戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その27
『英雄・信長』
静岡市の臨在寺に、この岡部元信が持ち帰った義元の首を葬った墓だといいますが、桶狭間古
戦場の跡にも長さ1.5mのほどの自然石、「今川治部大輔義元之墓」と刻まれた墓石が建っ
ています。
桶狭間古戦場の義元の墓(訪問記は「こちら」です。)

これは、もちろん後世の歴史好きの人が建てたものだと思います。
信長が、桶狭間で意外な大勝利を得ることができたのは、まさに天運ともいうべき奇蹟的なで
きごとだった。
しかし、その奇蹟は信長の決断力と周到な作戦によってもたらされたものです。
敵情を、より早く、正確にキャッチし、将兵の心をとらえ、戦意を昂揚させる手腕の巧妙さ、
それも「うつけ」と呼ばれた青年時代に培った、新時代を生み出すための強烈なスタミナと鋭い
感覚によるところが多いのでしょう。
多量の鉄砲を装備し、槍の柄を長くし、偶像を破壊し、因襲を否定し、乱世に荒鍬を立てた英
雄・信長の第一歩は、この桶狭間戦勝によって踏み出されたといっていいのでしょう。
これにひきかえて今川義元は、信長に数倍する兵力への過信と、身に着いた悠長な性格、それ
に目前の勝利におごっていたことなどが、敗亡の原因として数えられる。
もしも義元が、勝って兜の緒をしめ、気を許すことなく、的確に兵を進めていったなら、反対
に信長は滅び、今川義元の名が上洛の大業をなしとげた覇者として、永遠に史上に記録された
ことでしょう
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
静岡市の臨在寺に、この岡部元信が持ち帰った義元の首を葬った墓だといいますが、桶狭間古
戦場の跡にも長さ1.5mのほどの自然石、「今川治部大輔義元之墓」と刻まれた墓石が建っ
ています。
桶狭間古戦場の義元の墓(訪問記は「こちら」です。)

これは、もちろん後世の歴史好きの人が建てたものだと思います。
信長が、桶狭間で意外な大勝利を得ることができたのは、まさに天運ともいうべき奇蹟的なで
きごとだった。
しかし、その奇蹟は信長の決断力と周到な作戦によってもたらされたものです。
敵情を、より早く、正確にキャッチし、将兵の心をとらえ、戦意を昂揚させる手腕の巧妙さ、
それも「うつけ」と呼ばれた青年時代に培った、新時代を生み出すための強烈なスタミナと鋭い
感覚によるところが多いのでしょう。
多量の鉄砲を装備し、槍の柄を長くし、偶像を破壊し、因襲を否定し、乱世に荒鍬を立てた英
雄・信長の第一歩は、この桶狭間戦勝によって踏み出されたといっていいのでしょう。
これにひきかえて今川義元は、信長に数倍する兵力への過信と、身に着いた悠長な性格、それ
に目前の勝利におごっていたことなどが、敗亡の原因として数えられる。
もしも義元が、勝って兜の緒をしめ、気を許すことなく、的確に兵を進めていったなら、反対
に信長は滅び、今川義元の名が上洛の大業をなしとげた覇者として、永遠に史上に記録された
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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その26
『武士の意気地』
今川方の部将の相次ぐ離反の中にあって、ひとり忠節をつらぬいた男もいた。
例えば、鳴海城の守将・岡部元信です。
岡部元信(信長の野望)

