真田丸 その28
『猜疑横行』
大坂城は秀吉が心血を注いで構築しただけに要害も完全なものであったが、南の方がいくらか手
薄にように見え、敵は必ずこの方面から押し寄せるであろうと判断されたので、この方面に出丸
を築いて自分で守ろう。
後藤又兵衛(1560-1615年)

そうすれば城内の人々も無用な疑惑を自分に対して抱くことは無くなるだろうと思案したのです。
しかし、信繁がこの提議をすると、大野治長はかえって信繁の心事を疑い、後藤又兵衛に相談する
と、又兵衛は
「その武功といい、その家柄といい、その人柄といい、どうして逆意などござろうや。そのような
逆意は、古今同じ、実力もないくせに栄華を好む者のすることでござる。この度の籠城の諸将の中
で、信繁殿は名家の大名の生まれでござる。万代に名を残さんと必死に謀計をめぐらしてこの工夫
に達せられたのでござる。誠によき計画。その意に任せられるがようござる。」
と答えたという。
中心になって事をさばくべき立派な人物もいない。孤立無援の籠城です。猜疑横行は言うまでもな
いことだったのでしょう。
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<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
大坂城は秀吉が心血を注いで構築しただけに要害も完全なものであったが、南の方がいくらか手
薄にように見え、敵は必ずこの方面から押し寄せるであろうと判断されたので、この方面に出丸
を築いて自分で守ろう。
後藤又兵衛(1560-1615年)

そうすれば城内の人々も無用な疑惑を自分に対して抱くことは無くなるだろうと思案したのです。
しかし、信繁がこの提議をすると、大野治長はかえって信繁の心事を疑い、後藤又兵衛に相談する
と、又兵衛は
「その武功といい、その家柄といい、その人柄といい、どうして逆意などござろうや。そのような
逆意は、古今同じ、実力もないくせに栄華を好む者のすることでござる。この度の籠城の諸将の中
で、信繁殿は名家の大名の生まれでござる。万代に名を残さんと必死に謀計をめぐらしてこの工夫
に達せられたのでござる。誠によき計画。その意に任せられるがようござる。」
と答えたという。
中心になって事をさばくべき立派な人物もいない。孤立無援の籠城です。猜疑横行は言うまでもな
いことだったのでしょう。
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秀吉の出世街道 その7
『東美濃攻略』
木下秀吉は、主君・信長の命を受けて、坪内利定らと謀略を練り美濃の川並の地侍を懐柔し、織田
方の味方にさせています。
猿啄城の展望台

太田牛一の「信長公記」によれば、信長の東美濃攻略は、大沢氏の誘降に始まり、ついで加治田城
の佐藤紀伊守を降し、1565年(永禄8)の8月には、多治見修理の猿啄城を陥れ、9月には、堂
洞城に逃げ入った修理を攻め、また武儀郡関の城主・長井隼人佑と戦っています。
秀吉がこれらの戦いに参加し、東美濃攻略に重大な役割を果たしたことも、十分に推測されます。
現存の秀吉の文書として一番古いのは、「坪内文書」所収の永禄8年11月2日付けで、美濃の松倉
城主・坪内利定に与えた織田信長の知行宛行状に添えた木下藤吉郎秀吉の書状のようです。
ж坪内利定と松倉城について、権中納言さんが、今、記事にされています。
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わたしは白クマではありません。 うさぎのsakuraです。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
木下秀吉は、主君・信長の命を受けて、坪内利定らと謀略を練り美濃の川並の地侍を懐柔し、織田
方の味方にさせています。
猿啄城の展望台

太田牛一の「信長公記」によれば、信長の東美濃攻略は、大沢氏の誘降に始まり、ついで加治田城
の佐藤紀伊守を降し、1565年(永禄8)の8月には、多治見修理の猿啄城を陥れ、9月には、堂
洞城に逃げ入った修理を攻め、また武儀郡関の城主・長井隼人佑と戦っています。
秀吉がこれらの戦いに参加し、東美濃攻略に重大な役割を果たしたことも、十分に推測されます。
現存の秀吉の文書として一番古いのは、「坪内文書」所収の永禄8年11月2日付けで、美濃の松倉
城主・坪内利定に与えた織田信長の知行宛行状に添えた木下藤吉郎秀吉の書状のようです。
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秀吉の出世街道 その6
『信長の東美濃攻略』
木下藤吉郎秀吉の功名となったのは、1564年(永禄7年)織田信長が東美濃を経略した時で
あったといわれます。
信長は永禄3年に木曽・長良の両川を越えて、西美濃に侵入して以来、しばしば斎藤竜興の本拠
である稲葉山に迫ったが、斎藤勢との戦績ははかばかしくなかった。
これは稲葉山が天険の要害であるばかりでなく、東美濃方面に斎藤氏を支援する土豪が多かった
からです。
犬山城ライトアップ (犬山城のライトアップは「こちら」です。)

