2016年 日本百名城巡りのまとめ
『2016年の城めぐりは、日本百名城など5城を攻略 』
今年も最後の一日となりました。
今年もたくさんの人に遊びに来て頂き、また、多くのコメントを頂き、ありがとうございました。
今年の城廻りは低調で、5城6回という過去最低の記録でした。
来年は頑張るぞー。 毎年のことですから、鬼に笑われていますよね。
4月26日 大津城 何もありませんでしたねー。

6月16日 大多喜城 本多忠勝さんの城ですから賑わっていました。

6月16日 久留里城 模擬天守ですけど、郭がたくさん残っています。

8月26日 金沢城 2回目のライトアップ撮影です。
来年の1月下旬に、ライトアップされ城内が開放される『冬の段』に行こうと思っています。

12月16日 大阪城 15日の夜にライトアップ撮影を予定しましたが、厳寒で中止しました。

12月21日 大阪城 寒さに負けてはダメということで、翌週にリベンジ。

今年も一年ありがとうございました。
健やかな新年をお迎えください!
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いつもありがとうございます。
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今年の城廻りは低調で、5城6回という過去最低の記録でした。
来年は頑張るぞー。 毎年のことですから、鬼に笑われていますよね。
4月26日 大津城 何もありませんでしたねー。

6月16日 大多喜城 本多忠勝さんの城ですから賑わっていました。

6月16日 久留里城 模擬天守ですけど、郭がたくさん残っています。

8月26日 金沢城 2回目のライトアップ撮影です。
来年の1月下旬に、ライトアップされ城内が開放される『冬の段』に行こうと思っています。

12月16日 大阪城 15日の夜にライトアップ撮影を予定しましたが、厳寒で中止しました。

12月21日 大阪城 寒さに負けてはダメということで、翌週にリベンジ。

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東海道五十三次は、なぜ53なの
『東海道五十三次は家康さんが決めた?』
江戸と京都を結ぶメインルートは、126里余の東海道でした。
東海道の大半の宿駅は、江戸幕府の開設当初からあったが、寛永年間(1624~43年)に53
の宿駅が整います。
「東海道五十三次」の「次」は、「人馬を継ぐ」を意味し「次ぐ」です。
東海道五十三次 日本橋

江戸時代、公的な荷物は宿場ごとに止められ、中身を改められたうえで先の宿場まで継いでいく決
まりになっており、そこからきた言葉なのです。
江戸幕府は大坂冬・夏の陣で豊臣家を滅ぼしたあと、「天下の台所」として発展する大坂に城代
を置くとともに、東海道の大津宿から分岐して伏見・淀・枚方・守口の4宿を経て、大坂にいたる
13里の街道を整えています。
これを、伏見から京へ向かう街道を「京街道」と呼んでいました。
各街道の再整備は、そもそも大名の参勤交代のために行われたが、大名たちは政治的配慮から
京都へは立ち寄らず、大津~大坂のルートをとっていた。
東海道といえば江戸・京都間の「53次」を示しますが、江戸時代には、江戸~京都のルートに
大津~大坂のルートを加えて「五十七次」ともいっていたそうです。
東海道が基本的に「53次」だったことについては、味わい深い由来が語られています。
華厳経における「入法界品」の善財童子が、文殊菩薩の命により、53人の師を経て普賢菩薩の
ところで悟りを開いた。
その一説にちなんで、徳川家康が江戸(穢土)から京(普賢菩薩の住まう所)への53に定めた
というのです。
この由来は、後世につくられたこじつけと思われますが、昔の人の信心深さを考えれば、十分あ
りえる話かも知れません。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会)>
江戸と京都を結ぶメインルートは、126里余の東海道でした。
東海道の大半の宿駅は、江戸幕府の開設当初からあったが、寛永年間(1624~43年)に53
の宿駅が整います。
「東海道五十三次」の「次」は、「人馬を継ぐ」を意味し「次ぐ」です。
東海道五十三次 日本橋

江戸時代、公的な荷物は宿場ごとに止められ、中身を改められたうえで先の宿場まで継いでいく決
まりになっており、そこからきた言葉なのです。
江戸幕府は大坂冬・夏の陣で豊臣家を滅ぼしたあと、「天下の台所」として発展する大坂に城代
を置くとともに、東海道の大津宿から分岐して伏見・淀・枚方・守口の4宿を経て、大坂にいたる
13里の街道を整えています。
これを、伏見から京へ向かう街道を「京街道」と呼んでいました。
各街道の再整備は、そもそも大名の参勤交代のために行われたが、大名たちは政治的配慮から
京都へは立ち寄らず、大津~大坂のルートをとっていた。
東海道といえば江戸・京都間の「53次」を示しますが、江戸時代には、江戸~京都のルートに
大津~大坂のルートを加えて「五十七次」ともいっていたそうです。
東海道が基本的に「53次」だったことについては、味わい深い由来が語られています。
華厳経における「入法界品」の善財童子が、文殊菩薩の命により、53人の師を経て普賢菩薩の
ところで悟りを開いた。
その一説にちなんで、徳川家康が江戸(穢土)から京(普賢菩薩の住まう所)への53に定めた
というのです。
この由来は、後世につくられたこじつけと思われますが、昔の人の信心深さを考えれば、十分あ
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「風流人 塙団右衛門」 その7
『団右衛門の最後』
塙団右衛門は、大坂夏の陣では部将のひとりに任じられ、緒戦における紀州攻めで大野治房の
指揮下で出陣し、浅野長晟と対戦。
団右衛門の墓

