「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その30
『意中の人は忠刻』
千姫は江戸にくだるとき、秀頼の7つになる娘をともなって養女にしていた。
その娘がこのほぼ同じ時期に、満徳寺と並ぶ縁切寺の鎌倉・東慶寺に入っている。
駿府城(駿府城登城記は「こちら」です。)

家康は江戸から駿府に帰った。
そこに気になる報が寄せられた。
家康は大坂城落城のとき、狼狽して周囲の者につい
「千姫を救い出した者に恩賞として姫をとらせる」といった。
そのことをまた聞きした坂崎直盛は、直後に千姫を救い出したものだからすっかりその気になり、
千姫が輿に乗ってやって来るのを今日か明日かと指折り数えて待っていたというのです。
そんな馬鹿な、1万石の加増で十分でないかと思うのですが、本人がそう思い込んでいるのなら、
先手を打って千姫をさっさと片づけ、諦めさせるしかない。
そんなことを考えていると、家康は病みはじめた。
元和2年(1616年)の1月、諸侯や京からの使者も続々と見舞いにやってくる。
秀忠もやって来る。
家康は秀忠を枕もとに呼んで聞いた。
「千姫のことだが、どうしたらよかろう」
問題は2つ。
千姫は入寺していることになっている。縁切寺への入寺はふつう3年。千姫は入寺してまだ間がな
く、それをどう解決したらいいのかというのがひとつ。
いまひとつは。
家康は千姫の侍女「ちよぼ」を通じて千姫と消息をとりあっており、「ちよぼ」から、千姫には意
中の人がおり、その名は本多平八郎の孫・忠刻だと聞いていた。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
千姫は江戸にくだるとき、秀頼の7つになる娘をともなって養女にしていた。
その娘がこのほぼ同じ時期に、満徳寺と並ぶ縁切寺の鎌倉・東慶寺に入っている。
駿府城(駿府城登城記は「こちら」です。)

家康は江戸から駿府に帰った。
そこに気になる報が寄せられた。
家康は大坂城落城のとき、狼狽して周囲の者につい
「千姫を救い出した者に恩賞として姫をとらせる」といった。
そのことをまた聞きした坂崎直盛は、直後に千姫を救い出したものだからすっかりその気になり、
千姫が輿に乗ってやって来るのを今日か明日かと指折り数えて待っていたというのです。
そんな馬鹿な、1万石の加増で十分でないかと思うのですが、本人がそう思い込んでいるのなら、
先手を打って千姫をさっさと片づけ、諦めさせるしかない。
そんなことを考えていると、家康は病みはじめた。
元和2年(1616年)の1月、諸侯や京からの使者も続々と見舞いにやってくる。
秀忠もやって来る。
家康は秀忠を枕もとに呼んで聞いた。
「千姫のことだが、どうしたらよかろう」
問題は2つ。
千姫は入寺していることになっている。縁切寺への入寺はふつう3年。千姫は入寺してまだ間がな
く、それをどう解決したらいいのかというのがひとつ。
いまひとつは。
家康は千姫の侍女「ちよぼ」を通じて千姫と消息をとりあっており、「ちよぼ」から、千姫には意
中の人がおり、その名は本多平八郎の孫・忠刻だと聞いていた。
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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その29
『身代わりを縁切り寺に』
江戸に帰り着いたのは8月20日。
千姫をどうにか助け出した家康にとって次の問題は、千姫は誰かに嫁に出し普通の生活を送ら
せることで、そのためには、秀頼の妻であったという過去をきれいに清算しなければならない。
上州新田郡世良田に満徳寺という縁切り寺があった。
満徳寺縁切り門

この寺は新田氏の四郎義季の女義姫こと浄念尼が開基した時宗の尼寺で、家康は天正19年に
寺領150石を寄進していたので、満徳寺のことを良く知っていた。
そこへ入寺させたらどうだろうかと思いついた。
そうすれば、表向き秀頼との縁は消えると考えたのです。
といって、江戸に戻ったばかりの千姫に、遠く上州までいって尼の修行をしてまいれというの
もかわいそうなことに思える。
そこで、千姫の身代わりとして刑部卿局を満徳寺に送ることにした。
家康さん、スゴ技を考えるものですね。
修行に身代わりなどあるわけないですのですが、家康はそうやって世間体をとりつくろうとし
たのです。
10月から12月にかけて、家康が駿府から江戸に出かけていたときのことです。
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江戸に帰り着いたのは8月20日。
千姫をどうにか助け出した家康にとって次の問題は、千姫は誰かに嫁に出し普通の生活を送ら
せることで、そのためには、秀頼の妻であったという過去をきれいに清算しなければならない。
上州新田郡世良田に満徳寺という縁切り寺があった。
満徳寺縁切り門

