戦国乱世 その22
『暴力行為の繰り返し』
畿内では、三好長慶が1564年(永禄7)、家臣らの主導権争いに憤死し、国衆の乱闘時代に戻
ったかのように思わせる戦乱が展開した。
ここで町人らの実力は国衆らを上回っている。
松永秀久(1510-1577年)

町人も国衆らの縁者ですが、乱闘に無益な援助はしない。しかも町人らは、なお貴族武家の復興を
望んだ。
松永秀久は主家の三好義継と図って、1565年(永禄8)に将軍・義輝を殺したが、これで三好
家の家臣らの激突がはじまり、久秀の制覇の望みも絶えています。
久秀の将軍・義輝の殺逆は、伝統的権威に対する反撃だったのでしょう。
無力化した将軍を殺害する必要はありません。しかし、その存在のため、名もない者の出世は妨げ
られるし、対立する国衆はともかく領国の確立すらできないのです。
とりわけ町人などは、貴族・武家あっての秀久として彼を遇したのです。
そこで秀久は凶刀をふるったのでしょうが、秀久も権威否定に徹した訳でもないのです。
赤松満祐の将軍・義教殺逆事件とこれとは、比較して説く必要もないほどの差がありますが、案外
に暴力行為の繰り返しという点では共通点が大きいのでしょう。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
畿内では、三好長慶が1564年(永禄7)、家臣らの主導権争いに憤死し、国衆の乱闘時代に戻
ったかのように思わせる戦乱が展開した。
ここで町人らの実力は国衆らを上回っている。
松永秀久(1510-1577年)

町人も国衆らの縁者ですが、乱闘に無益な援助はしない。しかも町人らは、なお貴族武家の復興を
望んだ。
松永秀久は主家の三好義継と図って、1565年(永禄8)に将軍・義輝を殺したが、これで三好
家の家臣らの激突がはじまり、久秀の制覇の望みも絶えています。
久秀の将軍・義輝の殺逆は、伝統的権威に対する反撃だったのでしょう。
無力化した将軍を殺害する必要はありません。しかし、その存在のため、名もない者の出世は妨げ
られるし、対立する国衆はともかく領国の確立すらできないのです。
とりわけ町人などは、貴族・武家あっての秀久として彼を遇したのです。
そこで秀久は凶刀をふるったのでしょうが、秀久も権威否定に徹した訳でもないのです。
赤松満祐の将軍・義教殺逆事件とこれとは、比較して説く必要もないほどの差がありますが、案外
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戦国乱世 その21
『全国政権を待望する町衆』
1560年(永禄3)桶狭間の戦いは、織田信長の勝利もそうですが、今川義元の上洛ということ
が群雄を刺激したでしょう。
当時の大名たちの諜報網は著しく発達していて、川中島の合戦をしばしば繰り返していた上杉謙信
や武田信玄がまず感じたことでしょう。
川中島の戦いの謙信公と信玄公

越後や甲斐は中央化が遅れており、それが謙信や信玄の一代のうちに飛躍的に中央色に染まって
いったと思われます。
この2人に織田信長が加わります。信長は小名ですが冒険好きという条件を兼備していたのです。
この信長が進むところに幸運が追従し、冒険の進路を開けてくれたのです。
その他の大名たちは、応仁の乱の教訓から、大内氏に擁立された将軍・義稙(よしたね)時代の
栄華のはかなさも知っていた。
群雄らの多くは大内氏の滅亡を上洛のせいだと考えたに違いありません。これは武田信玄も同じ
だったのでしょう。
信玄は上洛のかけ声ばかりで、その行動が伴わなかったことから推測できるのではないのでしょ
うか。
一方、上杉謙信がいちばん上洛の意欲を持っていたといえそうです。
このほか越前の朝倉氏は上洛を欲したのでしょうが、一向一揆に阻害されて領国が確立していま
せんでした。
しかし、天下統一の気運は動いていて、文化のからみあいもありますが、全国政権の待望が「都」
の町衆らから発散していたのです。
しかし、西国との往来が盛んだった町人らは、東国から西上を欲する織田・上杉・武田氏らに注
意を払わなかったらしい。というより、これらの上洛の決意が聞こえてこなかったのかも知れま
せん。
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1560年(永禄3)桶狭間の戦いは、織田信長の勝利もそうですが、今川義元の上洛ということ
が群雄を刺激したでしょう。
当時の大名たちの諜報網は著しく発達していて、川中島の合戦をしばしば繰り返していた上杉謙信
や武田信玄がまず感じたことでしょう。
川中島の戦いの謙信公と信玄公

