松陰神社
『女城主・井伊直虎』 その7
『今川氏西上の目的は』
運命の永禄3年(1560年)が訪れる。
直親とその妻は結婚して5年が過ぎようとしていた。だが、いまだ子供は授かっていなかった。
夫婦は元旦の朝、龍潭寺に参詣し、
「なにとぞ一国一城をもてる器量の男の子を授かり、井伊家を相続し、武光を万代へ伝えたく
思います。この直親25歳の厄年ですが、観音に立願する次第です」
と手を合わせ、念持仏として世継千手観音を作った。
その小ぶりの観音像は龍潭寺にあります。
この後、幾度も夫婦で参詣し祈願を続けたという。
そして5月、懐妊がわかり夫婦は無上の喜びに包まれます。
井伊直盛

しかし、その5月、井伊家は奈落に突き落とされるのです。
5月11日、軍装も麗々しく蹄の音を響かせて、直盛が率いる井伊家の軍団は井伊谷を後にし
た。
一族から選りすぐった武勇の士たちが従う。
尼姿の直虎は母と、馬上の父の勇荘な姿に魅入った。
「どうかご無事でお帰りください」
直虎は数珠を手に合掌する。
守護の今川義元は前年から、軍用皮革の納入を命じ、戦場掟書を各所に発して征西の準備をし
ていた。
これは将軍を補佐し、門地や実力の高さから、あわよくば天下の実権を握ろうと、上洛するの
が目的であったと長くいわれてきました。
しかし最近は、今川氏が支配していたとはいえ、西三河は尾張の織田方によしみを通じる土豪
も多く、三河を完全支配するには尾張を切り従える必要があるとして、尾張の制圧をめざした
出陣であったといわれるようになっています。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>
運命の永禄3年(1560年)が訪れる。
直親とその妻は結婚して5年が過ぎようとしていた。だが、いまだ子供は授かっていなかった。
夫婦は元旦の朝、龍潭寺に参詣し、
「なにとぞ一国一城をもてる器量の男の子を授かり、井伊家を相続し、武光を万代へ伝えたく
思います。この直親25歳の厄年ですが、観音に立願する次第です」
と手を合わせ、念持仏として世継千手観音を作った。
その小ぶりの観音像は龍潭寺にあります。
この後、幾度も夫婦で参詣し祈願を続けたという。
そして5月、懐妊がわかり夫婦は無上の喜びに包まれます。
井伊直盛

しかし、その5月、井伊家は奈落に突き落とされるのです。
5月11日、軍装も麗々しく蹄の音を響かせて、直盛が率いる井伊家の軍団は井伊谷を後にし
た。
一族から選りすぐった武勇の士たちが従う。
尼姿の直虎は母と、馬上の父の勇荘な姿に魅入った。
「どうかご無事でお帰りください」
直虎は数珠を手に合掌する。
守護の今川義元は前年から、軍用皮革の納入を命じ、戦場掟書を各所に発して征西の準備をし
ていた。
これは将軍を補佐し、門地や実力の高さから、あわよくば天下の実権を握ろうと、上洛するの
が目的であったと長くいわれてきました。
しかし最近は、今川氏が支配していたとはいえ、西三河は尾張の織田方によしみを通じる土豪
も多く、三河を完全支配するには尾張を切り従える必要があるとして、尾張の制圧をめざした
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100万回
『みなさまに感謝です!』
ブログを始めたのが2009年5月6日ですから8年足らずで、アクセスカウンターが100万回
を突破しようとしています。

こんな拙いブログにお付き合い戴けることに、『感謝』するばかりです。
たぶん、1,000,000回の数字が出るのは、今週の日曜になると思いますが、100万回目に
訪問頂いた方には記念品でも出さないといけないですね。
カウンターは右下に設置してありますので、チョット確認して戴けると嬉しいです。
100万回を区切りに、数年前は「休止かな?」とか思っていましたが、現在は皆さまのブログ
を楽しく拝見させて頂いておりますので、もう少し続ける予定です。
お付き合い戴ければ嬉しいです。
100万回の声掛けをお待ちしております。
よろしくお願いいたします。
ランキングに参加しています

