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富士山一周 その2

『西湖 いやしの里 根湯(ねんば)』

この時期、本栖湖近くの「富士山しば桜まつり」が有名ですが、当日は富士山が姿を見せない

こと、また、この会場にrobinが入場できないことで、今回はパスしました。

si.芝桜

さらに北上し、向かったところは『西湖いやしの里根場』

西湖畔の西北に位置する根場地区は、かつて「かぶと造り」の茅葺民家が立ち並ぶ集落であった

そうです。

sa.西湖いやしの里 000
<クリックで拡大します>

昭和41年の台風災害で、集落のほとんどが消滅し、40年の歳月を経て、昔懐かしい茅葺屋根群

が蘇っています。

sa.西湖いやしの里 001

ここはrobinクンも入場できます。

sa.西湖いやしの里 002

この西湖は標高1000m位あるそうですから、桜が満開状態でした。

sa.西湖いやしの里 003

残念ながら、ここからも富士山は雲の中です。

sa.西湖いやしの里 004

ゆっくりと時が流れるいやしの里ですが昔と違うのは、この茅葺屋根群はみなショップになって

います。(案内マップを参照されてください)

sa.西湖いやしの里 005

したがって、robinは建物の中に入ることはできません。

sa.西湖いやしの里 007

ここは何時間でも座ってられる場所です。

sa.西湖いやしの里 008

今年は花見に行ってなかったので、癒されながらゆっくりと花見を楽しむことができました。

雪が積もった風景もいいでしょうね!

その時期に、来てみたいものです。


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富士山一周 その1

『白糸の滝』

富士山を近くで見たくて、時計回りに富士山を1泊2日で一周してきました。

天気は初日が曇りで、2日目は雨の予報です。

これでは富士山を楽しむことはできませんが、宿を予約してあること、休暇の変更は難しい

ことで、いざ、出発です。

東名高速を下り、新東名の新富士ICで降りて、定番スポットの白糸の滝へ

轟音をとどろかせている「音止めの滝」、この滝は落差が25mあるそうで、その音にrobinは

ビックリしていました。

si.白糸の滝 001

昔なつかしいお土産屋さんを過ぎると、白糸の滝が見えてきます。

si.白糸の滝 002

なんだか難しい哲学者のような顔をしています。

si.白糸の滝 003

天気が良くないので、虹も見ることはできませんでした。

si.白糸の滝 004

白糸の滝に来たのは、20年ぶり位でしょうか。

この後は、富士山周辺で一番お気に入りの高原を通って、本栖湖方面に向かいます。



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「三方ヶ原の戦い」 その18

『二俣城落城』

日夜、鉦(かね)・太鼓をたたいて攻めかかる武田勢にたいして、切り立った断崖と空堀、それ

に天竜川に注ぐ二俣川が三方を巡る、天険の要害に守られ二俣城の兵はよく戦った。

ところが、そこへ一大危機が襲った。

二俣城天守台
fu.二股城

それは力攻めの非を悟った武田軍が、にわかに二俣城の水の手を断ったからです。

当時、城兵の命の綱である水は、天竜川に面した城壁の上に滑車をかけてくみ上げていた。

これを見た武田軍は激流を利用して、大綱で組んだイカダを上流から、この水櫓めがけて勢い

よく何度もぶつけ、ついに釣瓶縄を切ってしまたのです。

水がなくては籠城もできない。

それからの城兵たちは、満々とたたえる大河を目の前にして、炊ぎの水にもことかく有様となっ

た。

干殺しの戦術にかかったわけです。

二俣城が落城したのは、12月19日のことだった。

守将・中根正照以下は、家康の許可を得、城を武田軍に明け渡し、人質まで取られ、やっとの思

いで浜松に引き揚げた。

こうして武田軍の進撃は、あたかも将棋の駒を進めるかのように、一歩一歩と正確に遠江に侵入

し、浜松も、もう目と鼻のさきにあった。

もちろん、家康は幾度となく織田信長のもとへ使者を送り、援兵の催促をした。

しかし、このころの信長は、信玄の包囲作戦に加わった浅井・朝倉や、石山本願寺の指令を受け

た伊勢長島の一向一揆の後方かく乱戦術のため、釘づけにされ身動きもできない。

そのうえ、織田の援兵を予期した信玄が美濃方面に向かわせた秋山信友が率いる部隊が、岐阜に

迫っていたため、アリ一匹這い出る隙もなかった。



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                     <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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「三方ヶ原の戦い」 その17

『二俣城を包囲』

危機を脱して浜松城に逃げ帰った家康だったが、武田軍の攻撃は、なおも激しく見附の台から

北に向かい、馬場信春は天竜川の左岸に陣して浜松方面を警戒し、信玄が率いる主力は天竜川

上流の磐田郡野辺付近を移動しており、武田勝頼・武田信豊・穴山梅雪などの一隊は、二俣城

を囲もうとしていた。

武田勝頼(1546-1584年)
ta.武田勝頼公

二俣城は天竜市二俣町のはずれの大地にあり、西を天竜川、東を二俣川に囲まれて、自然の

濠を形づくり、なかなかの要害堅固の城であった。

天正7年、家康の長子・信康が、父から自刃を命ぜられたのは、この城であった。

この城は、もともとは今川氏の属城であったが、永禄11年に家康が遠江に侵入して以来、徳

川氏の手に帰し、遠江北部の山間地帯と浜松を結ぶ、交通上の重要な地位を占めていた。

家康も、信玄が浜松城を攻めるにあたって、先ずこの二俣城を狙うに相違ないと、この城の存

在を重視し、中根正照を主将に松平康安と青木貞治を副将として備えさせ、家康自身も手兵を

率いて浜松から馳せつけたのです。

しかし、武田軍の布陣を見ると、うかつには知づけなかった。

というのは、この時すでに、二俣城の周りには武田勝頼らの一隊だけでなく、先発隊として甲

斐を出た山県昌景が率いる軍勢が、三河侵略を終え、本隊と合流していたのです。

せっかく馳せつけた家康も、これでは引き返すより他はなかった。



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robin 20180425


                     <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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「三方ヶ原の戦い」 その15