この寺は新田氏の四郎義季の女義姫こと浄念尼が開基した時宗の尼寺で、家康は天正19年に
寺領150石を寄進していたので、満徳寺のことを良く知っていた。
そこへ入寺させたらどうだろうかと思いついた。
そうすれば、表向き秀頼との縁は消えると考えたのです。
といって、江戸に戻ったばかりの千姫に、遠く上州までいって尼の修行をしてまいれというの
もかわいそうなことに思える。
そこで、千姫の身代わりとして刑部卿局を満徳寺に送ることにした。
家康さん、スゴ技を考えるものですね。
修行に身代わりなどあるわけないですのですが、家康はそうやって世間体をとりつくろうとし
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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その28
『本多忠刻』
三方ヶ原の戦いで、徳川勢を一蹴した武田軍は戦いの後、こう囃した。
「家康に過ぎた物が2ツある。唐の頭に本多平八」
唐の頭とは舶来のヤクの尾の毛のことで、値が高く、誰でも容易にこれを兜に飾ることができな
かった。その唐の頭とおなじように本多平八郎忠勝は、家康には過ぎたる武将だと褒めた。
大多喜城

この家康の四天王のひとりに数えられた本多忠勝は家康が関東八か国を領して江戸に入府し
たとき、上総国大多喜に10万石を与えられ、関ケ原の戦勝の後、伊勢桑名に同じように10万
石で封ぜられた。
当の本多忠勝は5年前の慶長15年に死去しており、後は忠勝の嫡男・美濃守忠政が継いだ。
忠政は家康の長子・岡崎信康の二女・熊姫を妻に迎えており、二人の間に忠刻という長子が生
まれていた。
この元和元年で20歳。
東海道を江戸に向かった千姫の一行は当然、伊勢桑名を通る。
桑名から尾張の宮までは海路になるため、千姫らは本多家の屋形船にのって宮に向かった。
その時、忠刻はわざわざ出向いて万端差配した。
千姫は19歳。
年は似合いでなんとなく忠刻のことを好ましく思ったという。
とはいえ、秀頼と死別したばかり、素敵なお方だなどと言えるものではなかった。
それでも忠刻の凛々しい姿が脳裏に焼き付いた。
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三方ヶ原の戦いで、徳川勢を一蹴した武田軍は戦いの後、こう囃した。
「家康に過ぎた物が2ツある。唐の頭に本多平八」
唐の頭とは舶来のヤクの尾の毛のことで、値が高く、誰でも容易にこれを兜に飾ることができな
かった。その唐の頭とおなじように本多平八郎忠勝は、家康には過ぎたる武将だと褒めた。
大多喜城

この家康の四天王のひとりに数えられた本多忠勝は家康が関東八か国を領して江戸に入府し
たとき、上総国大多喜に10万石を与えられ、関ケ原の戦勝の後、伊勢桑名に同じように10万
石で封ぜられた。
当の本多忠勝は5年前の慶長15年に死去しており、後は忠勝の嫡男・美濃守忠政が継いだ。
忠政は家康の長子・岡崎信康の二女・熊姫を妻に迎えており、二人の間に忠刻という長子が生
まれていた。
この元和元年で20歳。
東海道を江戸に向かった千姫の一行は当然、伊勢桑名を通る。
桑名から尾張の宮までは海路になるため、千姫らは本多家の屋形船にのって宮に向かった。
その時、忠刻はわざわざ出向いて万端差配した。
千姫は19歳。
年は似合いでなんとなく忠刻のことを好ましく思ったという。
とはいえ、秀頼と死別したばかり、素敵なお方だなどと言えるものではなかった。
それでも忠刻の凛々しい姿が脳裏に焼き付いた。
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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その27
『千姫、江戸へ』
翌9日、秀忠が伏見城に入ったとの報を得て、千姫も伏見城に向かった。
千姫はそのあと、伏見城で腑抜けのような日々を送った。
千姫()

