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真田丸 その27

『大坂城で優遇』

大坂城では、信繁を大変優遇した。

5千の兵をあずけ、騎馬の士100騎をつけています。

騎馬の士というのは、今の兵隊でいえば将校になります。

豊臣大坂城
oo.豊臣大坂城

当時、大坂城内では100騎以上の将校を組下に持っているのは、大野修理・大野主馬・長曾我部

盛親・毛利勝永・木村重成・仙石宗也・明石全登・真田信繁くらいのものであったという。

また、このうちで信繁・毛利勝永・長曾我部盛親を3人衆として呼び、浪人部の軍事最高顧問であっ

た。

後にこれに、明石全登と後藤又兵衛を加えて5人衆と称しています。

「3人衆はいずれも関ヶ原の戦いで、東軍を敵として戦わしゃった方々ではあるが、真田様は当時、

まだ親がかりの身であったゆえ、家康公と秀忠公とのおん憎しみもそう強くない筈じゃ。また真田

様の兄・信之は徳川方に無二の忠誠の者じゃ。用心せねば、飛んだことになろうぞ」

という噂が広がった。

信繁はこれを聞いて、心外なことに思ったでしょう。

信繁はその生涯を通して清潔な人物です。

彼の父・昌幸は信義の人とはいえない人柄であったが、心外に思ったことでしょう。



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昨夜は、今夏初めての花火大会に行ってきました。

整理がついたら別途記事にしたいと思います。

20160724.jpg



<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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秀吉の出世街道 その3

『秀吉の恩義』

遠江国久能の城主・松下加兵衛については、その後、1587年(天正15年)の九州の陣で諸

大名に出した軍令で、

「松下加兵衛は、先年、関白秀吉公が御浪人なされたとき、忠節をつくした御仁だから、皆々と

同様に扱ってはならぬ」

と述べて、加兵衛を特別扱いにしています。

桶狭間古戦場公園 (桶狭間古戦場訪問は「こちら」です。)
ok.桶狭間古戦場公園 001

加兵衛は桶狭間の戦いで今川義元が敗死してから、今川氏真に仕えていたが、氏真が徳川家康に

攻められて駿河を敗走し、今川家が衰退すると家康の家来となり、遠江国でわずか30貫文を知行

する身となっていた。

一方、秀吉は織田信長に仕えて立身出世したが、信長の死後、天下に号令を下すようになると、

1583年(天正11年)に、昔の恩義に報いるため、家康にことわって加兵衛を召し出し、丹波

・河内・伊勢の3ヵ国の一部で、あわせて4千石の知行を与えています。

さらに小田原征伐を終え、全国を平定したのちに、改めて加兵衛を遠江国久能の城主として、3万

1千石の知行を与えています。

もともと今川家の家来でわずかな知行しかもらっていなかった加兵衛のことですから、秀吉の厚意

をいかに喜んだか推察できます。

利害関係でのみ成り立った戦国の世でありながら、主従の美談として、心が温まるような話です。



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pig 20160721




                        <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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秀吉の出世街道 その2

『遠江国久能で武家奉公』

子猿(秀吉)は少年の頃、生家を出て諸所を放浪したが、武家奉公を志し、遠江国に行き今川氏

の幕下で久能の城主をつとめていた松下加兵衛に仕えています。

久能城大手門
ku.久能城大手門

加兵衛は、はじめ子猿に草履取りなどさせていたが、しだいにこれを引き立てて手元で召し使う

ようになった。

ところが子猿の立ち振る舞いがすこぶる敏捷で、なにひとつとして加兵衛の心に叶わぬことがな

かったので、信任を与え、やがて納戸の出納を任されることになった。

ところが松下家譜代の小姓どもはこれをねたみ、なにか品物が紛失するたびに、みな子猿のせい

にし、これを加兵衛に訴えた。

松下加兵衛は元来、慈悲深い武将だったので、子猿のことをあわれに思い、その訳を言い聞かせ

て、帰国を勧め永楽銭30匹(1匹は10文)を路用として与えた。

子猿はそれを旅費にして、尾張の中村に帰った。

これが「豊臣太閤素性記」では、天文23年(1554年)、子猿が18歳のときのことであっ

たというから、要するに秀吉は15歳から18歳まで3年間は、遠江国久能の城主・松下加兵衛

のところで武家奉公をしていたことがわかります。



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sakura 20160720



                        <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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秀吉の出世街道 その1

