戦国乱世 その2
『関東では北条早雲が一角を表す』
当時、関東では1438年(永享10)の永享の乱で関東公方家が亡んだ後、結城合戦(茨城県)
で捕られ京都に拉致された足利持氏の遺児の茂氏が許されて鎌倉帰還が実現、鎌倉府が復活したが、
関東管領・上杉氏と仲たがいし、対抗して1455年(康正14)北関東の古河城(茨城県)に拠っ
た。
北条早雲(1432-1519年)

そこで、上杉氏は1457年(長禄元年)、将軍・義政の弟・政知を迎えたが、鎌倉が荒廃してい
たので源頼朝の発祥した故地・伊豆堀越城に移らせた。
ここで古河・堀越両公方家が成立し、関東の諸氏は両者に分立し抗争する。
応仁の乱前後、関東でも一進一退の戦乱が続いている。
しかし、実力者の両上杉氏でも、いちおう古河公方を圧して1447年(文安4)これを講和する
と、かえって相互の対立抗争が始まり、互いに老臣らの反乱や失脚をはかっている。
そのうち扇谷家の太田道灌などは、とかく劣勢であった扇谷家を振興し、江戸城を築いたり、また
古河公方家を圧倒することに功があったが、1486年(文明18)山内家の謀略で倒される。
この両上杉家の共倒れは、古河公方のほか諸氏に漁夫の利を占めさせた。
敦賀の今川家に仕えた浪人・伊勢新九郎長氏(北条早雲)は、堀越公方政知が没したのち、その子・
茶々丸が異母弟・潤童子を殺して、ようやく家督を継ぐという混乱に乗じ、1491年(延徳3)
これを襲って同公方家を亡ぼす。
そこで伊豆を手中に収め、1495年(明応4)には相模小田原城を奪う。
このようにして氏素性なき匹夫が天下を望む戦国大名第1号として、北条早雲が関東の一角に表れ
ています。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
当時、関東では1438年(永享10)の永享の乱で関東公方家が亡んだ後、結城合戦(茨城県)
で捕られ京都に拉致された足利持氏の遺児の茂氏が許されて鎌倉帰還が実現、鎌倉府が復活したが、
関東管領・上杉氏と仲たがいし、対抗して1455年(康正14)北関東の古河城(茨城県)に拠っ
た。
北条早雲(1432-1519年)

そこで、上杉氏は1457年(長禄元年)、将軍・義政の弟・政知を迎えたが、鎌倉が荒廃してい
たので源頼朝の発祥した故地・伊豆堀越城に移らせた。
ここで古河・堀越両公方家が成立し、関東の諸氏は両者に分立し抗争する。
応仁の乱前後、関東でも一進一退の戦乱が続いている。
しかし、実力者の両上杉氏でも、いちおう古河公方を圧して1447年(文安4)これを講和する
と、かえって相互の対立抗争が始まり、互いに老臣らの反乱や失脚をはかっている。
そのうち扇谷家の太田道灌などは、とかく劣勢であった扇谷家を振興し、江戸城を築いたり、また
古河公方家を圧倒することに功があったが、1486年(文明18)山内家の謀略で倒される。
この両上杉家の共倒れは、古河公方のほか諸氏に漁夫の利を占めさせた。
敦賀の今川家に仕えた浪人・伊勢新九郎長氏(北条早雲)は、堀越公方政知が没したのち、その子・
茶々丸が異母弟・潤童子を殺して、ようやく家督を継ぐという混乱に乗じ、1491年(延徳3)
これを襲って同公方家を亡ぼす。
そこで伊豆を手中に収め、1495年(明応4)には相模小田原城を奪う。
このようにして氏素性なき匹夫が天下を望む戦国大名第1号として、北条早雲が関東の一角に表れ
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戦国乱世 その1
『戦国乱世の発端』
戦国時代の武将が大好きということで、各武将を個々に取り上げて勉強してきましたが、個性豊
かな武将たちが生きて来た時代背景を少し勉強してみたいと思いますので、お付き合い戴ければ
幸いです。
戦国乱世は応仁の乱がその発端だとすると理解し易いのでしょう。
しかし、応仁の乱後においても、京都では小康状態がおとずれ、東山文化の花も咲いています。
地方では戦乱が収拾のつかない状態になってしまったことも事実ですが、この中央の小康状態は
無視できないので、他に戦国乱世の画期を求めるのが妥当なのかもしれません。
応仁の乱勢力図(水色:東軍、黄色:西軍、黄緑:両軍伯仲)

