男系が絶えるまで幽閉された土佐藩家老・野中兼山 その5
『財政難の土佐藩』
元服式の後、直継は良継(号名:兼山)に訓戒した。
高知城詰門 (高知城登城記は「こちら」です。)

「わしが当職を仰せつかったのは7年前であった。当時はお家の財政は誠に苦しく、京・大坂の
町人どもから借銀が山とあって、返弁の見込みどころか殿様の参勤交代の費用にも困っていた。
わしは上方の負債を3年だけ延期してもらい、小倉を仕置役に選び、財政の立て直しに協力して
くれるように頼んだ。小倉は11ヵ月もの間、領内を隅から隅まで自ら歩いて調査して、こう言
った。土佐は広い国じゃが、米はせいぜい20万石しか取れぬ。しかしながら、山が広い、しか
も暖国であるだけに樹木の生長がまことによい。この山林が土佐を救ってくれると。伐り出しの
方法や江戸・大坂への積み出しの方法まで案内してくれた。小倉によく聞いて、そちがわしの
後を継いで家老になった時の参考にするがよいぞ」
また、こうも言った。
「土佐の行政のガンは地侍だ。老若あわせて1万人もいる。よほどうまく御して行かねば、地侍
どもが難儀を引き起こし、お家の滅亡のもとになる。わしもいろいろと工夫しているが、そちも
よく工夫して、わしの後を継いだ後、よくやってくれるよう」
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いつもありがとうございます。

<参考文献:覇者の条件(海音寺潮五郎薯)>
元服式の後、直継は良継(号名:兼山)に訓戒した。
高知城詰門 (高知城登城記は「こちら」です。)

「わしが当職を仰せつかったのは7年前であった。当時はお家の財政は誠に苦しく、京・大坂の
町人どもから借銀が山とあって、返弁の見込みどころか殿様の参勤交代の費用にも困っていた。
わしは上方の負債を3年だけ延期してもらい、小倉を仕置役に選び、財政の立て直しに協力して
くれるように頼んだ。小倉は11ヵ月もの間、領内を隅から隅まで自ら歩いて調査して、こう言
った。土佐は広い国じゃが、米はせいぜい20万石しか取れぬ。しかしながら、山が広い、しか
も暖国であるだけに樹木の生長がまことによい。この山林が土佐を救ってくれると。伐り出しの
方法や江戸・大坂への積み出しの方法まで案内してくれた。小倉によく聞いて、そちがわしの
後を継いで家老になった時の参考にするがよいぞ」
また、こうも言った。
「土佐の行政のガンは地侍だ。老若あわせて1万人もいる。よほどうまく御して行かねば、地侍
どもが難儀を引き起こし、お家の滅亡のもとになる。わしもいろいろと工夫しているが、そちも
よく工夫して、わしの後を継いだ後、よくやってくれるよう」
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男系が絶えるまで幽閉された土佐藩家老・野中兼山 その4
『左八郎(兼山)土佐へ』
一方、土佐の方では、
良明の母・お合は、良明の父・良平に死別した後、亡夫の弟で、山内家の家老のひとりである野中
主計益継に再嫁して、玄蕃直継を生んでいます。
つまり、良明と直継はいとこであり、異父兄弟でもあったのです。
高知城

直継は父の後を継いで家老職をつとめていたが、子供運には恵まれません。
娘の子は2人あり、長女は同じ家老仲間の深尾家に嫁して、次女のお市が家に残っていたが、男の
子がいないので、これに婿養子を迎えなければならなかったのです。
ある時、親しく交際している小倉少助にこのことを話した。
小倉は藩の中老格で仕置役であり、人柄が練れた立派な人物で、直継は最も信頼していたのです。
相談を受けた小倉は
「勘解由良明殿の遺児で左八郎殿といわれるのが、泉州堺で母御といなさる。貧しい暮らしをしてい
なさるが、なかなか賢い立派な少年です。年は今年13の筈。わしはふとしたことから知って、機会
あるごとに訪ねて行って見ていますが、母子ながら立派な人柄と感心しきっています。お市殿と似合
いの夫婦になりますぞ」
直継の心は動いて、母子を迎え左八郎を養子とし、2年後に元服させ、伝右衛門良継と名乗らせた。
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いつもありがとうございます。
高知城のお松さん 見事な体格ですね。

<参考文献:覇者の条件(海音寺潮五郎薯)>
一方、土佐の方では、
良明の母・お合は、良明の父・良平に死別した後、亡夫の弟で、山内家の家老のひとりである野中
主計益継に再嫁して、玄蕃直継を生んでいます。
つまり、良明と直継はいとこであり、異父兄弟でもあったのです。
高知城