「お身体におよろしくありません。気散じに京へまいらせませ」
刑部卿局らがすすめるので、18日後の27日に、三十三間堂、大仏、清水寺、祇園など東山を
散策した。
おなじ東山にある秀吉を祀る豊国神社には参詣しなかった。
その身がまだ穢(けが)れているのが理由だが、とてもお参りできる気分でなかったのでしょう。
6月が過ぎ、7月に入って19日に、秀忠は伏見城を発して江戸に向かった。
家康は8月2日に二条城を発して駿府へ向かう予定で、その間の30日に、千姫も伏見城を発し
て江戸に向かった。
付き従うのは家康の寵妾・阿茶局、千姫の侍女・刑部卿局、ちよぼ、梅津などで安藤重信が護衛
した。
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翌9日、秀忠が伏見城に入ったとの報を得て、千姫も伏見城に向かった。
千姫はそのあと、伏見城で腑抜けのような日々を送った。
千姫()

「お身体におよろしくありません。気散じに京へまいらせませ」
刑部卿局らがすすめるので、18日後の27日に、三十三間堂、大仏、清水寺、祇園など東山を
散策した。
おなじ東山にある秀吉を祀る豊国神社には参詣しなかった。
その身がまだ穢(けが)れているのが理由だが、とてもお参りできる気分でなかったのでしょう。
6月が過ぎ、7月に入って19日に、秀忠は伏見城を発して江戸に向かった。
家康は8月2日に二条城を発して駿府へ向かう予定で、その間の30日に、千姫も伏見城を発し
て江戸に向かった。
付き従うのは家康の寵妾・阿茶局、千姫の侍女・刑部卿局、ちよぼ、梅津などで安藤重信が護衛
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『女城主・井伊直虎』 その33
『今川氏滅亡』
家康が家康の軍勢が井伊家領を通りながら詳しい記録にないのは当主が女性だったからだと
思われます。
井伊家系図に直虎が城主として書かれていないように、戦いの場に女性を登場させるのがはば
かれる時代だったのです。
今川氏真(1538-1615年)

この後、井伊家領の管理を井伊谷三人衆に任せたのも、当主が女の直虎であったからでしょう。
瀬戸方久は家康の遠江への進軍を聞くと、変わり身早く、家康に接近する。
家康は18日、引馬城を攻め落とし、26日からは今川氏真が逃げ込んだ掛川城を攻めた。
しかし、氏真の重臣で武勇に秀でた朝比奈泰朝は籠城戦でも積極的に討って出て、幾たびか激
戦を繰り広げ、家康も容易に落とせなかった。
だが朝比奈氏側にも展望はなく、結局、1569年(永禄12年)5月17日に和睦が成立し、
氏真は妻の実家である北条氏政を頼って、海路、小田原に脱出し、家康は遠江をついに制圧し
た。
そして名門今川氏は滅亡した。
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<参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>
家康が家康の軍勢が井伊家領を通りながら詳しい記録にないのは当主が女性だったからだと
思われます。
井伊家系図に直虎が城主として書かれていないように、戦いの場に女性を登場させるのがはば
かれる時代だったのです。
今川氏真(1538-1615年)

この後、井伊家領の管理を井伊谷三人衆に任せたのも、当主が女の直虎であったからでしょう。
瀬戸方久は家康の遠江への進軍を聞くと、変わり身早く、家康に接近する。
家康は18日、引馬城を攻め落とし、26日からは今川氏真が逃げ込んだ掛川城を攻めた。
しかし、氏真の重臣で武勇に秀でた朝比奈泰朝は籠城戦でも積極的に討って出て、幾たびか激
戦を繰り広げ、家康も容易に落とせなかった。
だが朝比奈氏側にも展望はなく、結局、1569年(永禄12年)5月17日に和睦が成立し、
氏真は妻の実家である北条氏政を頼って、海路、小田原に脱出し、家康は遠江をついに制圧し
た。
そして名門今川氏は滅亡した。
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<参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>
「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その26
『秀頼自刃』
7日の夜になっても。東軍に秀頼母子の消息は掴めなかった。
翌8日、片桐且元からの注進で、秀頼母子が山里郭の糟蔵に隠れていることがわかった。
秀頼自刃の碑

誰になんの遠慮もいらない。
井伊直孝、安藤重信らの兵が糟蔵を囲んで発砲した。
もはやこれまでと、秀頼、淀殿、付き従うおよそ30人の男女は糟蔵に火をかけて自害した。
岡山の秀忠の陣営で一夜を送った千姫は目の前で、12年を過ごした大坂城が焼け落ちるのを見
て、夫や姑が自害しているであろう図を瞼に思い浮かばされ、胸が張り裂けそうになったことで
しょうが、ただ黙って見ていたという。
この日、千姫は午の刻(正午)に岡山の陣を発ち、大坂城が焼け落ちるのを前方に、そして左手
に、やがて後方に見ながら京へ向かった。
途中から降りしきる大雨を衝いて、亥の刻(午後10時)にようやく二条城に辿りついた。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
7日の夜になっても。東軍に秀頼母子の消息は掴めなかった。
翌8日、片桐且元からの注進で、秀頼母子が山里郭の糟蔵に隠れていることがわかった。
秀頼自刃の碑

