秀吉の出世街道 その22
『厚顔の秀吉』
萩中納言などという人物は、公家の系図を調べても出てこないのです。
まったく架空の人物なのですから、また飛保という地名も、尾張の国の内にはあるが、そこには
秀吉の出生地とは考えられない。
「三献の茶」の秀吉

父親が愛智郡中村の土百姓・弥右衛門で、秀吉の誕生地が中村であったことは、現在の私たちの
意見が一致することです。
このような明々白々な事実を曲げて、天皇の御落胤だなどと見せかけるのは、実に拙劣な術策と
いえます。
いくら4百年前のその昔であっても、こんなへたな宣伝にひっかかるほど世は甘くなかった。
ですから、真相を知っている人たちは陰で舌をだして
「中村の子猿めが、何をぬかす」
と、あざ笑ったことでしょう。
それを、また百も承知のうえで、御落胤気どりでいた秀吉という男の面の顔が、どれほど厚かった
かは、想像に絶するものがあります。
秀吉はついでに、源平藤橘四姓のほかに、朝廷に奏請して豊臣の姓を賜っています。
五摂家の筆頭・近衛前久の猶子となって藤原姓を示し、関白に任官し、ついでに太政大臣にのぼっ
たけれど、藤姓の近衛家系図にわが身を書き込むわけにもいかない。
そこで御落胤説の宣伝をチャンスとして、別格豊臣家系図の創作に成功しています。
秀吉の出世街道にお付き合い戴き、ありがとうございました。
戦国時代の武将が大好きだということで、武将を中心に勉強していますが、次回からはこの時代
背景の群雄割拠について勉強してみたいと思います。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
萩中納言などという人物は、公家の系図を調べても出てこないのです。
まったく架空の人物なのですから、また飛保という地名も、尾張の国の内にはあるが、そこには
秀吉の出生地とは考えられない。
「三献の茶」の秀吉

父親が愛智郡中村の土百姓・弥右衛門で、秀吉の誕生地が中村であったことは、現在の私たちの
意見が一致することです。
このような明々白々な事実を曲げて、天皇の御落胤だなどと見せかけるのは、実に拙劣な術策と
いえます。
いくら4百年前のその昔であっても、こんなへたな宣伝にひっかかるほど世は甘くなかった。
ですから、真相を知っている人たちは陰で舌をだして
「中村の子猿めが、何をぬかす」
と、あざ笑ったことでしょう。
それを、また百も承知のうえで、御落胤気どりでいた秀吉という男の面の顔が、どれほど厚かった
かは、想像に絶するものがあります。
秀吉はついでに、源平藤橘四姓のほかに、朝廷に奏請して豊臣の姓を賜っています。
五摂家の筆頭・近衛前久の猶子となって藤原姓を示し、関白に任官し、ついでに太政大臣にのぼっ
たけれど、藤姓の近衛家系図にわが身を書き込むわけにもいかない。
そこで御落胤説の宣伝をチャンスとして、別格豊臣家系図の創作に成功しています。
秀吉の出世街道にお付き合い戴き、ありがとうございました。
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秀吉の出世街道 その21
『天皇の御落胤』
関白に就任した翌月、秀吉はさらに御伽衆の大村由己(梅庵)に命じて、「関白任官記」と題する
読み本を書かせ、自分が暗に天皇の御落胤であるぞといわんばかりの宣伝をさせている。
豊臣秀吉(1537-1598年)

それによると、関白・秀吉公の祖父は、萩中納言という公家であったが、同僚の讒言によって都を
追われ、紀州飛保の村雲という在所に侘び住まいをしていた。
中納言に一人の娘がいたが、父の縁故で幼いころ上京し、宮仕えすること、3年、ほどなく村雲に
帰り男児を生みおとした。
これが秀吉公である。
だから秀吉公は、幼少のころから奇瑞に類することが多い。第一に、その風貌を見ても凡人とはま
ったく違っているというのです。
「関白任官記」を書きあげた大村由己は、公家や大名の大勢集まる席上で太平記読みさながらに、
張り扇をつかい、節まわし面白く、この文章を読み上げた。
由己の読み本「関白任官記」を読んだ江戸時代の学者たちが、天皇の御落胤説を信じたのも、無理
はなかったのです。
これが関白秀吉の在世中に、秀吉その人の命令で書きまとめられた記録だったからです。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
関白に就任した翌月、秀吉はさらに御伽衆の大村由己(梅庵)に命じて、「関白任官記」と題する
読み本を書かせ、自分が暗に天皇の御落胤であるぞといわんばかりの宣伝をさせている。
豊臣秀吉(1537-1598年)

