秀吉股肱の臣「蜂須賀小六」
『秀吉のために、生涯を捧げる』
一般的に知られる「小六」は通称で、本名を蜂須賀正勝といい、尾張の国人領主の家に生まれた。
小六は、木曽川を利用した水運業を生業としていたようで、川沿いに勢力をもっていた「川並衆」の頭目
だったとも言われ、はじめは美濃の斎藤氏に仕えていたが、のちに織田氏に仕えています。
生誕の地・蜂須賀城跡(愛知県あま市蜂須賀)

織田信長の配下となってからは、桶狭間の戦いにも参加して軍功をあげ、信長が美濃・斎藤氏の攻撃を
開始すると、斎藤方の調略に貢献したという。
この後、豊臣秀吉のものに配属となり、長島一向一揆の鎮圧や浅井・朝倉連合との戦いなどに参加して
武功をあげている。
小六と秀吉はかねてからの付き合いがあり、信長はあまり好きではなかったが、秀吉の部下としてなら
働こうということで、家臣になったともいわれます。
本能寺の変で信長が倒れた後、小六は秀吉の股肱の臣として、交渉役としてもよく働き、また、山崎の
合戦や賤ヶ岳の戦いにも参加している。
小牧・長久手の戦いでは、大坂城の留守役を任されており、秀吉からの信頼ぶりがわかります。
こうして秀吉のために尽力した小六であったが、四国征伐の後に病に倒れる。
秀吉から阿波一国の領有を許されるが、小六はこれを辞退して息子に譲ると、翌年の1586年に大坂
で没している。
太閤記などでは、小六は山賊の親分といった荒々しさか目立ちますが、実際は戦場で働くだけでなく、
政治面でも才能を発揮した、文武に秀でた人物であったようです。
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<参考文献:戦国武将がよくわかる本(編集者:レッカ社)>
一般的に知られる「小六」は通称で、本名を蜂須賀正勝といい、尾張の国人領主の家に生まれた。
小六は、木曽川を利用した水運業を生業としていたようで、川沿いに勢力をもっていた「川並衆」の頭目
だったとも言われ、はじめは美濃の斎藤氏に仕えていたが、のちに織田氏に仕えています。
生誕の地・蜂須賀城跡(愛知県あま市蜂須賀)

織田信長の配下となってからは、桶狭間の戦いにも参加して軍功をあげ、信長が美濃・斎藤氏の攻撃を
開始すると、斎藤方の調略に貢献したという。
この後、豊臣秀吉のものに配属となり、長島一向一揆の鎮圧や浅井・朝倉連合との戦いなどに参加して
武功をあげている。
小六と秀吉はかねてからの付き合いがあり、信長はあまり好きではなかったが、秀吉の部下としてなら
働こうということで、家臣になったともいわれます。
本能寺の変で信長が倒れた後、小六は秀吉の股肱の臣として、交渉役としてもよく働き、また、山崎の
合戦や賤ヶ岳の戦いにも参加している。
小牧・長久手の戦いでは、大坂城の留守役を任されており、秀吉からの信頼ぶりがわかります。
こうして秀吉のために尽力した小六であったが、四国征伐の後に病に倒れる。
秀吉から阿波一国の領有を許されるが、小六はこれを辞退して息子に譲ると、翌年の1586年に大坂
で没している。
太閤記などでは、小六は山賊の親分といった荒々しさか目立ちますが、実際は戦場で働くだけでなく、
政治面でも才能を発揮した、文武に秀でた人物であったようです。
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『秀吉の大陸進出の野望』 その119
『和議は決裂』
続いて、僧の玄蘇が漢文読みしたが、これまた難しい漢語ばかりでわからない。
秀吉は和議を切望していたが、いくつか条件を出して、それによって相談しまとめるよう命じ、最小限、自分
の面目の立つ条件なければならないと思っていた。
豊臣秀吉(1537-1598年)

