Happy Halloween
真田丸 その40
『伊達軍との遭遇』
道明寺の戦いがこう伝わります。
信繁が当たったのは伊達家の軍勢であった。
道明寺の戦い <クリックで拡大>

伊達家には騎馬鉄砲という特別な隊があって、家中の2・3男で壮力の者を選んで、駿足の馬に
乗せ鉄砲を撃ちかけ、迫ってきて程よい所まで来るや、一発撃ち、煙の下から乗りかけて蹴散ら
し斬り崩すという戦法。
この時もそうであった。
8百の騎馬鉄砲を先陣に立て、その後に数千の兵がひかえて押して来る。
信繁は兵士らに兜と槍を従者に渡させて次第に敵に近づき、敵合い10町ばかりになった時、使
番に下知をふれさせた。
「兜を着けよ」
皆、兜を着用して、さらに進んで2・3町ほどに迫ると、
「槍をとれい」
と下知した。
兜をかぶり、槍を取って、兵士らは勇気をふるい立たたせた。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
道明寺の戦いがこう伝わります。
信繁が当たったのは伊達家の軍勢であった。
道明寺の戦い <クリックで拡大>

伊達家には騎馬鉄砲という特別な隊があって、家中の2・3男で壮力の者を選んで、駿足の馬に
乗せ鉄砲を撃ちかけ、迫ってきて程よい所まで来るや、一発撃ち、煙の下から乗りかけて蹴散ら
し斬り崩すという戦法。
この時もそうであった。
8百の騎馬鉄砲を先陣に立て、その後に数千の兵がひかえて押して来る。
信繁は兵士らに兜と槍を従者に渡させて次第に敵に近づき、敵合い10町ばかりになった時、使
番に下知をふれさせた。
「兜を着けよ」
皆、兜を着用して、さらに進んで2・3町ほどに迫ると、
「槍をとれい」
と下知した。
兜をかぶり、槍を取って、兵士らは勇気をふるい立たたせた。
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秀吉と桃山文化 その6
『備中高松城水攻め』
1582年(天正10)5月、秀吉が備中の高松城を水攻めにしたとき、諸陣にふれて士気を鼓
舞しようとして、詠んだ一首は
両川のひとつに成って落ちぬれば毛利高松ももくづにぞなる
と、いうのであった。
備中高松城水攻め(備中高松城登城記は「こちら」です。)

両川とは、毛利の名将・吉川元春(元就の二男)と小早川隆景(元就の三男)を併称したもので
す。
この時、毛利輝元(元就の嫡孫)が、この両将を連れ大軍を率い高松城の後巻にやってきたから
です。
この狂歌が毛利勢にも宣伝され、やがて高松城主・清水宗治の自刃となり、秀吉は急速に毛利と
和睦して東上し、本能寺で信長を横殺した逆臣・明智光秀と山崎で戦い、これを討ち滅ぼしてい
ます。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
1582年(天正10)5月、秀吉が備中の高松城を水攻めにしたとき、諸陣にふれて士気を鼓
舞しようとして、詠んだ一首は
両川のひとつに成って落ちぬれば毛利高松ももくづにぞなる
と、いうのであった。
備中高松城水攻め(備中高松城登城記は「こちら」です。)

両川とは、毛利の名将・吉川元春(元就の二男)と小早川隆景(元就の三男)を併称したもので
す。
この時、毛利輝元(元就の嫡孫)が、この両将を連れ大軍を率い高松城の後巻にやってきたから
です。
この狂歌が毛利勢にも宣伝され、やがて高松城主・清水宗治の自刃となり、秀吉は急速に毛利と
和睦して東上し、本能寺で信長を横殺した逆臣・明智光秀と山崎で戦い、これを討ち滅ぼしてい
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秀吉と桃山文化 その5
『狂歌で罵る』
秀吉の歌道について調べると、まず狂歌・狂句の実例があります。
最も古いものでは、1579年(天正7)頃、主君・信長の命令で播磨の豪族・別所長治を三木
城に攻めたとき、明石与四郎(則実)という武士に送り、次の二首の狂歌に対して返歌を求めた
書状があります。
三木城攻め (三木合戦の記事は「こちら」です。)

