『女城主・井伊直虎』 その16
『但馬守、井伊谷城城代に』
但馬守は駿府で最終工作を行い、徳政令を出させることに成功すると、一時帰国し氏真の下命
をもって直虎から地頭の地位を奪い井伊谷を横領した。
この時、直虎は自分の立場より、虎松が危ないとまず直感した。
虎松は8歳になっていた。

但馬守はきっと虎松の命を奪い、井伊総領家の男を根絶やしにしようとするに違いない。
直虎はすぐに虎松を龍潭寺の松岳院に実母とともに逃がし、南渓和尚に協力を求めた。
南渓和尚も即刻動いた。
僧衣を着せて、奥山六左衛門(虎松の母の実兄)を供につけて、奥三河の鳳来寺に逃がした。
途中、虎松は山吉田(愛知県新城市)にある母方の曽祖父・鈴木重勝(井伊谷三人衆・重時の
父)の屋敷に投宿し、決意も新たに鳳来寺に向かった。
『井伊家伝記』はいう。
「小野但馬、心のままに相計らい押領仕候。祐椿尼公(直盛公後室)、次郎法師、井伊谷城内に
御座成され候こと成り難き故、龍潭寺中の松岳院と申す小庵に御引越し住庵成され候」
直虎は母・祐椿とともに但馬守に奪われた井伊谷城居館を出て、龍潭寺山門前の、かつて母と
暮らしたこともあった松岳院の庵に戻ってきたと、井伊家伝記はいうのです。
「してやったり」と但馬守は自分の家族たちを直虎たちがいた居館本丸に招き入れて、祝杯を挙
げ、ついに井伊谷城代になったことに酔いしれたことでしょう。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>
但馬守は駿府で最終工作を行い、徳政令を出させることに成功すると、一時帰国し氏真の下命
をもって直虎から地頭の地位を奪い井伊谷を横領した。
この時、直虎は自分の立場より、虎松が危ないとまず直感した。
虎松は8歳になっていた。

但馬守はきっと虎松の命を奪い、井伊総領家の男を根絶やしにしようとするに違いない。
直虎はすぐに虎松を龍潭寺の松岳院に実母とともに逃がし、南渓和尚に協力を求めた。
南渓和尚も即刻動いた。
僧衣を着せて、奥山六左衛門(虎松の母の実兄)を供につけて、奥三河の鳳来寺に逃がした。
途中、虎松は山吉田(愛知県新城市)にある母方の曽祖父・鈴木重勝(井伊谷三人衆・重時の
父)の屋敷に投宿し、決意も新たに鳳来寺に向かった。
『井伊家伝記』はいう。
「小野但馬、心のままに相計らい押領仕候。祐椿尼公(直盛公後室)、次郎法師、井伊谷城内に
御座成され候こと成り難き故、龍潭寺中の松岳院と申す小庵に御引越し住庵成され候」
直虎は母・祐椿とともに但馬守に奪われた井伊谷城居館を出て、龍潭寺山門前の、かつて母と
暮らしたこともあった松岳院の庵に戻ってきたと、井伊家伝記はいうのです。
「してやったり」と但馬守は自分の家族たちを直虎たちがいた居館本丸に招き入れて、祝杯を挙
げ、ついに井伊谷城代になったことに酔いしれたことでしょう。
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<参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>
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「中牧フレンドパーティー」 後編
「中牧フレンドパーティー」 前編
『草食動物限定! 生牧草畑であそんじゃお!』
前から気になっていた「中牧牧草センター」さんの春のイベントに参加してきました。
ここは以前、pigletが通院帰りに、生ティモシーを分けて頂くとき立ち寄った牧草センターです。

一週間ほど前から、pigletの春の換毛が始まっていましたので、行けるか心配でしたが、なんとか
行けそうでしたので行ってきました。
ボクは、今回は出番がないそうです。

随分、向こうは賑やかそうですね。

牧草の上で、ディキャンプ状態です。

わたしたちは到着が遅かったのと、tiggerがケンカ早く迷惑をかけてはいけないと、一番端に設営
です。

pigletは、timutamuさんから譲ってもらった、このケージがお気に入りのようで、多くの時間この
中に、食もついているから、お気に入りのようです。

油断していたら、隣のお嬢さんにマイカーを乗っ取られています。

カメさんも草食なのですねぇ。

pigさん遊ぼうよ。 「危ないから止めておきなさい!」

代官山ラビランのように、リードを外して走り廻ることはできませんが、ゆっくりと時間が流れ
のんびり過ごすことができますので、たまにはいいものです。

BBQのランチもセット料金になっていましたが、期待するべきものではなかったようです。
次回は、ボクが中心ですよ!

