戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その4
『織田信秀』
三河の岡崎を根城とする松平氏は、早くから今川の属国も同様となっていたから、東海地方の
勢力争いは、やはり今川氏とその領土を接し、義元上洛の際に第一の障害となる尾張の織田氏
との戦いが中心であった。
小豆坂の戦い碑

天文11年(1542年)8月のこと、義元の率いる今川の大兵は突如として尾張に侵入した。
もちろん織田軍を一気に踏み潰してしまおうと企てたのでしょう。
ところが古渡城主の織田信秀は、悠々としてこれを迎えうった。
そのため今川勢は、尾張国額田郡の小豆坂で惨敗し、駿河に逃げ帰った。
このとき織田方で殊勲を立てた者を小豆坂七本槍といっている。
織田信秀は、もとは尾張の守護・斯波(しば)氏の守護代をつとめた織田氏のそのまた家老の
ひとりで、そのような陪臣の地位からのしあがった土豪であるから、足利将軍家の一族にあた
る今川氏と比べれば、はるかに身分が低い。
しかし、信秀は新興大名の通例として、しばしば朝廷に献金したり、御所の築地の崩れを修理し
たりして、上洛のチャンスを狙っていたともいう。
だから今川義元にとっても、この織田信秀は憎らしい相手でもあったのです。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
三河の岡崎を根城とする松平氏は、早くから今川の属国も同様となっていたから、東海地方の
勢力争いは、やはり今川氏とその領土を接し、義元上洛の際に第一の障害となる尾張の織田氏
との戦いが中心であった。
小豆坂の戦い碑

天文11年(1542年)8月のこと、義元の率いる今川の大兵は突如として尾張に侵入した。
もちろん織田軍を一気に踏み潰してしまおうと企てたのでしょう。
ところが古渡城主の織田信秀は、悠々としてこれを迎えうった。
そのため今川勢は、尾張国額田郡の小豆坂で惨敗し、駿河に逃げ帰った。
このとき織田方で殊勲を立てた者を小豆坂七本槍といっている。
織田信秀は、もとは尾張の守護・斯波(しば)氏の守護代をつとめた織田氏のそのまた家老の
ひとりで、そのような陪臣の地位からのしあがった土豪であるから、足利将軍家の一族にあた
る今川氏と比べれば、はるかに身分が低い。
しかし、信秀は新興大名の通例として、しばしば朝廷に献金したり、御所の築地の崩れを修理し
たりして、上洛のチャンスを狙っていたともいう。
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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その2
『京に旗を』
各地で、血で血を洗う戦いが繰り広げられる中にも、青雲の志をいだき天下をわが物に狙う群雄
が数々いた。
上杉謙信(1530-1578年)(春日山城登場記は「こちら」です。)

越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、安芸の毛利元就、それに駿河の今川義元などといった大名な
どがこれにあたります。
彼らは隣国諸国を斬り従え、分国を治めるとともに、つとめて京都の朝廷や将軍家と関係を結び、
上洛の機会を虎視眈々と狙っていた。
と、いうのは、いくら弱肉強食、実力第一の戦国の世とはいえ、やはり皇室とか、将軍とかいっ
た脈々と流れる伝統的な権威が人々の心の中に、ぬぐい去り難い存在となっていたからです。
いかに象徴的な地位に過ぎないといても、天皇や将軍に弓を引くことは世間が許さない。
だから高志大望を抱くものは、少しでも早く上洛し、皇室を盾にとり将軍を鎧として、自らの旗
を京に打ち立てようとしたのです。
また、家柄からいっても、一番有利な条件を備えていたのが、駿河の今川義元だったのでしょう。
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各地で、血で血を洗う戦いが繰り広げられる中にも、青雲の志をいだき天下をわが物に狙う群雄
が数々いた。
上杉謙信(1530-1578年)(春日山城登場記は「こちら」です。)

越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、安芸の毛利元就、それに駿河の今川義元などといった大名な
どがこれにあたります。
彼らは隣国諸国を斬り従え、分国を治めるとともに、つとめて京都の朝廷や将軍家と関係を結び、
上洛の機会を虎視眈々と狙っていた。
と、いうのは、いくら弱肉強食、実力第一の戦国の世とはいえ、やはり皇室とか、将軍とかいっ
た脈々と流れる伝統的な権威が人々の心の中に、ぬぐい去り難い存在となっていたからです。
いかに象徴的な地位に過ぎないといても、天皇や将軍に弓を引くことは世間が許さない。
だから高志大望を抱くものは、少しでも早く上洛し、皇室を盾にとり将軍を鎧として、自らの旗
を京に打ち立てようとしたのです。
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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その1
『下克上の時代』
一世の風雲児といわれる織田信長が、2千ばかりの小勢で2万5千にものぼる今川義元の大軍
を桶狭間に迎え、その本陣を急襲し、義元の首を落としたのは1560年(永禄3年)5月19
日、信長が27歳のときであったが、尾張の織田、駿河の今川両氏の争いは、40数年も前に
さかのぼる。
斎藤道三(1494-1556年)