越後や甲斐は中央化が遅れており、それが謙信や信玄の一代のうちに飛躍的に中央色に染まって
いったと思われます。
この2人に織田信長が加わります。信長は小名ですが冒険好きという条件を兼備していたのです。
この信長が進むところに幸運が追従し、冒険の進路を開けてくれたのです。
その他の大名たちは、応仁の乱の教訓から、大内氏に擁立された将軍・義稙(よしたね)時代の
栄華のはかなさも知っていた。
群雄らの多くは大内氏の滅亡を上洛のせいだと考えたに違いありません。これは武田信玄も同じ
だったのでしょう。
信玄は上洛のかけ声ばかりで、その行動が伴わなかったことから推測できるのではないのでしょ
うか。
一方、上杉謙信がいちばん上洛の意欲を持っていたといえそうです。
このほか越前の朝倉氏は上洛を欲したのでしょうが、一向一揆に阻害されて領国が確立していま
せんでした。
しかし、天下統一の気運は動いていて、文化のからみあいもありますが、全国政権の待望が「都」
の町衆らから発散していたのです。
しかし、西国との往来が盛んだった町人らは、東国から西上を欲する織田・上杉・武田氏らに注
意を払わなかったらしい。というより、これらの上洛の決意が聞こえてこなかったのかも知れま
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
戦国乱世 その20
『文化人であった戦国大名』
戦国大名は学芸に励んだといいます。
その子弟には和漢の学芸を武芸とともに習わせています。
大名らの子弟は寺に通わせたというより、むしろ僧侶らを居館に招いて教授させ、寺に通わせたのは
家臣どもの子弟だったといいます。
戦国無双の義元さん

また、戦国武将たちは文字が上手かった。
これらの教養のすべてが権力的要素であったし、戦力の一翼ともなるものであったのです。
貴族化した奢侈生活さえも、その権威化のために役立てています。
さらに公家の子女を家に迎えるようになります。細川政元が九条関白家から養子・澄之を家に迎えた
のは画期的なことです。
駿河の今川氏もしばしば妻女・養子を公卿から迎えています。
また、武田信玄の継妻(三条の方)も公卿の出であった。
今川義元は、公卿そのものの生活を展開し、駕興で上洛軍を率いて、桶狭間で落命した。
周防の大内氏も文化人大名であったが、義元同様、その武士たる主体性を失って亡んでいます。
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戦国大名は学芸に励んだといいます。
その子弟には和漢の学芸を武芸とともに習わせています。
大名らの子弟は寺に通わせたというより、むしろ僧侶らを居館に招いて教授させ、寺に通わせたのは
家臣どもの子弟だったといいます。
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また、戦国武将たちは文字が上手かった。
これらの教養のすべてが権力的要素であったし、戦力の一翼ともなるものであったのです。
貴族化した奢侈生活さえも、その権威化のために役立てています。
さらに公家の子女を家に迎えるようになります。細川政元が九条関白家から養子・澄之を家に迎えた
のは画期的なことです。
駿河の今川氏もしばしば妻女・養子を公卿から迎えています。
また、武田信玄の継妻(三条の方)も公卿の出であった。
今川義元は、公卿そのものの生活を展開し、駕興で上洛軍を率いて、桶狭間で落命した。
周防の大内氏も文化人大名であったが、義元同様、その武士たる主体性を失って亡んでいます。
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戦国乱世 その19
『金力の天下統一』
もとより国衆らが握った畿内中小都市も「都」に従属した。
将軍家と細川・三好氏らが握る「都」と国衆の都市とで、都市を媒介として全国組織が成立していき
ます。
賑あう京の町

商人の往来や商品流通が大名領国の障壁を崩すようになります。
「都」を頂点として、西は薩摩、東は陸奥に至る経済網が張られたのです。
城下町などはその結節点で、大名領国はその網目で、なお、そこに子網が張られた形であった。
経済的には全国組織が成立したといっていいのでしょう。
「都」の町人らの全国政権出現の待望は高まります。
金力の天下統一が、武力の天下統一を一歩先んじた感があった。
もちろん金力と武力は即一的なものだったのです。
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将軍家と細川・三好氏らが握る「都」と国衆の都市とで、都市を媒介として全国組織が成立していき
ます。
賑あう京の町

