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「東国」「坂東」「関東」とは? そのⅡ

『関東とは、どこを言った?』

平安時代の貴族は、その頃の「坂東」を大和時代の「東国」と変わりない蛮族の地と見なして

いて、坂東武者のことを「東蝦夷(あずまえびす)」と呼んでいた。

「坂東武者などは、犬が2本足で立ったようなものにおじゃる」

などと言い交していたという。

ba.坂東武士 02
<坂東市観光協会からお借りしています>

また、「関東」の呼び名も、すでに8世紀の半ばに生まれていたそうです。

古代三関(伊勢の鈴鹿関・美濃の不破関・越前の愛発関)の東を示す言葉だったそうですが、9

世紀には足柄・碓氷の関以東に狭められ、そのエリアが「坂東」と一致するようになっています。

すなわち「関東八州」とは、「坂東8ヵ国」の別名なのです。

室町時代には「関東」は、かつての「関八州」に甲斐(山梨県)と伊豆を加えた10国を示す

ようになり、さらに江戸時代になると、陸奥・出羽も「関東」に加えられます。

しかし、江戸っ子たちの感覚では、「関東」といえば。もっぱら箱根(足柄峠)の東を指していた

ようです。



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pig 20161129




            <参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会)>
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「東国」「坂東」「関東」とは? そのⅠ

『東国、坂東とは、どこを指す?』

日本書記の表れる「東国」の呼称は、おおむね東海道筋では遠江(静岡県西部)以東、東山道

筋では信濃国(信濃国)以東を指していたようです。

ba.坂東武士

日本書記が編纂された8世紀初頭では、この東国は蝦夷の動きをけん制すべき防人が動員され

た地域で、つまり当時の東国は、朝廷の支配が万全に行き届いていた範囲の外、すばわち広域

の辺境を意味していたのです。

見方を変えると、8世紀の日本では、静岡県や長野県が“未開の地”とされるほど、日本全国の

開発が進んでいなかったことです。

時代が進み、東方に日本国の政治・文化支配が及んでいくにつれ、東国の意味は変わっていき

ます。

鎌倉時代の東国は、京都六波羅探題が管轄する西国に区別されて、遠江・信濃・越後以東の15

国を指しています。

その15国は鎌倉幕府の直轄地だったから、以前の“未開の地”とは意味が全く違います。

一方、「坂東」という呼称は、すでに平安時代からあり、東海道の駿河(静岡県中央部)・相模

(神奈川県)の境にあたる足柄峠の東と、東山道の信濃・上野(こうずけ・群馬県)の境にあた

る碓氷峠の東を、合わせて「坂東」と呼んでいた。

その「坂東」は、平安後期には「坂東8ヵ国」と称され、強く勇ましい坂東武士を生み出す舞台

となっています。




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pig 20161128



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秀吉と桃山文化 その20

『秀吉の死因』

秀吉の死因については諸説があり、明国の使節によって毒殺されたという説まであります。

これは前田家の古記録に見えますから、当時、そのような風説があったということは事実なので

しょう。

豊臣秀吉(1537-1598年)
to.豊臣秀吉 小

しかし、確かな証拠があるわけででもない。病死説のほうが信用できるでしょう。

その病死説にも、腎虚説と労咳説があります。

腎虚説はあまりにも女性との交渉が過ぎたため、腎水(精液)が虚(から)になり、そのため死

んだというのですが、現代医学ではこのような説、あるのでしょうか。

無難な説は、やはり労咳説なのでしょう。

当時の日記や古文書には、太閤秀吉は死去する数年前から、しきりに咳をしていたというのです。

そうして、それが次第にひどくなったといいますから、やはり労咳なのでしょう。

労咳とは結核のことですが、昔は肺結核と気管支炎の区別さえはっきりしていない訳ですから、

そのどちらかであったと判断すると間違いないことなのでしょう。

あるいは喘息だったのかもしれません。

腎虚にしても労咳にしても、消耗病であることに違いはなく、伊予の国の宇和島藩・伊達家に伝

わった秀吉晩年の画像の、やせ衰えた容貌を見ても、そのことに頷ける気がします。


秀吉公にお付き合い頂き、ありがとうございました。

秀吉公から暫くはなれ、また、別の機会に秀吉公を勉強したいと思います。




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pig 20161127



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真田丸 その40

『不詳の子・秀頼』

城中の精鋭は茶臼山付近に集まった。

信繁は茶臼山に、毛利勝永はその左方天王寺の南門に、更にその左方に大野治長、そこから少し

さがった後方に大野主馬が控えた。

豊臣大坂城
oo,大阪城 000


奇兵となって迂回して敵の背後をつく役を明石全登が担当し船場に控えた。

正午ごろ徳川勢は押し寄せて来た。

徳川勢のこの到着が意外に早かったので、戦いもすでに始まっています。

秀頼の出馬が遅れ、せっかく出馬しても桜門までしか出なかったという。

桜門といえば本丸の大手門です。

出馬なのでしょうか。

秀頼はついに不肖の子であった。この時、秀頼は23歳です。男が23になっていて、こんな様では、

ならびなき武将、英雄であった父の鼻クソほどもない器量であったというほかはないでしょう。

こんな様であったので、明石全登の奇兵も予定した方面に出るにも出られなかったという。



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pig 20161126


                  <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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秀吉と桃山文化 その19