信長は、東美濃経略の必要を痛感し、永禄7年に便宜上、居城を尾張の小牧山に移し、ついでに
犬山城を落とし、みずから兵を率いて東美濃に侵入し、まず尾張と美濃の境目の松倉城に入った。
松倉は坪内利定の居城であった。
坪内氏は、姓は藤原、初め加賀の国を領して、富樫氏を称したが藤左衛門頼定のとき、流浪して
尾張に来たり、犬山城代の織田白厳に頼り、野武の城代・坪内又五郎の家号を継ぎ、坪内氏と改
め、美濃の松倉郷を領した。
それ以来、代々織田氏に属し、利定は桶狭間の戦いでは今川兵の首をひとつ取っています。
松倉城には、坪内利定にほかに祖父の兼光、父の勝定もいた。
信長は、彼ら一族に命じて、東美濃経略の案内役を務めさせています。
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こちらも生後1ヵ月のpigletです

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
木下藤吉郎秀吉の功名となったのは、1564年(永禄7年)織田信長が東美濃を経略した時で
あったといわれます。
信長は永禄3年に木曽・長良の両川を越えて、西美濃に侵入して以来、しばしば斎藤竜興の本拠
である稲葉山に迫ったが、斎藤勢との戦績ははかばかしくなかった。
これは稲葉山が天険の要害であるばかりでなく、東美濃方面に斎藤氏を支援する土豪が多かった
からです。
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信長は、東美濃経略の必要を痛感し、永禄7年に便宜上、居城を尾張の小牧山に移し、ついでに
犬山城を落とし、みずから兵を率いて東美濃に侵入し、まず尾張と美濃の境目の松倉城に入った。
松倉は坪内利定の居城であった。
坪内氏は、姓は藤原、初め加賀の国を領して、富樫氏を称したが藤左衛門頼定のとき、流浪して
尾張に来たり、犬山城代の織田白厳に頼り、野武の城代・坪内又五郎の家号を継ぎ、坪内氏と改
め、美濃の松倉郷を領した。
それ以来、代々織田氏に属し、利定は桶狭間の戦いでは今川兵の首をひとつ取っています。
松倉城には、坪内利定にほかに祖父の兼光、父の勝定もいた。
信長は、彼ら一族に命じて、東美濃経略の案内役を務めさせています。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
秀吉の出世街道 その5
『ねねと結婚』
子猿(秀吉)は、数年のあいだに小人頭(小者頭)に取り立てられた。
また、世話する人があって、織田家の足軽弓組の頭をしている浅野長勝の養女(杉原定利の娘)
“ねね”(北政所)を妻としたのが、桶狭間合戦の翌年で25歳の時であった。
秀吉とねね

木下藤吉郎と名乗ったのも、この頃だといわれます。
この後、戦場においては、足軽・足軽組頭・足軽大将といった具合に昇進し、ついに士分(さむ
らいぶん)に取り立てられている。
士分に列すると、後方部隊にあっては、台所奉行・普請奉行と次第に大役に任ぜられた。
これは秀吉の働きに積極性があり、機知に富み、常に人の嫌がる難事を進んで引き受け、いつも
それを立派に成し遂げ、主君・信長の信頼を高めたからです。
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piglet生後一ヵ月

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
子猿(秀吉)は、数年のあいだに小人頭(小者頭)に取り立てられた。
また、世話する人があって、織田家の足軽弓組の頭をしている浅野長勝の養女(杉原定利の娘)
“ねね”(北政所)を妻としたのが、桶狭間合戦の翌年で25歳の時であった。
秀吉とねね

木下藤吉郎と名乗ったのも、この頃だといわれます。
この後、戦場においては、足軽・足軽組頭・足軽大将といった具合に昇進し、ついに士分(さむ
らいぶん)に取り立てられている。
士分に列すると、後方部隊にあっては、台所奉行・普請奉行と次第に大役に任ぜられた。
これは秀吉の働きに積極性があり、機知に富み、常に人の嫌がる難事を進んで引き受け、いつも
それを立派に成し遂げ、主君・信長の信頼を高めたからです。
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秀吉の出世街道 その4
『ふところで草履を温める』
尾張に帰国した子猿(秀吉)は、1554年(天文23年)18歳で那古屋城主であった織田信長
に仕えた。
その頃、信長は21歳であったが、まだ尾張一国どころか上半国も平定していない時期でした。
上半国を平らげて清州の城主となったのが、その翌年です。
尾張一国を平定したのは、5年後の1559年7月のことです。
清洲城の織田信長 (清洲城登城記は「こちら」です。)