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たぶん、1,000,000回の数字が出るのは、今週の日曜になると思いますが、100万回目に
訪問頂いた方には記念品でも出さないといけないですね。
カウンターは右下に設置してありますので、チョット確認して戴けると嬉しいです。
100万回を区切りに、数年前は「休止かな?」とか思っていましたが、現在は皆さまのブログ
を楽しく拝見させて頂いておりますので、もう少し続ける予定です。
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「夫を餓死させられた満天姫」 その29
『三従の教え』
明治から昭和にかけての歴史学者で渡辺世祐という人がいます。
先学の書をなぞっているに過ぎない学者が多いなか異彩をおられた学者です。
渡辺氏はわざわざ弘前まで出かけていって杉山氏(石田)の後裔を訪ねています。
弘前城辰巳櫓

勇んで弘前まで出かけて行ったが、期待した収穫はなかったとされています。
三成について調べ始めたら、その子孫が生き残っていて、なんと大坂から気の遠くなるほど離れ
ている。
津軽の津軽家の旧臣・杉山氏がそうだと教えてくれた人がいたということです。
情報を入手することが困難であった明治時代末期の渡辺氏に耳に入るくらいだから、同じ時代を
生きた満天姫の耳にそのことが入ったとしても不思議ではなかったのです。
入ったとして満天姫は、腰をぬかさんばかりに驚いたことでしょう。
三成の養父(家康)の仇敵である。またかつての舅(福島正則)にとっても仇敵だった。
その三成の娘が御国御前になって、婿殿が寵愛しているというのです。
「信じられない。嘘でしょう」
反問するように、教えてくれた者を問い詰めたことでしょう。
「本当です」
教えてくれた者はいう。
では直ぐに教えなければ…という訳にはいかない。
教えれば夫・信枚の立場がなくなる。なんらかのお咎めを受ける。
家にあっては父に従い、嫁いでは夫に従い、夫の死後は子に従う。
「儀礼」にある三従の教えですが、三従の教えを知らなくても、室としてやってはならないこ
とぐらいは分かる。
教えてくれた者に、このことは口外無用といって口止めしたのでしょうか。
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
明治から昭和にかけての歴史学者で渡辺世祐という人がいます。
先学の書をなぞっているに過ぎない学者が多いなか異彩をおられた学者です。
渡辺氏はわざわざ弘前まで出かけていって杉山氏(石田)の後裔を訪ねています。
弘前城辰巳櫓

勇んで弘前まで出かけて行ったが、期待した収穫はなかったとされています。
三成について調べ始めたら、その子孫が生き残っていて、なんと大坂から気の遠くなるほど離れ
ている。
津軽の津軽家の旧臣・杉山氏がそうだと教えてくれた人がいたということです。
情報を入手することが困難であった明治時代末期の渡辺氏に耳に入るくらいだから、同じ時代を
生きた満天姫の耳にそのことが入ったとしても不思議ではなかったのです。
入ったとして満天姫は、腰をぬかさんばかりに驚いたことでしょう。
三成の養父(家康)の仇敵である。またかつての舅(福島正則)にとっても仇敵だった。
その三成の娘が御国御前になって、婿殿が寵愛しているというのです。
「信じられない。嘘でしょう」
反問するように、教えてくれた者を問い詰めたことでしょう。
「本当です」
教えてくれた者はいう。
では直ぐに教えなければ…という訳にはいかない。
教えれば夫・信枚の立場がなくなる。なんらかのお咎めを受ける。
家にあっては父に従い、嫁いでは夫に従い、夫の死後は子に従う。
「儀礼」にある三従の教えですが、三従の教えを知らなくても、室としてやってはならないこ
とぐらいは分かる。
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「夫を餓死させられた満天姫」 その28
『三成の娘は美人であった?』
津軽家もずいぶんと大胆不敵なことをやってのけたものです。
問題は江戸の満天姫が、三成の娘・辰子の存在を知っていたかどうかでしょうが、知っていたら
どう対処したのでしょう。
弘前城