それによると、関白・秀吉公の祖父は、萩中納言という公家であったが、同僚の讒言によって都を
追われ、紀州飛保の村雲という在所に侘び住まいをしていた。
中納言に一人の娘がいたが、父の縁故で幼いころ上京し、宮仕えすること、3年、ほどなく村雲に
帰り男児を生みおとした。
これが秀吉公である。
だから秀吉公は、幼少のころから奇瑞に類することが多い。第一に、その風貌を見ても凡人とはま
ったく違っているというのです。
「関白任官記」を書きあげた大村由己は、公家や大名の大勢集まる席上で太平記読みさながらに、
張り扇をつかい、節まわし面白く、この文章を読み上げた。
由己の読み本「関白任官記」を読んだ江戸時代の学者たちが、天皇の御落胤説を信じたのも、無理
はなかったのです。
これが関白秀吉の在世中に、秀吉その人の命令で書きまとめられた記録だったからです。
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秀吉の出世街道 その20
『家康を臣下に』
秀吉が関白になれたのは、右大臣・菊亭晴季は秀吉の歓心を買い恩賞にあずかろうとして、右大
臣でありながら、秀吉の手先につかわれていたという。
岡崎城の家康公

二条昭実と近衛前久の子・伸輔は、とんびに油揚げをさらわれた狐と鳥のようなものであった。
しかも、そのとき秀吉が言った言葉が、また人を食っているのです。
「関白を五摂家でまわり持ちとは、おかしな話だ。五摂家、五摂家と、カラ威張りしたとて、一
条所(一村)さえ斬り従えられぬ五摂家などよりも、現に一国一国と、国をば斬り従えているこ
の秀吉のほうが、どれだけましかわからない。だから、関白職を預かった次第である」
と、豪語している。
秀吉が、主君の信長でさえも就くことができなかった関白に就任したのは1585年(天正13)
7月11日のことであった。
これは、やはり信長にならって、公家一統の政権の確立をねらったのです。そうして官位の上から、
織田家一族・旧臣をはじめ、天下の大名をことごとく臣従させることに成功したのです。
この前後に、秀吉は1584年の小牧山の戦いのとき信雄と家康に味方した紀州の根来・雑賀一揆
を討伐し、また長曾我部元親を討って四国を平らげ、佐々成政を降ろして越中を平定している。
しかし、秀吉が天下の政権を確実に掌握したのは、東国の強豪・徳川家康を臣従させた1586年
(天正14)のことだと思われます。
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秀吉が関白になれたのは、右大臣・菊亭晴季は秀吉の歓心を買い恩賞にあずかろうとして、右大
臣でありながら、秀吉の手先につかわれていたという。
岡崎城の家康公

二条昭実と近衛前久の子・伸輔は、とんびに油揚げをさらわれた狐と鳥のようなものであった。
しかも、そのとき秀吉が言った言葉が、また人を食っているのです。
「関白を五摂家でまわり持ちとは、おかしな話だ。五摂家、五摂家と、カラ威張りしたとて、一
条所(一村)さえ斬り従えられぬ五摂家などよりも、現に一国一国と、国をば斬り従えているこ
の秀吉のほうが、どれだけましかわからない。だから、関白職を預かった次第である」
と、豪語している。
秀吉が、主君の信長でさえも就くことができなかった関白に就任したのは1585年(天正13)
7月11日のことであった。
これは、やはり信長にならって、公家一統の政権の確立をねらったのです。そうして官位の上から、
織田家一族・旧臣をはじめ、天下の大名をことごとく臣従させることに成功したのです。
この前後に、秀吉は1584年の小牧山の戦いのとき信雄と家康に味方した紀州の根来・雑賀一揆
を討伐し、また長曾我部元親を討って四国を平らげ、佐々成政を降ろして越中を平定している。
しかし、秀吉が天下の政権を確実に掌握したのは、東国の強豪・徳川家康を臣従させた1586年
(天正14)のことだと思われます。
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真田丸 その30
『昌幸の遺策』
軍議の席上、信繁は父・昌幸の遺策を提案しています。
真田昌幸(1547-1611年)