直継は父の後を継いで家老職をつとめていたが、子供運には恵まれません。
娘の子は2人あり、長女は同じ家老仲間の深尾家に嫁して、次女のお市が家に残っていたが、男の
子がいないので、これに婿養子を迎えなければならなかったのです。
ある時、親しく交際している小倉少助にこのことを話した。
小倉は藩の中老格で仕置役であり、人柄が練れた立派な人物で、直継は最も信頼していたのです。
相談を受けた小倉は
「勘解由良明殿の遺児で左八郎殿といわれるのが、泉州堺で母御といなさる。貧しい暮らしをしてい
なさるが、なかなか賢い立派な少年です。年は今年13の筈。わしはふとしたことから知って、機会
あるごとに訪ねて行って見ていますが、母子ながら立派な人柄と感心しきっています。お市殿と似合
いの夫婦になりますぞ」
直継の心は動いて、母子を迎え左八郎を養子とし、2年後に元服させ、伝右衛門良継と名乗らせた。
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高知城のお松さん 見事な体格ですね。

<参考文献:覇者の条件(海音寺潮五郎薯)>
真田丸 その20
『昌幸の墓所』
昌幸の葬儀に関しての詳細は不明です。
死後、遺体は九度山に同行していた河野清右衛門らによって火葬にされ、1612年8月に分骨を
上田に運んだという。
真田山長谷寺 (長谷寺の昌幸の墓参りは「こちら」です。)
*クリック拡大で六文銭が確認できます。

墓所は長野市松代町松代の真田山長国寺で、上田の真田家廟所である真田山長谷寺に納骨されて
います。
この長谷寺は、1547年に真田幸隆(昌幸の父)が真田氏の菩提寺として「真田山種月院長谷寺
」を建立し、昌幸が・父幸隆の菩提のために寺の増築改修を行い、諸堂を完備しています。
しかしながら、1600年の第2次上田合戦の際に退却する徳川勢に火を放たれ焼失。現在の建物
は昭和53年に再建されたものです。
また九度山(和歌山県伊都郡九度山町)の真田庵にも法塔が造立され昌幸墓所とされており、後に
尼寺である佉羅陀山善名称院が開かれています。
別称の真田庵というのは、大安(僧名)が建立した善名称院の事で、いつの頃からか、後世に真田
庵と呼ばれるようになっています。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
昌幸の葬儀に関しての詳細は不明です。
死後、遺体は九度山に同行していた河野清右衛門らによって火葬にされ、1612年8月に分骨を
上田に運んだという。
真田山長谷寺 (長谷寺の昌幸の墓参りは「こちら」です。)
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墓所は長野市松代町松代の真田山長国寺で、上田の真田家廟所である真田山長谷寺に納骨されて
います。
この長谷寺は、1547年に真田幸隆(昌幸の父)が真田氏の菩提寺として「真田山種月院長谷寺
」を建立し、昌幸が・父幸隆の菩提のために寺の増築改修を行い、諸堂を完備しています。
しかしながら、1600年の第2次上田合戦の際に退却する徳川勢に火を放たれ焼失。現在の建物
は昭和53年に再建されたものです。
また九度山(和歌山県伊都郡九度山町)の真田庵にも法塔が造立され昌幸墓所とされており、後に
尼寺である佉羅陀山善名称院が開かれています。
別称の真田庵というのは、大安(僧名)が建立した善名称院の事で、いつの頃からか、後世に真田
庵と呼ばれるようになっています。
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男系が絶えるまで幽閉された土佐藩家老・野中兼山 その3
『野中兼山 生まれる』
良明が身を寄せた荒尾家というのは、播磨姫路藩主・池田家の家老・荒尾但馬の家です。
良明の妻・お石は、但馬の妹だったので、その実家に身を寄せたのです。
姫路城 (姫路城ライトアップは「こちら」です。)

妻は夫が姫路におちついたと聞いたので、あとを慕って姫路に向かう途中、尼崎で病死しています。
その後、良明は姫路で秋田氏から、お万という妻をめとり、1615年(元和元年)正月に男の子
が生まれます。
これが後の野中兼山です。
左八郎と名付けられた。
間もなく、池田家では利隆が死に、池田家は2つに分かれて、鳥取池田家と岡山池田家となったの
で、良明も居づらくなったのでしょう。
立ち退いて京都に上がったが、3年後には病死しています。
4歳になった左八郎と妻のお万は、孤児・寡婦となったのです。ずいぶん苦労しながら諸方に居を
移しています。
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良明が身を寄せた荒尾家というのは、播磨姫路藩主・池田家の家老・荒尾但馬の家です。
良明の妻・お石は、但馬の妹だったので、その実家に身を寄せたのです。
姫路城 (姫路城ライトアップは「こちら」です。)

