家康の過酷な命を受けた千世姫 その7
『狙われる前田家』
家康が大坂にくだって利家と面会したわずか13日後、利家は天寿をまっとうして逝去した。
この利家の死をきっかけに家康と四大老五奉行の膠着していた状態は流動しはじめる。
前田利家(1539-1599年)

武断派とされていた、またそれぞれがともに三成に遺恨をもっていた清正、嘉明(当時は蜂須賀
家政)の両加藤に、黒田長政、池田輝元、浅野幸長、福島正則、そして細川忠興の7将が三成を
討ち果たそうと策し、三成は家康が睨みを利かせている伏見の自身の屋敷に逃げ込んだ。
7将は伏見まで三成を追い、「成敗したい」と家康に許諾を求めた。
家康は許さず、三成を居城、近江の佐和山城に送って隠棲させた。
そうしておいて家康は、照準を利家の嫡男、後継ぎの利勝に当てた。
利家との和解など、そんなもの覚えてなどいないと言わんばかりにある。
利勝は大坂城内に、門と櫓を普請させていた。
五大老の毛利輝元、宇喜多家秀、上杉景勝などが利家の死後、そそくさと帰国してしまったことも
あり、家康は大坂に出向いて
「誰にことわっての普請か」
と因縁をつけ、ほかにもあれこれと利勝に嫌がらせをした。
利家は利勝にこう遺言していた。
「3年は加賀にくだりことのないよう」
利勝は家康の嫌がらせに嫌気がさし、遺言に従うことなく、加賀金沢に帰ってしまった。
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
家康が大坂にくだって利家と面会したわずか13日後、利家は天寿をまっとうして逝去した。
この利家の死をきっかけに家康と四大老五奉行の膠着していた状態は流動しはじめる。
前田利家(1539-1599年)