「籠城作戦というのは、いずれよりか援軍の到来を期待できる時のみ利がある。今度の合戦は天下
を敵としてことなれば、初めより籠城に出ずるは策を得たものではない。敵に機を奪われ、やがて
は糧食も尽き、力も衰えて、ついには落城に至る。出て戦うしかない。出て戦って、時をかせぎ、
2、3度勝つうちに必ず豊臣家恩顧の大名らの間に心を動かして味方する者が出て来るであろう。
それには、機先を制するが第一である。関東、北国の兵がまだ京都に入らぬ先に、秀頼公御出陣
あって御旗を天王寺に立て、兵を山崎に出し、拙者と毛利勝永とを先鋒とし、長蘇我部と後藤に
大和路を攻めさせ、伏見城を陥れ、京都を焼きはらい、宇治、瀬田を固めて、畿内・中国・九州
にふれて大名どもを招いたら、必ず味方に馳せ参ずる者が多いであろう。関東方は長途に疲れて
いる身で、この寒さの河を渡るのだ。意気上がらぬに決まっている。味方の利は必定だ。大河を
ひかえて戦うは大軍を防ぐ常道である。かくして利がなかったら、籠城すべきで、籠城を急ぐこと
はない」と主張し、後藤又兵衛もまた出撃策を説いたが、いずれも行われなかった。
「そちらには俺ほどの貫禄がない。同じ策を立てても、人が従わぬであろう」
と昌幸が末期に言って嘆息した通りになったのです。
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<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
軍議の席上、信繁は父・昌幸の遺策を提案しています。
真田昌幸(1547-1611年)

「籠城作戦というのは、いずれよりか援軍の到来を期待できる時のみ利がある。今度の合戦は天下
を敵としてことなれば、初めより籠城に出ずるは策を得たものではない。敵に機を奪われ、やがて
は糧食も尽き、力も衰えて、ついには落城に至る。出て戦うしかない。出て戦って、時をかせぎ、
2、3度勝つうちに必ず豊臣家恩顧の大名らの間に心を動かして味方する者が出て来るであろう。
それには、機先を制するが第一である。関東、北国の兵がまだ京都に入らぬ先に、秀頼公御出陣
あって御旗を天王寺に立て、兵を山崎に出し、拙者と毛利勝永とを先鋒とし、長蘇我部と後藤に
大和路を攻めさせ、伏見城を陥れ、京都を焼きはらい、宇治、瀬田を固めて、畿内・中国・九州
にふれて大名どもを招いたら、必ず味方に馳せ参ずる者が多いであろう。関東方は長途に疲れて
いる身で、この寒さの河を渡るのだ。意気上がらぬに決まっている。味方の利は必定だ。大河を
ひかえて戦うは大軍を防ぐ常道である。かくして利がなかったら、籠城すべきで、籠城を急ぐこと
はない」と主張し、後藤又兵衛もまた出撃策を説いたが、いずれも行われなかった。
「そちらには俺ほどの貫禄がない。同じ策を立てても、人が従わぬであろう」
と昌幸が末期に言って嘆息した通りになったのです。
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秀吉の出世街道 その19
『関白任官工作』
秀吉は信長の旧臣でありながら、亡君の遺児をさしおいて天下に号令をくだそうとする、かれ自身
の不利な立場をよく理解していた。
だから北畠信雄(信長の次男)三法師(信長の嫡孫、織田秀信)と自分との主従関係を逆転させよ
うとして、その術策を練った。
豊臣秀吉(1537-1598年)