ところが、明は秀吉の降伏を許し、日本国王とするということにしている。
この時は、秀吉は内容がわかっていないので、始終上機嫌であったという。
儀式は上首尾に終ったが、翌日、学者を呼んで意味をじっくり聞いた。
秀吉は、驚き、怒った。
「おれを日本国王にじゃと?日本は神武以来のみかどが王となりなさることに決まっているではないか。おれ
が日本の王となったらみかどをどう奉じるのじゃ。けしからん明の皇帝め!治部(三成)も治部、摂津(行長)
も摂津じゃ。何たる取り決めをするぞ!これのみならず、おれがかねがね言い含めておいたことは、何ひとつ
として、明はきいておらんではないか。こんなことで、和議など出来ることか!」
怒鳴り立て、三成と行長を散々に叱りつけ
「明の使者は、1日も日本に止めおくな!追い返せ!」
と、激怒した。
秀吉は本気で怒る人ではなかったが、この時は本気で激怒した。
本気であった証拠には、講和の糸を断ち切ってしまったのです。
秀吉の顕著な老化現象、耄碌(もうろく)の表れだったのでしょう。日本・朝鮮・中国3国の不幸であった。
文禄の役の和議は纏まらず、再出兵となり慶長の役がはじまります。
慶長の役は、別の機会に勉強してみたいと思います。
長い間、文禄の役にお付き合い戴きありがとうございました。
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<参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>
続いて、僧の玄蘇が漢文読みしたが、これまた難しい漢語ばかりでわからない。
秀吉は和議を切望していたが、いくつか条件を出して、それによって相談しまとめるよう命じ、最小限、自分
の面目の立つ条件なければならないと思っていた。
豊臣秀吉(1537-1598年)

ところが、明は秀吉の降伏を許し、日本国王とするということにしている。
この時は、秀吉は内容がわかっていないので、始終上機嫌であったという。
儀式は上首尾に終ったが、翌日、学者を呼んで意味をじっくり聞いた。
秀吉は、驚き、怒った。
「おれを日本国王にじゃと?日本は神武以来のみかどが王となりなさることに決まっているではないか。おれ
が日本の王となったらみかどをどう奉じるのじゃ。けしからん明の皇帝め!治部(三成)も治部、摂津(行長)
も摂津じゃ。何たる取り決めをするぞ!これのみならず、おれがかねがね言い含めておいたことは、何ひとつ
として、明はきいておらんではないか。こんなことで、和議など出来ることか!」
怒鳴り立て、三成と行長を散々に叱りつけ
「明の使者は、1日も日本に止めおくな!追い返せ!」
と、激怒した。
秀吉は本気で怒る人ではなかったが、この時は本気で激怒した。
本気であった証拠には、講和の糸を断ち切ってしまったのです。
秀吉の顕著な老化現象、耄碌(もうろく)の表れだったのでしょう。日本・朝鮮・中国3国の不幸であった。
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賤ヶ岳七本槍の筆頭「福島正則」 その2
『豊臣家臣の凋落』
新たに天下人になった家康は、豊臣家からすべての権力を奪うべく画策するようなる。
すでに徳川家臣として所領を得ている福島正則だが、古くから豊臣家を盛り立ててきた身としてこの状況は
辛い。できれば自分が徳川家と豊臣家の仲介となり、豊臣家を存続させたいと考える。
福島正則の居城・広島城

秀吉の後継者・秀頼が病に伏せたと聞けば見舞いに参上したじょか、家康と秀頼の会見実現にも尽力。
以前は武力ですべてを屈服させてきた正則も、この時期は両家の緊張を解消すべく慎重に動いています。
しかし、豊臣家への忠義をいまだに厚くする正則の態度を、家康が気に入る筈もない。
いつ反旗を翻すともしれない危険分子と見なされ、飼い殺しの状況に置かれていく。
大坂の陣では、何度も調停を試みるもかなわず、出陣さえ許されないまま遠く江戸で豊臣家滅亡の報を聞
くよりほかはなかった。
そして忠義を尽くすべき豊臣家がなくなっても、正則の不遇は変わらなかった。
徳川秀忠の代になって、居城を修理したことが法令違反だと問われた。
事前に本丸・二の丸・三の丸・石垣などの修理届けを出していたのにかかわらず、しかも雨漏りする部分を
ほんの少し直しただけで、福島家は左遷され所領も減らされた。
ほとんど言いがかりに近いこの処罰は、正則がいまだ危険分子と見なされ、力を蓄えていることを幕府が恐
れた結果であったのでしょう。
左遷先で寂しい晩年を送っていた正則は、1924年に享年64歳で没しています。
以降も福島家は没落の一途を辿ったが、いくら冷遇されようとも律儀に幕府の命に従った正則の意思を守る
ように、彼の子孫もまた幕府に反旗を翻すことはなかったという。
かつては秀吉の躍進に貢献し、また家康の天下取りの力になった正則の武勇は、皮肉にも泰平の世の中で
排除されるべき存在であったのです。
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新たに天下人になった家康は、豊臣家からすべての権力を奪うべく画策するようなる。
すでに徳川家臣として所領を得ている福島正則だが、古くから豊臣家を盛り立ててきた身としてこの状況は
辛い。できれば自分が徳川家と豊臣家の仲介となり、豊臣家を存続させたいと考える。
福島正則の居城・広島城