元信は、桶狭間における味方の敗報を耳にしたが
「人は、ともあれ任務を守ることこそ武士の意気地」
といって、討死を覚悟で織田勢の攻撃を待ち構えていた。
まもなく織田勢が鳴海に襲来した。
しかし、「大高や沓掛も、恐れをなして逃げ散ったというのに、敵中に弧城を守るとは敵な
がらあっぱれである。あの意気込みでは、かりにわが軍が攻めたとて、いたずらに味方の死
傷者を増すだけであろう」
といって、信長は20日経って、使者を立て、岡部元信に鳴海退去を勧告している。
ところが、元信は信長の使者を受け付けない。
そのうちに駿府の今川氏真(義元の子)からも、撤兵の命令が下ったので、初めて退城を決意
し、開城の条件として、今川義元の首級の引渡しを信長に要求した。
この元信の堂々たる態度には、さすがの信長も感動し、10人の僧侶をつけて義元の首を鳴海
に送り届けている。
岡部元信は、主君・今川義元の首を奉じ、涙ながらに駿府への道をたどったが、池鯉鮒にさし
かかると、急に
「武士が出陣して、手柄もたてずに帰国できようか」
といって、織田方の部将・水野信近が守る刈屋城を夜襲し、今川総崩れのなかに、ひときわ目
立つ戦功を残し、悠々と駿府の城に引き上げたという。
この話を後に伝え聞いた徳川家康の直臣・大久保彦左衛門は
「首ばかりお供にして、国へ引き上げるなど、実に珍しいことだ。これを昔風にいえば、武辺
といい侍の義理といい、主君への忠義といい、異国の事はいざ知らず、本朝ではためしのない
ことである。だから東海地方で、岡部元信の名を知らぬ者とてない」
と、その著書『三河物語』の中で、激賞している。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
今川方の部将の相次ぐ離反の中にあって、ひとり忠節をつらぬいた男もいた。
例えば、鳴海城の守将・岡部元信です。
岡部元信(信長の野望)

元信は、桶狭間における味方の敗報を耳にしたが
「人は、ともあれ任務を守ることこそ武士の意気地」
といって、討死を覚悟で織田勢の攻撃を待ち構えていた。
まもなく織田勢が鳴海に襲来した。
しかし、「大高や沓掛も、恐れをなして逃げ散ったというのに、敵中に弧城を守るとは敵な
がらあっぱれである。あの意気込みでは、かりにわが軍が攻めたとて、いたずらに味方の死
傷者を増すだけであろう」
といって、信長は20日経って、使者を立て、岡部元信に鳴海退去を勧告している。
ところが、元信は信長の使者を受け付けない。
そのうちに駿府の今川氏真(義元の子)からも、撤兵の命令が下ったので、初めて退城を決意
し、開城の条件として、今川義元の首級の引渡しを信長に要求した。
この元信の堂々たる態度には、さすがの信長も感動し、10人の僧侶をつけて義元の首を鳴海
に送り届けている。
岡部元信は、主君・今川義元の首を奉じ、涙ながらに駿府への道をたどったが、池鯉鮒にさし
かかると、急に
「武士が出陣して、手柄もたてずに帰国できようか」
といって、織田方の部将・水野信近が守る刈屋城を夜襲し、今川総崩れのなかに、ひときわ目
立つ戦功を残し、悠々と駿府の城に引き上げたという。
この話を後に伝え聞いた徳川家康の直臣・大久保彦左衛門は
「首ばかりお供にして、国へ引き上げるなど、実に珍しいことだ。これを昔風にいえば、武辺
といい侍の義理といい、主君への忠義といい、異国の事はいざ知らず、本朝ではためしのない
ことである。だから東海地方で、岡部元信の名を知らぬ者とてない」
と、その著書『三河物語』の中で、激賞している。
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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その25
『きまじめな元康』
弱肉強食が乱世の慣いとはいえ、桶狭間の一戦に信長の武名は大いにあがり、上洛制覇への道
をひた走る。
これに反して、駿河の今川氏の勢力は日増しに衰え、家臣の離反も相次いで起こったが、その
ひとつに松平元康(家康)の独立事件があった。
松平元康(家康)

松平元康は、桶狭間の戦いの当時、尾張の大高城にいた。
今川軍の総大将・義元も夕刻には、この城に到着するてはずになっていた。
ところが意外にも、その義元が田楽狭間で討死したというのである。
元康はキツネにつままれたような気がした。
家臣の石川家成、酒井忠次らは、信長の来襲を予想し、元康に退城を勧めた。
しかし、元康は
「義元討死の報が、信長が仕組んだ虚報であれば、なんとする。まだ、今川方から正式な知らせ
があったわけではない。もし、大高を退いてのち、その知らせがいつわりと判明したら、この元
康は二度と今川殿に合わせる顔がないではないか」
と言って、撤退しようとしまかった。
そのうちに、織田方に属していた伯父の水野信元から知らせがあり、
「悪いことはいわぬ。織田勢が押し寄せぬうちに、早く逃げよ」
と忠告してきたので、初めて大高退城を決意し、月の出を待って、土一揆を蹴散らしながら、三
河の岡崎目指して、馬に鞭打った。
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弱肉強食が乱世の慣いとはいえ、桶狭間の一戦に信長の武名は大いにあがり、上洛制覇への道
をひた走る。
これに反して、駿河の今川氏の勢力は日増しに衰え、家臣の離反も相次いで起こったが、その
ひとつに松平元康(家康)の独立事件があった。
松平元康(家康)