細川氏が管領・畠山氏の栄耀を忌んで、これの制圧をはかり応仁の乱勃発前夜の政争の再現かと
危ぶまれたのを乱世の序曲とし、1485年(文明17)に起こった山城国一揆をこれにあてる
こともできるのでしょう。
しかし、将軍・義尚が1487年(長享元)に近江六角討軍をおこし、1491年(延徳3)に
は将軍・義材が再征軍を発して成功した将軍家の威力も認める必要があります。
また細川政元が将軍廃止を企てた1493年(明応2)のクーデターにも注目すべきです。
すでに管領は常置されていない。その管領の職権もない政元に擁立された将軍・義澄の威令はさ
っぱり行われず、全国を乱相へと導きます。
流浪の前将軍・義材が諸大名に擁されてしばしば義澄に戦を挑み、それが各地に兵乱を生む。
その多くを鎮めて政元がなお全盛を誇ったが、家臣らの反乱が相次いでおこり、1507年(永
正4)自身も弑逆にあう。
しかも細川氏に家督争いの戦がおこり、それに将軍擁立戦がからみ合って、実質的には統一政
権が失せています。
この政元弑逆なども画期的なものですが、この時はすでに全国の乱相は濃く、この時期を戦国
乱世の発端とするのが妥当なのかも知れません。
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かな武将たちが生きて来た時代背景を少し勉強してみたいと思いますので、お付き合い戴ければ
幸いです。
戦国乱世は応仁の乱がその発端だとすると理解し易いのでしょう。
しかし、応仁の乱後においても、京都では小康状態がおとずれ、東山文化の花も咲いています。
地方では戦乱が収拾のつかない状態になってしまったことも事実ですが、この中央の小康状態は
無視できないので、他に戦国乱世の画期を求めるのが妥当なのかもしれません。
応仁の乱勢力図(水色:東軍、黄色:西軍、黄緑:両軍伯仲)

細川氏が管領・畠山氏の栄耀を忌んで、これの制圧をはかり応仁の乱勃発前夜の政争の再現かと
危ぶまれたのを乱世の序曲とし、1485年(文明17)に起こった山城国一揆をこれにあてる
こともできるのでしょう。
しかし、将軍・義尚が1487年(長享元)に近江六角討軍をおこし、1491年(延徳3)に
は将軍・義材が再征軍を発して成功した将軍家の威力も認める必要があります。
また細川政元が将軍廃止を企てた1493年(明応2)のクーデターにも注目すべきです。
すでに管領は常置されていない。その管領の職権もない政元に擁立された将軍・義澄の威令はさ
っぱり行われず、全国を乱相へと導きます。
流浪の前将軍・義材が諸大名に擁されてしばしば義澄に戦を挑み、それが各地に兵乱を生む。
その多くを鎮めて政元がなお全盛を誇ったが、家臣らの反乱が相次いでおこり、1507年(永
正4)自身も弑逆にあう。
しかも細川氏に家督争いの戦がおこり、それに将軍擁立戦がからみ合って、実質的には統一政
権が失せています。
この政元弑逆なども画期的なものですが、この時はすでに全国の乱相は濃く、この時期を戦国
乱世の発端とするのが妥当なのかも知れません。
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上総国・久留里城
『里見氏の居城・久留里城』
お盆休み山城めぐりの2城目は、上総久留里城に行ってきました。
1535年(天文4)里見義堯はこの地を本拠とし、改めて古久留里城(上の城)の下に新たに現在
の城地に久留里城を築いた。(年代には異説あり)
1564年(永禄7)、北条軍の上総侵攻により城は一時陥落するも、その後、再び里見氏が奪還し
ています。

1590年(天正18)、豊臣秀吉による小田原征伐の際に、里見義康は参陣を命じられたが従わず
、秀吉の不興を買い安房一国の領有は許されたが、上総の所領を没収されます。
この年に徳川家康が関東に入封し久留里城には松平(大須賀)忠政が3万石を与えられ入城してい
る。
深い堀切や井戸など多くに遺構が残っています。