武断派とされていた、またそれぞれがともに三成に遺恨をもっていた清正、嘉明(当時は蜂須賀
家政)の両加藤に、黒田長政、池田輝元、浅野幸長、福島正則、そして細川忠興の7将が三成を
討ち果たそうと策し、三成は家康が睨みを利かせている伏見の自身の屋敷に逃げ込んだ。
7将は伏見まで三成を追い、「成敗したい」と家康に許諾を求めた。
家康は許さず、三成を居城、近江の佐和山城に送って隠棲させた。
そうしておいて家康は、照準を利家の嫡男、後継ぎの利勝に当てた。
利家との和解など、そんなもの覚えてなどいないと言わんばかりにある。
利勝は大坂城内に、門と櫓を普請させていた。
五大老の毛利輝元、宇喜多家秀、上杉景勝などが利家の死後、そそくさと帰国してしまったことも
あり、家康は大坂に出向いて
「誰にことわっての普請か」
と因縁をつけ、ほかにもあれこれと利勝に嫌がらせをした。
利家は利勝にこう遺言していた。
「3年は加賀にくだりことのないよう」
利勝は家康の嫌がらせに嫌気がさし、遺言に従うことなく、加賀金沢に帰ってしまった。
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『女城主・井伊直虎』 その41
『万千代は大名に』
万千代の甲冑着初め式が行われた2日後に、家康は駿府に入り、武田が遠江攻略の拠点として
いた田中城(焼津市)を攻めた。
これに従軍して万千代は手柄を立て、1万石を加増され、1万3千石となった。
この時、駿河国益頭郡方上庄鷹峰(焼津市)を拝領したとういう。
今川分限帳によれば、直盛の石高が2万5千石(井伊家伝記では2万石)だったといいますか
ら、およそ半分まで回復したことになります。
さらに天正8年(1580年)、直政が20歳の時に加増され2万石になった。
井伊家は昔ながらの石高をほぼ回復し、ここにそれぞれ山中の領地に引きこもり、おとなしくし
ていた井伊家の分家の者たちは、中野越中守、奥山六左衛門をはじめとして、万千代のもとに
集まり、万千代を支える家臣となって活躍し出す。
以下に万千代(井伊直政)の石高の変遷をまとめてみます。
天正3年(1575年) 15歳 300石(家康に召し出され)
天正4年(1576年) 16歳 3千石(高天神の功で)
天正6年(1578年) 18歳 1万3千石(駿河田中城攻めで)
天正8年(1580年) 20歳 2万石
天正10年(1582年) 22歳 4万石(甲州攻めの武功)
天正13年(1585年) 25歳 6万石(前年の長久手の武勲)
天正18年(1590年) 30歳 12万石(小田原での武功)領地替え、上州箕輪城主に
慶長3年(1698年) 38歳 12万石(上州高崎城に移る)
慶長5年(1600年) 40歳 18万石(関ケ原の功)近江佐和山城主
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<参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>
万千代の甲冑着初め式が行われた2日後に、家康は駿府に入り、武田が遠江攻略の拠点として
いた田中城(焼津市)を攻めた。
これに従軍して万千代は手柄を立て、1万石を加増され、1万3千石となった。
この時、駿河国益頭郡方上庄鷹峰(焼津市)を拝領したとういう。
今川分限帳によれば、直盛の石高が2万5千石(井伊家伝記では2万石)だったといいますか
ら、およそ半分まで回復したことになります。
さらに天正8年(1580年)、直政が20歳の時に加増され2万石になった。
井伊家は昔ながらの石高をほぼ回復し、ここにそれぞれ山中の領地に引きこもり、おとなしくし
ていた井伊家の分家の者たちは、中野越中守、奥山六左衛門をはじめとして、万千代のもとに
集まり、万千代を支える家臣となって活躍し出す。
以下に万千代(井伊直政)の石高の変遷をまとめてみます。
天正3年(1575年) 15歳 300石(家康に召し出され)
天正4年(1576年) 16歳 3千石(高天神の功で)
天正6年(1578年) 18歳 1万3千石(駿河田中城攻めで)
天正8年(1580年) 20歳 2万石
天正10年(1582年) 22歳 4万石(甲州攻めの武功)
天正13年(1585年) 25歳 6万石(前年の長久手の武勲)
天正18年(1590年) 30歳 12万石(小田原での武功)領地替え、上州箕輪城主に
慶長3年(1698年) 38歳 12万石(上州高崎城に移る)
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家康の過酷な命を受けた千世姫 その6
『弱気になった利家』
「肥前殿(利勝)はお人柄もよく、凡庸でもござりませぬ。されど戦国の難しい世を生きながら
えてこられた御辺とは比べようもない。内府殿に対抗できるとは思えませぬ。もとより他の三大
老や五奉行をまとめる力もおありではない。ありえないことですが、かりに自部少輔(石田三成
)が運よく内府殿を倒したとしても、今度は肥前殿が目障りになり、自部少輔は肥前殿を標的に
いたしもうそう。ここは亡くなられた後のことに思いをいたされ、内府殿に恩を売っておかれる
のが無難。そう思うのでござる」
利家は口元をゆがめたまま、目をつむる。
金沢城の前田利家

説得は20日におよび、忠興はこの日も
「なにをためらっておられます。ご決断なされませ」
と叱咤するように迫った。
利家はその日ようやく、弱々しく、つぶやくように言った。
「御辺の申されるとおりやもしれぬ」
利家としてもまじかに迫っている死後のことを思うと、忠興の勧めに耳を傾けておくほうがいい
のかも知れぬと思いなおした。それだけ気弱になっていたということでもあり、か細い声で言っ
た。
「段取りはすべて御辺にお任せもうす」
「よくぞ、ご決断なされた。さればすぐにでも」
と言って忠興は家康側に掛け合い、利家は伏見に出かけることになり、夜船で淀川を上った。
利家は事実上、家康の軍門にくだったのです。
家康は一応歓迎する振りをし、返礼に大坂に向かった。
とりあえず形ばかり和解が整った。
だが、家康がこれらのことを恩に着たかどうかになると、首をひねざらるを得ない。
利家は放っておいても早晩死ぬ。
だから、忠興がやってくれたことはむしろ余計なお節介で、忠興が懸念したように、にわかに擦
り寄って尻尾を振る追従者と軽侮した。
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「肥前殿(利勝)はお人柄もよく、凡庸でもござりませぬ。されど戦国の難しい世を生きながら
えてこられた御辺とは比べようもない。内府殿に対抗できるとは思えませぬ。もとより他の三大
老や五奉行をまとめる力もおありではない。ありえないことですが、かりに自部少輔(石田三成
)が運よく内府殿を倒したとしても、今度は肥前殿が目障りになり、自部少輔は肥前殿を標的に
いたしもうそう。ここは亡くなられた後のことに思いをいたされ、内府殿に恩を売っておかれる
のが無難。そう思うのでござる」
利家は口元をゆがめたまま、目をつむる。
金沢城の前田利家