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前から気になっていた「中牧牧草センター」さんの春のイベントに参加してきました。
ここは以前、pigletが通院帰りに、生ティモシーを分けて頂くとき立ち寄った牧草センターです。

一週間ほど前から、pigletの春の換毛が始まっていましたので、行けるか心配でしたが、なんとか
行けそうでしたので行ってきました。
ボクは、今回は出番がないそうです。

随分、向こうは賑やかそうですね。

牧草の上で、ディキャンプ状態です。

わたしたちは到着が遅かったのと、tiggerがケンカ早く迷惑をかけてはいけないと、一番端に設営
です。

pigletは、timutamuさんから譲ってもらった、このケージがお気に入りのようで、多くの時間この
中に、食もついているから、お気に入りのようです。

油断していたら、隣のお嬢さんにマイカーを乗っ取られています。

カメさんも草食なのですねぇ。

pigさん遊ぼうよ。 「危ないから止めておきなさい!」

代官山ラビランのように、リードを外して走り廻ることはできませんが、ゆっくりと時間が流れ
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『女城主・井伊直虎』 その15
『狙われる今川家』
徳政令を直虎がふんばって停止していた2年の間に、今川の状況は悪化の一途をたどっていた。
直虎が徳政令を握りつぶした同じ年の永禄9年(1566年)、信長と同盟を結んだ家康は松平
姓を徳川に改め三河一国を統一して、三河守にも任ぜられた。

そして遠江進出の機会を狙い、永禄11年2月10日、宇津山城(静岡県湖西市)の在藩を松平
家忠に命じ、いよいよ遠江国の獲得に動き出した。
一方の武田信玄はこの前年、嫡子・義信の妻であった今川義元の娘を駿府に返し、しかも今川を
重視している義信を自害させ、翌年8月7日には今川との同盟を破棄した。
そして家康と信玄の間では、大井川を挟んで領土を分け合う密約が成されたともいわれます。
駿府・遠江が緊迫し、徳政令により直虎が失脚する寸前「井伊家伝記」によれば、信玄の駿府侵
略を阻止するため、氏政は井伊家にも駿府への出兵を求めてきた。
こうした場合、女城主が兵を率いて出陣した例はなく、同じような状況下、南部藩の支藩だった
八戸城の女城主・清心尼は、大坂冬の陣の際、一族の者を名代に立て、兵320を与えて出陣さ
せている。
直虎の場合も、小野但馬守を名代にした。それは但馬守が自ら願い出たものであった。
直虎としては一族の者を大将に指名したいと思ったが、但馬守に押し切られた。
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<参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>
徳政令を直虎がふんばって停止していた2年の間に、今川の状況は悪化の一途をたどっていた。
直虎が徳政令を握りつぶした同じ年の永禄9年(1566年)、信長と同盟を結んだ家康は松平
姓を徳川に改め三河一国を統一して、三河守にも任ぜられた。

