家康の過酷な命を受けた千世姫 その22
『ガラシャ自刃』
三成は家康に宣戦布告した後、家来にいった。
「今日は有無をいわさず、越中の奥を連れてこい」
やがて暮れにさしかかろうとする時間に、家来は指示に従い、大勢の兵に細川邸を取り囲ませて
小笠原秀清が言った。
「今日はなにがなんでも御城にお移りいただく。早々にお超しあるべし」
「しばし、お待ちいただきたい」
と清秀は押し止め、奥に入ってガラシャに言った。
「お覚悟はよろしゅうございますか?」
「うむ」
ガラシャの墓(崇禅寺)

ガラシャ頷いて侍女に聞く。
「千世は?」
侍女は屋敷内を探し回っていう。
「見えられません」
千世は隙を見て、いったん隣の宇喜多家の屋敷に逃れ、その後、里の縁者振りを断たれている
前田家の屋敷に逃げ込んでいた。
「そうか。ならばよい」
ガラシャはお供つかまつりますすがる2人の侍女をも落とさせた。残るは秀清ら老臣と老女のみ
で、ガラシャは秀清に言った。
「介護つかまつれ」
「かしこまりました」
秀清は長刀を携え、老女の先導でガラシャに近づいた。
ガラシャ髪をきりりと巻き上げる。
秀清は首を振って言った。
「さようではござりません」
「こうか」
ガラシャは両手で襟を掴んで、くわっと開く。
ガラシャは御座の間にいて、秀清は敷居を隔てている。この期におよんでも御座の間に入るのに
はためらいがある。
「いま少しこなたへお出でください」
と秀清がいい、ガラシャは胸をあらわにしたまま敷居に近づいて踏ん張った。
「ご免」
声を押し殺して、秀清は長刀をガラシャの胸に突き入れた。
ガラシャはがくりと膝を折り、ほぼ即死の状態で息をひきとった。
秀清は屋敷にいたいま一人の老臣・河北一成と2人して、鉄砲の玉薬をまいて火をつけ、その後、
ともに腹を切った。
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
三成は家康に宣戦布告した後、家来にいった。
「今日は有無をいわさず、越中の奥を連れてこい」
やがて暮れにさしかかろうとする時間に、家来は指示に従い、大勢の兵に細川邸を取り囲ませて
小笠原秀清が言った。
「今日はなにがなんでも御城にお移りいただく。早々にお超しあるべし」
「しばし、お待ちいただきたい」
と清秀は押し止め、奥に入ってガラシャに言った。
「お覚悟はよろしゅうございますか?」
「うむ」
ガラシャの墓(崇禅寺)

ガラシャ頷いて侍女に聞く。
「千世は?」
侍女は屋敷内を探し回っていう。
「見えられません」
千世は隙を見て、いったん隣の宇喜多家の屋敷に逃れ、その後、里の縁者振りを断たれている
前田家の屋敷に逃げ込んでいた。
「そうか。ならばよい」
ガラシャはお供つかまつりますすがる2人の侍女をも落とさせた。残るは秀清ら老臣と老女のみ
で、ガラシャは秀清に言った。
「介護つかまつれ」
「かしこまりました」
秀清は長刀を携え、老女の先導でガラシャに近づいた。
ガラシャ髪をきりりと巻き上げる。
秀清は首を振って言った。
「さようではござりません」
「こうか」
ガラシャは両手で襟を掴んで、くわっと開く。
ガラシャは御座の間にいて、秀清は敷居を隔てている。この期におよんでも御座の間に入るのに
はためらいがある。
「いま少しこなたへお出でください」
と秀清がいい、ガラシャは胸をあらわにしたまま敷居に近づいて踏ん張った。
「ご免」
声を押し殺して、秀清は長刀をガラシャの胸に突き入れた。
ガラシャはがくりと膝を折り、ほぼ即死の状態で息をひきとった。
秀清は屋敷にいたいま一人の老臣・河北一成と2人して、鉄砲の玉薬をまいて火をつけ、その後、
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家康の過酷な命を受けた千世姫 その21
『千代の葛藤』
ガラシャは同席している嫡男・忠隆の妻・千世に声をかける。
「そなたはどうなされる?」
毛利輝元(1553-1625年)