商人の往来や商品流通が大名領国の障壁を崩すようになります。
「都」を頂点として、西は薩摩、東は陸奥に至る経済網が張られたのです。
城下町などはその結節点で、大名領国はその網目で、なお、そこに子網が張られた形であった。
経済的には全国組織が成立したといっていいのでしょう。
「都」の町人らの全国政権出現の待望は高まります。
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戦国乱世 その18
『発展する流通』
富国策で殖産興業が進められ、いわゆる特産品が現れてきた。
陶器・漆器・鋳物などで、奢侈生活品(ぜいたくひん)も生産され、茶湯の流行がうながされてい
ます。
これらの商品の移出先は京都で、都でその名を知られたものが特産品となるのです。
都はその集散地となった。
自治都市「堺」

もとより都から大名に軍需品や文化生活物資が送られてくる。
織物・古着などが農村にも迎えられます。
また、城下町や港町には京都や堺商人の定住も見えてき、唐人らの来往もあった。
これらが異国の珍貨や薬種・香料を商うものであったことは言うまでもありません。
遠隔地商業の発生は古くからあったが、商品流通の全国的展開が戦国大名時代に著しくなったの
です。
すでに堺の町の発展は知られますが、戦国武将の上洛が企てられた永禄年代に、その飛躍的発展
があった。
むしろ、京都・奈良を従属させるいきおいもあった。
町人の交流この3都市の一体化した「都」が出現することになる。
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陶器・漆器・鋳物などで、奢侈生活品(ぜいたくひん)も生産され、茶湯の流行がうながされてい
ます。
これらの商品の移出先は京都で、都でその名を知られたものが特産品となるのです。
都はその集散地となった。
自治都市「堺」

もとより都から大名に軍需品や文化生活物資が送られてくる。
織物・古着などが農村にも迎えられます。
また、城下町や港町には京都や堺商人の定住も見えてき、唐人らの来往もあった。
これらが異国の珍貨や薬種・香料を商うものであったことは言うまでもありません。
遠隔地商業の発生は古くからあったが、商品流通の全国的展開が戦国大名時代に著しくなったの
です。
すでに堺の町の発展は知られますが、戦国武将の上洛が企てられた永禄年代に、その飛躍的発展
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むしろ、京都・奈良を従属させるいきおいもあった。
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真田丸 その35
『真田丸の攻防』
翌日の4日に、真田丸はまた敵の猛攻を受けた。
この前夜の夜半から真田丸の空壕の中に越前の松平忠直の兵が3、4百人忍び込み、井伊家の兵も
間近く忍び寄っていた。
ただいま真田丸工事中

<NHK HPよりお借りしています>
どうした訳かというと、城方の将の一人・南条光明という男が伊達政宗に誘惑されて、関東勢を
手引きして城内にもぐり込ませる約束をした。
その南条は密計が露見して誅された、寄せ手はそれを未だ知らなかった。
てっきり城は4日の早朝には落ち、城内は混乱に陥るに決まっているので、それに乗じて真田丸に
乗り入ろうというつもりだったのです。
この朝は霧が深く、全然見通しがきかなかった、夜が明けて信繁は敵が間近く敵が迫っていること
が分かったので、直ちに射撃の命令を下して、つるべ撃ちに放させた。
塀際に取り付いている越前兵は一人残らず撃ち落され、井伊家の軍勢は撃ちまくられ、壕際に寄り
つくことも出来ず混乱した。
これを見て、出丸の中では、
「よい機(しお)、討って出しょうぞ」
と勇みたったが、信繁は首を横に振った。
「今、討って出れば、一旦の勝利は得ることができるが、引き上げの時、必ず付け入らされる。付
け入らせないようにすれば、討って出た者を捨て殺しにせねばならぬことになる。すべて城内から
討って出る時は、引き上げの工夫がある時に限るのだ」
と教えた。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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この前夜の夜半から真田丸の空壕の中に越前の松平忠直の兵が3、4百人忍び込み、井伊家の兵も
間近く忍び寄っていた。
ただいま真田丸工事中