そして遠江進出の機会を狙い、永禄11年2月10日、宇津山城(静岡県湖西市)の在藩を松平
家忠に命じ、いよいよ遠江国の獲得に動き出した。
一方の武田信玄はこの前年、嫡子・義信の妻であった今川義元の娘を駿府に返し、しかも今川を
重視している義信を自害させ、翌年8月7日には今川との同盟を破棄した。
そして家康と信玄の間では、大井川を挟んで領土を分け合う密約が成されたともいわれます。
駿府・遠江が緊迫し、徳政令により直虎が失脚する寸前「井伊家伝記」によれば、信玄の駿府侵
略を阻止するため、氏政は井伊家にも駿府への出兵を求めてきた。
こうした場合、女城主が兵を率いて出陣した例はなく、同じような状況下、南部藩の支藩だった
八戸城の女城主・清心尼は、大坂冬の陣の際、一族の者を名代に立て、兵320を与えて出陣さ
せている。
直虎の場合も、小野但馬守を名代にした。それは但馬守が自ら願い出たものであった。
直虎としては一族の者を大将に指名したいと思ったが、但馬守に押し切られた。
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「夫への愛を貫きとおしたガラシャの娘」 その9
『藤孝の根回し』
藤孝は信長から丹後一国を与えられ領国としていた。
秀吉は隣国播州の三木を落とすと、続いて因州鳥取を攻めた。
丹後の宮津には海を舞台とする土豪が蟠居している。
鳥取城「かつえさん」、覚えている方いらっしゃいますか。

秀吉からの要請で、藤孝は土豪に舟手を編成させて鳥取に送り、鳥取城攻めを助けた。
藤孝は以前から秀吉の異能を知っていたが、鳥取城攻めを助けることによってなおいっそう秀吉
の異能を知った。
秀吉の異能を知らなければこのとき、藤孝もまた畿内の諸将と同様に様子を見に入ったに違いな
いが、秀吉の異能を知っている。
また、三木に、前野長康がいるのも知っている。
藤孝はのちに茶道から遠のくが、そのころは長康と茶道を通じて交遊があった。
「信長討たれる」の報に接すると、藤孝はすぐさま長康に手紙を送った。
「光秀の謀叛を知った。自分はせがれ忠興に光秀の娘・玉を迎えている。光秀とは舅どうしとい
う関係にある。また自分は丹後一国を領する大名とはいえ、光秀に与力としてつけられている。
光秀の部下ではないが、なにかと光秀に協力しなければならない立場にある。そんな立場にある
が、けっして光秀に味方するものではない。その旨お伝えておきます。筑前殿にもその旨をお知
らせいただきたい」
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
藤孝は信長から丹後一国を与えられ領国としていた。
秀吉は隣国播州の三木を落とすと、続いて因州鳥取を攻めた。
丹後の宮津には海を舞台とする土豪が蟠居している。
鳥取城「かつえさん」、覚えている方いらっしゃいますか。

秀吉からの要請で、藤孝は土豪に舟手を編成させて鳥取に送り、鳥取城攻めを助けた。
藤孝は以前から秀吉の異能を知っていたが、鳥取城攻めを助けることによってなおいっそう秀吉
の異能を知った。
秀吉の異能を知らなければこのとき、藤孝もまた畿内の諸将と同様に様子を見に入ったに違いな
いが、秀吉の異能を知っている。
また、三木に、前野長康がいるのも知っている。
藤孝はのちに茶道から遠のくが、そのころは長康と茶道を通じて交遊があった。
「信長討たれる」の報に接すると、藤孝はすぐさま長康に手紙を送った。
「光秀の謀叛を知った。自分はせがれ忠興に光秀の娘・玉を迎えている。光秀とは舅どうしとい
う関係にある。また自分は丹後一国を領する大名とはいえ、光秀に与力としてつけられている。
光秀の部下ではないが、なにかと光秀に協力しなければならない立場にある。そんな立場にある
が、けっして光秀に味方するものではない。その旨お伝えておきます。筑前殿にもその旨をお知
らせいただきたい」
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
「夫への愛を貫きとおしたガラシャの娘」 その8
『光秀の謀叛は絶妙のタイミング』
“信長討たれる”の報が幽斎のもとに届いたのは、藤孝がまだ城にいた6月2日の午後。
藤孝も倅の忠興も報に接してむろん腰を抜かさんばかりに驚いた。