松平元康は、桶狭間の戦いの当時、尾張の大高城にいた。
今川軍の総大将・義元も夕刻には、この城に到着するてはずになっていた。
ところが意外にも、その義元が田楽狭間で討死したというのである。
元康はキツネにつままれたような気がした。
家臣の石川家成、酒井忠次らは、信長の来襲を予想し、元康に退城を勧めた。
しかし、元康は
「義元討死の報が、信長が仕組んだ虚報であれば、なんとする。まだ、今川方から正式な知らせ
があったわけではない。もし、大高を退いてのち、その知らせがいつわりと判明したら、この元
康は二度と今川殿に合わせる顔がないではないか」
と言って、撤退しようとしまかった。
そのうちに、織田方に属していた伯父の水野信元から知らせがあり、
「悪いことはいわぬ。織田勢が押し寄せぬうちに、早く逃げよ」
と忠告してきたので、初めて大高退城を決意し、月の出を待って、土一揆を蹴散らしながら、三
河の岡崎目指して、馬に鞭打った。
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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その24
『信長の戦勝』
信長は逃げる敵を追わず、ただちに軍勢を大沢村近くの間米山に結集し、義元の首実験をすま
せ、午後4時ころ、その首を馬の先に掲げ、意気揚々と引き揚げた。
帰途、熱田神宮に勢揃いし、戦勝を神前に謝し、神馬一頭を奉納している。
熱田神宮に信長が奉納した築地塀

清洲城に着いた頃には、日もとっぷりと暮れていた。
このとき信長が、戦勝の礼として奉納したと伝えられる築地塀が熱田神宮に今に保存されている。
その翌日、信長は桶狭間の戦いで討ち取った今川勢の首実験をしている。
『信長公記』には、「首の数、3千余あり」
と、織田方の戦勝の結果を記している。
その後、論功行賞を行ったが、なかでも今川義元の移動を知らせ、これを急襲することを勧告し
た梁田広正に恩賞として、沓掛城と3千貫文の地を与えている。
それから、義元の首を清洲城から20町ほど南の須賀口にさらし、衆僧を招いて桶狭間の露と消
えた敵将の霊を慰めたという。
その他の今川将士の首は、曹源寺の和尚が集めて葬った。
今、仙人塚と呼ばれているのが、これらしい。
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信長は逃げる敵を追わず、ただちに軍勢を大沢村近くの間米山に結集し、義元の首実験をすま
せ、午後4時ころ、その首を馬の先に掲げ、意気揚々と引き揚げた。
帰途、熱田神宮に勢揃いし、戦勝を神前に謝し、神馬一頭を奉納している。
熱田神宮に信長が奉納した築地塀

清洲城に着いた頃には、日もとっぷりと暮れていた。
このとき信長が、戦勝の礼として奉納したと伝えられる築地塀が熱田神宮に今に保存されている。
その翌日、信長は桶狭間の戦いで討ち取った今川勢の首実験をしている。
『信長公記』には、「首の数、3千余あり」
と、織田方の戦勝の結果を記している。
その後、論功行賞を行ったが、なかでも今川義元の移動を知らせ、これを急襲することを勧告し
た梁田広正に恩賞として、沓掛城と3千貫文の地を与えている。
それから、義元の首を清洲城から20町ほど南の須賀口にさらし、衆僧を招いて桶狭間の露と消
えた敵将の霊を慰めたという。
その他の今川将士の首は、曹源寺の和尚が集めて葬った。
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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その23
『貴族大名・今川義元の最後』
大雨が少しおさまりかけたとき、信長は
「かかれ!目指すは今川義元ひとりであるぞよ。他の首は捨てておけ」
と、叫び、2千の軍勢に突撃の命令を下し、みずから先頭にたって太子ヶ峰を駆け下り、ひと
つの黒い塊となり、まっしぐらに義元の旗本めがけて襲い掛かった。
桶狭間古戦場公園の信長と義元