説得は20日におよび、忠興はこの日も
「なにをためらっておられます。ご決断なされませ」
と叱咤するように迫った。
利家はその日ようやく、弱々しく、つぶやくように言った。
「御辺の申されるとおりやもしれぬ」
利家としてもまじかに迫っている死後のことを思うと、忠興の勧めに耳を傾けておくほうがいい
のかも知れぬと思いなおした。それだけ気弱になっていたということでもあり、か細い声で言っ
た。
「段取りはすべて御辺にお任せもうす」
「よくぞ、ご決断なされた。さればすぐにでも」
と言って忠興は家康側に掛け合い、利家は伏見に出かけることになり、夜船で淀川を上った。
利家は事実上、家康の軍門にくだったのです。
家康は一応歓迎する振りをし、返礼に大坂に向かった。
とりあえず形ばかり和解が整った。
だが、家康がこれらのことを恩に着たかどうかになると、首をひねざらるを得ない。
利家は放っておいても早晩死ぬ。
だから、忠興がやってくれたことはむしろ余計なお節介で、忠興が懸念したように、にわかに擦
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家康の過酷な命を受けた千世姫 その5
『忠興の説得』
利家は嫁・千世の親。
忠興は婿・忠隆の親。
舅どおしという縁がある。
それだけでなく、忠興はかねて嫁・千世の兄、利家の嫡男・肥前守利勝(後の利長)と親しくし
ていた。
前田利家(1539-1599年)

父・幽斎から策をさずけられ、忠興は利勝を訪ねて説得。病床の利家に引き込んで合わせてもら
って言った。
「伏見にまいられて、内府殿と和解なされませ」
利家は家康のやり方に心底怒っていた。
「和解に異存はござらぬが、このたびの喧嘩は向こうが仕掛けてきたこと。なにゆえこちらが膝
を屈するように、のこのこ伏見になどまいらねばならぬ」
「そこをまげて」
とかさねて勧めるものの、利家は首を縦に振らない。それでも粘り強く、忠興は前田屋敷に日参
して和解を勧めた。
「何度、勧められても同じこと」
利家はとりあわない。
「さればでございます」
これだけは言わないでおこうと思っていたのだが止むを得ない。忠興はいった。
「口にするのは憚られることながら、御辺の余命はいくばくもござらぬ」
本人もそう思っている。利家は露骨に顔をしかめる。
「天下は回り持ち。内府殿に余命はまだあるようで、ならばいずれ天下は内府殿の手に帰しもう
そう。そのとき、御辺がいまのままでみまかられれば、ご嫡男の肥前殿は内府殿から真っ先に標
的にされもうそう」
利家は、今度は口元をゆがめる。
利家が亡くなると、利家の後嗣・肥前守利勝に三大老五奉行をまとめる力はなく、各個撃破はた
やすくなり、たしかに利勝が真っ先に標的にされる。
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それだけでなく、忠興はかねて嫁・千世の兄、利家の嫡男・肥前守利勝(後の利長)と親しくし
ていた。
前田利家(1539-1599年)