秀吉の後継者・秀頼が病に伏せたと聞けば見舞いに参上したじょか、家康と秀頼の会見実現にも尽力。
以前は武力ですべてを屈服させてきた正則も、この時期は両家の緊張を解消すべく慎重に動いています。
しかし、豊臣家への忠義をいまだに厚くする正則の態度を、家康が気に入る筈もない。
いつ反旗を翻すともしれない危険分子と見なされ、飼い殺しの状況に置かれていく。
大坂の陣では、何度も調停を試みるもかなわず、出陣さえ許されないまま遠く江戸で豊臣家滅亡の報を聞
くよりほかはなかった。
そして忠義を尽くすべき豊臣家がなくなっても、正則の不遇は変わらなかった。
徳川秀忠の代になって、居城を修理したことが法令違反だと問われた。
事前に本丸・二の丸・三の丸・石垣などの修理届けを出していたのにかかわらず、しかも雨漏りする部分を
ほんの少し直しただけで、福島家は左遷され所領も減らされた。
ほとんど言いがかりに近いこの処罰は、正則がいまだ危険分子と見なされ、力を蓄えていることを幕府が恐
れた結果であったのでしょう。
左遷先で寂しい晩年を送っていた正則は、1924年に享年64歳で没しています。
以降も福島家は没落の一途を辿ったが、いくら冷遇されようとも律儀に幕府の命に従った正則の意思を守る
ように、彼の子孫もまた幕府に反旗を翻すことはなかったという。
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真田丸 その12
『秀忠軍の軍議』
家康の書状を携えた使者が到着。その内容が「9月9日までに美濃赤坂へ着陣すべし」というものだった。
本多正信は、
「かような小城は打ち捨ててお通りあるがようござる」
と主張したが、打ち捨てるなら打ち捨てるで、最初から打ち捨てればよいのだが、小競り合いにしても一合戦
して、それが負け気味に終ったとあっては、今さら打ち捨てては、恐れたようで外聞が悪いという意見もある。
徳川秀忠(1579-1632年)

すると、榊原康政が言った。
「戸田左門一西(かずあき)は、何によらず御不審のことあらば御下問あるようにと、大殿からつけおかれた人
物でござれば、かかる時こそ一西の意見をお尋ねあるべきでござろう」
秀忠は、一西に尋ねた。
「真田の武略は恐るべきものではござるが、何と申しても小身者、何ほどのことが出来ましょう。少々の押さえ
の勢いを残して、早々に上方へお馬を進められるべしと存ずる。しかしながら、この戦いは若君の御初陣であ
り、踏み潰してお通りになる方が、大殿のお気にはかのうでござろう。多少の御損害は覚悟の上にて、攻め立
てれならば明日中には城を抜くことができるでござろう故、真田親子を抹殺その後、上方へ向わるべきでござ
ろう」
と、一西は答えた。
秀忠も諸将も賛成したが、本多は激怒した。
「若殿がお年若である故、血気に任せて強すぎるお働きもあろうと、ことの外に大殿がご心配なされて、拙者を
お付けになられたのでござる。にわか攻めなどもっての外のこと、必ず大殿はお怒りでござろう。ここは押さえ
の軍勢を少々おかれてお通りありますよう。」
と主張し、少々の兵を残して9月10日に上方へ向うことになった。
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昌幸はどこに隠れた!

<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
家康の書状を携えた使者が到着。その内容が「9月9日までに美濃赤坂へ着陣すべし」というものだった。
本多正信は、
「かような小城は打ち捨ててお通りあるがようござる」
と主張したが、打ち捨てるなら打ち捨てるで、最初から打ち捨てればよいのだが、小競り合いにしても一合戦
して、それが負け気味に終ったとあっては、今さら打ち捨てては、恐れたようで外聞が悪いという意見もある。
徳川秀忠(1579-1632年)