その後、1600年(慶長6)の関ケ原の戦いの功により、松平(大須賀)忠政が3万石加増のうえ、
駿河国横須賀城に転封となったため、土屋忠直が2万石で入城します。
土屋氏は1679年(永宝7)に改易となり一時廃城となったが、1742年(寛保2)上野国沼田
城より譜代大名の黒田直純が3万石で入城し再び立藩しています。黒田氏は明治維新まで居城し、
明治5年廃城令により久留里城の歴史は終っています。
昭和54年に模擬天守が土壇の天守台脇にRC構造にて建造されています。
左の土盛が実際の天守台です。

江戸末期に実際に建っていたものは、2層2階であったと推定されていますが、再建された天守は浜
松城模擬天守をモデルとした2層3階であり、実際に建っていたものとは大幅に異なります。
駐車場から100m余の高低差を上がるだけでしたけど、夏の山城はたいへんです。
季節が良くなってからいくべきですね。
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お盆休み山城めぐりの2城目は、上総久留里城に行ってきました。
1535年(天文4)里見義堯はこの地を本拠とし、改めて古久留里城(上の城)の下に新たに現在
の城地に久留里城を築いた。(年代には異説あり)
1564年(永禄7)、北条軍の上総侵攻により城は一時陥落するも、その後、再び里見氏が奪還し
ています。

1590年(天正18)、豊臣秀吉による小田原征伐の際に、里見義康は参陣を命じられたが従わず
、秀吉の不興を買い安房一国の領有は許されたが、上総の所領を没収されます。
この年に徳川家康が関東に入封し久留里城には松平(大須賀)忠政が3万石を与えられ入城してい
る。
深い堀切や井戸など多くに遺構が残っています。


その後、1600年(慶長6)の関ケ原の戦いの功により、松平(大須賀)忠政が3万石加増のうえ、
駿河国横須賀城に転封となったため、土屋忠直が2万石で入城します。
土屋氏は1679年(永宝7)に改易となり一時廃城となったが、1742年(寛保2)上野国沼田
城より譜代大名の黒田直純が3万石で入城し再び立藩しています。黒田氏は明治維新まで居城し、
明治5年廃城令により久留里城の歴史は終っています。
昭和54年に模擬天守が土壇の天守台脇にRC構造にて建造されています。
左の土盛が実際の天守台です。

江戸末期に実際に建っていたものは、2層2階であったと推定されていますが、再建された天守は浜
松城模擬天守をモデルとした2層3階であり、実際に建っていたものとは大幅に異なります。
駐車場から100m余の高低差を上がるだけでしたけど、夏の山城はたいへんです。
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真田丸 その31
『大坂城内の葛藤』
いよいよ籠城と決まって、それぞれの持場をクジ引きで取り決めた。
そのクジ取奉行は大野治長・渡辺内蔵介・北川次郎兵衛がつとめ、概ねきまったで、大野治長が、
「大手の黒門30間は、わしが持口にして貰いたい」
というと、渡辺内蔵介は怒って、
「黒門はわしの持場だ、我が侭なことを言うてもうろうまい」
と荒々しく言い返した。
豊臣大坂城

売り言葉に買い言葉で、治長も言う。
激しい論争になったので、北川次郎兵衛は両人に間に割って入り、
「治長は口を利くな。内蔵介は無法だぞ」
ととめおいて
「この分では両人とも刺し違えねば収まるまいが、俺はどうなる。あの両人はしかじかの次第で刺
し違えて死に申したというて、おれが御前へ帰られるか。あくまでやるというなら、先ずおれを討ち
果たしてからにさっしゃれ」
と怒鳴りつけたが、治長は収まらず、
「内蔵介が申すところに理があるなら、おれを斬れい、おれは決して敵対せずぞ」
と言い張り、内蔵介また激し上がり、今にもこと起きそうであった。
次郎兵衛は、
「今どんな時と思うているか、犬の子でも人間として使いたい程の時じゃぞ。よい侍が3人犬死して
よいものか」
と泣き出して訓戒して、やっと事が収まったという。
上押しになる人物がいないため、まるで無統制になっている大坂城中のことが良く分かる話しです。
大野治長はまんざらのアホではなく、いくらかの才気はあった人物でしょうが、こんな人物が上位に
座ると、かえって害悪をなすものです。
老巧な人の言うことを聞かず、自分を立てようとするからです。
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<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
いよいよ籠城と決まって、それぞれの持場をクジ引きで取り決めた。
そのクジ取奉行は大野治長・渡辺内蔵介・北川次郎兵衛がつとめ、概ねきまったで、大野治長が、
「大手の黒門30間は、わしが持口にして貰いたい」
というと、渡辺内蔵介は怒って、
「黒門はわしの持場だ、我が侭なことを言うてもうろうまい」
と荒々しく言い返した。
豊臣大坂城

