びわ湖花噴水
『夜は幻想的なライトアップ』
幻想的にライトアップされた噴水に魅せられて、片道500km走り、びわ湖まで行ってきました。
大津港の沖堤防に長さ440mの噴水。様々な形に変化しながら最高40mの高さまで噴き上がります。
昼には涼感を満喫でき、夜はグリーン、オレンジ、クリアの3色にライトアップされ、幻想的な夜景を楽しめ
る人気スポットです。
噴水時間は昼間は12:00~13:00。
到着したとき、ちょうど昼の噴水時間、かなり期待がもてそうです。

びわ湖観光の玄関口である大津港には、遊覧船が発着しています。

夜のライトアップ時間は、季節によって細かく分かれていますので、注意が必要です。
・4月1日~4月28日 18:00~19:30
・4月29日~5月31日 19:00~20:00
・6月1日~8月15日 19:30~21:00
・8月16日~8月31日 19:00~21:00
・9月1日~9月30日 18:30~20:00
・10月1日~11月30日 18:00~19:30
・12月1日~3月31日 18:00~19:00
こんなところで、遊んでいる場合じゃなかったようです。

到着したのは19時20分、ライトアップが始まっています。

三脚を立て、カメラの設定などしながら試し撮り。

何枚が試し撮りをしている間に、真っ暗に。
待っていても再開の様子なし。 20時までだと思っていたのに、この日は19時30分で終了だったのです。

時間の確認は必要ですね。
片道500kmを走って来て、試し撮りで終わってしまいました。 また、いつか来るのかな。
しかたなく、観光船のターミナルをバチリ。

ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。
幻想的にライトアップされた噴水に魅せられて、片道500km走り、びわ湖まで行ってきました。
大津港の沖堤防に長さ440mの噴水。様々な形に変化しながら最高40mの高さまで噴き上がります。
昼には涼感を満喫でき、夜はグリーン、オレンジ、クリアの3色にライトアップされ、幻想的な夜景を楽しめ
る人気スポットです。
噴水時間は昼間は12:00~13:00。
到着したとき、ちょうど昼の噴水時間、かなり期待がもてそうです。

びわ湖観光の玄関口である大津港には、遊覧船が発着しています。

夜のライトアップ時間は、季節によって細かく分かれていますので、注意が必要です。
・4月1日~4月28日 18:00~19:30
・4月29日~5月31日 19:00~20:00
・6月1日~8月15日 19:30~21:00
・8月16日~8月31日 19:00~21:00
・9月1日~9月30日 18:30~20:00
・10月1日~11月30日 18:00~19:30
・12月1日~3月31日 18:00~19:00
こんなところで、遊んでいる場合じゃなかったようです。

到着したのは19時20分、ライトアップが始まっています。

三脚を立て、カメラの設定などしながら試し撮り。

何枚が試し撮りをしている間に、真っ暗に。
待っていても再開の様子なし。 20時までだと思っていたのに、この日は19時30分で終了だったのです。

時間の確認は必要ですね。
片道500kmを走って来て、試し撮りで終わってしまいました。 また、いつか来るのかな。
しかたなく、観光船のターミナルをバチリ。

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大坂の陣 その6
『真田丸の攻防』
大坂城を遠巻きにした徳側方の軍勢は20万を越えたという。
一方、大坂方は牢人衆から後藤又兵衛、真田信繁、毛利勝永、長曾我部盛親、明石全登、譜代衆から
秀頼と乳兄弟の木村重成、大野治長の弟である主馬の2人を合わせ、7人衆とし、7軍体制をとった。
大坂冬の陣は、11月19日に開始された。
大坂冬の陣布陣図 <クリックで拡大>

緒戦においては、小競り合いが各所で行われ、徳川方が大坂城周辺の砦を次々と落としていった。
11月26日、城東の今福・鴫野において、大坂方の後藤・木村隊と徳川方の上杉景勝・佐竹宣勢との間
で激戦が繰り広げられた。
はじめ、徳川方が有利であったが、又兵衛が機略な銃撃戦を展開し、木村隊も果敢に攻め込んだため、
佐竹勢を圧倒し、大坂方が盛り返した。
また、12月4日には真田丸をめぐる攻防戦が行われた。
真田丸とは、大坂城唯一の弱点とされた城南の地に、信繁が築いた出城ともいうべき砦です。
小高い丘の百間を一辺とした、ほぼ正方形の敷地の空堀を掘り、堀際、堀の中、堀の外と、柵を3重に設
け、ところどころに櫓・井桜を上げ、堀には銃眼を切り、幅2mの武者走りと呼ばれる通路を巡らし、真田
兵5、6千が守っていた。
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いつもありがとうございます。
pigletがいるこの地、わかりますか。 かなり有名な場所です。