信長の父・織田信秀の頃から、三河の国を挟んでいがみあっていた。
そのころ日本全国の旧秩序は乱れ、伝統的地位を誇る天皇も天下に政令を下すべき将軍の権威
も、まったく地に落ち、また、それまで室町幕府において幅をきかせていた三管領(細川・畠
山・斯波)、四職(京極・一色・山名・赤松)あるいは、一国を支配するはずの守護も、その
家臣に殺されたり、国を奪われるといった、下克上の無法時代となっていた。
例えば、マムシの道三という異名をとった斎藤道三などは、一介の油売り商人から成り上がり、
美濃の守護土岐頼芸に美しい妾を世話し、その妾に日夜うつつをぬかしている頼芸に難くせを
付け、これを国外に追放し、美濃一国を奪い取ったといわれる。
こんな男もいるくらいで、うち続く戦乱や飢餓のために、ちまたには百鬼夜行、のたれ死にす
る人々の数も知れないというのに、はだか一貫でも、実力さえあれば、一国一城の主となれる
世の中であった。
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一世の風雲児といわれる織田信長が、2千ばかりの小勢で2万5千にものぼる今川義元の大軍
を桶狭間に迎え、その本陣を急襲し、義元の首を落としたのは1560年(永禄3年)5月19
日、信長が27歳のときであったが、尾張の織田、駿河の今川両氏の争いは、40数年も前に
さかのぼる。
斎藤道三(1494-1556年)

信長の父・織田信秀の頃から、三河の国を挟んでいがみあっていた。
そのころ日本全国の旧秩序は乱れ、伝統的地位を誇る天皇も天下に政令を下すべき将軍の権威
も、まったく地に落ち、また、それまで室町幕府において幅をきかせていた三管領(細川・畠
山・斯波)、四職(京極・一色・山名・赤松)あるいは、一国を支配するはずの守護も、その
家臣に殺されたり、国を奪われるといった、下克上の無法時代となっていた。
例えば、マムシの道三という異名をとった斎藤道三などは、一介の油売り商人から成り上がり、
美濃の守護土岐頼芸に美しい妾を世話し、その妾に日夜うつつをぬかしている頼芸に難くせを
付け、これを国外に追放し、美濃一国を奪い取ったといわれる。
こんな男もいるくらいで、うち続く戦乱や飢餓のために、ちまたには百鬼夜行、のたれ死にす
る人々の数も知れないというのに、はだか一貫でも、実力さえあれば、一国一城の主となれる
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戦国時代の合戦「戦国乱世」 その14
『桶狭間の戦い』
今川義元は、北条・武田両氏から西上の隙を突かれるのを恐れ、この対策に手を打った。
そして1569年(永禄3年)に駿遠両国の兵を主力として2万5千の兵を率いて上洛を決行。
桶狭間の戦い碑(桶狭間古戦場訪問記は「こちら」です。)

しかし尾張の桶狭間の戦いで織田信長の3千の兵力に脆くも屈する。
もとより、その上洛が焦燥にかられていたせいもあるのでしょう。また、軍編成その他の準備に
欠けていることもあったのでしょう。
これを迎えた信長はその兵力不足を地理に明るいということも有利であった。
そのうえ不毛の地を決戦場に選んだのが勝機だったともいえるのでしょう。
本国内だから、耕地を避けたともいえます。
この今川氏にして2万5千と兵といわれる少数兵力は、いかに兵員動員が難しかったかを示し
ている。
2万5千というのも実数ではなく、実はもっと少なかったかもしれません。
また、陶晴賢と毛利元就の巌島の戦いも、少数兵力の戦いでした。
だから水軍をわずかに加えた毛利軍に勝利がもたらされたともいえるのでしょう。
このような戦国乱世で行われた、数多くの合戦について、この一年間は勉強してみたいと思いま
す。
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今川義元は、北条・武田両氏から西上の隙を突かれるのを恐れ、この対策に手を打った。
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桶狭間の戦い碑(桶狭間古戦場訪問記は「こちら」です。)