4月29日、樫井の戦いで、一番槍の功名を狙い、仲が悪かった先陣の岡部大学(則綱)と競
い合って突出し、治房本隊や和泉国の一揆勢との連携が取れないまま、混戦に陥った。
団右衛門は浅野家臣の田子助左衛門、亀田大隅、八木新左衛門らと交戦。
一説では、団右衛門は田子の弓矢を額に受けて落馬したところを、八木に組付かれて首を打ち
取られたという。
団右衛門も死に場所を求めて集まったひとりだったのでしょうか。
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<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎)>
塙団右衛門は、大坂夏の陣では部将のひとりに任じられ、緒戦における紀州攻めで大野治房の
指揮下で出陣し、浅野長晟と対戦。
団右衛門の墓

4月29日、樫井の戦いで、一番槍の功名を狙い、仲が悪かった先陣の岡部大学(則綱)と競
い合って突出し、治房本隊や和泉国の一揆勢との連携が取れないまま、混戦に陥った。
団右衛門は浅野家臣の田子助左衛門、亀田大隅、八木新左衛門らと交戦。
一説では、団右衛門は田子の弓矢を額に受けて落馬したところを、八木に組付かれて首を打ち
取られたという。
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「風流人 塙団右衛門」 その6
『派手なダテ者』
とたんに、団右衛門は膝の上に引き裂きためた紙をパッと宙に投げた。
落花が散るような華やかさです。

団右衛門はすくっと立ち上がり、左手に弓を取り大音声に呼ばわった。
「これはこの手の大将、塙団右衛門直之である。お退屈しのぎに、日ごろ手慣れの矢を進上する。
受けてごろうぜよ」
そして、散々に射込んできた。
たちまち、数人が倒れた。
蜂須賀家の方では
「すわや、はかりごとにかかったぞ!」
と、驚き、狼狽して、やっと応射にかかったが、もうその時には、牛の革の盾が左右から閉まって、
引っ込んで行った。
この団右衛門の茶目気たくさんの、人を食ったしかも派手で豪快なやり方は、フランスのシラノ・
ド・ベルジュラック的伊達者です。
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とたんに、団右衛門は膝の上に引き裂きためた紙をパッと宙に投げた。
落花が散るような華やかさです。

団右衛門はすくっと立ち上がり、左手に弓を取り大音声に呼ばわった。
「これはこの手の大将、塙団右衛門直之である。お退屈しのぎに、日ごろ手慣れの矢を進上する。
受けてごろうぜよ」
そして、散々に射込んできた。
たちまち、数人が倒れた。
蜂須賀家の方では
「すわや、はかりごとにかかったぞ!」
と、驚き、狼狽して、やっと応射にかかったが、もうその時には、牛の革の盾が左右から閉まって、
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「木更津恋物語 冬花火」 24.12.2016
「lover's sanctuary in 中の島大橋」
今年も木更津冬花火に行ってきました。
毎年、12月から翌年のバレンタインまで、毎週土曜日に開催されていますが、今年は出遅れて
先週の土曜日が初見学でした。

花火打ち上げ時間は、今年も5分間です。 アッという間に終わってしまいます。

打ち上げ開始後は、アッという間ですからカメラの調整もできません。

特性うちわを忘れてしまいましたので、重ね撮りも上手くいきません。


夏花火に比べると、小ぶりの花火ばかりです。

次回は、カメラの設定を確実に行い、小道具も忘れないように行きたいものです。

年末始は中止とのことで、次回は1月7日開催のようです。
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今年も木更津冬花火に行ってきました。
毎年、12月から翌年のバレンタインまで、毎週土曜日に開催されていますが、今年は出遅れて
先週の土曜日が初見学でした。

花火打ち上げ時間は、今年も5分間です。 アッという間に終わってしまいます。

打ち上げ開始後は、アッという間ですからカメラの調整もできません。

特性うちわを忘れてしまいましたので、重ね撮りも上手くいきません。


夏花火に比べると、小ぶりの花火ばかりです。

次回は、カメラの設定を確実に行い、小道具も忘れないように行きたいものです。

年末始は中止とのことで、次回は1月7日開催のようです。
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大阪城落城
『大阪城2度目のライトアップ』
先週、15日に上阪した際は、あまりにも寒くて大阪城のライトアップを撮れませんでしたので、
リベンジとして21日に大阪城のライトアップを撮ってきました。
大阪城のライトアップ撮影は2回目で、前回はKKRホテルから手抜きしての撮影でした。
(前回は「こちら」です。)
今回は、ホテルを谷町にとり「大手門」からの入城です。
入城する前に、まず千貫櫓をバチリと