おくびやう者のきぐちいそぐ雲の上きえもはてなん人のありさま
つはものを千代にふるまで残しをきのちのたからとなすは此の御代
与四郎が戦場で兵卒を残したまま、親や主人よりも先に退却したので卑怯であると、ののしって
送った手紙です。
部下の卑怯未練なふるまいを、ののしりながらも、このように狂歌二首を詠んだ人物のおおらか
さが伺えますが、狂歌そのものは駄作といわれます。
1579年(天正7)といえば、秀吉43歳のときの作です。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
秀吉の歌道について調べると、まず狂歌・狂句の実例があります。
最も古いものでは、1579年(天正7)頃、主君・信長の命令で播磨の豪族・別所長治を三木
城に攻めたとき、明石与四郎(則実)という武士に送り、次の二首の狂歌に対して返歌を求めた
書状があります。
三木城攻め (三木合戦の記事は「こちら」です。)

おくびやう者のきぐちいそぐ雲の上きえもはてなん人のありさま
つはものを千代にふるまで残しをきのちのたからとなすは此の御代
与四郎が戦場で兵卒を残したまま、親や主人よりも先に退却したので卑怯であると、ののしって
送った手紙です。
部下の卑怯未練なふるまいを、ののしりながらも、このように狂歌二首を詠んだ人物のおおらか
さが伺えますが、狂歌そのものは駄作といわれます。
1579年(天正7)といえば、秀吉43歳のときの作です。
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秀吉と桃山文化 その4
『関白秀吉』
「奥山に紅葉ふみわけ鳴く蛍」という句も、決して太閤無学説の立証にはならないのでしょう。
尾張の土民の子として育ち、田んぼや草むらで遊んでいたはずの秀吉が、蛍が鳴かないことは知
っていることです。
豊臣秀吉(1537-1598年)

俳諧の発句は付け句をする人を困却させるのを目的にするわけですから、奇想天外な句を選ぶの
が常道ですから、これは秀吉の文学的素養の優秀さを示す句であって、無学さを物語る実例にな
らないのでしょう。
確実な文献にもとづいて、秀吉の教養の程度を伺ってみると、まず秀吉の御伽衆・木村由己が書
いた『関白任官記』によると、秀吉は素性が卑しいために学問をしなかったことを後悔し、関白
に任官すると同時に儒者を招き、数巻の古い伝記や諸家の系図などを調査研究したというのです。
秀吉が亡君・信長の意思をついで、中央の政権を掌握し関白に命ぜられたのは、1585年(天
正13)7月11日のことであり、彼はすでに49歳になっていました。
この『関白任官記』の記事を文字通り解釈すると、それ以前はまったく無学であったかのように
聞こえますが、そうだったのでしょうか。
これは関白任官と同時に儀礼式典のことを知る必要があったので、特に儒者を集めて諸家の古伝
や系図を研究した訳で、それ以前も狂歌・狂句・和歌・茶の湯などのたしなみが十分にあったの
です。
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ハロウィンがもうすぐ!

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
「奥山に紅葉ふみわけ鳴く蛍」という句も、決して太閤無学説の立証にはならないのでしょう。
尾張の土民の子として育ち、田んぼや草むらで遊んでいたはずの秀吉が、蛍が鳴かないことは知
っていることです。
豊臣秀吉(1537-1598年)

俳諧の発句は付け句をする人を困却させるのを目的にするわけですから、奇想天外な句を選ぶの
が常道ですから、これは秀吉の文学的素養の優秀さを示す句であって、無学さを物語る実例にな
らないのでしょう。
確実な文献にもとづいて、秀吉の教養の程度を伺ってみると、まず秀吉の御伽衆・木村由己が書
いた『関白任官記』によると、秀吉は素性が卑しいために学問をしなかったことを後悔し、関白
に任官すると同時に儒者を招き、数巻の古い伝記や諸家の系図などを調査研究したというのです。
秀吉が亡君・信長の意思をついで、中央の政権を掌握し関白に命ぜられたのは、1585年(天
正13)7月11日のことであり、彼はすでに49歳になっていました。
この『関白任官記』の記事を文字通り解釈すると、それ以前はまったく無学であったかのように
聞こえますが、そうだったのでしょうか。
これは関白任官と同時に儀礼式典のことを知る必要があったので、特に儒者を集めて諸家の古伝
や系図を研究した訳で、それ以前も狂歌・狂句・和歌・茶の湯などのたしなみが十分にあったの
です。
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秀吉と桃山文化 その3
『実利主義』
右筆が、醍醐の「醍」の字を書けなかったのを、「大」の字を書けばよいと教えたのは、むしろ
秀吉の実利主義の一面と、諧謔(かいぎゃく)的な性格を物語る話として、興味があるところで
す。
秀吉直筆の手紙(for官兵衛)