『幼名は子猿』

秀吉の記録はたくさんありますので、彼の生涯を記事にすると気が遠くなりますので、取り敢えず

関白に任官するまでを記事にしたみたいと思います。

豊臣秀吉(1537-1598年)
to.豊臣秀吉

豊臣秀吉は、天文6年(1537年)2月6日、尾張国愛智郡の中村で生まれています。

通説では、天文5年の正月元旦に日の出とともに誕生したとも言いますが、これは小瀬甫庵の「太

閤記」以下の俗説であって信用しがたいものです。

天文6年誕生説は、秀吉の御伽衆・木村由己があらわした「関白任官記」に明記してあり、真実性

が高いのでしょう。

秀吉の父は中村の農民で弥右衛門といい、母は同じく御器所村の人で、名を“なか”といった。

この“なか”が、後の大政所(天瑞院)です。

姉は“とも”(瑞竜院)、弟は小一郎(秀長)、妹は旭姫といった。

ただし、この弟妹は異父弟妹でした。

父の弥右衛門は秀吉が幼少の頃、病死したので、母の“”は織田信秀(信長の父)の同朋を務め

たという筑阿弥と再婚し、小一郎と旭姫を生んでいます。

実父の弥右衛門も信秀の足軽を務めたといわれます。

秀吉は幼名を子猿といったらしいです。

農民の小せがれのことですから、呼び名だけであったのでしょう。

「太閤記」では、幼名を日吉丸としていますが、農民の小せがれとして相応しくありません。



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pig 20160720



                     <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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【甲斐の虎 武田信玄】 その14

『信玄は享楽的な怠けものだった?』

勝頼の妻が死ぬと、信長は長男の信忠のために、信玄の末女・松姫をもらう約束をして、縁を固

めています。

武田信玄公 (1521-1573年)
ta.武田信玄 002

これと同時に、しげしげと丁重な贈り物をしているのは言うまでもありません。

信玄はこれのコロリと騙されて気が付いたのは、信玄はもう52歳という年になっていた。

手切れを宣言して攻め上がろうとしたのですが、途中、病気で没しているのです。

信玄ほどの人ですから判らないことですが、信玄の本性に親譲りの享楽的な怠け根性があったの

かも知れません。

怠け者ほど欲が深くて、新しい仕事をすることは怠け、すでに成しえた仕事からは徹底的に利益を

得ようとする。

信玄の政治上手はこれで解釈ができるのでしょう。



甲斐の虎・武田信玄のダイジェスト版にお付き合い戴き、ありがとうございました。

次回の戦国武将は、『豊臣秀吉の出世街道』を記事にしたいと思います。



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pig 20160719




                        <参考文献:覇者の条件(海音寺潮五郎薯)>

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【甲斐の虎 武田信玄】 その13

『信玄の長けた政治力』

信玄は戦争が上手であっただけでなく、政治手腕も卓越していたといいます。

彼は新しく占領した土地は、決して武士の行賞の対象にせず、自分の直轄地として民政に熟練し

た者を代官として治めさせたので、新付の土地でも彼の生きている間は決して離反しなかったと

いう。

武田信玄(1521-1573年)
ta.武田信玄

今日でも甲州の人は、彼が築いた堤防を信玄堤防と称して治績を称えています。

政治は確かに上手であったことは間違いないことでしょう。

金山を開発していたため、川中島の戦いを続けても経済的には余裕があったといいます。

甲州の金堀人夫は江戸初期まで有名であったといいますから、採掘技術に長けていたのでしょう。

信玄は、大変賢く、しかもドライで、油断も隙もならない性質でありながら、不思議に織田信長に

は、コロリと騙されています。

信長が最も恐れていたのは、信玄と謙信であったので、この2人に信長は卑屈なくらい機嫌をとっ

ています。

とくに信玄は近くにいますから、念入りだったようです。

一族の娘を養女にして、頼んで勝頼の妻にして貰っています。その娘と勝頼の間に生まれたのが

信勝で、信玄はこの孫を最も愛して

「おれに似ても、信長に似ても、名将になるはず。おれの後継ぎはこの子だ。勝頼は後継人となれ」

と、生まれて7日目に決めています。



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20160719.jpg



                       <参考文献:覇者の条件(海音寺潮五郎薯)>

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夏祭り in 板橋

『へそ祭り』

「へそ祭り」の響きに誘われて、「中板橋 へそ祭り」に昨夜行ってきました。

nakaita 001

人では多いですが、雰囲気が淋しい雰囲気からスタートです。

nakaita 002

Tシャツにマンガを書いての参加は、女性チームのようです。

nakaita 003

ふむ。

nakaita 004

ふむ、ふむ。

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露店で「かすてーら」は、めずらしくありません。

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がんばーれ! ちびっ子。 疲れきっているようです。  写真もそうですが・・・。

nakaita 007

こちらは男性チーム。 動きが激しく写真になりません。

nakaita 008

来年は、おれも参加するよ!

nakaita 009


夏祭りは見るより、参加する方が絶対に楽しいですよね。

でも、ここの祭りは飛び入り参加はできないようです。

夏祭りは始まったばかりです。 数多くの夏祭りに参加したいものです。


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piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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