父・幽斎から策をさずけられ、忠興は利勝を訪ねて説得。病床の利家に引き込んで合わせてもら
って言った。
「伏見にまいられて、内府殿と和解なされませ」
利家は家康のやり方に心底怒っていた。
「和解に異存はござらぬが、このたびの喧嘩は向こうが仕掛けてきたこと。なにゆえこちらが膝
を屈するように、のこのこ伏見になどまいらねばならぬ」
「そこをまげて」
とかさねて勧めるものの、利家は首を縦に振らない。それでも粘り強く、忠興は前田屋敷に日参
して和解を勧めた。
「何度、勧められても同じこと」
利家はとりあわない。
「さればでございます」
これだけは言わないでおこうと思っていたのだが止むを得ない。忠興はいった。
「口にするのは憚られることながら、御辺の余命はいくばくもござらぬ」
本人もそう思っている。利家は露骨に顔をしかめる。
「天下は回り持ち。内府殿に余命はまだあるようで、ならばいずれ天下は内府殿の手に帰しもう
そう。そのとき、御辺がいまのままでみまかられれば、ご嫡男の肥前殿は内府殿から真っ先に標
的にされもうそう」
利家は、今度は口元をゆがめる。
利家が亡くなると、利家の後嗣・肥前守利勝に三大老五奉行をまとめる力はなく、各個撃破はた
やすくなり、たしかに利勝が真っ先に標的にされる。
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家康の過酷な命を受けた千世姫 その4
『幽斎の知恵』
四大老五奉行のうち、家康と敵対しうる実力者は前田利家で、利家があとの三大老と五奉行を
まとめていたからこそ、四大老五奉行は家康に対抗し得ていた。
細川幽斎(1532-1635年)

そこで、ここは利家に一歩も二歩も譲ってもらって、押して伏見に出かけ家康と和解して貰うよ
うにすすめる。
すると家康も返礼に大坂に向かわざるをえず、とにもかくにも両者の和解がなって、いまの騒ぎ
は収まる。
鎮まればその功労者として、家康は恩に着る。
当の利家はいま死の病にとりつかれて病床にあり、余命いくばくもない。
その利家に、伏見へと説得するのはかなり難しいが、説得するだけの価値はある。
「やってみろ」
と幽斎は忠興にいった。
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まとめていたからこそ、四大老五奉行は家康に対抗し得ていた。
細川幽斎(1532-1635年)

そこで、ここは利家に一歩も二歩も譲ってもらって、押して伏見に出かけ家康と和解して貰うよ
うにすすめる。
すると家康も返礼に大坂に向かわざるをえず、とにもかくにも両者の和解がなって、いまの騒ぎ
は収まる。
鎮まればその功労者として、家康は恩に着る。
当の利家はいま死の病にとりつかれて病床にあり、余命いくばくもない。
その利家に、伏見へと説得するのはかなり難しいが、説得するだけの価値はある。
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家康の過酷な命を受けた千世姫 その3
『細川家のあせり』
千世の婿(忠隆)の父・細川忠興は秀吉の代になってから領地を一坪たりとも増やしていない。
小僧っ子だった加藤清正、福島正則、石田三成、増田長盛らがみるみる領地を増やし、20万石
前後の大名にのしあがったというのに、丹後一国14万1千4百石を領したままだった。
細川忠興(1563-1646年)

忠興にとってもこれほど面白いことはない。秀吉に少なからず不満を抱いていた。
それに秀吉子飼いの5奉行のひとり石田三成とはいささかの怨念があり、家康と三成が指揮する
豊臣家が対立するようなことがあれば、家康に味方しようとかねてから考えていた。
しかし、家康とは過去にこれといった縁がない。
にわかに家康にすり寄ると、家康からうさん臭い目でみられる。
忠興の父は、細川家を興した細川幽斎なる学者肌の、かつ戦国の難しい世を巧みに生き抜いて
きた隠居で、忠興は幽斎にかねてからこう悩みを打ち明けていた。
「いまのうちに家康殿に懇意にしていただいておきたいのですが、どうしたらいいのでしょう」
家康と四大老五奉行は和睦したものの、それはとりあえずであって家康も、打倒家康を狙ってい
る石田三成も本心からではない。
三成が伏見に押し出していって、家康を襲うという噂もしつこく流れた。
四大老五奉行を巻き込んで三成が家康と公然と事を構えるのは時間の問題と思われたこのとき、
幽斎は領国の丹後からやってきて忠興に策をさずけた。
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千世の婿(忠隆)の父・細川忠興は秀吉の代になってから領地を一坪たりとも増やしていない。
小僧っ子だった加藤清正、福島正則、石田三成、増田長盛らがみるみる領地を増やし、20万石
前後の大名にのしあがったというのに、丹後一国14万1千4百石を領したままだった。
細川忠興(1563-1646年)

