「夫を餓死させられた満天姫」 その19
『家康の婚姻戦略』
家康が慶長3年にとりまとめた縁組に、いまひとつこういうものがあります。
孫娘の婿・小笠原秀政の娘・於虎を養女にして蜂須賀家政の嗣子・至鎮に嫁がせています。
徳川家康(1543-1616年)

家康の正室・築山殿は、武田家と内通した疑いで、家康の命を受けた家臣に殺されています。
この築山殿は家康との間に嫡男・信康と亀姫を設けていますが、嫡男・信康もまた家康に逆心
ありと、遠州二俣城で殺されていますが、この信康に2人の娘がいて、そのうちの長女が信州
の名門・小笠原家の秀政に嫁ぎ、2人の間に生まれた女が於虎です。
ですから、於虎は家康にとってはひ孫にあたります。
そのひ孫を、家康は養女にして豊家の有力武将・蜂須賀家政の嗣子・至鎮に嫁がせたのです。
家康は小田原後家といわれた出戻りの娘・富子をすでに妻子がいる、同じく秀吉の有力武将・
池田輝政に嫁がせています。
そして、於虎、さらに満天姫と、身内に年頃の娘がいればおかまいなしに彼女らを政略結婚
させて、家康は秀吉の有力武将らを味方に付けようとしたのですが、さすがに満天姫につい
ては9年もの間、嫌なものを見せつけてしまった。
かわいそうだ。
哀れだと思ったことでしょう。
いつしか23歳になってしまい、幸せな結婚生活を送ることができる相手に嫁がせてやりたい
と思ったでしょう。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
家康が慶長3年にとりまとめた縁組に、いまひとつこういうものがあります。
孫娘の婿・小笠原秀政の娘・於虎を養女にして蜂須賀家政の嗣子・至鎮に嫁がせています。
徳川家康(1543-1616年)

家康の正室・築山殿は、武田家と内通した疑いで、家康の命を受けた家臣に殺されています。
この築山殿は家康との間に嫡男・信康と亀姫を設けていますが、嫡男・信康もまた家康に逆心
ありと、遠州二俣城で殺されていますが、この信康に2人の娘がいて、そのうちの長女が信州
の名門・小笠原家の秀政に嫁ぎ、2人の間に生まれた女が於虎です。
ですから、於虎は家康にとってはひ孫にあたります。
そのひ孫を、家康は養女にして豊家の有力武将・蜂須賀家政の嗣子・至鎮に嫁がせたのです。
家康は小田原後家といわれた出戻りの娘・富子をすでに妻子がいる、同じく秀吉の有力武将・
池田輝政に嫁がせています。
そして、於虎、さらに満天姫と、身内に年頃の娘がいればおかまいなしに彼女らを政略結婚
させて、家康は秀吉の有力武将らを味方に付けようとしたのですが、さすがに満天姫につい
ては9年もの間、嫌なものを見せつけてしまった。
かわいそうだ。
哀れだと思ったことでしょう。
いつしか23歳になってしまい、幸せな結婚生活を送ることができる相手に嫁がせてやりたい
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「夫を餓死させられた満天姫」 その18
『悲運な満天姫』
福島正則のこのおどろおどろしい嫌悪すべき段取りに、意外やほかならぬ嫡男・正友が反逆した
のです。
満天姫

実の兄でないとはいえ、養子・正之はかりにも兄なのです。
父はその兄を檻に閉じ込め、ろくに食い物も与えず餓死させただけでなく、自分は兄の後釜に据え
られ、兄の連れ合いの夫ということにさせられた。
これらのことに、わずか10歳というのに正友は異様なまでに不満と不信感を持ち父・正則に逆ら
うようになった。
10歳だから、それだけ純粋だったのでしょう。
正則にすれば親の心子知らずということになります。
また短慮な正則でもあります。
かっとなって言う。
「おまえとはもう親でもなければ子でもない。顔も見たくない」
正則は正友を家来の小河若狭に預け、外出禁止を申し渡した。
正友は鬱々とした日を小河若狭のもとで送り、7年後の慶長13年3月25日に正友もまた、あの
世に逝ってしまった。
正則と妻・津田氏の間には、正友の下に忠勝という子もいた。
忠勝は慶長4年の生まれですから(満天姫が正之に嫁いできた年)、兄・正友が亡くなったとき
忠勝は10歳。
満天姫は23歳になっていた。
さすがに再び、おなじく10歳の忠勝を正友の後釜にというわけにはいかない。
正則は満天姫を実家の松平康元のもとに帰しています。
悲運な満天姫です。
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
福島正則のこのおどろおどろしい嫌悪すべき段取りに、意外やほかならぬ嫡男・正友が反逆した
のです。
満天姫