光秀はそれなりに勝算を立てている。
このことは藤孝にも分かる。
高松の秀吉は動けない。
北国にいて上杉を相手にしている柴田勝家も動くにしては時間がかかる。
畿内は烏合の衆。
信長はもともと将軍・足利義昭から政権を簒奪した。本当は義昭が悪あがきして墓穴を掘り、
追われてこのころ毛利の庇護下にあったが、理屈と膏薬はどこにでもつく。
信長が義昭から政権を簒奪したから、義昭にかわって信長を討ち果たした。ただちに義昭公
を京に迎えて天下に号令をかけていただく。
こういうことにすれば大義名分は立ち、畿内の烏合の衆をまとめて、天下をその手に握るこ
とができる。
光秀はそう勝算を立てていると。
しかし、それには大きな誤算と落とし穴がある。
藤孝はそう考えた。
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
“信長討たれる”の報が幽斎のもとに届いたのは、藤孝がまだ城にいた6月2日の午後。
藤孝も倅の忠興も報に接してむろん腰を抜かさんばかりに驚いた。

光秀はそれなりに勝算を立てている。
このことは藤孝にも分かる。
高松の秀吉は動けない。
北国にいて上杉を相手にしている柴田勝家も動くにしては時間がかかる。
畿内は烏合の衆。
信長はもともと将軍・足利義昭から政権を簒奪した。本当は義昭が悪あがきして墓穴を掘り、
追われてこのころ毛利の庇護下にあったが、理屈と膏薬はどこにでもつく。
信長が義昭から政権を簒奪したから、義昭にかわって信長を討ち果たした。ただちに義昭公
を京に迎えて天下に号令をかけていただく。
こういうことにすれば大義名分は立ち、畿内の烏合の衆をまとめて、天下をその手に握るこ
とができる。
光秀はそう勝算を立てていると。
しかし、それには大きな誤算と落とし穴がある。
藤孝はそう考えた。
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
「夫への愛を貫きとおしたガラシャの娘」 その7
『信長は備中高松に行く予定だった』
信長は本能寺での異変がなければそのあと、秀吉が毛利と対峙している備中高松の陣に出かけ
ることにしていて、畿内にいる諸将に出陣の声をかけていた。
三木城(三木城登城記は「こちら」です。)

道順になる高槻の高山右近、茨木の中川清秀、伊丹の池田信輝などもまた、家康と同じように、
戦々悠々と道普請、宿泊所や休憩所の設営・改修などに追われた。
須磨までは池田信輝の担当。
信長は明石からまっすぐ姫路には向かわず、北上して、秀吉が“干殺し”にした三木の城に立ち
寄ると知らせを受け、長康は高松の陣から急遽、三木に帰り、明石から三木、三木から姫路ま
での道普請、およびその間の宿泊所や休憩所の設営・改修に手落ちがないように、万端指揮し
ていた。
光秀が本能寺にいた信長に夜襲をかけて討ち取ったのは天正10年6月2日の未明。
当時はまだ隠居していず、藤孝と名乗っていた幽斎も高松の陣に出陣するように命ぜられてい
て、領国丹後の城を構えている宮津に帰っていた。
高松への出陣はその日、6月2日の正午ということになっていて、家来の松井胃助、有吉立行
らが第一陣として正午に宮津を発った。
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
信長は本能寺での異変がなければそのあと、秀吉が毛利と対峙している備中高松の陣に出かけ
ることにしていて、畿内にいる諸将に出陣の声をかけていた。
三木城(三木城登城記は「こちら」です。)

道順になる高槻の高山右近、茨木の中川清秀、伊丹の池田信輝などもまた、家康と同じように、
戦々悠々と道普請、宿泊所や休憩所の設営・改修などに追われた。
須磨までは池田信輝の担当。
信長は明石からまっすぐ姫路には向かわず、北上して、秀吉が“干殺し”にした三木の城に立ち
寄ると知らせを受け、長康は高松の陣から急遽、三木に帰り、明石から三木、三木から姫路ま
での道普請、およびその間の宿泊所や休憩所の設営・改修に手落ちがないように、万端指揮し
ていた。
光秀が本能寺にいた信長に夜襲をかけて討ち取ったのは天正10年6月2日の未明。
当時はまだ隠居していず、藤孝と名乗っていた幽斎も高松の陣に出陣するように命ぜられてい
て、領国丹後の城を構えている宮津に帰っていた。
高松への出陣はその日、6月2日の正午ということになっていて、家来の松井胃助、有吉立行
らが第一陣として正午に宮津を発った。
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>