子猿が改めて信長に奉公することを決意したのは、信長の株が上がったこの時期であったと推測
されます。
今川義元の直臣ならともかく、又者(陪臣)で一生を終えるよりも、むしろ義元と同様の、しかも
成長株を買い占めたほうが有利と考えたのでしょうか。
子猿は若輩ながら、なかなかの目先が利いていたのでしょう。
小瀬甫庵の「太閤記」では、1558年に狩場で信長にあい、直訴して仕官した、その場所が大き
な木の下であったから、木下を姓としたと説明していますが、これはひとつの浮説であって信用し
がたいのでしょう。
ともかく子猿は第二の主君である織田信長に仕えて、初めは仲間・小者という低い身分で、主君の
草履取りをした。
つまり、子猿は始めからやり直しだったのです。松下家で小納戸役まで務めた経験はまったく認め
られていなかったのです。
しかし、子猿はいっそのこと天下一の草履取りになろうと決心していたのでしょう。
仕事のまめまめしさは群を抜き、「絵本太閤記」によると、ある冬の寒い朝、信長が履く草履をふ
ところに入れて温めていたという。
これは、有名な話ですよね。
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尾張に帰国した子猿(秀吉)は、1554年(天文23年)18歳で那古屋城主であった織田信長
に仕えた。
その頃、信長は21歳であったが、まだ尾張一国どころか上半国も平定していない時期でした。
上半国を平らげて清州の城主となったのが、その翌年です。
尾張一国を平定したのは、5年後の1559年7月のことです。
清洲城の織田信長 (清洲城登城記は「こちら」です。)

子猿が改めて信長に奉公することを決意したのは、信長の株が上がったこの時期であったと推測
されます。
今川義元の直臣ならともかく、又者(陪臣)で一生を終えるよりも、むしろ義元と同様の、しかも
成長株を買い占めたほうが有利と考えたのでしょうか。
子猿は若輩ながら、なかなかの目先が利いていたのでしょう。
小瀬甫庵の「太閤記」では、1558年に狩場で信長にあい、直訴して仕官した、その場所が大き
な木の下であったから、木下を姓としたと説明していますが、これはひとつの浮説であって信用し
がたいのでしょう。
ともかく子猿は第二の主君である織田信長に仕えて、初めは仲間・小者という低い身分で、主君の
草履取りをした。
つまり、子猿は始めからやり直しだったのです。松下家で小納戸役まで務めた経験はまったく認め
られていなかったのです。
しかし、子猿はいっそのこと天下一の草履取りになろうと決心していたのでしょう。
仕事のまめまめしさは群を抜き、「絵本太閤記」によると、ある冬の寒い朝、信長が履く草履をふ
ところに入れて温めていたという。
これは、有名な話ですよね。
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今年はじめての夏花火
『富津市民花火大会』
今年はじめての夏花火に行ってきました。
今回が2回目だという若い花火大会です。
場所は、富津海水浴場ということで、大きな駐車場があると思い出かけましたが、駐車場からは
歩いて20分あるとのこと。
無料シャトルバスが出るという駐車場もあるというので、こちらを目指して1時間程走って到着
です。

海水浴場だということで、水上花火も多く上がっていました。




こちらは「火薬田ドン」のタケシさん、朝までお付き合いしてしまいました。


今年はじめてのバルブ撮影でしたので、レリーズタイミングの悪い写真ばかりでした。


帰りのバス待ちの人たちが、目の前に並び始めました。

花火大会は、19時45分から20時30分の間に、6000発を打ち上げるとの案内でしたが、
20時15分にはバス待ちの列に並んでいました。
また、8月になったら会場を探して行きたいものです。
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今回が2回目だという若い花火大会です。
場所は、富津海水浴場ということで、大きな駐車場があると思い出かけましたが、駐車場からは
歩いて20分あるとのこと。
無料シャトルバスが出るという駐車場もあるというので、こちらを目指して1時間程走って到着
です。

海水浴場だということで、水上花火も多く上がっていました。





こちらは「火薬田ドン」のタケシさん、朝までお付き合いしてしまいました。


今年はじめてのバルブ撮影でしたので、レリーズタイミングの悪い写真ばかりでした。


帰りのバス待ちの人たちが、目の前に並び始めました。

花火大会は、19時45分から20時30分の間に、6000発を打ち上げるとの案内でしたが、
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