吹きすさぶ風、夜かと間違うような闇のなかで、異様な気配を感じながらも、今川の旗本の諸
士は、それが信長の奇襲とは思いもよらなかった。
だが、既にそこかしこに槍をふるう織田方の兵士の姿を見えていた。
「これは、したり」
と、今川幕下の諸士は、とっさに義元を囲み円陣をつくって、虎口を脱出しようとしたが、た
だちに織田勢に発見された。
凄まじい突き合い、斬り合いとなった。
数度渡り合ううちに、今川方は次々と倒され、わずか数十人を残すだけとなり、円陣が崩れて
きた。
そこへ織田方の近習・服部小平太が長柄の朱槍を突き出し、義元の膝がしらを斬った。
しかし、義元は左文字の名刀を持ちなおそうとした瞬間、信長の近臣・毛利新介が義元の首
を胴から離した。
これが上洛を目指した、貴族大名・今川義元の最後のありさまだった。
まさに電撃作戦だった。
大将が討たれて残兵すべからずの例えのとおり、今川軍はわれ先に東方に向かって潰走した。
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大雨が少しおさまりかけたとき、信長は
「かかれ!目指すは今川義元ひとりであるぞよ。他の首は捨てておけ」
と、叫び、2千の軍勢に突撃の命令を下し、みずから先頭にたって太子ヶ峰を駆け下り、ひと
つの黒い塊となり、まっしぐらに義元の旗本めがけて襲い掛かった。
桶狭間古戦場公園の信長と義元

吹きすさぶ風、夜かと間違うような闇のなかで、異様な気配を感じながらも、今川の旗本の諸
士は、それが信長の奇襲とは思いもよらなかった。
だが、既にそこかしこに槍をふるう織田方の兵士の姿を見えていた。
「これは、したり」
と、今川幕下の諸士は、とっさに義元を囲み円陣をつくって、虎口を脱出しようとしたが、た
だちに織田勢に発見された。
凄まじい突き合い、斬り合いとなった。
数度渡り合ううちに、今川方は次々と倒され、わずか数十人を残すだけとなり、円陣が崩れて
きた。
そこへ織田方の近習・服部小平太が長柄の朱槍を突き出し、義元の膝がしらを斬った。
しかし、義元は左文字の名刀を持ちなおそうとした瞬間、信長の近臣・毛利新介が義元の首
を胴から離した。
これが上洛を目指した、貴族大名・今川義元の最後のありさまだった。
まさに電撃作戦だった。
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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その22
『情報網』
信長にしても、梁田広正の忍者情報がなければ、義元が方向転換したことを知るよしもなく、そ
のまま相原の方向へ進んで行ったなら、完全に肩透かしを食わされ、織田勢は結局全滅し、信長
の将来も存在しなかったでしょう。
桶狭間現地案内板(桶狭間訪問記は「こちら」です。)

また、忍者の情報を得ても、梁田広正の忠言に従わなかったなら、やはり壊滅したことでしょう。
奇襲作戦は、敵の不意を衝くのが目的ですが、敵の動きを密かに、しかも即刻に捉えるための情
報網を張り巡らす必要があります。
桶狭間奇襲作戦の成功は、信長の敵情キャッチの素早さが大きな起因であった。
今川義元は、刈屋・緒川の戦闘地帯を避け、田楽狭間を経て桶狭間に出ようとした。
そして、ちょうど昼時にあたったので、田楽狭間の窪地で兵馬を小休止させた。
ところが、義元の動静をキャッチした信長は、相原の中間地点で、馬を降り、旗さし物を棄て、
2千の将兵と一丸となり、田楽狭間を目指して進み、その背後にあたる太子ヶ峰にのぼった。
見ると義元の本陣がまっ下にある。物見の報告によれば、敵は信長の潜入を夢にも知らず、容易
に動く気配がない。
いや目前の大勝利に心も浮きたち、近在の神主らが持参した祝い酒に、舌づつみをうっていたの
です。
しかも、この時、天空が黒雲に覆われ、下界が霧の海のように暗くなったかと思うと、大粒の雨
が降り出した。
あわてたのは弁当を食べていた今川勢である。
大雨を避けて、われ先に軒下に、木陰へと散らばった。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
信長にしても、梁田広正の忍者情報がなければ、義元が方向転換したことを知るよしもなく、そ
のまま相原の方向へ進んで行ったなら、完全に肩透かしを食わされ、織田勢は結局全滅し、信長
の将来も存在しなかったでしょう。
桶狭間現地案内板(桶狭間訪問記は「こちら」です。)