実の兄でないとはいえ、養子・正之はかりにも兄なのです。
父はその兄を檻に閉じ込め、ろくに食い物も与えず餓死させただけでなく、自分は兄の後釜に据え
られ、兄の連れ合いの夫ということにさせられた。
これらのことに、わずか10歳というのに正友は異様なまでに不満と不信感を持ち父・正則に逆ら
うようになった。
10歳だから、それだけ純粋だったのでしょう。
正則にすれば親の心子知らずということになります。
また短慮な正則でもあります。
かっとなって言う。
「おまえとはもう親でもなければ子でもない。顔も見たくない」
正則は正友を家来の小河若狭に預け、外出禁止を申し渡した。
正友は鬱々とした日を小河若狭のもとで送り、7年後の慶長13年3月25日に正友もまた、あの
世に逝ってしまった。
正則と妻・津田氏の間には、正友の下に忠勝という子もいた。
忠勝は慶長4年の生まれですから(満天姫が正之に嫁いできた年)、兄・正友が亡くなったとき
忠勝は10歳。
満天姫は23歳になっていた。
さすがに再び、おなじく10歳の忠勝を正友の後釜にというわけにはいかない。
正則は満天姫を実家の松平康元のもとに帰しています。
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『女城主・井伊直虎』 その3
『かろうじて直虎の存在が』
寛政年間(1789~1801年)に江戸幕府が編纂した「寛政重修諸家譜」というものがあり
ます。

これは大名や旗本などの系譜の書です。
井伊家の項には
「備中大夫共保遠見国引佐郡井伊谷に住せしより、井伊をもって家号とす」
との前書きにはじまる系譜が載っているという。
直虎が生きた時代とその前後の当主は「直平―直宗―直盛―直親―直正―直孝」と続いています
が、直虎の名前はないのです。
だからといって完全に無視はされていません。
なぜなら直盛のところに、その嫡子を直親(養子)とし、その妹として「女子」と記され、そこ
に「直親に婚を約すといへども、直満(直親の実父)害せられ直親信濃国にはしり、数年にして
かへらざりしかば、尼となり、次郎法師と号す」
との記述があるからです。
この女子がどうやら直虎らしいことがわかります。
なぜなら直盛の娘なっていて、「直親に婚を約す」と書かれ、何となくあやふやな表現ながら、
「尼となり、次郎法師と号する」
と記されているからです。
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<参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>
寛政年間(1789~1801年)に江戸幕府が編纂した「寛政重修諸家譜」というものがあり
ます。

これは大名や旗本などの系譜の書です。
井伊家の項には
「備中大夫共保遠見国引佐郡井伊谷に住せしより、井伊をもって家号とす」
との前書きにはじまる系譜が載っているという。
直虎が生きた時代とその前後の当主は「直平―直宗―直盛―直親―直正―直孝」と続いています
が、直虎の名前はないのです。
だからといって完全に無視はされていません。
なぜなら直盛のところに、その嫡子を直親(養子)とし、その妹として「女子」と記され、そこ
に「直親に婚を約すといへども、直満(直親の実父)害せられ直親信濃国にはしり、数年にして
かへらざりしかば、尼となり、次郎法師と号す」
との記述があるからです。
この女子がどうやら直虎らしいことがわかります。
なぜなら直盛の娘なっていて、「直親に婚を約す」と書かれ、何となくあやふやな表現ながら、
「尼となり、次郎法師と号する」
と記されているからです。
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『女城主・井伊直虎』 その2
『宗家の血を引く者は直虎だけ』
井伊家は南北朝時代に後醍醐天皇の南朝に味方し、宗良親王のもと東海道一帯を拠点として
戦い、北朝方の足利幕府軍の度重なる攻撃を受けて、ついに屈服しています。

これ以来、守護大名から戦国大名に脱皮していく今川氏の被官に組み込まれて辛酸をなめ続け
ることになります。
井伊家は今川氏から戦いの尖兵として動員され、また讒言もあって、直虎の周りからは男たち
が次々と消えていった。
曾祖父・直平は毒殺され、祖父・直宗は討ち死にし、父・直盛も戦死でした。
元許嫁の直親はだまし討ちされ、直宗の父とその弟で、直虎にとっては大叔父にあたる直満と
直義も謀殺された。
井伊家の家督を継ぐべき男は、幼い直親の子・虎松ひとりを除いて誰もいなくなってしまった。
しかも宗家の血を引く者は、女の直虎ただひとりだったのです。
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井伊家は南北朝時代に後醍醐天皇の南朝に味方し、宗良親王のもと東海道一帯を拠点として
戦い、北朝方の足利幕府軍の度重なる攻撃を受けて、ついに屈服しています。