誰になんの遠慮もいらない。
井伊直孝、安藤重信らの兵が糟蔵を囲んで発砲した。
もはやこれまでと、秀頼、淀殿、付き従うおよそ30人の男女は糟蔵に火をかけて自害した。
岡山の秀忠の陣営で一夜を送った千姫は目の前で、12年を過ごした大坂城が焼け落ちるのを見
て、夫や姑が自害しているであろう図を瞼に思い浮かばされ、胸が張り裂けそうになったことで
しょうが、ただ黙って見ていたという。
この日、千姫は午の刻(正午)に岡山の陣を発ち、大坂城が焼け落ちるのを前方に、そして左手
に、やがて後方に見ながら京へ向かった。
途中から降りしきる大雨を衝いて、亥の刻(午後10時)にようやく二条城に辿りついた。
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「謂れのない汚名を後世に晒した悲劇の女・千姫」 その25
『千姫、夫たちの命乞い』
坂崎直盛や堀内主水らがさがり、ひと段落して千姫は家康にいった。
「城中の義母上(淀殿)殿(秀頼)の身の上のことについてお願いがございます」
「なんだ?」
家康は聞く。
「お命をお助けいただきたいのです。助命が願えれば修理(大野治長)をはじめ、おもだった者は
切腹すると申しております。お聞き届けくださりませ」
徳川秀忠(1579-1632年)

秀頼の息の根を止めるというのが今度の冬と夏の陣の狙いである。いくらかわいい孫娘の願い
だからといって聞き届けるわけにはいかない。さりとて。孫娘の気持ちを思うと、この場でそれは
聞けぬとは言いづらい。
家康はいった。
「聞き届けてやりたいのだがのぉ。万事はおぬしの父親・公方(秀忠)が差配しておる。公方に
聞いてみるがいい」
家康は秀忠に下駄を預けた。
千姫は本多正信に伴われて、岡山に陣している秀忠のもとに出向いた。
千姫は家康にいったのと同じことをいい、秀頼母子の命乞いをした。
秀忠はみるみる機嫌を損じていった。
「なぜ、秀頼と一緒に城に残らなかったのだ。恥を知れ、恥を」
叱ったのは周りにいる家来の目を意識してのことだが、秀頼母子を助命するなど、むろん秀頼に
とってもありうべかざることだった。
公方である父・秀忠の意向がはっきりした以上、千姫にはもはやどうにもならない。
そのほか、大野治長は別の筋からも秀頼らの助命を嘆願していたが、秀忠は無視した。
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
坂崎直盛や堀内主水らがさがり、ひと段落して千姫は家康にいった。
「城中の義母上(淀殿)殿(秀頼)の身の上のことについてお願いがございます」
「なんだ?」
家康は聞く。
「お命をお助けいただきたいのです。助命が願えれば修理(大野治長)をはじめ、おもだった者は
切腹すると申しております。お聞き届けくださりませ」
徳川秀忠(1579-1632年)

秀頼の息の根を止めるというのが今度の冬と夏の陣の狙いである。いくらかわいい孫娘の願い
だからといって聞き届けるわけにはいかない。さりとて。孫娘の気持ちを思うと、この場でそれは
聞けぬとは言いづらい。
家康はいった。
「聞き届けてやりたいのだがのぉ。万事はおぬしの父親・公方(秀忠)が差配しておる。公方に
聞いてみるがいい」
家康は秀忠に下駄を預けた。
千姫は本多正信に伴われて、岡山に陣している秀忠のもとに出向いた。
千姫は家康にいったのと同じことをいい、秀頼母子の命乞いをした。
秀忠はみるみる機嫌を損じていった。
「なぜ、秀頼と一緒に城に残らなかったのだ。恥を知れ、恥を」
叱ったのは周りにいる家来の目を意識してのことだが、秀頼母子を助命するなど、むろん秀頼に
とってもありうべかざることだった。
公方である父・秀忠の意向がはっきりした以上、千姫にはもはやどうにもならない。
そのほか、大野治長は別の筋からも秀頼らの助命を嘆願していたが、秀忠は無視した。
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