その目的で行なったのが、関白任官の工作であった。
秀吉がなにより困ったのが、わが身の素性の卑しさです。実力勝負の世の中でも、毛並みの良しあ
しが相当にものをいったのです。
中央政権を掌握した今は、なんとか工作して、この劣等感から解放されなければならない。
信長は尾張の守護代・織田氏の家老の家筋であるということで、平を姓とし、家康は三河の土豪・
松平氏の子孫でありながら、新田源氏の氏として源の姓を唱えたけれど、尾州中村の土百姓弥右
衛門の小せがれでは、系図の作りようもなかった。
秀吉は中央政権を掌握してから、一時、平姓を称したことがありますが、右大臣・平信長の後継者
だという意味からであったのでしょう。
しかし、間もなくそんなことでは満足できなくなる。
源平交替思想から考えると、平信長に代わって天下に号令するには、源秀吉でなければならない。
そこで、前将軍・足利義昭に懇願し、その猶子(後継者となるべき養子)となって源姓を名乗ろう
としたが、すげなく断られ、さすがの秀吉もしょげていた。
ところが、ちょうどその頃、藤原氏の五摂家の筆頭にあたる近衛前久が関白大政大臣の官職をや
め、これに代わって同じく五摂家のひとつの二条昭実が関白に就任しようとしたが、前久の子・
伸輔は、筆頭の家柄を主張し、昭実を退けて自分がこれに代わろうとした。
しかし昭実も、信輔に譲らず互いに争っていた。
この様子を見ていた右大臣の菊亭晴季は、好機逸すべからずと、前久を説得して秀吉を前久の猶
子にさせ、関白職を譲らせたのです。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
秀吉は信長の旧臣でありながら、亡君の遺児をさしおいて天下に号令をくだそうとする、かれ自身
の不利な立場をよく理解していた。
だから北畠信雄(信長の次男)三法師(信長の嫡孫、織田秀信)と自分との主従関係を逆転させよ
うとして、その術策を練った。
豊臣秀吉(1537-1598年)

その目的で行なったのが、関白任官の工作であった。
秀吉がなにより困ったのが、わが身の素性の卑しさです。実力勝負の世の中でも、毛並みの良しあ
しが相当にものをいったのです。
中央政権を掌握した今は、なんとか工作して、この劣等感から解放されなければならない。
信長は尾張の守護代・織田氏の家老の家筋であるということで、平を姓とし、家康は三河の土豪・
松平氏の子孫でありながら、新田源氏の氏として源の姓を唱えたけれど、尾州中村の土百姓弥右
衛門の小せがれでは、系図の作りようもなかった。
秀吉は中央政権を掌握してから、一時、平姓を称したことがありますが、右大臣・平信長の後継者
だという意味からであったのでしょう。
しかし、間もなくそんなことでは満足できなくなる。
源平交替思想から考えると、平信長に代わって天下に号令するには、源秀吉でなければならない。
そこで、前将軍・足利義昭に懇願し、その猶子(後継者となるべき養子)となって源姓を名乗ろう
としたが、すげなく断られ、さすがの秀吉もしょげていた。
ところが、ちょうどその頃、藤原氏の五摂家の筆頭にあたる近衛前久が関白大政大臣の官職をや
め、これに代わって同じく五摂家のひとつの二条昭実が関白に就任しようとしたが、前久の子・
伸輔は、筆頭の家柄を主張し、昭実を退けて自分がこれに代わろうとした。
しかし昭実も、信輔に譲らず互いに争っていた。
この様子を見ていた右大臣の菊亭晴季は、好機逸すべからずと、前久を説得して秀吉を前久の猶
子にさせ、関白職を譲らせたのです。
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秀吉の出世街道 その18
『うるわしい感情の持ち主』
秀吉は、信長や家康と比べるまでもなく、数多い戦国大名の中で最低の身分からなりあがった人物
だから、それだけに他人の経験しない苦労を積んでいます。
豊臣秀吉(1537-1598年)