<NHK HPよりお借りしています>
どうした訳かというと、城方の将の一人・南条光明という男が伊達政宗に誘惑されて、関東勢を
手引きして城内にもぐり込ませる約束をした。
その南条は密計が露見して誅された、寄せ手はそれを未だ知らなかった。
てっきり城は4日の早朝には落ち、城内は混乱に陥るに決まっているので、それに乗じて真田丸に
乗り入ろうというつもりだったのです。
この朝は霧が深く、全然見通しがきかなかった、夜が明けて信繁は敵が間近く敵が迫っていること
が分かったので、直ちに射撃の命令を下して、つるべ撃ちに放させた。
塀際に取り付いている越前兵は一人残らず撃ち落され、井伊家の軍勢は撃ちまくられ、壕際に寄り
つくことも出来ず混乱した。
これを見て、出丸の中では、
「よい機(しお)、討って出しょうぞ」
と勇みたったが、信繁は首を横に振った。
「今、討って出れば、一旦の勝利は得ることができるが、引き上げの時、必ず付け入らされる。付
け入らせないようにすれば、討って出た者を捨て殺しにせねばならぬことになる。すべて城内から
討って出る時は、引き上げの工夫がある時に限るのだ」
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戦国乱世 その17
『戦国大名は裕福だった』
戦国大名らは交通の発達した平地に城郭を構え、そこで城下町の経営を企て富国強兵策を実施した。
城は防塞と政庁とを兼ねた大小名の権力の象徴であったのです。
天文年間になると城づくりの名人などといわれる者が出てきますが、武術・兵法書などの伝授がさ
かんになり、また、鉄砲の伝来などもあり、この頃に城もいちだんと拡大強化されます。
清洲城(模擬天守)

天文10年に、甲賀衆が守っていた笠置城に、伊賀衆が忍び込み放火して追い落としている。
城主の寝首や金蔵を狙う忍者の活動も始まった。
この頃、城と金とに恵まれた戦国武将が出現し、組織的に訓練された精鋭を率いて決戦に挑む時期
を迎えます。
城郭は金と当代の技術・文化の結晶で、ここに巨費が使われたのです。
戦国大名から近世初期の大名たちは、最高の富裕者であったのです。鉱山の採掘もあったが、その
多くは民衆からの年貢であった。
当然、農民らは困窮し、商工人も同じであったが、大小名に結ばれた特権者は、いくらかは恵まれ
ていたのでしょう。
ここで城下町を中心とする領域経済が発展してきます。城下町が親町で領国内の町場は枝町の関係
です。
織田信長が清州城時代、商人司に伊藤氏を任命したといいますがこの特権商人が領域経済網の網元
だったのです。
江戸時代の超高速参勤交代の時代と随分違っていたのですね。
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もう、ご覧になりましたか。


<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
戦国大名らは交通の発達した平地に城郭を構え、そこで城下町の経営を企て富国強兵策を実施した。
城は防塞と政庁とを兼ねた大小名の権力の象徴であったのです。
天文年間になると城づくりの名人などといわれる者が出てきますが、武術・兵法書などの伝授がさ
かんになり、また、鉄砲の伝来などもあり、この頃に城もいちだんと拡大強化されます。
清洲城(模擬天守)

天文10年に、甲賀衆が守っていた笠置城に、伊賀衆が忍び込み放火して追い落としている。
城主の寝首や金蔵を狙う忍者の活動も始まった。
この頃、城と金とに恵まれた戦国武将が出現し、組織的に訓練された精鋭を率いて決戦に挑む時期
を迎えます。
城郭は金と当代の技術・文化の結晶で、ここに巨費が使われたのです。
戦国大名から近世初期の大名たちは、最高の富裕者であったのです。鉱山の採掘もあったが、その
多くは民衆からの年貢であった。
当然、農民らは困窮し、商工人も同じであったが、大小名に結ばれた特権者は、いくらかは恵まれ
ていたのでしょう。
ここで城下町を中心とする領域経済が発展してきます。城下町が親町で領国内の町場は枝町の関係
です。
織田信長が清州城時代、商人司に伊藤氏を任命したといいますがこの特権商人が領域経済網の網元
だったのです。
江戸時代の超高速参勤交代の時代と随分違っていたのですね。
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