死にたくはない。
なにゆえ、こんなことで死ななければならないのだ。
夫・忠隆も言った。逃げ延びてくれと。
しかし、姑は気性がはげしい。
死にたくはない。逃げ延びるなどと言うと、きっとこう言うに違いない。
「そなたとともに、わらわが介護つかまる」
千世は、心とは裏腹に言った。
「もとよりお供つかまつります」
その日、ガラシャは叔母や娘などを落とさせた。
翌17日、三成は西ノ丸をいた家康の留守居・佐野綱正を追い、毛利輝元を西ノ丸に向かい入れ
た。
輝元は安国寺恵瓊、長束正家、増田長盛、前田玄以ら三奉行にうながされて、前々日に大坂に
着いたばかりで、三成は輝元を西ノ丸に迎えて西軍の総帥に担いだ。
さらにその日に三成は、三奉行に連署させて、「内府ちがひの条々」と題する、家康の罪状13ヵ条
を列挙する書状を家康に送った。
三成は公然と家康に宣戦布告した。
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毛利輝元(1553-1625年)

死にたくはない。
なにゆえ、こんなことで死ななければならないのだ。
夫・忠隆も言った。逃げ延びてくれと。
しかし、姑は気性がはげしい。
死にたくはない。逃げ延びるなどと言うと、きっとこう言うに違いない。
「そなたとともに、わらわが介護つかまる」
千世は、心とは裏腹に言った。
「もとよりお供つかまつります」
その日、ガラシャは叔母や娘などを落とさせた。
翌17日、三成は西ノ丸をいた家康の留守居・佐野綱正を追い、毛利輝元を西ノ丸に向かい入れ
た。
輝元は安国寺恵瓊、長束正家、増田長盛、前田玄以ら三奉行にうながされて、前々日に大坂に
着いたばかりで、三成は輝元を西ノ丸に迎えて西軍の総帥に担いだ。
さらにその日に三成は、三奉行に連署させて、「内府ちがひの条々」と題する、家康の罪状13ヵ条
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家康の過酷な命を受けた千世姫 その20
『丹波に落ちないガラシャ』
16日になると正式に三成の使者が来ていう。
「与一郎(忠隆)殿の御内室(千世)ともども、御内室(ガラシャ)に御登城いただきたい」
元足利幕府の臣で新羅義光の血を引く老臣・小笠原秀清が応えて言った。
「当越中守の屋敷は御城に遠いというわけでもありません。このままにしておかれたい」
ガラシャ(1563-1600年)

使者はいったん戻り、またやって来て言う。
「やはり御城に入っていただく」
「お断りいたす」
「ならば力ずくにても」
使者は肩をいからせ。秀清も同じく肩をいからせて言った。
「力ずくということであれば我らは拒みようもござらぬ。されどその場合、御内室様はご生害な
され、我らは皺腹を掻き切る」
使者はまた戻って行き、秀清は経緯をガラシャに報告した。
ガラシャは言った。
「分かりました。重ねて使者がまいりましたら、すみやかに自害いたしましょう」
「さりながら」
と秀清は言った。
「外郭の口々に番手の兵がおかれているとはもうせ、抜け出す手だてがないわけでもございませ
ん。思い直されて、丹後に落ちられたらいかがでしょうか」
ガラシャは首を振る。
「殿(忠興)は出陣のみぎり、くれぐれも卑怯未練な振る舞いのないようにといいおかれました。
また、殿は、逃げ出すなど、けっして許すお方ではございません。敵が押し寄せてきたら、頃合
いを見計らって、その方が介錯つかまつれ」
ガラシャは敬虔なキリシタンだったので、自殺はできない。だから秀清に介錯をつかまつれとい
った。二度すすめて聞く相手ではない。秀清は手をついていった。
「承知いたしました」
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「与一郎(忠隆)殿の御内室(千世)ともども、御内室(ガラシャ)に御登城いただきたい」
元足利幕府の臣で新羅義光の血を引く老臣・小笠原秀清が応えて言った。
「当越中守の屋敷は御城に遠いというわけでもありません。このままにしておかれたい」
ガラシャ(1563-1600年)