『豊臣の天下』

こんな訳ですから、「真書太閤記」に書かれている『8月16日に大老・中老・五奉行を集めて、

堂々と後事を託したというのは、ありえないことです。

to.豊臣秀吉 小

まして、家康や利家に向かい、秀頼が成人した後に、天下を治める器量がなければ、家康と利家

とで政治を預かり天下を治めて欲しいと、秀吉が依頼したなどとは、蜀漢の昭烈皇帝が諸葛孔明

に遺詔したという中国の故事をもとに、デッチあげた話なのでしょう。

事実、秀吉はそれほどメデタイ人間でなく、人の思惑はどうであれ是が非でも秀頼に豊臣の天下

を渡したかったのです。



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昨年の写真です
pig 20161125




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秀吉と桃山文化 その18

『秀吉の最後』

「真書太閤記」に書かれた太閤秀吉の末期は、史実とは少々違うようです。

to.豊臣秀吉 002

相国寺の長老・西笑承タイの書状や、家康の侍医・板坂卜斎の覚書や毛利家の古文書に載っている

五大老の起請文、秀吉自筆の遺言状などによると、秀吉は慶長3年の5月頃から発病し、次第に痩

せ衰え、7月には伏見城内の前田利家の屋敷で、秀吉の遺物を家族や諸大名に分配し、起請文を提

出させ、8月5日に病床で五大老あてに遺書をしたため、

「秀頼が成人するまで、この書付を書いた人々に、頼み申す。何事も、このほかには、思い残すこ

ともない。くれぐれも、秀頼のこと、頼み申す。5人のかたがたに、お頼みする。くわしいことは

五奉行に申し渡した。名残り惜しいことだ」

と繰り返し、繰り返し、懇願している。

五大老・五奉行などは、同日、互いに、8ヵ条の起請文を交換し、後事について誓約を結んだと

いう。

その後、秀吉の病勢は悪くなる一方で、意識も朦朧となってきたので、五大老は相談の末に、3ヵ

条の指令を発し、今後の事は形式上この指令に従うことにとどめ、他日、秀吉の病が回復してか

ら、改めて御定を承り、それに従うように定めたという。

8月16日、秀吉は五大老を枕元に招き、また、ねんごろに秀頼の将来を託したけれど、病勢は

刻々と危篤となり、18日の午前2時になって息をひきとった。



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pig 20161124




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秀吉と桃山文化 その17

『秀吉の遺言』

英雄太閤秀吉の末期をもっとも演技的に見せてくれたのは「真書太閤記」ですが、これは江戸幕

末の1852年(嘉永5)から明治にかけて、栗原柳庵という民間の学者が編集した書物です。

1598年(慶長3)8月16日というと、没する3日前のことです。

太閤秀吉(1537-1598年)
to.豊臣秀吉

太閤秀吉は、大老・中老・五奉行をはじめ、譜代・外様の諸大名を病床ちかくに召し寄せて

「わしのいのちも、旦夕に迫った。もはや両3日とは、もたないであろう。わしが死んだなら、

死を極秘にせよ。もちろん葬式など、やるに及ばぬ。大老・中老・五奉行の面々は、遠謀をめぐら

し、朝鮮在陣の将兵らを無事に帰還させよ。わしが一番心配しているのは、この事だ。もし、下手

やって将兵らがいたずらに異国の地で、命を落とすようなことがあったなら、その身だけか、日本

の国の恥にもなる。それに、わしが死ねば、わが子秀頼は、まだ幼弱であるから、天下の政治のこ

とは、各々方で相談し、よろしきに計らうがよい。とりわけ、徳川家康と前田利家のうち一人は、

秀頼の後見役となり、一人は執権職として、政令をただし、一年おきに、その役目を交替して、秀

頼を補佐せよ。その上で、もし秀頼が成人して、天下に号令するほどの器量があったならば、一人

前の武将にもして欲しい。しかし、万が一、その器でなければ、両人が政治をあずかり、天下を治

めてほしい」

と遺言した。

家康と利家は、謹んで

「そのことについては、少しも心配なされますな。それがしども、この世にあるかぎりは、誠心誠

意、幼君・秀頼公を補佐いたそう」

と答えたという。


この書物に基づく小説やドラマはたくさんありますが、秀吉没後、250年も後に書かれた書物で

すから、本当のところ、どうだったのでしょうね。



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pig 20161123




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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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