<参考文献:戦国武将おもしろ辞典(監修奈良本辰也)>
大坂城を遠巻きにした徳側方の軍勢は20万を越えたという。
一方、大坂方は牢人衆から後藤又兵衛、真田信繁、毛利勝永、長曾我部盛親、明石全登、譜代衆から
秀頼と乳兄弟の木村重成、大野治長の弟である主馬の2人を合わせ、7人衆とし、7軍体制をとった。
大坂冬の陣は、11月19日に開始された。
大坂冬の陣布陣図 <クリックで拡大>

緒戦においては、小競り合いが各所で行われ、徳川方が大坂城周辺の砦を次々と落としていった。
11月26日、城東の今福・鴫野において、大坂方の後藤・木村隊と徳川方の上杉景勝・佐竹宣勢との間
で激戦が繰り広げられた。
はじめ、徳川方が有利であったが、又兵衛が機略な銃撃戦を展開し、木村隊も果敢に攻め込んだため、
佐竹勢を圧倒し、大坂方が盛り返した。
また、12月4日には真田丸をめぐる攻防戦が行われた。
真田丸とは、大坂城唯一の弱点とされた城南の地に、信繁が築いた出城ともいうべき砦です。
小高い丘の百間を一辺とした、ほぼ正方形の敷地の空堀を掘り、堀際、堀の中、堀の外と、柵を3重に設
け、ところどころに櫓・井桜を上げ、堀には銃眼を切り、幅2mの武者走りと呼ばれる通路を巡らし、真田
兵5、6千が守っていた。
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pigletがいるこの地、わかりますか。 かなり有名な場所です。

<参考文献:戦国武将おもしろ辞典(監修奈良本辰也)>
大坂の陣 その5
『戦国最後の生き残り牢人たちの夢を呑んだ大坂城』
10月1日、家康は大坂討滅のため、全国の諸大名に出陣を命じた。
それに対し、大坂方も秀頼の名で諸大名に檄を飛ばすが、それに応じるものはなく、その代わりに関ヶ原で
改易された元大名やその子弟、主家を失い牢人となった者、太平の世の御殿奉公が勤まらずに主家を退
散した者、主君に私怨があって致仕した者、家康のキリシタン禁制によって牢人となった信者など、一癖も
二癖もある面々が、大坂城に続々と入城した。
後藤又兵衛(1560-1615年)

この時、入城した牢人の数は、騎乗の士が1万数千人、徒士6、7万人、雑兵5、6万人であったという。
ほとんど全国の牢人があつまったといってよい数であった。
名のある者を挙げれば
関ヶ原の敗戦によって土佐20万石を失い、寺小屋の師匠にまで身を落していた長曾我部盛親。信州上田城
で徳川秀忠率いる3万5千の将兵を足止めし、関ヶ原に遅参させた真田昌幸の二男・信繁。宇喜多家で4万
石を食み、関ヶ原では福島勢を圧倒したキリシタン武士の明石全登。黒田官兵衛から日本一の戦巧者と謳わ
れながら、主人・長政と喧嘩し、牢人した後藤又兵衛。
大名の子としては、豊前小倉城主・毛利勝信の子・勝永、五奉行のひとりであった増田長盛の子・盛次、大谷
吉継の子・義治、細川忠興の二男・興秋。
関ヶ原の戦いから15年、その間、野山に伏し、飢えを忍び、再挙の日を待っていた牢人たちの戦意は高く、1
万人も女官がいながら、その姿を見ることは稀という巨大大坂城も、これら牢人たちの夢を呑みこむに十分す
ぎるものであった。
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<参考文献:戦国武将おもしろ辞典(監修奈良本辰也)>
10月1日、家康は大坂討滅のため、全国の諸大名に出陣を命じた。
それに対し、大坂方も秀頼の名で諸大名に檄を飛ばすが、それに応じるものはなく、その代わりに関ヶ原で
改易された元大名やその子弟、主家を失い牢人となった者、太平の世の御殿奉公が勤まらずに主家を退
散した者、主君に私怨があって致仕した者、家康のキリシタン禁制によって牢人となった信者など、一癖も
二癖もある面々が、大坂城に続々と入城した。
後藤又兵衛(1560-1615年)