使者はいったん戻り、またやって来て言う。
「やはり御城に入っていただく」
「お断りいたす」
「ならば力ずくにても」
使者は肩をいからせ。秀清も同じく肩をいからせて言った。
「力ずくということであれば我らは拒みようもござらぬ。されどその場合、御内室様はご生害な
され、我らは皺腹を掻き切る」
使者はまた戻って行き、秀清は経緯をガラシャに報告した。
ガラシャは言った。
「分かりました。重ねて使者がまいりましたら、すみやかに自害いたしましょう」
「さりながら」
と秀清は言った。
「外郭の口々に番手の兵がおかれているとはもうせ、抜け出す手だてがないわけでもございませ
ん。思い直されて、丹後に落ちられたらいかがでしょうか」
ガラシャは首を振る。
「殿(忠興)は出陣のみぎり、くれぐれも卑怯未練な振る舞いのないようにといいおかれました。
また、殿は、逃げ出すなど、けっして許すお方ではございません。敵が押し寄せてきたら、頃合
いを見計らって、その方が介錯つかまつれ」
ガラシャは敬虔なキリシタンだったので、自殺はできない。だから秀清に介錯をつかまつれとい
った。二度すすめて聞く相手ではない。秀清は手をついていった。
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『女城主・井伊直虎』 その45
『万千代寵愛の原点』
築山殿の母方の祖父は井伊直平です。
その縁によって万千代は出世したと見るのが自然なのでしょう。
そして死んだ信康の存在も大きかった。
徳川信康(1559-1579年)

家康は信康を可愛がり、一緒に馬を並べて戦場に向かうことを喜びとし、自ら命を奪った後も
ことある毎に、武勇にすぐれていた信康を思い出し、関ケ原合戦の時、大遅参した秀忠の器量
のなさを嘆き
「信康が生きていてくれたら・・・」
とため息をついたことは有名な話です。
その信康が死んだのは21歳。
この時、万千代は19歳で、ふたりは2歳しか違わない。しかも、ふたりの祖父母は井伊直平
であり、その勇猛さといい、利発さといい、共通点があった。
もしかして顔立ちや姿もどこか似ているところがあったのかも知れません。
万千代の中に、家康は信康の面影を見ていたのかも知れません。
築山殿の生存中はその身内として、亡き後は信康をダブられて万千代を見ていた。
家康の万千代寵愛の原点はここにあったのでしょう。
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その縁によって万千代は出世したと見るのが自然なのでしょう。
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徳川信康(1559-1579年)

家康は信康を可愛がり、一緒に馬を並べて戦場に向かうことを喜びとし、自ら命を奪った後も
ことある毎に、武勇にすぐれていた信康を思い出し、関ケ原合戦の時、大遅参した秀忠の器量
のなさを嘆き
「信康が生きていてくれたら・・・」
とため息をついたことは有名な話です。
その信康が死んだのは21歳。
この時、万千代は19歳で、ふたりは2歳しか違わない。しかも、ふたりの祖父母は井伊直平
であり、その勇猛さといい、利発さといい、共通点があった。
もしかして顔立ちや姿もどこか似ているところがあったのかも知れません。
万千代の中に、家康は信康の面影を見ていたのかも知れません。
築山殿の生存中はその身内として、亡き後は信康をダブられて万千代を見ていた。
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東京湾に沈む夕日
家康の過酷な命を受けた千世姫 その19
『ガラシャ大坂城入りを拒否』
宇都宮から2里ほど北の在所にいた忠興・忠隆らが小笠原秀清からの手紙を受け取ったとき、
ガラシャはすでに自害していた。
宇喜多秀家(1572-1655年)

三成は7月15日大坂に入ると、その日ただちに五奉行の増田長盛、前田玄以に指示し、大坂
にいた諸将の兵に大坂城の外郭を固めさせ、諸将の妻子や母の出入りを禁じた。
ことごとく人質にして、東征している諸将の気をくじく作戦をとった。
三成は諸将のなかでも特に忠興が憎い。矛先を真っ先に玉造口の細川邸に向け、日ごろ細川邸
に出入りしている比丘尼(びくに)に命じ、ガラシャと千世に大坂城に入るようにと言わせた。
これはガラシャが断った。
比丘尼はいったん戻り、出直して言った。
「ならば、隣家の宇喜多様のお屋敷にお入りなされませ」
宇喜多秀家の妻・豪は前田利家の四女で、秀吉の猶子になったあと、宇喜多秀家に嫁いでいた。
千世は利家の7女。
秀家と忠隆は相婿で、宇喜多家と細川家は親戚であった。
とはいえ、秀家は幼くして家督し、秀吉にわが子のようにかわいがられて育っていた。
五大老の一角を占め、豊家に大恩があり、家康と三成が戦えば三成側につく。
宇喜多の屋敷に入れば、三成の人質になったも同然。
これまたガラシャは拒んだ。
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<参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>
宇都宮から2里ほど北の在所にいた忠興・忠隆らが小笠原秀清からの手紙を受け取ったとき、
ガラシャはすでに自害していた。
宇喜多秀家(1572-1655年)