妻は夫が姫路におちついたと聞いたので、あとを慕って姫路に向かう途中、尼崎で病死しています。
その後、良明は姫路で秋田氏から、お万という妻をめとり、1615年(元和元年)正月に男の子
が生まれます。
これが後の野中兼山です。
左八郎と名付けられた。
間もなく、池田家では利隆が死に、池田家は2つに分かれて、鳥取池田家と岡山池田家となったの
で、良明も居づらくなったのでしょう。
立ち退いて京都に上がったが、3年後には病死しています。
4歳になった左八郎と妻のお万は、孤児・寡婦となったのです。ずいぶん苦労しながら諸方に居を
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男系が絶えるまで幽閉された土佐藩家老・野中兼山 その2
『一豊の死』
良明が20歳になった時、一豊の弟・修理亮康豊に男の子が生まれます。
後の忠義です。一豊はこれを養嗣子と定めた。
関ケ原の戦い後、一豊は土佐で20余万石の見代となったので、良明に土佐の中村で2万9千石を
与えています。
山内一豊(1545-1605年)

米姫の死によって養嗣子となることを逸した不幸を慰める気持ちもあったのでしょう。
一豊は1605年(慶長10年)に病死して、後は忠義が継きました。やっと14の少年領主であ
ったので、実父の修理亮康豊が後見職です。
康豊は、良明が他氏でありながら、一時本家の相続位置にあったことを快試からず思っていたので
しょう。
一豊の49日の法要が終わって間もなく、良明を呼んで、知行のうち1万8千石分を返還するよう
に言いわらします。
良明は驚き、また立腹したことは言うまでもありません。
いろいろと抗弁して中村に帰ったが、怒りがおさまりません。
家来どもを集めて
「思う子細がある故、おれは当国を立ち退く。いずれのひとかどの手柄を立てて立身し、皆の者を
呼び寄せるゆえ、それまではいかにしても生活を立て、待っているよう。当分は姫路の荒尾家に身
を寄せるつもりである」
と、言い残して、四万十川の河口にある下田という港から、数人の家来を連れて、妻をおいたまま
土佐を立ち去った。
良明、33歳の時です。
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良明が20歳になった時、一豊の弟・修理亮康豊に男の子が生まれます。
後の忠義です。一豊はこれを養嗣子と定めた。
関ケ原の戦い後、一豊は土佐で20余万石の見代となったので、良明に土佐の中村で2万9千石を
与えています。
山内一豊(1545-1605年)

米姫の死によって養嗣子となることを逸した不幸を慰める気持ちもあったのでしょう。
一豊は1605年(慶長10年)に病死して、後は忠義が継きました。やっと14の少年領主であ
ったので、実父の修理亮康豊が後見職です。
康豊は、良明が他氏でありながら、一時本家の相続位置にあったことを快試からず思っていたので
しょう。
一豊の49日の法要が終わって間もなく、良明を呼んで、知行のうち1万8千石分を返還するよう
に言いわらします。
良明は驚き、また立腹したことは言うまでもありません。
いろいろと抗弁して中村に帰ったが、怒りがおさまりません。
家来どもを集めて
「思う子細がある故、おれは当国を立ち退く。いずれのひとかどの手柄を立てて立身し、皆の者を
呼び寄せるゆえ、それまではいかにしても生活を立て、待っているよう。当分は姫路の荒尾家に身
を寄せるつもりである」
と、言い残して、四万十川の河口にある下田という港から、数人の家来を連れて、妻をおいたまま
土佐を立ち去った。
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男系が絶えるまで幽閉された土佐藩家老・野中兼山 その1
『お松さんと一豊の土佐藩』
野中兼山が登場するまで少し時間がかかりますが、当時の土佐藩の様子がわからないと、野中兼山
が幽閉されるに至ったことが解り難いので、少しお付き合いください。
土佐藩大名・山内一豊が賢い女房・お松のお陰で、出世の糸口をつかんだ話は有名です。
一豊が掛川6万石から、土佐20余万石の大身
代になれたのも、このお松さんの才覚が大きかった
といわれます。
高知城追手(大手)門

お松さんは、かしこい女房の例に漏れず、たいへん嫉妬深くて一豊と自分の間には女の子がひとり
しか生まれなかったのに、一豊が側室を置くことに許していません。
一豊は、ずいぶんの恐妻家で、これに従い側室を置かなかったそうです。
このお松の妹に「お合」という妹がいて、一豊が近江の長浜の城主であった頃に家臣となった美濃
侍・野中権之進良平に嫁して、勘解由良明を産んでいます。
一豊はこれに山内姓を与え、ひとり娘の米姫の婿とすることにした。
この婿を養子にして、後継ぎにするつもりだったのです。
ところが、この米姫が1585年(天正13年)に病死してしまったのです。
良明の不幸はこの時に始まっています。
米姫が若死にしなければ、良明は一豊の婿養子となって山内家を相続することになったでしょう
に、フイになってしまったのです。
米姫は死んでも、一豊は良明を愛して3千石を与えて家老上席にしています。
一豊が掛川6万石の見代の頃ですから、3千石を与えるというのは、なかなかの待遇です。
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土佐藩大名・山内一豊が賢い女房・お松のお陰で、出世の糸口をつかんだ話は有名です。
一豊が掛川6万石から、土佐20余万石の大身
代になれたのも、このお松さんの才覚が大きかった
といわれます。
高知城追手(大手)門