この時、入城した牢人の数は、騎乗の士が1万数千人、徒士6、7万人、雑兵5、6万人であったという。
ほとんど全国の牢人があつまったといってよい数であった。
名のある者を挙げれば
関ヶ原の敗戦によって土佐20万石を失い、寺小屋の師匠にまで身を落していた長曾我部盛親。信州上田城
で徳川秀忠率いる3万5千の将兵を足止めし、関ヶ原に遅参させた真田昌幸の二男・信繁。宇喜多家で4万
石を食み、関ヶ原では福島勢を圧倒したキリシタン武士の明石全登。黒田官兵衛から日本一の戦巧者と謳わ
れながら、主人・長政と喧嘩し、牢人した後藤又兵衛。
大名の子としては、豊前小倉城主・毛利勝信の子・勝永、五奉行のひとりであった増田長盛の子・盛次、大谷
吉継の子・義治、細川忠興の二男・興秋。
関ヶ原の戦いから15年、その間、野山に伏し、飢えを忍び、再挙の日を待っていた牢人たちの戦意は高く、1
万人も女官がいながら、その姿を見ることは稀という巨大大坂城も、これら牢人たちの夢を呑みこむに十分す
ぎるものであった。
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大坂の陣 その4
『家康の罠に嵌る豊臣家』
片桐且元は、かつては助作と呼ばれ、若年においては「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられるほどの武功
をあげていた。
片桐且元 (1556-1615年)

しかし、清正や正則が出世の階段をトントン拍子に昇ったのに対し、その後は振るわず、秀吉の死後、よう
やく豊臣家の家老として、身の置き所を得ていた。
家康は、はじめ且元に会わず、ようやく最後通告として突きつけた豊臣家延命策が
① 秀頼の江戸参勤
② 人質として淀殿を江戸に送る
③ 秀頼の大坂城退去と国替え
のいずれか、という豊臣家にとってとうてい承服できないものであった。
一方、交渉が思わしく進まないとみた淀殿は、且元の他に、自身の乳母であり、城内主戦派代表格・大野
治長の母である大蔵卿局と秀頼の乳母の正栄尼を送った。
家康は、すぐさま機嫌よく引見し、秀頼はじめ、豊臣家になんら害意のないことを吹き込んだ。
且元に述べたこととは、まったく違う。明らかな二枚舌であった。
豊臣家は翻弄され、まんまと罠にはまった。
且元は、家康の手先とみなされ、主戦派の反対で失脚し、大坂城を退去する。
これによって東西の手切れが決定的となり、豊臣家は、徳川氏と断交、交戦状態に入ることになった。
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<参考文献:戦国武将おもしろ辞典(監修奈良本辰也)>
片桐且元は、かつては助作と呼ばれ、若年においては「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられるほどの武功
をあげていた。
片桐且元 (1556-1615年)

しかし、清正や正則が出世の階段をトントン拍子に昇ったのに対し、その後は振るわず、秀吉の死後、よう
やく豊臣家の家老として、身の置き所を得ていた。
家康は、はじめ且元に会わず、ようやく最後通告として突きつけた豊臣家延命策が
① 秀頼の江戸参勤
② 人質として淀殿を江戸に送る
③ 秀頼の大坂城退去と国替え
のいずれか、という豊臣家にとってとうてい承服できないものであった。
一方、交渉が思わしく進まないとみた淀殿は、且元の他に、自身の乳母であり、城内主戦派代表格・大野
治長の母である大蔵卿局と秀頼の乳母の正栄尼を送った。
家康は、すぐさま機嫌よく引見し、秀頼はじめ、豊臣家になんら害意のないことを吹き込んだ。
且元に述べたこととは、まったく違う。明らかな二枚舌であった。
豊臣家は翻弄され、まんまと罠にはまった。
且元は、家康の手先とみなされ、主戦派の反対で失脚し、大坂城を退去する。
これによって東西の手切れが決定的となり、豊臣家は、徳川氏と断交、交戦状態に入ることになった。
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<参考文献:戦国武将おもしろ辞典(監修奈良本辰也)>
近くの公園
真田丸 その15
『昌幸、信繁は高野山へ』
昌幸は1600年12月13日に上田城を立ち高野山に向かった。
真田昌幸(1547-1611年)