大手門の多聞櫓から入城です。

怪しい人影が・・・。君は何者だ!
私は多聞櫓を守る番兵のネコです・・・。 お疲れ様です。。

あやや、西の丸から天守を見るも、街明かりに浮かぶ天守です。 ライトアップ撮影にならずか・・・。

桜門から本丸に入るも、天守はただのコンクリートの塊です。

売店の自動販売機でコーヒーをゲットし、しばし休憩をしていると、西の丸側がライトアップ

西の丸が喧騒となり

天守に火が放され

たちまち、天守は大炎上です

確か、天守が炎上したのは夏の陣だと思っていましたが、冬の陣で落城していまいました。

秀吉さんも、肩を落としていました

まったく知らずに登城しましたが、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンによる「戦国・ザ・リアルat大坂城」
12月16日から来年3月まで開演されるそうです。
上方に上洛の際は、いかがでしょうか。
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先週、15日に上阪した際は、あまりにも寒くて大阪城のライトアップを撮れませんでしたので、
リベンジとして21日に大阪城のライトアップを撮ってきました。
大阪城のライトアップ撮影は2回目で、前回はKKRホテルから手抜きしての撮影でした。
(前回は「こちら」です。)
今回は、ホテルを谷町にとり「大手門」からの入城です。
入城する前に、まず千貫櫓をバチリと

大手門の多聞櫓から入城です。

怪しい人影が・・・。君は何者だ!
私は多聞櫓を守る番兵のネコです・・・。 お疲れ様です。。

あやや、西の丸から天守を見るも、街明かりに浮かぶ天守です。 ライトアップ撮影にならずか・・・。

桜門から本丸に入るも、天守はただのコンクリートの塊です。

売店の自動販売機でコーヒーをゲットし、しばし休憩をしていると、西の丸側がライトアップ

西の丸が喧騒となり

天守に火が放され

たちまち、天守は大炎上です

確か、天守が炎上したのは夏の陣だと思っていましたが、冬の陣で落城していまいました。

秀吉さんも、肩を落としていました

まったく知らずに登城しましたが、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンによる「戦国・ザ・リアルat大坂城」
12月16日から来年3月まで開演されるそうです。
上方に上洛の際は、いかがでしょうか。
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「風流人 塙団右衛門」 その5
『何をやるんだ団右衛門』
塙団右衛門の行動の中で、それを最も良く示しているのは、大坂の陣におけるある日の彼の行動
です。
団右衛門が阿波橋と名付けられた橋の内側の陣所を守備し、彼に対して陣しているのは、阿波の
蜂須賀家です。
団右衛門VSハッチ―家です。

ある日、団右衛門の陣中から、阿波橋の上に牛の皮でこしらえた2枚の大楯を並べて押し出して来
て、橋の途中まで来ると、ピタリと止まった。
蜂須賀家の方では、いったい何であろうかと、不思議がって見ていると、その盾が両方に分かれた。
すると、そこに一人の武将が床冗に腰かけ、悠然と控えている。
黒糸おどしの鎧に、金襴の陣羽織を着、乱髪に白綾の鉢巻をしている。
これが団右衛門なのです。
「何だ、塙団右衛門じゃないか」
と、蜂須賀家の陣営でも知っている者が多数いるのです。
何をするかと見ていると、団右衛門は鎧の引き合わせから懐紙を出して、小さく引き裂きはじめ
た。
相当な時間をかけて、余念なく引き裂いているが、蜂須賀家の方ではまるでわけがわからない。
益々謎感をつのらせながた見ていた。
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うさぎの耳は声のする方向に向きます

<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎)>
塙団右衛門の行動の中で、それを最も良く示しているのは、大坂の陣におけるある日の彼の行動
です。
団右衛門が阿波橋と名付けられた橋の内側の陣所を守備し、彼に対して陣しているのは、阿波の
蜂須賀家です。
団右衛門VSハッチ―家です。

ある日、団右衛門の陣中から、阿波橋の上に牛の皮でこしらえた2枚の大楯を並べて押し出して来
て、橋の途中まで来ると、ピタリと止まった。
蜂須賀家の方では、いったい何であろうかと、不思議がって見ていると、その盾が両方に分かれた。
すると、そこに一人の武将が床冗に腰かけ、悠然と控えている。
黒糸おどしの鎧に、金襴の陣羽織を着、乱髪に白綾の鉢巻をしている。
これが団右衛門なのです。
「何だ、塙団右衛門じゃないか」
と、蜂須賀家の陣営でも知っている者が多数いるのです。
何をするかと見ていると、団右衛門は鎧の引き合わせから懐紙を出して、小さく引き裂きはじめ
た。
相当な時間をかけて、余念なく引き裂いているが、蜂須賀家の方ではまるでわけがわからない。
益々謎感をつのらせながた見ていた。
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うさぎの耳は声のする方向に向きます

<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎)>