すると、榊原康政が言った。
「戸田左門一西(かずあき)は、何によらず御不審のことあらば御下問あるようにと、大殿からつけおかれた人
物でござれば、かかる時こそ一西の意見をお尋ねあるべきでござろう」
秀忠は、一西に尋ねた。
「真田の武略は恐るべきものではござるが、何と申しても小身者、何ほどのことが出来ましょう。少々の押さえ
の勢いを残して、早々に上方へお馬を進められるべしと存ずる。しかしながら、この戦いは若君の御初陣であ
り、踏み潰してお通りになる方が、大殿のお気にはかのうでござろう。多少の御損害は覚悟の上にて、攻め立
てれならば明日中には城を抜くことができるでござろう故、真田親子を抹殺その後、上方へ向わるべきでござ
ろう」
と、一西は答えた。
秀忠も諸将も賛成したが、本多は激怒した。
「若殿がお年若である故、血気に任せて強すぎるお働きもあろうと、ことの外に大殿がご心配なされて、拙者を
お付けになられたのでござる。にわか攻めなどもっての外のこと、必ず大殿はお怒りでござろう。ここは押さえ
の軍勢を少々おかれてお通りありますよう。」
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賤ヶ岳七本槍の筆頭「福島正則」 その1
『天下取りに貢献』
福島正則は豊臣秀吉と従兄弟関係にあり、その縁で幼くして秀吉に仕えていた。
この頃の秀吉は、すでに織田信長軍団ののなかで存在感を大きくしており、若い正則も重要な合戦の多く
に参加。
優れた武才を発揮して、次々と戦功をあげる。
福島正則(1561-1624年)

特に、秀吉と柴田勝家が織田家の後継者をめぐって戦った「賤ヶ岳の戦い」では、一番槍に一番首という
活躍を見せ、秀吉方で功名をあげて「賤ヶ岳七本槍」の筆頭という名誉を受けている。
その後も四国、九州、小田原、そして朝鮮に至るまで、主君・秀吉のためにどこへでも赴き戦っている。
豊臣政権の繁栄は、正則にとっても半生をかけた大仕事であった。
そんな正則には、どうしても馬の合わない人物がいた。
豊臣政権の五奉行のひとり、石田三成です。
秀吉の家臣同士でではあったが、武をもって正義とする正則は、知謀の将・三成を憎んでさえいた。
秀吉が没して従うべき存在がいなくなってしまうと、いよいよ2人の確執は激しさを増した。
特に正則の憎しみは凄じく、失敗に終ったものの三成の屋敷を襲撃するほどであった。
やがて三成を失脚へと追い込むと、徳川家康に接近し、「関ヶ原の戦い」が起こると家康に味方することを
公言。
東軍の先鋒として自慢の武勇を見せつけ、三成の西軍を壊滅に追い込む。
こうして念願の三成打倒を果たした正則であったが、結果として徳川の家臣となり、かつて尽くした豊臣家と
敵対する存在となっていく。
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福島正則の関ヶ原陣所跡

<参考文献:戦国武将がよくわかる本(編集者:レッカ社)>
福島正則は豊臣秀吉と従兄弟関係にあり、その縁で幼くして秀吉に仕えていた。
この頃の秀吉は、すでに織田信長軍団ののなかで存在感を大きくしており、若い正則も重要な合戦の多く
に参加。
優れた武才を発揮して、次々と戦功をあげる。
福島正則(1561-1624年)

特に、秀吉と柴田勝家が織田家の後継者をめぐって戦った「賤ヶ岳の戦い」では、一番槍に一番首という
活躍を見せ、秀吉方で功名をあげて「賤ヶ岳七本槍」の筆頭という名誉を受けている。
その後も四国、九州、小田原、そして朝鮮に至るまで、主君・秀吉のためにどこへでも赴き戦っている。
豊臣政権の繁栄は、正則にとっても半生をかけた大仕事であった。
そんな正則には、どうしても馬の合わない人物がいた。
豊臣政権の五奉行のひとり、石田三成です。
秀吉の家臣同士でではあったが、武をもって正義とする正則は、知謀の将・三成を憎んでさえいた。
秀吉が没して従うべき存在がいなくなってしまうと、いよいよ2人の確執は激しさを増した。
特に正則の憎しみは凄じく、失敗に終ったものの三成の屋敷を襲撃するほどであった。
やがて三成を失脚へと追い込むと、徳川家康に接近し、「関ヶ原の戦い」が起こると家康に味方することを
公言。
東軍の先鋒として自慢の武勇を見せつけ、三成の西軍を壊滅に追い込む。
こうして念願の三成打倒を果たした正則であったが、結果として徳川の家臣となり、かつて尽くした豊臣家と
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福島正則の関ヶ原陣所跡

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『秀吉の大陸進出の野望』 その118
『明使節への饗応』
8月半ば、明の使者が来た。和議が成立しての正式な使節であった。この使節は、今日の言葉でいえば
条約批准のための来日であった。
豊臣大坂城

