『女城主・井伊直虎』 その27

『信玄と家康の密約』

永禄3年(1560年)6月の桶狭間で今川義元が織田信長に敗死し、今川領国では三河で松平

元康が独立するなど動揺が見られていた。

武田信玄(1521-1573年)
ta.武田信玄 002

信玄は義元討死の後に今川との同盟維持を確認しているが、この頃には領国を接する岐阜におい

ても信長が斎藤氏の内訌に介入して抗争しており、信長は斎藤氏との対抗上武田との関係改善を

模索し、こうした経緯から諏訪勝頼正室に信長養女が迎えられている。

川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴い武田と今川の同盟関係には緊張が生

じ、永禄10年(1567年)10月には武田家において嫡男義信が廃嫡される事件が発生する。

信玄は駿河侵攻にあたって、相模の北条氏康・北条氏政父子に今川領の分割を提案していた。

しかし、氏政の生母で氏康の正室である瑞渓院は氏真の祖父母でもある今川氏親と寿桂尼の娘で

あったことから、氏政は拒絶。

このため信玄は徳川家康と今川領分割の密約を結び、大井川を境にして東部を武田氏が、西部を

徳川氏がそれぞれ攻め取ることにしたという。

12月6日、信玄は1万2000の軍勢を率いて駿河侵攻を開始した。



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                <参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>
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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その10

『伏見城で入輿の準備』

千姫が生まれた伏見城は、関ケ原の戦いの前に西軍から攻められて焼け落ちた。

それから3年、家康は伏見城を修復し、他にも京の二条に城を建て、上方では二条城と伏見城の

2城を本拠にし、引き続き上方にいた家康は、7月3日に伏見城から二条城に移り、大坂の尼孝

蔵主をはじめとする女房たちを招いて、8日に猿楽を催している。

伏見城(伏見城登城記は「こちら」です。)
fu.伏見城(模擬天守)

これは千姫を入輿させる前祝のような催しで、このことからも家康は千姫の入輿を心から祝福し

ていたと思われます。

いずれそのうち、秀頼と淀殿の息の根を止めてやるなどと思っていたのなら、このように上方に

長期に滞在などしていず、さっさと本拠の駿府に戻り、千姫の入輿はいたって冷淡な態度をとっ

ていた筈です。

千姫と母・お江はそんな、家康がことのほか気を遣っている上方へ到着し、伏見に入った。

「ここであなたは生まれたのよ」

と、お江は言って聞かせたのでしょうが、もとより千姫には記憶があるはずもなく、伏見城に入

るとその日から、お江と千姫は入輿の支度に追われた。

家康が二条城から伏見城に戻ったのは7月15日。

入輿まであと13日。

お江と千姫が支度に追われている様子を見て、家康は口を出して世話をやいたことでしょう。



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                   <参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>

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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その9

『千姫の夢と希望』

入輿の日は慶長8年7月28日。

千姫7歳。満で6歳と3ヵ月余、今なら小学校の一年生です。

分別はないようであり、あるようでないという歳。

千姫(1597-1666年)
se.千姫(大河ドラマ 江より)

千姫はどんな気持ちであったのでしょう。

もし家康に、秀頼と淀殿をのちのち害する気があったなら、なにかの拍子に、たとえばお江がとき

に深いため息をつくなどということがあって、なんとはなしに背後にある暗い事情を察知するはず。

このときの千姫はおそらく、どこにでもいる女の子のように、自分をお婿さんになり人はどんな人

なのだろうと気持ちをわくわくさせ、夢と希望を抱いていたことでしょう。



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pig 20170720




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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その8

『家康の思量』

千姫を秀頼に入輿させる時点で、家康は豊臣恩顧の武将のことなどなんとも思っていない。

では、どんな訳があって千姫を秀頼に嫁がせたのでしょう。

徳川家康(1543-1616年)
to.徳川家康

征夷大将軍になった慶長8年2月という時点で、家康は淀殿や秀頼をやがて死に追いやること

など考えていなかったのでしょう。

かつてはおのれが秀吉の前に膝を屈した。

今度は立場が入れ替わって、秀頼がおのれに膝を屈すればいい。

そうすれば、大大名の一人として遇してやる。

そんなふうに考えていて千姫を、大大名の一人として遇することになるだろう秀頼に嫁がせた。

こう考えるのが自然のような気がします。



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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その7