昌幸の正室は上田に残留し、次男の信繁とその妻子、さらに池田長門・原出羽・高梨内記・小山田治左衛
門・田口久左衛門・窪田作之丞・関口角左衛門・関口忠右衛門・河野清右衛門・青木半左衛門・飯島市之
丞・石井舎人・前島作左衛門・三井仁左衛門・大瀬儀八・青柳清庵ら16人が従った。
昌幸の去った上田城は徳川方に接収され、家康の命令を受けた諏訪頼水らによって破却された。なお信之
と別れの対面をした際に、恐ろしげな目からはらはらと涙を流して「さてもさても口惜しきかな。内府(家康)を
こそ、このようにしてやろうと思ったのに」と無念の胸中を語ったと伝わっている。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
昌幸は1600年12月13日に上田城を立ち高野山に向かった。
真田昌幸(1547-1611年)

昌幸の正室は上田に残留し、次男の信繁とその妻子、さらに池田長門・原出羽・高梨内記・小山田治左衛
門・田口久左衛門・窪田作之丞・関口角左衛門・関口忠右衛門・河野清右衛門・青木半左衛門・飯島市之
丞・石井舎人・前島作左衛門・三井仁左衛門・大瀬儀八・青柳清庵ら16人が従った。
昌幸の去った上田城は徳川方に接収され、家康の命令を受けた諏訪頼水らによって破却された。なお信之
と別れの対面をした際に、恐ろしげな目からはらはらと涙を流して「さてもさても口惜しきかな。内府(家康)を
こそ、このようにしてやろうと思ったのに」と無念の胸中を語ったと伝わっている。
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<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
大坂の陣 その3
『8文字が生んだ謀略! 方広寺鐘銘事件』
開戦には口実がいる。
家康が用いた口実とは、方広寺の梵鐘の銘にあった「君臣豊楽」「国家安康」の8文字であった。
世にいう、慶長19年の「方広寺鐘銘事件」です。
方広鐘銘 <クリックで拡大>

家康は、秀吉が残した莫大な財産を消費させるため、まことしやかな理由をもうけ、豊臣家に対して諸国の
社寺造営工事を行わせている。
施主・秀頼の名で再建、修復された神社仏閣をいくつかあげると
摂津四天王寺、京都東寺南大門、京都北野天満宮、京都鞍馬寺、山城石清水八幡宮、尾張熱田神宮寺、
大坂生国魂神社、出雲大社など、おびただしい数にのぼる。
方広寺も、そのひとつであった。
家康は、当時「黒衣の宰相」と呼ばれたブレーンの金地院崇伝らを用い、「君臣豊楽」「国家安康」が、家康
の首と胴を切り離し、豊臣氏の繁栄を願った呪詛であると、いいがかりをつけた。
「君臣豊楽」「国家安康」ということばには、まったくそんな意味はない。なんとしても開戦の口実をつくるため
のでっちあげである。豊臣家は、この無法ないいがかり、無茶苦茶なこじつけに対し、弁明の使者として家老
の片桐且元を家康のもとに送った。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。
方広寺梵鐘 (方広寺訪問記は「こちら」です。)

<参考文献:戦国武将おもしろ辞典(監修奈良本辰也)>
開戦には口実がいる。
家康が用いた口実とは、方広寺の梵鐘の銘にあった「君臣豊楽」「国家安康」の8文字であった。
世にいう、慶長19年の「方広寺鐘銘事件」です。
方広鐘銘 <クリックで拡大>

家康は、秀吉が残した莫大な財産を消費させるため、まことしやかな理由をもうけ、豊臣家に対して諸国の
社寺造営工事を行わせている。
施主・秀頼の名で再建、修復された神社仏閣をいくつかあげると
摂津四天王寺、京都東寺南大門、京都北野天満宮、京都鞍馬寺、山城石清水八幡宮、尾張熱田神宮寺、
大坂生国魂神社、出雲大社など、おびただしい数にのぼる。
方広寺も、そのひとつであった。
家康は、当時「黒衣の宰相」と呼ばれたブレーンの金地院崇伝らを用い、「君臣豊楽」「国家安康」が、家康
の首と胴を切り離し、豊臣氏の繁栄を願った呪詛であると、いいがかりをつけた。
「君臣豊楽」「国家安康」ということばには、まったくそんな意味はない。なんとしても開戦の口実をつくるため
のでっちあげである。豊臣家は、この無法ないいがかり、無茶苦茶なこじつけに対し、弁明の使者として家老
の片桐且元を家康のもとに送った。
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いつもありがとうございます。
方広寺梵鐘 (方広寺訪問記は「こちら」です。)

<参考文献:戦国武将おもしろ辞典(監修奈良本辰也)>