これ以来、守護大名から戦国大名に脱皮していく今川氏の被官に組み込まれて辛酸をなめ続け
ることになります。
井伊家は今川氏から戦いの尖兵として動員され、また讒言もあって、直虎の周りからは男たち
が次々と消えていった。
曾祖父・直平は毒殺され、祖父・直宗は討ち死にし、父・直盛も戦死でした。
元許嫁の直親はだまし討ちされ、直宗の父とその弟で、直虎にとっては大叔父にあたる直満と
直義も謀殺された。
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しかも宗家の血を引く者は、女の直虎ただひとりだったのです。
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「夫を餓死させられた満天姫」 その17
『むご過ぎる仕打ち』
当の満天姫はこの一連の経過をどんな思いで眺めていたのでしょう。
どう考えても毛色のいい話ではありません。
満天姫が嫁いだ広島城(広島城ライトアップは「こちら」です。)

満天姫が正之に連れ添ったのは14歳から16歳にかけてです。
夫婦の契りはあったろうと思われます。
正之が初めての男であり、正之にそれなりの思い入れがあったと考えるのが当然でしょう。
それが、なんと檻に入れられて餓死させられる。
突然、頭がおかしくなったとからだと舅(正則)から説明はあったが、連れ添って2年になら
ないとはいえ、発狂など素振りも気配もなかった。
いいがかりとしか思えない。
第一そうであったなら、戦いになど出かけられなかったはず、無理やり殺したとしか思えない。
そう思うと身の毛がよだつ、こんなここからは一刻も早く逃げ出して実家に帰りたいと考える。
ですが、舅は養父(家康)の承諾を得て自分をわずか10歳の、夫の弟(正友)の嫁にと決めて
しまったのです。
戦国の世の女の宿命と割り切るにはあまるにもむご過ぎます。
そう思うものの宿命には逆らえない。
わが身を天に託すしかない。
夏の世の満天の星を見上げて満天姫はわが身の不運を嘆いたに違いありません。
現代の女性の人は、運命は切り開かれるのでしょうが。
あなたならどう動かれるのでしょうか。
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
当の満天姫はこの一連の経過をどんな思いで眺めていたのでしょう。
どう考えても毛色のいい話ではありません。
満天姫が嫁いだ広島城(広島城ライトアップは「こちら」です。)

満天姫が正之に連れ添ったのは14歳から16歳にかけてです。
夫婦の契りはあったろうと思われます。
正之が初めての男であり、正之にそれなりの思い入れがあったと考えるのが当然でしょう。
それが、なんと檻に入れられて餓死させられる。
突然、頭がおかしくなったとからだと舅(正則)から説明はあったが、連れ添って2年になら
ないとはいえ、発狂など素振りも気配もなかった。
いいがかりとしか思えない。
第一そうであったなら、戦いになど出かけられなかったはず、無理やり殺したとしか思えない。
そう思うと身の毛がよだつ、こんなここからは一刻も早く逃げ出して実家に帰りたいと考える。
ですが、舅は養父(家康)の承諾を得て自分をわずか10歳の、夫の弟(正友)の嫁にと決めて
しまったのです。
戦国の世の女の宿命と割り切るにはあまるにもむご過ぎます。
そう思うものの宿命には逆らえない。
わが身を天に託すしかない。
夏の世の満天の星を見上げて満天姫はわが身の不運を嘆いたに違いありません。
現代の女性の人は、運命は切り開かれるのでしょうが。
あなたならどう動かれるのでしょうか。
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
「夫を餓死させられた満天姫」 その16
『正則の薄汚い話』
秀頼が生れてからの秀吉の、後継ぎ秀次に対する仕打ちは酷かった。
秀次に腹を切らせるだけでなく、秀次の子女・妻妾30余人の首を三条河原で刎ね、骸とともに
穴に埋め、石を立てて畜生塚と名付けています。
正則さんの広島城