また、忍者の情報を得ても、梁田広正の忠言に従わなかったなら、やはり壊滅したことでしょう。
奇襲作戦は、敵の不意を衝くのが目的ですが、敵の動きを密かに、しかも即刻に捉えるための情
報網を張り巡らす必要があります。
桶狭間奇襲作戦の成功は、信長の敵情キャッチの素早さが大きな起因であった。
今川義元は、刈屋・緒川の戦闘地帯を避け、田楽狭間を経て桶狭間に出ようとした。
そして、ちょうど昼時にあたったので、田楽狭間の窪地で兵馬を小休止させた。
ところが、義元の動静をキャッチした信長は、相原の中間地点で、馬を降り、旗さし物を棄て、
2千の将兵と一丸となり、田楽狭間を目指して進み、その背後にあたる太子ヶ峰にのぼった。
見ると義元の本陣がまっ下にある。物見の報告によれば、敵は信長の潜入を夢にも知らず、容易
に動く気配がない。
いや目前の大勝利に心も浮きたち、近在の神主らが持参した祝い酒に、舌づつみをうっていたの
です。
しかも、この時、天空が黒雲に覆われ、下界が霧の海のように暗くなったかと思うと、大粒の雨
が降り出した。
あわてたのは弁当を食べていた今川勢である。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
新しい家族
『トイプーがやって来ました!』
新しい家族として、赤毛のトイ・プードルがやって来ました。
簡単に彼を紹介します。
生年月日:2017年11月15日
セックス:♂
出身地:静岡県
現在の体重:1.3Kg
名前:robin (クリストファー・ロビンです^^)

お迎えしたのは、3回目のワクチンが終わるのを待っての迎えでしたので、2月16日でした。
ペットといえば、わが家では『うさぎ』
でも、犬の賢さにも以前より魅力をありましたので、うさぎと仲良くできそうな犬種を選定して
きました。
小型犬のなかで、トイプーは最も賢い犬の一匹であると知り、この犬に決めました。

うさぎは、とても繊細な動物ですから、tiggerとは未だ同室できず、リビングに仮住まいして
います。
トイレは完全にできていますので、あとはtiggerと仲良くできれば部屋中を闊歩できる日も近
いと思います。

社会勉強も進めなさいとのことですから、先ずはエンジンのかかっていない車にも乗って
みました。

tiggerと一緒に公園散歩ができるように、春が来る前に訓練の日々が続きそうです。
時々、登場します。
robinもよろしくお願いします。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。
新しい家族として、赤毛のトイ・プードルがやって来ました。
簡単に彼を紹介します。
生年月日:2017年11月15日
セックス:♂
出身地:静岡県
現在の体重:1.3Kg
名前:robin (クリストファー・ロビンです^^)

お迎えしたのは、3回目のワクチンが終わるのを待っての迎えでしたので、2月16日でした。
ペットといえば、わが家では『うさぎ』
でも、犬の賢さにも以前より魅力をありましたので、うさぎと仲良くできそうな犬種を選定して
きました。
小型犬のなかで、トイプーは最も賢い犬の一匹であると知り、この犬に決めました。

うさぎは、とても繊細な動物ですから、tiggerとは未だ同室できず、リビングに仮住まいして
います。
トイレは完全にできていますので、あとはtiggerと仲良くできれば部屋中を闊歩できる日も近
いと思います。

社会勉強も進めなさいとのことですから、先ずはエンジンのかかっていない車にも乗って
みました。

tiggerと一緒に公園散歩ができるように、春が来る前に訓練の日々が続きそうです。
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