返しあるべきだと存じます」
秀吉は怒った。今や彼は海外出兵を後悔している。
豊臣秀吉(1537-1598年)

早く平和を回復しなければ、可愛い拾丸の将来のためにならないと思っている。どうにか面目がたてば、
多少は我慢して講和を結びたいのです。
「沙汰のかぎりなる虎之助(清正)の所業。早々に召還せい。おれがみずから吟味して、もし実証なら重き
罪に仰せつける。」
と命じた。
小西行長は満足して4月はじめに釜山に帰った。
前後して清正の本陣にも召還の使いがきた。
「不審のことを聞こしめされ候間、急ぎご帰国あるべく候」
と、いうのであった。
清正は正直者であるが、決してにぶくはない。小西らの小細工に違いないと、すぐ悟った。
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命じて襲撃させ、数人を殺害したばかりか、勅使所持の金銭などを強奪しました。またお許しなきに、明国
人や朝鮮人に対して、ご名字を冒して、豊臣清正と名のっています。さらに小西行長のことを、あれは日本
の大名ではない。泉州堺の町人にすぎぬ、朝鮮の地理をよく存じているので、案内役として先鋒隊に召連
れているに過ぎぬ。和議のためなどと称して駆け回っているようであるが、町人風情のすることが何の力
があろう。和議進行の妨げになること一通りでございません。お召返しあるべきだと存じます」
秀吉は怒った。今や彼は海外出兵を後悔している。
豊臣秀吉(1537-1598年)

早く平和を回復しなければ、可愛い拾丸の将来のためにならないと思っている。どうにか面目がたてば、
多少は我慢して講和を結びたいのです。
「沙汰のかぎりなる虎之助(清正)の所業。早々に召還せい。おれがみずから吟味して、もし実証なら重き
罪に仰せつける。」
と命じた。
小西行長は満足して4月はじめに釜山に帰った。
前後して清正の本陣にも召還の使いがきた。
「不審のことを聞こしめされ候間、急ぎご帰国あるべく候」
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清正は正直者であるが、決してにぶくはない。小西らの小細工に違いないと、すぐ悟った。
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『秀吉の大陸進出の野望』 その102
『清正は邪魔者』
講和は文禄2年から、3年、4年と交渉が続いたが、実を結ぶことはなく在韓の将士にとっては、退屈な日
が続いていたが、内地では大きな事件が起きていた。
関白・秀次が秀吉の怒りに触れて高野山に追われ、ついで切腹を命ぜられていた。
文禄4年4月に、加藤清正に召還命令がきた。
本妙寺の清正公像

この命令が小西行長と石田三成が策動して、秀吉に出させたものであることは、清正にはすぐ察しがつい
た。
清正は秀吉の意思を最も忠実に守って、かねて秀吉が示している条件に合致しない講和はすべきでない
と信じている。
ところが小西の方は、条件はどうでもよい、ともかく講和するのが先決だという料簡で動いている。
小西には清正が邪魔になってならなかったが、丁度その頃、明朝から小西のもとに遣わされた使者と清正
の部下が衝突する事件が突発した。
小西は立腹したが、同時に喜んだ。
清正を内地に追いやる理由ができたと、早速内地に帰って、三成に訴えた。
「殿下に申上げて、これを理由にして、清正を召還して欲しい」
三成も同じ気持ちであり、秀吉に上申していたのです。
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が続いていたが、内地では大きな事件が起きていた。
関白・秀次が秀吉の怒りに触れて高野山に追われ、ついで切腹を命ぜられていた。
文禄4年4月に、加藤清正に召還命令がきた。
本妙寺の清正公像

この命令が小西行長と石田三成が策動して、秀吉に出させたものであることは、清正にはすぐ察しがつい
た。
清正は秀吉の意思を最も忠実に守って、かねて秀吉が示している条件に合致しない講和はすべきでない
と信じている。
ところが小西の方は、条件はどうでもよい、ともかく講和するのが先決だという料簡で動いている。
小西には清正が邪魔になってならなかったが、丁度その頃、明朝から小西のもとに遣わされた使者と清正
の部下が衝突する事件が突発した。
小西は立腹したが、同時に喜んだ。
清正を内地に追いやる理由ができたと、早速内地に帰って、三成に訴えた。
「殿下に申上げて、これを理由にして、清正を召還して欲しい」
三成も同じ気持ちであり、秀吉に上申していたのです。
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『秀吉の大陸進出の野望』 その101
『清正の虎狩』
通達が朝鮮に届くと、諸将はいずれもはりきった。
「殿下は虎の肉がご所望だぞ」
と、さかんに虎狩を始めたのです。
これは鍋島家文書や島津家の古い記録にもあるといいますから、事実なのでしょう。
清正公の片釜槍

