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2017 地元の夏祭り

『結構盛大な地元の夏祭り』

気が付けば、もう7月も終わりです。

今年最初の盆踊りは、地元の夏祭りに行ってきました。

今年はチョット早めに会場につきましたが、子供神輿から始まり高校生の和太鼓や中学校の吹奏

学部などは終わっていました。

2017 001

盆踊りは、第一部から第三部に分かれていて、各々30分程度でお年寄りに優しい盆踊りになって

います。

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第一回目は踊る人も少ないので、伸び伸びと踊っても、暴れながら踊っても大丈夫です。

次は高校生のマーチングバンド、殆どが女子で編成されていましたので、柔らかな印象でした。

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中学生によるソーランですが、カメラに収めるのは難しいです。

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2回目の盆踊り。

ハッピーを着ている人が多いですが、子供神輿からの流れでしょうか。

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このあと、オッちゃんベンチャーズが出演されていましたけど、楽しい出店廻りです。

出店は、一丁目から七丁目までの自治会で出店されており、業者さんの出店はなしです。

定番の焼き鳥にビール、フランクフルトに焼きそば、、どれも美味しかったです!

2017 006

3回目の盆踊り。

やぐらで踊るリーダーさんは、各丁目自治会の持ち回りで踊られています。

2017 007

なんと、飛び入りで太鼓をたたくお姉さんも登場です。

みなさん、それぞれ夏を楽しまれていますね!!


夏花火もすでに各地で始まっています。

こちらも出遅れてしまいましたので、日程を確認して出かけてみたいと思います。

みなさんも夏を楽しんでくださいね(^^♪




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『女城主・井伊直虎』 その28

『今川氏真』

今川氏真は天文7年(1538年)、今川義元と定恵院(武田信虎の娘)との間に嫡子として生

まれる。

天文23年(1554年)、北条氏康の長女・早川殿と結婚し、甲相駿三国同盟が成立していま

す。

今川氏真(1538-1615年)
im.今川氏真

父・今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、今川家の当主を継ぐ。その後、

武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。

その後は後北条氏を頼り、最終的には桶狭間の戦いで今川家を離反した徳川家康(松平元康)と

和議を結んで臣従し庇護を受けることになった(主従関係が逆転した)。

氏真は、和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったという。 結果として子孫にも教育

で受け継がれ、今川家代々の公家文化の高い能力を活かし、氏真の子孫達が江戸幕府の朝廷や公

家との交渉役として抜擢されたので、安土桃山時代(戦国時代)の戦で武功を上げることはでき

なかったが、役人としては江戸時代になって平和になってから今川家の子孫が文化人の能力で登

用されている。

戦国武将としての今川家は滅亡したが、家康に臣従したことで今川家は存続し、徳川家臣の譜代

大名としての今川家の新たな祖と言えます。



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pig 20170729



                      <参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>

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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その14

『秀頼は大男』

秀頼が17歳の時、おなじ女がまた子を生む。

今度は女の子で、その子がのちに千姫の養女となって鎌倉の駆け込み寺・東慶寺に入り、尼となっ

て一生を送っています。

ではなぜ、この後、家康はひどい言いがかりをつけ、秀頼とその母・淀殿を死に追いやったのでし

ょうか。

豊臣秀頼像
to.豊臣秀頼 02

慶長16年3月28日(秀頼19歳のとき)の二条城での、家康と秀頼との会見がきっかけであっ

たといわれます。

「明良洪範」によれば秀頼は6尺5寸、約197cm。他の記録でも6尺2寸、187cmぐらい

であったという。

雲をつくような大男で、禅僧の西笑承兌によれば「老成人の風規を備えた人」だということで、ま

たよく太っていたという。

父の秀吉は禿げネズミともいわれた体格の貧弱な男だったから、母方浅井氏の血を承けたに違いな

く、家康は10年ぶりに見る秀頼の風貌と貫禄に威圧され、こう思ったに違いないのでしょう。

おれの余命はいくばくもない。

おれが死ぬと、せがれの将軍・秀忠にさしたる人望があるわけでもないから、この大男の小僧に求

心力が働き、ふたたび豊臣の世になる。

そうさせてはならない。

おれの目が黒いうちに、急ぎこの子倅の息の根を止めておかねばならない。

秀頼に会って家康は、そう思ったのでしょうが、戦争であれ、喧嘩であれ、口実がなければなりま

せん。

わけもなく諸大名に号令をかけ、秀頼を討てとはいえない。

家康は口実が見つかるのをじっと待った。



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                   <参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>

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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その13

『秀頼に長子生まれる』

15歳というと生殖器が機能しはじめる時期だが、室の千姫は11歳。

まだ女になっていない。

秀頼は男になっているので、成田助直の娘に手をつけ、翌年、秀頼が16歳のとき男の子が生まれ、

国松と名づけられた。

若狭小浜城(小浜城登城記は「こちら」です。)
ob.小浜城 001

ただ千姫との間に子が生まれてはじめて豊臣家と徳川家は深く結ばれ、豊臣側からすれば、徳川家

も豊臣家に容易に手がだせなくなるという理屈になり、逆にいうと、秀頼が千姫以外の女に手をつ

けて男の子が生まれたことは徳川家にとっては面白いわけがない。

淀君と千姫の母・お江との間の姉妹・はつは京極高次に嫁ぎ、高次は関ケ原の功により、近江大津

6万石から加増転封されて若狭小浜9万2千石の領主となっていた。

その若狭小浜にいる「はつ」に淀君は国松の養育を託した。

「はつ」はさらに小浜の研師に預けて養育させたといいますが、やがて大坂夏の陣が終わると、国

松は残党狩りの網に引っ掛かり、哀れにも六条河原で首を刎ねられた。 享年8歳。

なんのなめに生まれてきたのか分からない。

短い哀れな生涯を六条の河原で終えています。



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                  <参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>