しかし尾張の桶狭間の戦いで織田信長の3千の兵力に脆くも屈する。
もとより、その上洛が焦燥にかられていたせいもあるのでしょう。また、軍編成その他の準備に
欠けていることもあったのでしょう。
これを迎えた信長はその兵力不足を地理に明るいということも有利であった。
そのうえ不毛の地を決戦場に選んだのが勝機だったともいえるのでしょう。
本国内だから、耕地を避けたともいえます。
この今川氏にして2万5千と兵といわれる少数兵力は、いかに兵員動員が難しかったかを示し
ている。
2万5千というのも実数ではなく、実はもっと少なかったかもしれません。
また、陶晴賢と毛利元就の巌島の戦いも、少数兵力の戦いでした。
だから水軍をわずかに加えた毛利軍に勝利がもたらされたともいえるのでしょう。
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戦国時代の合戦「戦国乱世」 その13
『今川義元の上洛』
将軍家は、細川家らの傀儡(かいらい)となったのにはじまり、細川・三好・六角および大内の
諸氏がその勢力消長のままにその擁立をくり返したが、天文末年からは将軍・義輝を擁した三好
長慶が京畿に覇をとなえる形成となり、将軍家の権威が復活してくるように見えてきた。
ここで、今川義元が上洛を決意したのです。
今川義元(戦国無双)

今川氏は将軍家一族としてその創業時代には菅領家にまさる権勢を発揮した家柄だし、常に関東
公方の監視役に当てられた、いわば足利将軍家の東境の重鎮であった。
今川氏はいちはやく公卿の子女を東海に迎えたり、公卿や文芸人のパトロンとなって貴族化大名
の伝統を輝かせていた。
そのうえ尾張にも所領を持ち、東海道4ヵ国に威勢を張るという実力もあった。
たまたま大内氏が将軍・義稙を擁して菅領代となったことにも刺激され、義元が上洛の決意をし
たのも当然のことだったのでしょう。
その大内氏が倒れた。
家臣・陶晴賢の弑逆にあい、また晴賢も毛利元就に厳島の戦い返り討たれた。
義元は武田・北条らの勃興を将軍家の権力によって抑えるため、また陪臣・三好長慶の栄達を制し、
これに代わろうとして上洛を決意したのでしょう。
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長慶が京畿に覇をとなえる形成となり、将軍家の権威が復活してくるように見えてきた。
ここで、今川義元が上洛を決意したのです。
今川義元(戦国無双)

今川氏は将軍家一族としてその創業時代には菅領家にまさる権勢を発揮した家柄だし、常に関東
公方の監視役に当てられた、いわば足利将軍家の東境の重鎮であった。
今川氏はいちはやく公卿の子女を東海に迎えたり、公卿や文芸人のパトロンとなって貴族化大名
の伝統を輝かせていた。
そのうえ尾張にも所領を持ち、東海道4ヵ国に威勢を張るという実力もあった。
たまたま大内氏が将軍・義稙を擁して菅領代となったことにも刺激され、義元が上洛の決意をし
たのも当然のことだったのでしょう。
その大内氏が倒れた。
家臣・陶晴賢の弑逆にあい、また晴賢も毛利元就に厳島の戦い返り討たれた。
義元は武田・北条らの勃興を将軍家の権力によって抑えるため、また陪臣・三好長慶の栄達を制し、
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戦国時代の合戦「戦国乱世」 その12
『新興大名の発展』
有力大名らはいぜん本国を着実に固め、そのうえでその勢力を縄張りの中にある領国にまで
及ぼそうとした。
しかし、この有力新興大名の発展を見て、旧大名から移行した戦国大名は焦慮した。
いわば2代目・3代目的存在だからです。
たえず京都の形勢をうかがっていたせいもあるでしょう。
上杉謙信(1530-1578年)

すでに文化・経済の中央・地方交流も盛んになり、そこに公家・武家の伝統的権威の輝きが
およんできていた。
駿河の今川義元の上洛が決行され、戦国乱世も最終段階に突入していくのです。
新興大名らはむしろ将軍家から守護の補任を受けたり、任官叙爵(じょしゃく)で大名にす
わって、その正当性を主張したものですが、もとより自己の実力を信じたうえでのことだった。
武田信玄がはやく将軍・義晴から「晴」の偏諱を得た札に上洛して比叡山や大和信貴山に詣で
たり、同じく上杉謙信が上洛して将軍・義輝に「輝」の偏諱を授けられた礼に上洛して上方見
物をしたりしたが、これらはその国内恣意のためで、まだ上洛軍を発するための偵察ではなか
った。
謙信は将軍家・関東公方の復興を誓ったが、むしろ関東公方府(鎌倉府)の復興をその使命と
考えていたようです。
一方、北条氏などは関東八州の平定をもくろんだだけです。
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いわば2代目・3代目的存在だからです。
たえず京都の形勢をうかがっていたせいもあるでしょう。
上杉謙信(1530-1578年)