清正の小姓・上月左膳という少年が陣所の近くで、不意に物陰から虎に襲われ、一撃に首の骨をたたき折ら
れ絶息した。
人々が駆けつけた時には、虎も少年もいない。左膳の刀と草履が散らばっているだけであった。
清正は激怒し
「馬ならばまだしも、家来を畜生に殺されては、もう堪忍ならぬ」
と、陣中にふれをまわし、明日虎狩を行う。皆々その心得にて支度せよと命じた。
夜が明けると、現地の民らが虎が棲んでいると言っている山を狩り立てた。
野獣ほど用心深いものはないのです。なかなか姿を現さなかった。
「どうやら、この山から逃げてしまったらしいぞ。虎は霊力のある獣というから、昨夜のうちに今日のことを予感
して、他の山に移ったのかも知れない」
と、人々は考えたが、その時、突如として天をゆるがすような咆哮とともに巨大な虎が現われた。
巨大な頭や、欄とした目や、真っ赤な口や、太くたくましい肩や脚や、身の毛もよだつほどのすざまじい虎であ
る。
待ち構えていた銃手らは、震え上がった。
「撃つな!おれがしとめる」
と、清正は叫んだ。
虎は危険が迫っているのを悟ったらしく、自分を睨んでいる正面の岩の上にいる清正が危険の中心であること
も知ったらしい。
猛然として跳躍し、おどりかかってきた。
鮮血を滴らせているような、その真っ赤な喉に狙いをさだめ、引き金を引いた。
清正の銃弾は、のどを貫いた。
虎は叩き落されたように転落し、起き上がろうともがき、一声ほえたが、すぐ動かなくなった。
これが清正の虎退治と伝えられる話の実相で、槍で退治したとか、この時、槍の鎌が一片が虎に食い折られ
て片鎌槍になったとかの伝説されているのはウソのようです。
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<参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>
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「殿下は虎の肉がご所望だぞ」
と、さかんに虎狩を始めたのです。
これは鍋島家文書や島津家の古い記録にもあるといいますから、事実なのでしょう。
清正公の片釜槍

清正の小姓・上月左膳という少年が陣所の近くで、不意に物陰から虎に襲われ、一撃に首の骨をたたき折ら
れ絶息した。
人々が駆けつけた時には、虎も少年もいない。左膳の刀と草履が散らばっているだけであった。
清正は激怒し
「馬ならばまだしも、家来を畜生に殺されては、もう堪忍ならぬ」
と、陣中にふれをまわし、明日虎狩を行う。皆々その心得にて支度せよと命じた。
夜が明けると、現地の民らが虎が棲んでいると言っている山を狩り立てた。
野獣ほど用心深いものはないのです。なかなか姿を現さなかった。
「どうやら、この山から逃げてしまったらしいぞ。虎は霊力のある獣というから、昨夜のうちに今日のことを予感
して、他の山に移ったのかも知れない」
と、人々は考えたが、その時、突如として天をゆるがすような咆哮とともに巨大な虎が現われた。
巨大な頭や、欄とした目や、真っ赤な口や、太くたくましい肩や脚や、身の毛もよだつほどのすざまじい虎であ
る。
待ち構えていた銃手らは、震え上がった。
「撃つな!おれがしとめる」
と、清正は叫んだ。
虎は危険が迫っているのを悟ったらしく、自分を睨んでいる正面の岩の上にいる清正が危険の中心であること
も知ったらしい。
猛然として跳躍し、おどりかかってきた。
鮮血を滴らせているような、その真っ赤な喉に狙いをさだめ、引き金を引いた。
清正の銃弾は、のどを貫いた。
虎は叩き落されたように転落し、起き上がろうともがき、一声ほえたが、すぐ動かなくなった。
これが清正の虎退治と伝えられる話の実相で、槍で退治したとか、この時、槍の鎌が一片が虎に食い折られ
て片鎌槍になったとかの伝説されているのはウソのようです。
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