お松さんは、かしこい女房の例に漏れず、たいへん嫉妬深くて一豊と自分の間には女の子がひとり
しか生まれなかったのに、一豊が側室を置くことに許していません。
一豊は、ずいぶんの恐妻家で、これに従い側室を置かなかったそうです。
このお松の妹に「お合」という妹がいて、一豊が近江の長浜の城主であった頃に家臣となった美濃
侍・野中権之進良平に嫁して、勘解由良明を産んでいます。
一豊はこれに山内姓を与え、ひとり娘の米姫の婿とすることにした。
この婿を養子にして、後継ぎにするつもりだったのです。
ところが、この米姫が1585年(天正13年)に病死してしまったのです。
良明の不幸はこの時に始まっています。
米姫が若死にしなければ、良明は一豊の婿養子となって山内家を相続することになったでしょう
に、フイになってしまったのです。
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<参考文献:覇者の条件(海音寺潮五郎薯)>
出羽国米沢藩第9代藩主・上杉鷹山 その11
『3代をかけて健全財政へ』
鷹山がいかに仁慈の心に富んでいたかについて、こんな話があります。
ある年の台風の季節、田んぼには稲が実っていた。
「これで台風が来ねば、今年は豊作だの」
と、鷹山が言ったら侍臣の一人が、なんとか寺のなしがしという僧は、風の方向を変える法力を持
っているそうです。召して、台風がご領内を襲わぬように祈らせたらどうでしょうと言ったところ、
上杉鷹山(1751-1822年)

鷹山は
「それではわしの領内は助かっても、他領の民は助からない。他領の民も人間だ。どこを襲ってくれ
ないようにと、神仏に祈るほかはない」
と言ったという。
こういう鷹山でしたので、天明の飢饉には奥羽一帯は惨たる被害で、餓死者が道路に横たわり、死
人の肉を食う者もあったほどであったが、米沢領内は餓死者は少なかったという。
鷹山が早くから天候の不順であるのを見て、用心し、食を節して食い延ばすことにしたばかりでな
く、かねてから凶作の際の用心に蓄えておいた穀物を出して施したためであったという。
鷹山の政治は、純粋に儒学の方法により奇手を用いないので、時間は随分かかります。完全に財政
の立て直しが出来たのは1823年(文政6年)でした。
すなわち、鷹山が亡くなった翌年です。 なんと55年かかっています。
米沢の人の誠実で強靭な性格は、鷹山の流風余韻なのでしょうか。
出羽国米沢蕃第9代藩主・上杉鷹山にお付き合い頂きありがとうございました。
次回は、土佐藩家老・野中兼山について勉強してみたいと思います。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:覇者の条件(海音寺潮五郎薯)>
鷹山がいかに仁慈の心に富んでいたかについて、こんな話があります。
ある年の台風の季節、田んぼには稲が実っていた。
「これで台風が来ねば、今年は豊作だの」
と、鷹山が言ったら侍臣の一人が、なんとか寺のなしがしという僧は、風の方向を変える法力を持
っているそうです。召して、台風がご領内を襲わぬように祈らせたらどうでしょうと言ったところ、
上杉鷹山(1751-1822年)

鷹山は
「それではわしの領内は助かっても、他領の民は助からない。他領の民も人間だ。どこを襲ってくれ
ないようにと、神仏に祈るほかはない」
と言ったという。
こういう鷹山でしたので、天明の飢饉には奥羽一帯は惨たる被害で、餓死者が道路に横たわり、死
人の肉を食う者もあったほどであったが、米沢領内は餓死者は少なかったという。
鷹山が早くから天候の不順であるのを見て、用心し、食を節して食い延ばすことにしたばかりでな
く、かねてから凶作の際の用心に蓄えておいた穀物を出して施したためであったという。
鷹山の政治は、純粋に儒学の方法により奇手を用いないので、時間は随分かかります。完全に財政
の立て直しが出来たのは1823年(文政6年)でした。
すなわち、鷹山が亡くなった翌年です。 なんと55年かかっています。
米沢の人の誠実で強靭な性格は、鷹山の流風余韻なのでしょうか。
出羽国米沢蕃第9代藩主・上杉鷹山にお付き合い頂きありがとうございました。
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