忠興にとってもこれほど面白いことはない。秀吉に少なからず不満を抱いていた。
それに秀吉子飼いの5奉行のひとり石田三成とはいささかの怨念があり、家康と三成が指揮する
豊臣家が対立するようなことがあれば、家康に味方しようとかねてから考えていた。
しかし、家康とは過去にこれといった縁がない。
にわかに家康にすり寄ると、家康からうさん臭い目でみられる。
忠興の父は、細川家を興した細川幽斎なる学者肌の、かつ戦国の難しい世を巧みに生き抜いて
きた隠居で、忠興は幽斎にかねてからこう悩みを打ち明けていた。
「いまのうちに家康殿に懇意にしていただいておきたいのですが、どうしたらいいのでしょう」
家康と四大老五奉行は和睦したものの、それはとりあえずであって家康も、打倒家康を狙ってい
る石田三成も本心からではない。
三成が伏見に押し出していって、家康を襲うという噂もしつこく流れた。
四大老五奉行を巻き込んで三成が家康と公然と事を構えるのは時間の問題と思われたこのとき、
幽斎は領国の丹後からやってきて忠興に策をさずけた。
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
家康の過酷な命を受けた千世姫 その2
『家康のゆさぶり』
翌、慶長3年(1598年)8月18日、秀吉は一粒種の秀頼がまだ幼かったため、五大老五奉
行に、秀頼を守り立ててくれるようにと身もだえるように懇願して他界した。
五大老は、家康、利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元で、とうに天下取りを視野に入れてい
た家康は、秀吉が死ぬ四大老五奉行を相手に揺さぶりをかけはじめた。
徳川家康(1543-1616年)

秀吉は諸大名に勝手に縁組をしてはならぬと達していた。
家康は無視して、3つの縁談をとりまとめた。
四大老五奉行はこの揺さぶりに、家康の狙いどおり反発した。
あるまじきこととして、五奉行のひとり石田三成が起草した問責書に、三成はむろんのこと、四
大老四奉行が連署して、伏見にいる家康に送り届けた。
家康は問責書を持参した使者にとぼけてこういった。
「縁組は取り持ち人が届けて、聞き届けてもらったものとものとばかり思っていた」
だけでなく、こう逆さねじりを食らわせた。
「問責書には、それがしの返答次第で、それがしを十人衆(五大老五奉行)から除くとある。こ
のような条は、かえって故太閤殿下の御遺命に背くものではござらぬか」
取り持ち人は茶の宗匠・今井宗薫で、宗薫にただすと、こう突き放す。
「武家の法度など、われら存じよらぬこと」
家康や宗薫の回答は問責書に対する回答になっていない。
四大老五奉行ならびに諸将は激高したが、中老・堀尾吉晴が奔走して、和睦して誓紙を取り交わ
そうということになり、家康もとりあえず縁組については白紙に戻した。
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行に、秀頼を守り立ててくれるようにと身もだえるように懇願して他界した。
五大老は、家康、利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元で、とうに天下取りを視野に入れてい
た家康は、秀吉が死ぬ四大老五奉行を相手に揺さぶりをかけはじめた。
徳川家康(1543-1616年)

秀吉は諸大名に勝手に縁組をしてはならぬと達していた。
家康は無視して、3つの縁談をとりまとめた。
四大老五奉行はこの揺さぶりに、家康の狙いどおり反発した。
あるまじきこととして、五奉行のひとり石田三成が起草した問責書に、三成はむろんのこと、四
大老四奉行が連署して、伏見にいる家康に送り届けた。
家康は問責書を持参した使者にとぼけてこういった。
「縁組は取り持ち人が届けて、聞き届けてもらったものとものとばかり思っていた」
だけでなく、こう逆さねじりを食らわせた。
「問責書には、それがしの返答次第で、それがしを十人衆(五大老五奉行)から除くとある。こ
のような条は、かえって故太閤殿下の御遺命に背くものではござらぬか」
取り持ち人は茶の宗匠・今井宗薫で、宗薫にただすと、こう突き放す。
「武家の法度など、われら存じよらぬこと」
家康や宗薫の回答は問責書に対する回答になっていない。
四大老五奉行ならびに諸将は激高したが、中老・堀尾吉晴が奔走して、和睦して誓紙を取り交わ
そうということになり、家康もとりあえず縁組については白紙に戻した。
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