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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その12

『秀頼15歳にして、江戸への反感?』

家康は征夷大将軍となると、2年後の慶長10年4月に征夷大将軍職を秀忠に譲り、秀忠が征夷

大将軍になった。

豊臣秀頼(1953-1615年)
to.豊臣秀頼

秀頼の位階はどうだったのでしょう。

慶長元年5月(4歳) 従五位下

慶長2年9月(5歳) 従四位下 権中納言

慶長6年3月(9歳) 権大納言

慶長7年正月(10歳) 正二位

慶長8年4月(11歳) 内大臣

従って、千姫を迎えたときは正二位内大臣で、正二位内大臣には秀忠よりも先に任じられていた。

たいした高官です。

6年3月の権大納言以降の叙任は家康が天下をとったからのことですから、そのことからも家康

に秀頼に対する憎しみはまったくないといえるのでしょう。

秀忠が征夷大将軍に補され、同時に正二位内大臣に叙任された慶長10年4月に、秀頼は右大臣

に進む。

どういうわけか秀頼は慶長12年の正月(15歳)に右大臣を辞しています。

このことはどう考えればいいのか。

天下の大政を総理する役所の高官である右大臣は、幕府という体制になんら制せられることはあ

りません。

にもかかわらず辞したのは家康が江戸に幕府を開き、そのあとすぐ後継ぎの秀忠に将軍職を譲っ

たことへの遅まきながらの反感で、15歳にして江戸への対抗心をあらわにしたのでしょうか。

これは家康にとっても愉快な行動ではなかったでしょう。



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                  <参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>

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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その11

『結婚式は新郎が主役』

この時代、新婦の両親は嫁ぎ先に出向きません。

むろん結婚式にも顔を出すことはありません。現代の結婚式は新婦が主役ですが、戦国時代は

新郎が主役だったようです。

輿あるいは駕籠を玄関先で見送る。

付き添うのは家来で、千姫には小田原で6万5千石をとる譜代の家来、大久保忠燐が付き添って

いる。

千姫(大河ドラマお江)
se.千姫(大河ドラマ 江より)2

その日、7月28日、千姫は花嫁衣裳に身を飾って輿に乗り、大久保忠燐主従に前後左右を固め

られながら伏見の船着き場に至った。

淀川を下る。

どのくらいの供船であったのでしょう。

箪笥長持ちなど嫁入り道具も少なくなかったでしょうから、50~60艇は従ったのでしょう。

淀川の右岸は畿内の諸候が、左岸は前田利家、細川忠興、黒田長政らが固めた。

固めるといっても、なにかから守るということではなく、儀式に花を添えるいわば儀仗兵として

彼らは動員されたのです。

船は淀川を下って、大坂の大手橋についた。

千姫は船を降り、再び輿に乗って大坂城大手御門に向かい、浅野幸長が迎えて大久保忠燐から輿

を受け取った。

輿は三の丸から二の丸、二の丸から本丸へと進み、本丸玄関で片桐且元らが迎えて千姫は輿を降

り、女たちに先導されて奥に進んだ。

家康が、ただただ祝福しているという気持ちは大坂にも伝わる。

姑にあたる伯母の淀殿も婿の秀頼も相好を崩して幼い花嫁を迎え、やがて華燭の典が華やかに執

り行われたという。

おそらく戦国期を通じてこれほど華麗な挙式は例がなく、そのことに千姫は幼いながらも喜びを

十分にかみしめたことでしょう。



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               <参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>

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クルージング披露宴

『クルージング披露宴』

竹芝での結婚式の案内を頂いていましたので、久しぶりのシンフォニーかと思いつつ行ってきま

した。

ke.結婚式 000

当日、冷静に考えてみると、シンフォニーは日の出だったなぁ~と思いつつ、アクアライン経由で

竹芝に到着です。

結婚式は館内で行われ、写真撮影は禁止です。

プロのカメラマンの写真を買うようにでしょうかねぇ~


結婚式が終わり、披露宴会場の船に案内されました。

ke.結婚式 001

船はさほど大きくないので、こじんまりとした会場です。

ke.結婚式 002

主役たちの登場です。

もう既に幸せそうです。

ke.結婚式 003

船はレインボーブリッジを通過し、羽田沖へと向かいます。

ke.結婚式 004

シンフォニー クラシカもお祝いに駆け付けてくれました。

ke.結婚式 007

羽田沖をぐるっと廻って、2時間半のクルージングです。

ke.結婚式 006

幸せそうですね!

ke.結婚式 005

16時30分出港の19時00時下船でしたけど、この時間に出港であれば、レインボーブリッジや

ウォータフロントのライトアップがきれいだったでしょうね。

ke.結婚式 008

乗船した船をカメラに収めることはできませんでしたが、船内にパネルがあったのでバチリと撮って

きました。

ke.結婚式 009

天気が良く波も穏やかで、船酔いされる方もなくハッピーな結婚式でした。

いっぱい幸せになってくださいねー。



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プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













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