満点姫は26歳の姥桜になって信枚に嫁いだから引け目があるとはいえ、むろん女ですから気
になります。
弘前には正室同然の扱いを受けている大館御前(辰子)といわれている御国御前がいるらしい
がどんな女性なのうだろう?
いくつなのか?
お付きの侍女にそれとなく尋ねる。
侍女はむろん満天姫の味方です。
探る。
探って、大館御前は何者かと分かったのでしょうか。
津軽の杉山家は石田三成の流れであることをひた隠しに隠していたという。
それはそうでしょう。
東照宮君家康公に逆らった逆賊の流れというのは、どんなことがあっても表沙汰にできない。
ですから大館御前も素性もひた隠しに隠したのでしょう。
しかし、人の口に戸は立てられません。
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
津軽家もずいぶんと大胆不敵なことをやってのけたものです。
問題は江戸の満天姫が、三成の娘・辰子の存在を知っていたかどうかでしょうが、知っていたら
どう対処したのでしょう。
弘前城

満点姫は26歳の姥桜になって信枚に嫁いだから引け目があるとはいえ、むろん女ですから気
になります。
弘前には正室同然の扱いを受けている大館御前(辰子)といわれている御国御前がいるらしい
がどんな女性なのうだろう?
いくつなのか?
お付きの侍女にそれとなく尋ねる。
侍女はむろん満天姫の味方です。
探る。
探って、大館御前は何者かと分かったのでしょうか。
津軽の杉山家は石田三成の流れであることをひた隠しに隠していたという。
それはそうでしょう。
東照宮君家康公に逆らった逆賊の流れというのは、どんなことがあっても表沙汰にできない。
ですから大館御前も素性もひた隠しに隠したのでしょう。
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「夫を餓死させられた満天姫」 その27
『三成の娘は美人であった?』
三成には正室との間に男子3人、女子3人がいた。
いずれも大坂の屋敷にいて、そのうち長男と3男は命をながらえるべく出家して命をながらえるが、
当時12歳だった次男は屋敷を抜け出て、遠く奥州津軽に落ちる。
三成の子孫を囲った津軽藩 (弘前城登城記は「こちら」です。)

三成が津軽家のために大いに便宜を図っていたから、庇護して貰えるかも知れないと伴の家来が
考えてことであったという。
三成の次男がはるばるやってくる。これは津軽為信も驚いたことだろうが、頼ってきた12歳の子供
をむげには扱えない。
杉山という姓を与えて保護したのです。
それが津軽杉山家の祖で、2代の八兵衛吉成には津軽家に仕えて、菜地千石を頂戴した。
千石といえばたいした高禄ですが訳があるのです。
3人いた娘のうち2人は、関ケ原の戦いの前に嫁いでいて、ひとりは妹で12歳の兄と一緒に奥州に
落ちて、津軽家を頼ったといいます。
その時9歳でした。
満点姫が津軽信枚に輿入れした慶長16年には20歳になっています。
この辰子という名の妹は満天姫と違って美人であったという。
三成は鼻筋の通った秀才面の2枚目だから、娘が美人に生まれても不思議ではなく、満天姫が信枚
に嫁いだとき、辰子にはすでに信枚の手がついていたのでしょう。
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
三成には正室との間に男子3人、女子3人がいた。
いずれも大坂の屋敷にいて、そのうち長男と3男は命をながらえるべく出家して命をながらえるが、
当時12歳だった次男は屋敷を抜け出て、遠く奥州津軽に落ちる。
三成の子孫を囲った津軽藩 (弘前城登城記は「こちら」です。)

三成が津軽家のために大いに便宜を図っていたから、庇護して貰えるかも知れないと伴の家来が
考えてことであったという。
三成の次男がはるばるやってくる。これは津軽為信も驚いたことだろうが、頼ってきた12歳の子供
をむげには扱えない。
杉山という姓を与えて保護したのです。
それが津軽杉山家の祖で、2代の八兵衛吉成には津軽家に仕えて、菜地千石を頂戴した。
千石といえばたいした高禄ですが訳があるのです。
3人いた娘のうち2人は、関ケ原の戦いの前に嫁いでいて、ひとりは妹で12歳の兄と一緒に奥州に
落ちて、津軽家を頼ったといいます。
その時9歳でした。
満点姫が津軽信枚に輿入れした慶長16年には20歳になっています。
この辰子という名の妹は満天姫と違って美人であったという。
三成は鼻筋の通った秀才面の2枚目だから、娘が美人に生まれても不思議ではなく、満天姫が信枚
に嫁いだとき、辰子にはすでに信枚の手がついていたのでしょう。
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