持って来た明帝の文書には、日本の降伏を許すと書かれていた。
こんな屈辱的なものとは、秀吉はもちろん知らない。大名らも知らない。
知っているのは、石田三成、小西行長、宗義智らだけである。
あるいは三成と同僚の5奉行らは知っていたのかも知れません。
明使応接のために造った伏見城は、地震で大破損しているので、秀吉は大坂城で使節らに会った。
最初の日の饗応では、秀吉は赤い朝服を着、頭には明帝から贈られた中国の冠をつけて、上機嫌で
出席した。
饗応のテーブルには、牛、羊、鶏、魚などを材料とし、大いに中国式を気取っていた。
翌日は、明帝の勅書を受け取る日であった。
秀吉は明帝から贈られた冠服を着て出た。
明の使節は、秀吉の前で、勅書を読み上げた。
勅書の意味は
「なんじ秀吉、中国の尊むべきことを知り、使節を派して、万里の関をたたき、ねんごろに服属を願って
いる。感心である。故に特になんじを封じて日本国王とする」
というのであった。
シナ音で読まれたのだから、秀吉にも列席の諸大名にも、内容がわかる筈はない。
対等の立場に立っての和議であると、三成や行長らに聞かされているので、そうであるとばかり思い
込んでいる。
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<参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>
8月半ば、明の使者が来た。和議が成立しての正式な使節であった。この使節は、今日の言葉でいえば
条約批准のための来日であった。
豊臣大坂城

持って来た明帝の文書には、日本の降伏を許すと書かれていた。
こんな屈辱的なものとは、秀吉はもちろん知らない。大名らも知らない。
知っているのは、石田三成、小西行長、宗義智らだけである。
あるいは三成と同僚の5奉行らは知っていたのかも知れません。
明使応接のために造った伏見城は、地震で大破損しているので、秀吉は大坂城で使節らに会った。
最初の日の饗応では、秀吉は赤い朝服を着、頭には明帝から贈られた中国の冠をつけて、上機嫌で
出席した。
饗応のテーブルには、牛、羊、鶏、魚などを材料とし、大いに中国式を気取っていた。
翌日は、明帝の勅書を受け取る日であった。
秀吉は明帝から贈られた冠服を着て出た。
明の使節は、秀吉の前で、勅書を読み上げた。
勅書の意味は
「なんじ秀吉、中国の尊むべきことを知り、使節を派して、万里の関をたたき、ねんごろに服属を願って
いる。感心である。故に特になんじを封じて日本国王とする」
というのであった。
シナ音で読まれたのだから、秀吉にも列席の諸大名にも、内容がわかる筈はない。
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込んでいる。
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『秀吉の大陸進出の野望』 その117
『江戸大納言と加賀大納言の取りなし』
家康は、清正の純情で真っ正直な気に入り、利家は清正を少年の頃からよく知っていて、その重厚で誠実
な人柄を気に入っていて、秀吉子飼いの大名のなかで最も秀吉に忠誠なのは、この男だと見ていたという。
加賀大納言(前田利家) (1539-1599年)

家康と利家が、とりなしに始めると、秀吉はカラカラと笑って
「江戸と加賀の両大納言から、取りなしされるとは、虎(清正)も果報な奴ですわい。口から出放題なことを
申して、捨ておきがたい奴ではござるが、折角のお取りなし故、今度は許してやりましょうわい」
「ありがたき仕合せ」
2人は礼を言って、早速、清正を呼んだ。
家康は榊原康政を遣わし、利家は篠原伊賀を遣わした。いずれも両家の重臣で、以前から清正と面識ある
人物であった。
清正は、すぐ登城して来た。
秀吉は、両大納言を従えて、仮小屋で引見した。
「せっかく許したのに、ろくろく礼も申さず、言いたい放題のことを言い、許しがたい奴じゃが、江戸大納言と
加賀大納言とが、取りなされた。こんどだけは許してやる。以後はこうはゆかんぞ」
と言って、付け加えた。
「おれの知恵の鏡はまだ曇っておらん。何もかもよう知っている。いらぬ心配するな」
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加賀大納言(前田利家) (1539-1599年)

家康と利家が、とりなしに始めると、秀吉はカラカラと笑って
「江戸と加賀の両大納言から、取りなしされるとは、虎(清正)も果報な奴ですわい。口から出放題なことを
申して、捨ておきがたい奴ではござるが、折角のお取りなし故、今度は許してやりましょうわい」
「ありがたき仕合せ」
2人は礼を言って、早速、清正を呼んだ。
家康は榊原康政を遣わし、利家は篠原伊賀を遣わした。いずれも両家の重臣で、以前から清正と面識ある
人物であった。
清正は、すぐ登城して来た。
秀吉は、両大納言を従えて、仮小屋で引見した。
「せっかく許したのに、ろくろく礼も申さず、言いたい放題のことを言い、許しがたい奴じゃが、江戸大納言と
加賀大納言とが、取りなされた。こんどだけは許してやる。以後はこうはゆかんぞ」
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