普通の人間では生きていくのが精一杯などん底の堪え忍び、しかも常に前途に向かって、一歩、一
歩と前進し、本当に裸一貫で、その地位を築き上げてきた男なのです。
安国寺恵瓊が批判したとおりに
「つぶさに、世の辛酸をなめ、乞食や小物までやり終えた人物」
だったのです。
明智光秀に反逆行動を起こさせるまでに追い込んだほどの横暴な信長であったが、その信長に気に
入られ、信頼をかちえてきたほどの秀吉でした。
明朗で、ひょうきんで、常に人を笑わす、親しみ深い性格のだったのでしょう。
きょうきん者として、主君の松下加兵衛や織田信長に可愛がられたことは勿論ですが、ことに若い
頃には、ニックネームの猿に似た面貌と、すばしっこい動作に伴う独特な愛嬌が人気の対象とされ
ていたという。
しかし秀吉はなにをさしおいても、人間的なうるわしい感情の持ち主だったと思われます。
嬉しいときには心から喜び、悲しいときには心から泣ける、この頃の秀吉が一番いいですね。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
秀吉は、信長や家康と比べるまでもなく、数多い戦国大名の中で最低の身分からなりあがった人物
だから、それだけに他人の経験しない苦労を積んでいます。
豊臣秀吉(1537-1598年)

普通の人間では生きていくのが精一杯などん底の堪え忍び、しかも常に前途に向かって、一歩、一
歩と前進し、本当に裸一貫で、その地位を築き上げてきた男なのです。
安国寺恵瓊が批判したとおりに
「つぶさに、世の辛酸をなめ、乞食や小物までやり終えた人物」
だったのです。
明智光秀に反逆行動を起こさせるまでに追い込んだほどの横暴な信長であったが、その信長に気に
入られ、信頼をかちえてきたほどの秀吉でした。
明朗で、ひょうきんで、常に人を笑わす、親しみ深い性格のだったのでしょう。
きょうきん者として、主君の松下加兵衛や織田信長に可愛がられたことは勿論ですが、ことに若い
頃には、ニックネームの猿に似た面貌と、すばしっこい動作に伴う独特な愛嬌が人気の対象とされ
ていたという。
しかし秀吉はなにをさしおいても、人間的なうるわしい感情の持ち主だったと思われます。
嬉しいときには心から喜び、悲しいときには心から泣ける、この頃の秀吉が一番いいですね。
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木更津花火 Ⅱ
『2016 木更津港まつり花火大会』
外出先から慌ただしく帰り、初めての木更津港まつり花火に行ってきました。
今年が69回目だという、歴史ある花火大会です。

人出が多く、会場近くまで近づけないうえ、カメラにセットしていたレンズが、17~50mm
小さい花火は、撮ることができません。

この会場はカラフルな花火が多かったようです。

黒い塊はレンズの汚れでなく、煙なんですよ!

この花火は、印象的でした。


はじめて見た花火です。 花火というより煙幕のようでした。

花火大会の時間は、19:30~20:30でしたが、帰りの車の渋滞が嫌なので、20:00には
カメラを納めて撤収しました^^

花火撮影は、三脚、レリーズを忘れないこと、レンズを間違えて持参しないとこ。
それに、カメラの位置は風上にセットすることですね。
今回は、上記の2つに該当していまいました。
口直しに、近くの花火大会を調べて、もう一度は行ってみたいものです。
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外出先から慌ただしく帰り、初めての木更津港まつり花火に行ってきました。
今年が69回目だという、歴史ある花火大会です。

人出が多く、会場近くまで近づけないうえ、カメラにセットしていたレンズが、17~50mm
小さい花火は、撮ることができません。

この会場はカラフルな花火が多かったようです。

黒い塊はレンズの汚れでなく、煙なんですよ!

この花火は、印象的でした。


はじめて見た花火です。 花火というより煙幕のようでした。

花火大会の時間は、19:30~20:30でしたが、帰りの車の渋滞が嫌なので、20:00には
カメラを納めて撤収しました^^

花火撮影は、三脚、レリーズを忘れないこと、レンズを間違えて持参しないとこ。
それに、カメラの位置は風上にセットすることですね。
今回は、上記の2つに該当していまいました。
口直しに、近くの花火大会を調べて、もう一度は行ってみたいものです。
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