すでに文化・経済の中央・地方交流も盛んになり、そこに公家・武家の伝統的権威の輝きが
およんできていた。
駿河の今川義元の上洛が決行され、戦国乱世も最終段階に突入していくのです。
新興大名らはむしろ将軍家から守護の補任を受けたり、任官叙爵(じょしゃく)で大名にす
わって、その正当性を主張したものですが、もとより自己の実力を信じたうえでのことだった。
武田信玄がはやく将軍・義晴から「晴」の偏諱を得た札に上洛して比叡山や大和信貴山に詣で
たり、同じく上杉謙信が上洛して将軍・義輝に「輝」の偏諱を授けられた礼に上洛して上方見
物をしたりしたが、これらはその国内恣意のためで、まだ上洛軍を発するための偵察ではなか
った。
謙信は将軍家・関東公方の復興を誓ったが、むしろ関東公方府(鎌倉府)の復興をその使命と
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一方、北条氏などは関東八州の平定をもくろんだだけです。
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戦国時代の合戦「戦国乱世」 その11
『群雄割拠』
天文末年頃から、隣国の吸収を進めて境を接した有力大名の争いが起こった。
歴史を飾る戦国武将の決戦がここに始まるわけですが、群雄割拠というのもこれからのことな
のです。
上杉・武田の信濃川中の島の戦いは1554年(天文23)に始まった。
川中島

武田信玄が小笠原長時・村上義清らの信濃衆を追い、上杉謙信が逃亡の信濃衆を助けたという
いきさつですが、2大勢力の激突が、その接触点の弱小勢力を媒介として導かれた好例だった。
今川・織田に挟まれた松平元康(徳川家康)など、風にそよぐ葦の風情だった。しかし、また
それが幸運だったのかもしれない。
伊豆の北条氏と越後の上杉氏とが北関東で接触したが、両軍の応接にいとまなかった下野・
佐野氏なども注目されます。
佐野氏は藤原秀郷の本流の鎌倉御家人筋で、宇都宮・小山・結城・長沼・皆川の諸氏はその支
流ですが、隣の足利氏に抑えられていた。
それが国衆として復興し大名となった。
北条・上杉両氏とも、秀郷の子孫だという系譜を利用するために佐野氏を温存し、これと一族
化を試みたという。
この場合、秀郷は東国武士の草分けという訳ですから、北条氏を称する伊勢長氏(北条早雲)
も、上杉称する長尾輝虎(上杉謙信)も、関東制覇を目指し、秀郷の子孫として旧跡を復興す
るという名目を立てたのです。
復古調といえるのでしょうが、早雲も謙信も関東をふる里だとする必要があり、それがまた威
力となったのです。
毛利元就が安芸を確保するために、滅んだ安芸の守護代家の吉川・小早川両氏を自分の子息ら
に継がせたのも同じ例です。
これらは、いずれもその実力があってのことだったのです。
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のです。
上杉・武田の信濃川中の島の戦いは1554年(天文23)に始まった。
川中島

武田信玄が小笠原長時・村上義清らの信濃衆を追い、上杉謙信が逃亡の信濃衆を助けたという
いきさつですが、2大勢力の激突が、その接触点の弱小勢力を媒介として導かれた好例だった。
今川・織田に挟まれた松平元康(徳川家康)など、風にそよぐ葦の風情だった。しかし、また
それが幸運だったのかもしれない。
伊豆の北条氏と越後の上杉氏とが北関東で接触したが、両軍の応接にいとまなかった下野・
佐野氏なども注目されます。
佐野氏は藤原秀郷の本流の鎌倉御家人筋で、宇都宮・小山・結城・長沼・皆川の諸氏はその支
流ですが、隣の足利氏に抑えられていた。
それが国衆として復興し大名となった。
北条・上杉両氏とも、秀郷の子孫だという系譜を利用するために佐野氏を温存し、これと一族
化を試みたという。
この場合、秀郷は東国武士の草分けという訳ですから、北条氏を称する伊勢長氏(北条早雲)
も、上杉称する長尾輝虎(上杉謙信)も、関東制覇を目指し、秀郷の子孫として旧跡を復興す
るという名目を立てたのです。
復古調といえるのでしょうが、早雲も謙信も関東をふる里だとする必要があり、それがまた威
力となったのです。
毛利元就が安芸を確保するために、滅んだ安芸の守護代家の吉川・小早川両氏を自分の子息ら
に継がせたのも同じ例です。
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