『お手上げの家康』

一時、犬居にくつろいだ信玄は、ここで兵力を二分し、12日に一部に磐田郡只来を占領させ、

そこから二俣に向かわせた。

武田信玄
ta.武田信玄 002

信玄自身は、主力を率いて周智郡の天方、一宮、飯田の諸城を攻め落とし、さらに南進して向

笠、各輪も落とし、久能城を攻めようとしたが、城主・久能宗能がよく守って、容易に落ちそ

うにもないと見て、そのまま引き揚げ、木原、西島、袋井などに分宿して、次の攻撃に備えた。

一方、武田軍の侵入の報を耳にした徳川家康は、みずから3千の兵を率いて、この目で武田軍

の戦闘ぶりを確かめようと考え、浜松城を出馬し、10月13日、大久保忠世・本多忠勝・内藤

信成らを偵察隊として、東海道の見附に派遣した。

ところが、思いのほか武田軍の行動がすばやく、徳川勢はたちまち発見された。

逃げようとすると、武田軍は先回りして、近道を抜け、見附の西側の一言坂で、家康の本隊とぶ

つかり背面に廻って、退路を遮断しようとした。

『譜牒余禄』によると、これを見た家康は、取り巻く武田軍に対して反撃しようとして勇み立っ

たが、本多忠勝、内藤信成らが、それを制止し

「ここで戦っては、お味方に死者を出すだけ、まあ、ここは、ひとまず退却なされて、織田殿の

援軍を待って、一挙に甲州勢を斬り立てるのが、上策と存じます」

と意見したので、家康も、しぶしぶこれに従ったという。

このとき殿軍を承り、攻め寄る武田軍を食い止め、無事に家康を逃げさせたのが、徳川にこの人

ありとうたわれた、本多忠勝であった。


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robin 20180424



                 <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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「三方ヶ原の戦い」 その16

『本多忠勝』

家康を逃げさせたとき、本多忠勝は25歳。

本多忠勝()
ho.本多忠勝 005

黒糸縅(おどし)の鎧に、鹿の角を打ちつけた兜を頂き、人呼んで蜻蛉切という鎗をひっさげ、

敢然と敵陣近くまで突っ込み、これに従う御家人らに下知して、見附の宿に火を放たせ、敵が押

し寄せてくると、味方の兵を退かせ、忠勝一騎が踏み止まり、7度、8度、火花を散らして戦い、

味方の軍勢が無事に天竜川を渡ったのを見とどけると、川向からうつ味方の援護射撃の中を

悠々と岸を渡って家康に追いついた。

この忠勝の見事な退きぶりには、敵も感服したとみえ、翌朝、坂の上に来てみると、墨痕も新し



「家康に、過ぎたるものが、ふたつあり、唐の頭に、本多平八」

という落首を書いた木札が立てられてあったという。

唐の頭というのは、カラウシの尾毛を兜の飾りにつけたもの。

カラウシはビルマの北部やチベットに棲んでいる動物であって、その尾毛は高価な舶来品として、

当時、大変珍しがれていた。

家康の家来には、本多忠勝のほか、内藤信成など7人ほどが、唐の頭をかぶっていたが、甲州兵

たちは

「小身者のくせに、大そう立派なものを着けているわい」

と、本多忠勝のことを、皮肉っていたのです。



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robin 20180423



                 <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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「三方ヶ原の戦い」 その15

『家康の出馬』

一時、犬居にくつろいだ信玄は、ここで兵力を二分し、12日に一部に磐田郡只来を占領させ、

そこから二俣に向かわせた。

信玄自身は、主力を率いて周智郡の天方、一宮、飯田の諸城を攻め落とし、さらに南進して向

笠、各輪も落とし、久能城を攻めようとしたが、城主・久能宗能がよく守って、容易に落ちそ

うにもないと見て、そのまま引き揚げ、木原、西島、袋井などに分宿して、次の攻撃に備えた。

浜松城の徳川家康
to.徳川家康(浜松城)

一方、武田軍の侵入の報を耳にした徳川家康は、みずから3千の兵を率いて、この目で武田軍

の戦闘ぶりを確かめようと考え、浜松城を出馬し、10月13日、大久保忠世・本多忠勝・内

藤信成らを偵察隊として、東海道の見附に派遣した。

ところが、思いのほか武田軍の行動がすばやく、徳川勢はたちまち発見された。

逃げようとすると、武田軍は先回りして、近道を抜け、見附の西側の一言坂で、家康の本隊と

ぶつかり背面に廻って、退路を遮断しようとした。

『譜牒余禄』によると、これを見た家康は、取り巻く武田軍に対して反撃しようとして勇み立

ったが、本多忠勝、内藤信成らが、それを制止し

「ここで戦っては、お味方に死者を出すだけ、まあ、ここは、ひとまず退却なされて、織田殿

の援軍を待って、一挙に甲州勢を斬り立てるのが、上策と存じます」

と意見したので、家康も、しぶしぶこれに従ったという。

このとき殿軍を承り、攻め寄る武田軍を食い止め、無事に家康を逃げさせたのが、徳川にこの

人ありとうたわれた、本多忠勝であった。


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Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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