今の世に秀吉が生きているとしたら、漢字制限論者なのでしょう。
秀吉自筆の手紙などは、みな仮名書きなのです。
これらは変体仮名を交えた平仮名であって、漢字はまれにしか書いていないのです。
しかし、これらを見て、秀吉は漢字を知らなかったのだ、やはり無学であったのだと、いうのは
早合点なのでしょう。
その時代の手紙の書き方を検証する必要があります。
手紙には書状と消息の2つの形式があって、書状の場合は漢字を用いますが、消息の場合は殆ど
平仮名で書くのが当時の慣例であったようです。
ですから、仮名で書いてあるから、秀吉は漢字を知らなかったという判断は間違っているのかも
知れません。
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右筆が、醍醐の「醍」の字を書けなかったのを、「大」の字を書けばよいと教えたのは、むしろ
秀吉の実利主義の一面と、諧謔(かいぎゃく)的な性格を物語る話として、興味があるところで
す。
秀吉直筆の手紙(for官兵衛)

今の世に秀吉が生きているとしたら、漢字制限論者なのでしょう。
秀吉自筆の手紙などは、みな仮名書きなのです。
これらは変体仮名を交えた平仮名であって、漢字はまれにしか書いていないのです。
しかし、これらを見て、秀吉は漢字を知らなかったのだ、やはり無学であったのだと、いうのは
早合点なのでしょう。
その時代の手紙の書き方を検証する必要があります。
手紙には書状と消息の2つの形式があって、書状の場合は漢字を用いますが、消息の場合は殆ど
平仮名で書くのが当時の慣例であったようです。
ですから、仮名で書いてあるから、秀吉は漢字を知らなかったという判断は間違っているのかも
知れません。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
秀吉と桃山文化 その2
『創作された秀吉の無学伝承』
いつの世でも大衆文芸というものは、往々にして時の権力者に対する抵抗から生まれているもの
です。
長浜城の秀吉

江戸町人文芸の生命と魅力もそこにあったのでしょう。
町人たちは、風刺や皮肉や洒落によって、当時の将軍や大名や武士に対して、はかないレジスタ
ンスを試みた。
しかし、それが権力者の目に触れるとただちに処罰された。が、ひと時代前の権力者であった太
閤秀吉のことを揶揄することは、大目に見逃されていたのでしょう。
徳川幕府の威信を傷つけさえしまければ、秀吉個人のことは、なんと茶化そうと差し支えなかっ
たのでしょう。
太閤伝説と秀吉物語は、このような事情で、江戸中期以降に、町人学者や大衆作家の手によって、
面白くおかしく創作されたといいます。
「老人雑話」の伝説も、「曽呂利狂歌咄」の逸話も、その一例に過ぎないのでしょう。
じゃ、秀吉は本当のところどうだったのでしょうか。
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いつの世でも大衆文芸というものは、往々にして時の権力者に対する抵抗から生まれているもの
です。
長浜城の秀吉

江戸町人文芸の生命と魅力もそこにあったのでしょう。
町人たちは、風刺や皮肉や洒落によって、当時の将軍や大名や武士に対して、はかないレジスタ
ンスを試みた。
しかし、それが権力者の目に触れるとただちに処罰された。が、ひと時代前の権力者であった太
閤秀吉のことを揶揄することは、大目に見逃されていたのでしょう。
徳川幕府の威信を傷つけさえしまければ、秀吉個人のことは、なんと茶化そうと差し支えなかっ
たのでしょう。
太閤伝説と秀吉物語は、このような事情で、江戸中期以降に、町人学者や大衆作家の手によって、
面白くおかしく創作されたといいます。
「老人雑話」の伝説も、「曽呂利狂歌咄」の逸話も、その一例に過ぎないのでしょう。
じゃ、秀吉は本当のところどうだったのでしょうか。
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