『城を高くして池を深くして、余が攻めるのを待て』

はたしてそうだったのでしょうか。

秀吉が死ぬとすぐ家康は四大老五奉行をさかんに挑発し、揺さぶりをかけて、なんだかんだと

関ケ原の戦いまで持ち込んでいます。

篠山城(篠山城登城記は「こちら」です。)
sa.篠山城 001

あの時点と、この時点の家康のどちらが強力かというと比較にならない。

この時点の方がはるかに強力で、この時点の家康に、豊臣恩顧の武将の機嫌をとらなければな

らない理由は微塵もなくなっているのです。

自分は京にいながら諸大名70家に動員をかけ、70家は黙々と江戸で働かされている。

むろん、その70家の中には、福島正則も加藤清正もいるのです。

こんな話が伝わります。

福島正則は翌慶長9年と慶長11年に江戸城の修築に、12年は駿府城の建設に、14年に笹

山城の建設にと駆り出された。

そのまた次の年、15年に名古屋城に城が築かれるらしいという噂が立ったが、篠山城の建設

に駆り出された面々は工役を免れることができるらしいとのことだったので、正則はほっと胸

を撫でおろしていたが、案に相違して、またも正則に声がかかった。

正則はしぶしぶ出かけ普請が始まり、一休みして茶を飲んでいるとき、池田輝政にこう愚痴を

こぼした。

「ここのところ、やたらに土木の工役に駆り出される。江戸や駿府はまあ天下普請ともいえる

普請だから止むを得ないとしても、名古屋は庶子の住居。庶子の居住にまで駆り出されるのは

おかしい。御身(輝政)は駿府(家康)の愛婿である。われらがために、おかしいと訴えてく

れぬか」

微妙な話だから輝政が返事を渋っていると。清正が髭を震わせ、笑って言った。

「粗忽なことを申すものかな。工役が嫌なら、ただちに国に帰って謀反するがいい。謀反が出

来ぬのなら、黙って工役に就くしかあるまい」

「それもそうだ」

と正則は苦笑してその場は何事もなく終わったが、諸大名がまたまた駿府城の修復に駆り出さ

れたとき、家康は諸大名を前にして言った。

「最近、しきりに工役がつらいなどと愚痴をこぼす者がいると聞く、本当にそうなら、速やか

に帰国し、城を高くして池を深くして、余が到らん日を待たるべし」

諸大名は大いに恐れて工役の人数を増やし、城郭は不日に完成した。



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pig 20170718



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スマートいじり その5

『リアクォーターウインドの透明化』

20170716 001

先日の雨漏り対策をしていて、リアクォーターウィンドが、経年劣化でくすんでいることに気が

付きました。

20170716 002

リアクォーターウィンドはプラスチックでできているので、磨き上げるため用意した道具はこれ

です。

20170716 003

プリウスはガラスコーティングしていますので、お兄さんがこれで一生懸命磨きこんでくれて

いたのを見ていました。

「2年間はワックス不要」ということでしたが、実質は毎年施工が必要です。


このポリッシャーは、通販で4,000円位で購入しました。

耐水サンドペーパーの800番と仕上げの2000番で、古いクリア塗装剥しと劣化したプラス

ティック面を綺麗にします。

800番で磨いた状況がこれです。

20170716 005

これで綺麗に仕上がってくれるのでしょうか。 チョット心配な状況です。

2000番で磨くと、やや綺麗になってくれました。

20170716 004

さらに、ヘッドライトのくすみ研磨クリームを付けて、ポリッシャーで磨きます。

次に、プラスチック保護のためのクリア塗装です。

20170716 009

スプレー式のクリア塗装ですが、以下のような注意事項が書いてあります。

・完全にホコリを除去するため、エアーコンプレッサーでホコリを飛ばすこと。

・スプレー塗料は30℃以下で使用のこと。

ホコリ飛ばしは、以前、購入していたこのミニコンプレッサーを使用しましょう。

20170716 010

天気予報では、今日は30℃くらいになるといっていましたが、ぎりぎり大丈夫でしょう。

パアーとひと吹き

あれれ、、、

20170716 011

ひと吹きした瞬間にクリア塗料が縮んでしまいました。

ふむ、気温は30℃くらいでも、車体温度は35~40℃はあったのでしょう。

完全に失敗です!

「素人は怖い」とは、こんなことを言うのですネ。


あまりにも見苦しいですから、再度、サンドペーパで軽く仕上げて、この作業は秋までお預けする

ことに・・・。


次は、エアークリーナ交換とプラグ交換をしたいですけど、600CCのエンジンながら6本のプラ

グと専用のプラグ抜き冶具が必要です。

デーラーに行った方が安上がりのようですけど、この車、自分でやってみたいですね!



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『女城主・井伊直虎』 その26

『寿桂尼(じゅけいに)』

寿桂尼は戦国大名今川氏親の正室で、藤原北家、勧修寺流の中御門家(公家)の出自で、父は

権大納言中御門宣胤。

寿桂尼(不明ー1568年)
ju.寿桂尼

夫・氏親の死後剃髪して瑞光院寿桂尼となり大方殿と称され、氏親、氏輝、義元、氏真の4代

にわたって今川氏の政務を補佐し「尼御台」と呼ばれています。

寿桂尼は甲斐の大名・武田晴信とその正室で三条家(公家)の出自である三条の方の縁談の斡旋

を努めたという説もあります。

義元が永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで織田信長に破れて戦死し、孫の今川氏真が当主

となった後も政治に関わっています。

今川氏没落の最中の永禄11年(1568年)、義元が亡くなった8年後に死去。

婚姻の年齢から推測すると70~80歳代だったと思われます。

「死しても今川の守護たらん」

という彼女の希望により、今川館の東北、鬼門の方角にあたる竜雲寺に埋葬されている。

寿桂尼の死後、今川氏と武田氏の外交関係は手切れとなり、同年12月には武田氏による今川領

国への侵攻が開始された(駿河侵攻)。


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プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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