三成は7月15日大坂に入ると、その日ただちに五奉行の増田長盛、前田玄以に指示し、大坂
にいた諸将の兵に大坂城の外郭を固めさせ、諸将の妻子や母の出入りを禁じた。
ことごとく人質にして、東征している諸将の気をくじく作戦をとった。
三成は諸将のなかでも特に忠興が憎い。矛先を真っ先に玉造口の細川邸に向け、日ごろ細川邸
に出入りしている比丘尼(びくに)に命じ、ガラシャと千世に大坂城に入るようにと言わせた。
これはガラシャが断った。
比丘尼はいったん戻り、出直して言った。
「ならば、隣家の宇喜多様のお屋敷にお入りなされませ」
宇喜多秀家の妻・豪は前田利家の四女で、秀吉の猶子になったあと、宇喜多秀家に嫁いでいた。
千世は利家の7女。
秀家と忠隆は相婿で、宇喜多家と細川家は親戚であった。
とはいえ、秀家は幼くして家督し、秀吉にわが子のようにかわいがられて育っていた。
五大老の一角を占め、豊家に大恩があり、家康と三成が戦えば三成側につく。
宇喜多の屋敷に入れば、三成の人質になったも同然。
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家康の過酷な命を受けた千世姫 その18
『三成の大坂入り』
四日後の7月20日、大坂の留守を預けている老臣・小笠原秀清から、9日付けの書状が届いた。
石田三成が蜂起して大坂に入るという風聞を伝えて、秀清はこう覚悟のほどを述べていた。
石田三成(1560-1600年)

「治部小(三成)は諸大名の奥方様を人質として城に取り込むとのことで、上様(ガラシャ)に
さよう申し上げましたところ、断じて城には入らぬと仰せられました。どうか留守のことはお気
遣いなされませぬように」
三成が大坂に入ったのは9日から6日後の15日。
9日にはまだ佐和山にいたのです。今にも大坂にやってくると、大坂では侃々諤々(かんかん
がくがく)やっていたということで、一読して忠興は
「それ」
と忠隆も一読して長岡興元にまわしたが、胸は打ち震えた。
母は老臣・小笠原秀清にも「断じて城には入らぬ」と言ったのだという。
ということは、大坂玉造口の屋敷を枕にして討ち死にするということで、気性の激しいあの母な
らやりかねない。
そしておそらく母は「あなたも覚悟なされ」と千世を道連れにする。
千世は断りきれないと思うと胸は打ち震えるだけでなく、張り裂けんばかりだった。
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四日後の7月20日、大坂の留守を預けている老臣・小笠原秀清から、9日付けの書状が届いた。
石田三成が蜂起して大坂に入るという風聞を伝えて、秀清はこう覚悟のほどを述べていた。
石田三成(1560-1600年)

「治部小(三成)は諸大名の奥方様を人質として城に取り込むとのことで、上様(ガラシャ)に
さよう申し上げましたところ、断じて城には入らぬと仰せられました。どうか留守のことはお気
遣いなされませぬように」
三成が大坂に入ったのは9日から6日後の15日。
9日にはまだ佐和山にいたのです。今にも大坂にやってくると、大坂では侃々諤々(かんかん
がくがく)やっていたということで、一読して忠興は
「それ」
と忠隆も一読して長岡興元にまわしたが、胸は打ち震えた。
母は老臣・小笠原秀清にも「断じて城には入らぬ」と言ったのだという。
ということは、大坂玉造口の屋敷を枕にして討ち死にするということで、気性の激しいあの母な
らやりかねない。
そしておそらく母は「あなたも覚悟なされ」と千世を道連れにする。
千世は断りきれないと思うと胸は打ち震えるだけでなく、張り裂けんばかりだった。
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