売り言葉に買い言葉で、治長も言う。
激しい論争になったので、北川次郎兵衛は両人に間に割って入り、
「治長は口を利くな。内蔵介は無法だぞ」
ととめおいて
「この分では両人とも刺し違えねば収まるまいが、俺はどうなる。あの両人はしかじかの次第で刺
し違えて死に申したというて、おれが御前へ帰られるか。あくまでやるというなら、先ずおれを討ち
果たしてからにさっしゃれ」
と怒鳴りつけたが、治長は収まらず、
「内蔵介が申すところに理があるなら、おれを斬れい、おれは決して敵対せずぞ」
と言い張り、内蔵介また激し上がり、今にもこと起きそうであった。
次郎兵衛は、
「今どんな時と思うているか、犬の子でも人間として使いたい程の時じゃぞ。よい侍が3人犬死して
よいものか」
と泣き出して訓戒して、やっと事が収まったという。
上押しになる人物がいないため、まるで無統制になっている大坂城中のことが良く分かる話しです。
大野治長はまんざらのアホではなく、いくらかの才気はあった人物でしょうが、こんな人物が上位に
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2年ぶりの金沢城
in 金沢
舅どの の城「大多喜城」
『本多忠勝の大多喜城』
真夏の山城を2城たのしんできました。
まず最初は、真田信之の舅どのの大多喜城です。
大多喜城の登城は2回目で、前回はバイクでの登城でした。 (前回の登城記は「こちら」です。)

大多喜城は16世紀の前半代に武田氏が入城したとも言われていますが、天文期(1532~15
55)に安房の里見氏の重臣であった正木氏が入り、以後4代に渡り、上総正木宗家の居城として
発展しています。

その後、1590(天正18)年に、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、徳川家康が江戸城に入り、
大多喜城を本田忠勝に与えて安房の里見氏の勢力をおさえた城です。
現存の二の丸御殿薬医門 (大多喜高校(二の丸跡地)に移設されています。)

本多氏時代に掘られた大井戸 (二の丸)

本多忠勝【10万石】天正18年(1590) 徳川四天王の一人とうたわれた家康の重臣
慶長6年(1601)伊勢国(三重県)桑名城に移る

熱演の藤岡さん

本多忠朝【5万石】慶長6年(1601)本多忠勝の次男
元和元年(1615)大坂夏の陣で戦死
本多政朝【5万石】元和元年(1615)本多忠朝の甥
元和3年(1617)瀧野城に移り、後の姫路城主となる

城主は本多氏の後、阿部・青山・稲垣氏へと引き継がれ、1703(元禄16)年に松平氏が入城
し、以後、松平氏は9代続き明治の廃藩置県を迎えています。

無双の忠勝さん、大河ドラマになるといいですね。

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<参考文献:現地パンフレット>
真夏の山城を2城たのしんできました。
まず最初は、真田信之の舅どのの大多喜城です。
大多喜城の登城は2回目で、前回はバイクでの登城でした。 (前回の登城記は「こちら」です。)


大多喜城は16世紀の前半代に武田氏が入城したとも言われていますが、天文期(1532~15
55)に安房の里見氏の重臣であった正木氏が入り、以後4代に渡り、上総正木宗家の居城として
発展しています。

その後、1590(天正18)年に、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、徳川家康が江戸城に入り、
大多喜城を本田忠勝に与えて安房の里見氏の勢力をおさえた城です。
現存の二の丸御殿薬医門 (大多喜高校(二の丸跡地)に移設されています。)

本多氏時代に掘られた大井戸 (二の丸)

本多忠勝【10万石】天正18年(1590) 徳川四天王の一人とうたわれた家康の重臣
慶長6年(1601)伊勢国(三重県)桑名城に移る

熱演の藤岡さん

本多忠朝【5万石】慶長6年(1601)本多忠勝の次男
元和元年(1615)大坂夏の陣で戦死
本多政朝【5万石】元和元年(1615)本多忠朝の甥
元和3年(1617)瀧野城に移り、後の姫路城主となる

城主は本多氏の後、阿部・青山・稲垣氏へと引き継がれ、1703(元禄16)年に松平氏が入城
し、以後、松平氏は9代続き明治の廃藩置県を迎えています。

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