福島正則の正之に対する仕打ちはそれに劣らない。
むごい仕打ちです。
その後、当然、正之の妻であり、家康の養女である満天姫をどう処遇すればいいのかという問題
が生じます。
正則は家康に、正之は狂死しました。
ついては改めて満天姫を、実子の正友にいただきたいと申し入れた。
その時、満天姫16歳。正友10歳。
これほど無理筋の申し入れはありません。
家康はむろん福島家に間諜(かんちょう)を入れています。
また間諜からの報を待つまでもなく、満天姫に付き添わせた侍女などから、正則がやったおどろ
おどろしい話は伝わってくる。
本来なら、正之が狂死したから、満天姫を実子の正友になどという薄汚い話は受け入れがたです
が、それでもいま正則を突き放すのは尚早と家康は判断します。
16歳の満天姫を10歳の正友の妻とするのに同意した。
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
秀頼が生れてからの秀吉の、後継ぎ秀次に対する仕打ちは酷かった。
秀次に腹を切らせるだけでなく、秀次の子女・妻妾30余人の首を三条河原で刎ね、骸とともに
穴に埋め、石を立てて畜生塚と名付けています。
正則さんの広島城

福島正則の正之に対する仕打ちはそれに劣らない。
むごい仕打ちです。
その後、当然、正之の妻であり、家康の養女である満天姫をどう処遇すればいいのかという問題
が生じます。
正則は家康に、正之は狂死しました。
ついては改めて満天姫を、実子の正友にいただきたいと申し入れた。
その時、満天姫16歳。正友10歳。
これほど無理筋の申し入れはありません。
家康はむろん福島家に間諜(かんちょう)を入れています。
また間諜からの報を待つまでもなく、満天姫に付き添わせた侍女などから、正則がやったおどろ
おどろしい話は伝わってくる。
本来なら、正之が狂死したから、満天姫を実子の正友になどという薄汚い話は受け入れがたです
が、それでもいま正則を突き放すのは尚早と家康は判断します。
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
「夫を餓死させられた満天姫」 その15
『満天姫の夫を餓死させる』
関ケ原の戦勝から2ヵ月後の慶長5年11月、福島正則は清州24万石から安芸・備後両国の49
万8千石の太守となった。
広島城(広島城登城記は「こちら」です。)

正則に対して家康の腹は煮えくり返していたのでしょうが、その怒りを腹にぐっとおさめて、戦い
の最大の功労者である正則に十分報いた。
家康にすれば、取り敢えずだったのかも知れません。
正則にとっては清州24万石でさえ、養嗣子・正之(満天姫の夫)にくれてやるのは惜しい。
なぜ、安芸・備後両国で49万8千石余もくれてやらなければならないのかということになった。
そう思い始めると、後先もなく伊奈昭綱に突っかかったように正之の追い落としを画策した。
正則が安芸・備後の太守となった直後の頃からだと思われます。
正則は突如、正之が発狂したと言い始める。
正之は関ケ原の戦いに参加しているのです。半年も経たずに発狂するくらいなら、関ケ原の戦い
のときには既にその兆候があるはずで、正之を戦いに同行させることは出来ない筈です。
にもかかわらず、正則は正之が発狂したというのを理由に檻に閉じ込めてしまったのです。
飯もろくに食べさせなかったようです。
関ケ原の戦いの翌年6月5日に、正之は餓死して果てたのです。
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
関ケ原の戦勝から2ヵ月後の慶長5年11月、福島正則は清州24万石から安芸・備後両国の49
万8千石の太守となった。
広島城(広島城登城記は「こちら」です。)

正則に対して家康の腹は煮えくり返していたのでしょうが、その怒りを腹にぐっとおさめて、戦い
の最大の功労者である正則に十分報いた。
家康にすれば、取り敢えずだったのかも知れません。
正則にとっては清州24万石でさえ、養嗣子・正之(満天姫の夫)にくれてやるのは惜しい。
なぜ、安芸・備後両国で49万8千石余もくれてやらなければならないのかということになった。
そう思い始めると、後先もなく伊奈昭綱に突っかかったように正之の追い落としを画策した。
正則が安芸・備後の太守となった直後の頃からだと思われます。
正則は突如、正之が発狂したと言い始める。
正之は関ケ原の戦いに参加しているのです。半年も経たずに発狂するくらいなら、関ケ原の戦い
のときには既にその兆候があるはずで、正之を戦いに同行させることは出来ない筈です。
にもかかわらず、正則は正之が発狂したというのを理由に檻に閉じ込めてしまったのです。
飯もろくに食べさせなかったようです。
関ケ原の戦いの翌年6月5日に、正之は餓死して果てたのです。
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